民主主義とその周辺

研究者による民主主義についてのエッセー

なぜ、自民党若手議員の発言を見過ごすことができないのか――極端化する時代の代表制民主主義――

自民党内で一連の動向

安全保障関連法案の今国会での成立や、米軍普天間飛行場名護市辺野古への移設問題、TPPの締結など多くの難題を抱えた安倍政権は、このところ、その身内によって足を引っ張られているようだ。もちろん、念頭にあるのは、6月25日の「文化芸術懇話会」の会合で沖縄の新聞社への過激な批判を展開した安倍首相に近い若手国会議員たち、7月26日の大分市の講演で「法的安定性」を否定する発言した首相補佐官、そして7月30日付けのツイッターの投稿において、安全保障関連法案を批判する学生グループの主張を利己主義と批判した若手国会議員――この議員は、「文化芸術懇話会」に出席していたようだ――などのケースだ。これらのケースで自民党国会議員が行った発言は、現代社会の民主的な価値観や政治文化から逸脱するものであったため、様々な方面からの批判に晒された。その結果、ツイッターのケースを除き、それらの発言の多くは撤回され、発言者は謝罪をすることになったのは、周知のとおりだ。

 

こうした発言は、内容云々の前に、軽率であるばかりか、不合理な発言だと考えられる。不合理だというのは、安全保障関連法案の法制化に対して世論が批判的な反応を示している状況下で、あのような発言をすれば、世論を刺激し、ひいては、政府与党およびその議員にとって今国会での最大の課題である本法案の成立に対する障害を生むことになるということなど子供にでもわかるはずなのに、あえてそうしたからである。

 

一連の発言の不合理さに対する合理的な説明は、こんなものがあるだろう。たとえば、党による若手議員の教育がうまく機能しておらず、このためそれらの議員の言動を党がコントロールできなくなった結果だという説明。あるいは、若手議員が政権の中枢に対して自らの存在をアピールし重用されるべく、功名心に逸った結果だという説明。確かに、これらはそれなりに今回の事態を合理的に説明しているし、まだまだほかの説明もあるだろう。しかし、ここでは、極化という現象から、彼らの発言について考えてみる。その理由は、彼ら発言の特徴の一つが、その過激さ、民主的な価値からの逸脱の極端さにあるからだが、それだけではない。この極化現象への着目によって、現代の代表制民主主義の機能不全への新たな懸念について、さらには、代表制度の主要なアクターであった国民政党の行く末をめぐる不安について考えてみたいからでもある。つまり、それは、日本共産党公明党のような少数政党とは異なり、長らく政権を担い国民政党として自ら標榜するだけでなく(もちろん共産、公明両党も国民政党を標榜してはいるが)、国民もそう認めてきた自由民主党において、このように極端な発言が頻発することの民主主義的な含意について考えるということだ。

 

極化現象とは何か

極化(polarization)、より正確には、集団極化という言葉は一般には耳慣れない言葉かもしれない。それは、似かよった傾向を持つ人びとからなる集団が、閉鎖的な状況下で議論を行うと、その集団の構成員はその傾向を議論の前よりも極端化させるという現象を意味する。たとえば、日々の生活において動物を愛し、動物愛護運動に関心のある人びとだけが集まって議論をすると、そこに参加した人びとは、かなり過激な動物愛護派になっている、というような現象を指す。この現象は多くの実証研究の対象とされてきた。

 

集団極化の現象は民主主義理論の文脈では、キャス・サンスティーンが行った熟議(民主主義)批判として人口に膾炙することになった。そこで彼が指摘するとおり、この現象は民主政治に対して2つの効果を持っている。それらは現代の民主主義の相異なる側面に関連する効果である。

 

1つは、ネガティヴな効果だ。社会における極化の程度が高まれば、当然、その社会は極端化あるいは断片化し、その結果、不安定な状態となる。現代社会は、利害関心や価値観、ライフスタイルの多元化が進んでいるが、その一方で、規範的には、この社会の多元性の事実を前提としつつも、そこから出発して、共有可能な利益や意思を交渉や調整をとおして見出し、法として実現することが民主政治に求められている。だとすると、極化による極端化や断片化という作用は、異なる価値観や利益間の対立を激化し調整や妥協を困難にするわけだから、民主政治にとってネガティヴな効果を持つことになる。いわば、社会をタコツボ化することでマジョリティ集団の形成を困難にするのだ。

 

もう1つの効果は、ポジティヴなものだ。極化は集団内の連帯を強化し、その集団固有の主張を鮮明にしかつその意見を強固なものにする。社会のマイノリティ集団の利益や価値観に配慮し意思決定に反映していくことは現代の民主政治の重要な課題である。この極化の作用は、マイノリティ集団の利益や意思を社会に対して可視化し、その集団が社会のマジョリティ集団や政治に働きかける上で手助けとなる。この点で、極化現象は、民主政治にポジティヴな効果を持つと考えることができる。いわば、マイノリティ集団の可視化と政治化を容易にするのだ。

 

極化の生じやすい現代社

極化現象は、現代社会に固有なものではない。それが、集団内での自己評価を気にし、アイデンティティを維持しようとする個人の欲求と、多様な意見の蓄積が難しい閉鎖された集団において一方的な議論が過剰に行われる状況とが重なることで生じるとすれば、どんな時代でも、どんな場所でも起きる現象だ。とはいえ、しばしば指摘されるように、極化現象が生じやすい特殊現代的な要因があるようだ。それは、SNSなどを含めたインターネットによるコミュニケーション環境である。

 

フェイスブックツイッター、ブログ、BBSなどが、上で説明したような集団極化現象を引き起こしているように思われる。確かに、ツイッターBSSにも、そこで極化しつつある集団の言説を批判する投稿や書き込みはある。しかし、それらはその集団の極化をさらに促進する材料にしかならない場合が多い。だから、そうしたコミュニケーション環境では、自分とは異なる意見に耳を傾け、必要があれば批判的な視点から自分の意見を修正することで、共通の理解の獲得を目指すような議論を期待することはほとんど不可能だというのが実情であろう。

 

大衆という社会的マジョリティの存在を想定していた新聞やテレビといったマスメディアの影響力が低下しているのに対して、インターネットによるコミュニケーション環境の影響力が増大していることが指摘されて久しい。この傾向はますます強まりつつあるように感じる人も少なくないだろう。そうだとすれば、私たちの社会では、極化現象が生じやすい状況にあるといえる。ここから、そのような社会は価値観やライフスタイルが多元化した自由な社会というよりは、極化した集団が乱立する極端な社会という様相を呈しているという見方さえできるように思われる。

 

代表者の極化による代表制度の機能不全

社会が、極化を招きやすいコミュニケーション環境の拡張をとおして極端化しつつあるとすれば、先に言及した政治家たちの言動の極端さも、そうしたコミュニケーション環境やその帰結としての極化現象から説明することが可能であろう。極端化する傾向にある社会から政治家が無縁であるはずはなく、むしろ、そうした傾向に意識的せよ無意識的にせよ、便乗する者も出てきているようだ。しかし、だからといって、政治家個人の主張の極端さだけを批判したとしても、それほど有益なことではないであろう。むしろ考えてみるべきは、かりに、新たなコミュニケーション環境の下での極化現象が民主政治における代表者(政治家や政党)の側に生じつつあるとすれば、このことが代表制民主主義そのものに及ぼす影響についてである。

 

極化現象は先に述べた条件さえ整えば、議会や同じ政党の議員たちの集まりにおいても起きる。しかし、現在の事態は、代表者たちの極化とその帰結としての主張の極端化が、インターネットという新たなコミュニケーション環境をとおして今までにない規模と形で進行しつつあるのではないかという懸念を喚起させる。この事態を代表制民主主義との関連で考えるなら、さらに深刻な懸念が出てくる。それは、代表制度がますます機能不全に陥るのではないかという懸念である。

 

現在の代表制度の機能不全の原因について、理論的な観点から次のように論じられることが多い。そうした機能不全は、代表される側である有権者の利害関心や価値観、ライフスタイルの多様化の伴い、代表する側の政治家や政党が、この多様性を集約し代表することが難しくなったことにその原因があるのだ、と。したがって、代表制度の機能不全の問題の核心は社会の多様化ないし多元化にあるとされてきたわけだ。こうした考えは、代表者(政治家あるいは政党)が、有権者の利益や意思を集約する機能を持っているという前提に立っている。代表制度を擁護する際の伝統的な論拠は、代表者のこの集約機能であり、代表者たちが社会の多様な意思や利益を集約しつつ、妥協や調整をとおして社会全体の意思や利益に鑑みた政治を行うというものだ。ところが、代表者たちの極化は、こうした機能の遂行を困難にすることになる。極化をとおして極端化した代表者たちの間で、多様な意思や利益を集約し、妥協や調整を行うことが困難なのは想像に難くない。ようするに、現在を進行しつつあるのは、代表される有権者の極化ばかりでなく、代表者の極化であり、これが代表制度の機能不全を新たな生じさせる可能性があるということなのだ。これは、いわば、前で論じた極化の民主政治へのネガティヴな効果が、いわば、二重化された事態だといってもいいのかもしれない。

 

極端な社会における国民政党の運命

もちろん、このところの自民党の若手議員の発言から、現在の自民党全体に極化現象を見るのには、かなりの無理がある。そもそも、昔からそうした議員は少なからず存在していたという指摘ももっともだろう。とはいえ、現代社会が極化現象を生み出しやすい環境にあるとすれば、そのような社会の政治家そして政党が極化傾向にあるかどうかには注意を払う必要があるだろう。

 

かりに、今後、代表者の極化が進行することになるなら、その際生じるのは、社会の多様な利益や意思を代表することを標榜する国民政党の消滅の可能性であろう。いや、国民政党などイデオロギー的幻想であり、そうした政党も国民という名を騙ってある特定の社会階層の利益を代表しているに過ぎないという見方も確かにある。しかし、問題は、極化した代表者は、自らその幻想を捨て去り、その幻想を維持するための必要な言動を放棄するということである。そんな事態は果たして来るのだろうか。国民政党の代表である自由民主党憲法草案や若手議員の発言を見るにつけ、この懸念を完全に払拭できないのがもどかしい。

民主主義が民主主義に敗北した日――安全保障関連法案の衆議院通過の意味について考える――

7月16日以後の日本社会

先日の安全保障関連法案の衆議院での可決は、第二次世界大戦後、民主国家として出発した日本を大きく転換させることになった。2015年7月16日を挟んで、それ以前の日本とそれ以後の日本は、まったく異質な社会となったのだ。なぜなら、この法案の可決によって、戦後の日本社会が民主的な社会として自らを理解してきた根拠、すなわち、憲法で保障された国民主権や基本的な諸人権あるいは平和主義などを国家権力から守るための大原則が失われたからである。立憲主義の否定といわれるこの事態は、現行の日本国憲法下で紆余曲折を経て発展してきた日本の民主主義の破壊を意味する。そもそも、立憲主義とは執行権力を憲法の制約下に置くことで、現代の民主主義の根源的な価値である私的領域における個人の自由、ならびにこの自由の保障に不可欠な政治参加などの公的領域における自由を執行権力から保護するものだ。こうした立憲主義にもとづく民主主義を一般に、立憲民主主義というが、それを国権の最高機関である国会が否定したのである。したがって、7月16日を境に、立憲主義に対して死亡宣告が突き付けられることで、日本国憲法を基調とする我が国の戦後民主主義の命も風前の灯となったといえる。

 

何を大袈裟な、という人もいるだろう。しかし、16日以前も現在も、表面上は何ら変わりのない日常の生活が続いているように見えたとしても、日本社会の変質を誤魔化すわけにはいかない。そして、昨年の7月1日の集団的自衛権の行使を解禁した閣議決定に端を発する現在の事態が、法令審査権を持つ司法府によっても容認されるようなことになるなら、日本社会の変質は常態となる。つまり、例外的状況が日常となるのだ。

 

このことは何を意味するのだろうか。例外状況が日常となるということは、必要の名の下に、法秩序を凌駕する国家権力の行使が可能となるということである。つまり、国家権力が必要と判断すれば何でもアリということだ。歯止めがなくなれば、あとは滑りやすい坂を転がるしかない。その先にあるのは、民主主義の終わりである。歴史が教えてくれる苦い教訓に思いを致す人なら、おそらくそう危惧するだろう。

 

現代の民主主義はどのようにして破壊されうるのか

とはいえ、ペシミズムやシニシズムを弄んでいてもあまり意味がない。そこで、あらためて、安全保障関連法案の衆議院通過の意味について考えてみよう。しばしば耳にするのは、15日の衆議院特別員会での安全保障関連法案の強行採決やそれに続く16日の衆議院本会議での野党欠席の下での採決に関して、それらが民主主義に対する暴挙だという野党側からの主張である。これは、本法案の審議やそれをとおしての国民の理解が不十分であるにもかかわらず、与党が数の力で決定を行ったという批判を表明している。しかし、こうした主張に説得力があるとは必ずしもいえないし、さらに、そのように主張するだけでは、この出来事の問題の核心を見逃してしまう可能性がある。

 

たとえば、政治的決定の民主的な正統性の源泉を民主的な手続きに求める手続主義を形式的に解釈することで、先の主張に対して次のような批判が可能だ。衆議院の特別委員会そして本会議において採決を行った代表者たちは、民主的な選挙を経た正統な代表者であり、その代表者による採決自体も法律に定められた手続きに従って行われた。つまり、一連の採決は、現行の憲法および法律によって定められた代表制度の意思決定の手続きに従い行われたのだから、反民主的であるとは言い難い。これゆえ、そのような主張は的外れだというわけだ。確かに、数の力で強硬に採決が行われたというだけでは、その採決そのものが民主主義を逸脱する暴挙であり、反民主的であるがゆえに無効だとはいえないかもしれない。

 

そうだとすれば、今回の衆議院における一連の採決をとおして確認せねばならないことは、民主主義はそもそも、憲法によって守られた民主的な社会を危機に陥れ、あるいは破壊してしまう可能性があるということではないだろうか。より正確にいえば、憲法により保障された現代の民主主義の諸価値は、代表制民主主義として制度化された意思決定の手続きを踏むことで、否定されてしまう場合があるということだ。今回のケースでいえば、憲法違反の可能性がきわめて高い法案、すなわち、現代の民主主義を保障した最高規範をそのもの否定していると見なしうる法案に対して、民主的な正統性が代表制民主主義の手続きをとおして与えられてしまったわけだ。こうしたことが可能となるのが、民主主義の元来の姿なのである。だから、自公の連立政権が数の力で民主主義に対する暴挙を働いたというのでは正確ではない。代表制民主主義が民主主義に対する暴挙を働いたのである。

 

民主主義が民主主義を破壊することがある。この矛盾した事態を直視しなければならない。何も無知で情緒的な群衆がレファレンダムによって、そうした事態を引き起こすだけではないのだ。それは代表制度においても起こりうる。現在の日本が何よりの証拠だ。

 

しかし、そうだからといって、代表制が現代の民主主義におけるもっとも重要な制度であることに変わりはない。とすれば、先の衆議院での一連の採決に関して検討すべき問題は、この事態をどうしたら止めることができるのか、ということになる。

 

破壊された民主主義を救うには

議会において憲法に違反する可能性の高い法案が可決成立した場合、裁判所がその法律の違憲性を審査することができる。したがって、今回のケースのように、立憲主義にもとづく民主主義を危機に陥れるような立法行為の歯止めとなるのは、法令審査権を持つ司法府である。安全保障関連法案が法制化された後には、この法律の合憲性をめぐる多くの裁判が起こされるであろう。とはえい、たとえ、ほとんどすべての憲法学者違憲性を指摘しているとしても、裁判所がそのように認定するとは限らないし、また、何より裁判所には時間がかかる。

 

そうだとすれば、7月16日以来、変質した日本社会を早急に元に戻したいと考える人びとに手はないのだろうか。手っ取り早い手段はもちろんある。それは、選挙によって問題の法律に対する反対の意思表明をすることである。つまり、代表制民主主義によって危機に陥った現在の日本の民主主義を代表制民主主義によって救い出すという手段だ。来年の参議院選挙が、現政権への批判を突き付ける絶好の機会である。また、時期は明確ではないものの政権選択をする衆議院選挙も行われる。そこで新たな政権に集団的自衛権の行使を認める法律およびその法律の根拠となった昨年7月の閣議決定の破棄を約束させればよいわけだ。

 

しかし、もちろん、その実現可能性についてはいかなる保証もない。いやむしろ、通常の経験則にもとづけば、その可能性は低いといわざるを得ない。すでに、政権内部から、今回の強行採決についても、国民は数日たてば忘れてしまうというような発言が出ているではないか。そうだとすれば、その可能性はこの健忘症との戦い次第ということになるように思われる。

 

議会の外での直接的な行動の機能

議会における代表者たちによって立憲主義的な民主主義が否定されようとしている現状では、そうした代表者たちに異議を申し立てる直接的な行動がこの戦いにおける鍵となるだろう。そうした直接的な行動の中心となるのが、現在も行われている街頭におけるデモだ。

 

もちろん、デモに参加した人びとの直接的な意思表明は、選挙と議会において表明される意思のように、公式の政治的決定過程に組み込まれない。このため、デモにおいて表明された意思は、市民社会に共感と連帯を呼び起こし、マスコミの関心を喚起させることで、世論の形成を可能にする。そうすることで、間接的に、意思決定の公式機関である議会への影響力を行使する。

 

デモが鍵となる理由は、それが、もの忘れの激しい世論やマスコミに対して、そして、国民の健忘症に付けこもうとする代表者たちに対して、集団的自衛権の行使を認める法律およびその根拠となる内閣の憲法解釈の撤回を求める意思を表明し続け、来るべき選挙の争点であることを提示し続けることが可能だからである。しかし、これだけが理由ではない。デモにはこうした機能以外にも、様々なものがあるからだ。たとえば、デモは、デモに参加することはなくても、そこで提示される意思を共有している人たちをエンパワーすることができる。また、デモには、その参加をとおして、政治に対する関心と知識を持ち、政治へのコミットメントに意欲的な人びとを作り出すという、いわゆる、政治主体の産出機能もある。これらの機能を備えたデモや、それ以外の議会の外で行われる直接的な行動が、代表制民主主義によって危機に陥った現在の日本の民主主義を今後の選挙をとおして救い出すための土台となるように思われる。

 

民主主義という不確実な政治制度

繰り返し指摘してきたように、7月16日の出来事は、代表制民主主義によって引き起こされた現在の日本の民主主義の危機として解釈することができる。これは、極めて深刻な事態ではあるが、驚くべきものではない。近代の民主主義の歴史は、この反復の歴史とさえいえるからだ。したがって、現在の日本の状況は、代表制を基盤に整備された政治制度としての民主主義の不確実さないし危うさを改めて私たちに示しているわけだ。しかし、だからといって、この状況を前に悲嘆にくれる必要もない。また、シニカルになる必要もない。

 

その理由は2つある。1つは、民主主義における決定はつねに暫定的なものであり、変更が可能であるということだ。もう1つは、代表制にせよ直接制にせよ、制度化された民主主義とは違った、民主主義を守るための制度化されざる行動が、日本国憲法第21条によって権利として保障されているということだ。もちろん、それがデモなどの直接行動を含めた社会運動である。市民社会におけるそうした行動が代表制度にどのような形であれ影響を及ぼすとき、おそらく、民主的な社会の実現を妨げたり、民主的な社会を脅かしたりする決定を変更できるであろう。確かに、歴史は、そうした試みが幾度となく失敗に終わったことを教える。しかし、そうした歴史の反復に抗うことができなければ、現在の日本の例外状況が日常化してしまうことを食い止めることはまずできないだろう。

「国家の存続か、憲法か」という問いかけが意味すること――安全保障関連法案の第3の局面における争点を理解するために――

安全保障関連法案の第3の局面

安全保障関連法案の国会での審議は難航しているようだ。最近の世論調査を見る限り、この法案に対する国民の理解は深まっているとはいえず、その反応は、慎重なままのようだ。安倍政権は、今後、世論の軟化を図ることになるのであろうが、それが思い通りにいくかどうはさておき、法制化の道のりにはまだまだ紆余曲折がありそうだ。

 

5月に安全保障法関連案が国会に上程されて以来の経過を振り返ると、3つの局面に区分できる。第1は、衆議院の特別委員会での法案の審議において、安倍首相、中谷防衛大臣、岸田外務大臣らの答弁における齟齬が顕著になるにつれ、法案の内容への野党の攻勢が勢いづいた局面。第2は、衆議院憲法審査会において召喚された憲法学者全員が安全保障関連法案の違憲性を指摘したことで、法案に対する世論の否定的な反応を助長した局面。先のコラム(http://fujiitatsuo.hatenablog.com/entry/2015/06/08/120503)で指摘したとおり、この時点で、国民が注目する論争の場は議会にとどまらず、法律や安全保障などの専門家を巻き込んだ市民社会へと広がりを見せることになる。そして、第3は、ほとんどすべての憲法学者が今回の法案の違憲性を認めている状況――したがって、政府は法案の合憲性を主張せざるを得ないものの、その根拠には説得力がなくなりつつある状況――で、法制化を目指す勢力が政府の外からその劣勢を挽回しようとする局面である。現在は、この第3の局面にあり、その中心的な役回りは、安全保障や国際政治の専門家によって担われる。ここでは、そうした専門家たちが、何とかして憲法の専門家たちが主張する法案の違憲性に対して反論し、この法案の重要性を世論に対して提示できるかどうかということが問題となる。

 

第3の局面における争点

では、どのようにしてその反論は行われているのだろうか。もちろん、安全保障の専門家が、憲法学者の指摘する法案の違憲性を、法律論によって覆すことは不可能であろう。とすれば、この第3の局面において、安全保障や国際政治の専門家ができる反論は、憲法を踏み越えてでも、この安全保障関連法案によって新たに可能となる集団的自衛権の行使が「必要だ」ということを論証することである。必要性の説明はこんなふうに単純明快だ。国家の存立がなければ、日本国民の生命や財産が損なわれるのであって、憲法立憲主義どころの話ではない。この法案が許容する集団的自衛権によって国家としての日本の存立が保障され、国民の生命や財産が守られ、結果として、憲法の存在や立憲主義の議論が意味を持つ。だから、憲法の制約を踏み越えてでも、この法案を成立させ集団的自衛権の行使を可能にする必要がある、と。安全保障あるいは国際政治学の立場からのよくある主張は、この議論の下に、日米同盟の強化の必要性が理由として主張されていることは周知のとおりだ。

 

こうして、第2の局面の争点が安全保障関連法案と立憲主義の関係性であったとすれば、第3の局面では、国家の存続のための必要(緊急事態)と憲法を頂点にした法秩序との関係性が争点となっていることになる。より正確には、必要は法秩序を踏み越えることが理論上許されるのか、これが争点となっているのだ。

 

必要(緊急事態)と法秩序とのこの関係性は「必要(緊急)は法を持たない(Necessitas non habet legem)」というラテン語の格言によって言い表すことができる。この必要とは緊急事態として理解できるし、それは概念として例外状況の根拠となる。こうして、この格言は、公法および私法、そして近代の民主主義理論にとって主要な議題であり続けることになる。法学や政治学を少しでもかじった人ならばご存知のとおりだ。そこで、この格言を手掛かりにして、現在しばしば耳にする「国家の存立か、憲法か」という問いかけの含意を考えてみよう。

 

現代の民主国家における必要と法秩序の関係性

もともと、「必要は法を持たない」という格言は、次のようなことを意味していた。すなわち、必要は法律の拘束力や強制力が及ばない、したがって、法律の制約から解放されるような特異な状況を規定する、と。このように、法から分離された、法-外的な必要という概念を用いることで、法秩序の限界ないし外部を画定し、法の制約から外れて行いうる具体的な事例を論じることが可能であった。ところが、アガンベンの指摘にあるように、特に近代の公法では、法‐外的なこの必要を法秩序の内部に組み込もうとする傾向が顕著になる。すなわち、法秩序の内部に、その秩序を穿つ法-外的なものが挿入されるというわけだ。実際、20世紀の多くの国家では、この必要は緊急権として憲法の条文に明記されたり、あるいは、関連する法律が制定されたりすることで、法体系に包摂されるようになっている。

 

この傾向は、近代社会の発展の中で生じた、統治の領域や任務の拡張とそれを司る執行権力の伸長に付随するものと理解できるであろうし、この意味で、統治の合理性や実効性の追求においては肯定すべき必然的な傾向であると考えられる。とはいえ、この傾向に対しては一貫した懸念も存在する。それは、この組み込みが執行権力の権能とその範囲の拡張に帰結し、その結果、現代の自由主義的な民主国家の規範原理が侵犯されることになるのではないかという懸念だ。たとえば、民主的な政治制度を維持するためには不可欠な、三権の分離の下での権力均衡が破られたり、国民主権を事実上保障する立法手続きが蔑にされたりする可能性、あるいは、基本的人権が蹂躙される可能性など、ようするに、それは、民主主義を保障する法秩序を破壊する可能性への懸念だといえるだろう。このことは、19世紀のフランス、20世紀のドイツそして21世紀のアメリカを見るだけでも、理に適った懸念だといわざるを得ない。

 

そうだとすれば、現代における必要と法秩序との関係性についてこう指摘できるだろう。すなわち、民主的な法秩序への必要の組み込みによる生じる内的連関ゆえに、現代の法秩序から必要を切り離すことは不可能であるということ。さらに、必要の法秩序への内部化がかえって法秩序の安定性を損ね、その法秩序に依拠する民主的な政治制度を動揺させる可能性があるということ。だからこそ、必要は、より慎重かつ厳重に法秩序を前提にした民主的なコントロールの下に置かれなければならない、ということだ。

 

「国家の存立か、憲法か」という問いかけが提起していること

以上の議論を念頭に置いて、「国家の存立か憲法か」という問いかけについて検討してみよう。この問いかけについて、こう批判する人がいるはずだ。すなわち、日本という国家の存立とは、民主的な国家の存立であるのだから、民主的な国家の存立のために必要な措置は、憲法を頂点とする法秩序に適合したものでなければならない。法秩序を踏みにじった上で存立が救済される国家は、もはや民主的な国家ではない。ここから、国家の存立と憲法とは二者択一の対象とはなりえない。したがって、この問いかけは、無意味なのだ、と。確かに、こうした批判は、理に適ったものだといえる。しかし、この批判が、先に触れた、必要と法秩序の本来の関係性や、近代以降のその関係性の変容を検討することなく、こうした問いかけを封じ込めた気になっているとすれば、ナイーヴすぎるように思われる。なぜなら、その検討を欠いては、「国家の存立か憲法か」という現在の問いかけの重大さをつかみ損ねる可能性があるからだ。

 

試みに、この批判を「国家の存立か憲法か」と問いかける人に向けてみよう。そうすれば、おそらくこんな返答があるだろう。確かにそうだ、しかし民主的な国家の存立を確保せねばならないという必要(緊急事態)において、民主的な立法手続きも人権を保障する法律もその存立を守ることができないなら、それらは沈黙すべきである。必要が法秩序に関わりなく、何がなされるべきかを決定する、必要は法を知らない、と。この噛み合わない返答が何を意味しているのか。それが意味しているのは、現代における、必要と法秩序の本来的な関係の回復であり、必要の本来的な権能の回帰に他ならない。必要は、現代の民主的な政治体制の下であっても、そして、それを民主的なコントロール下に置こうとする努力にかかわらず、結局は、法の手綱を振りほどき、法秩序とそれに支えられた民主的な政治体制の限界を乗り越える能力と権利を失いはしない、というわけだ。こうしたことを「国家の存立か、憲法か」という問いかけは意味しているのである。

 

もちろん、現在、「国家の存立か、憲法か」と問いかけているのは、政府ではなく、政府の外部で、安全保障関連法案の法制化を望む人たち、特に安全保障や国際政治の専門家たちである。政府は、この問いかけすることは許されないし、実際、今後もそうすることはないだろう。これに対して、安全保障や国際政治の専門家、さらに一部の政治家は、たとえ憲法に違反した法案であったとしても法制化の重要性を世論に訴えるために、「国家の存立か、憲法か」と問いかけることで、いわば、「必要は法を持たない」という古くからの格言を持ち出しているわけだ。だとすれば、それは、この格言を手にワイマールの法秩序を乗り越えようとしたシュミットばりに、こう言っているのとそんなに変わらないはずだ。「現代の安全保障環境の変化の結果、日本は切迫した緊急事態、すなわち例外状況にある、だから、例外状況に関して決定する主権者、すなわち国民よ、今こそ法秩序を乗り越え、国家存立ために決断せよ」と。

 

「国家の存立か、憲法か」と問いかける専門家や政治家たちは、このことを十分に理解しているにちがいない。しかし、こうした問いかけが孕む危険――これについては歴史に学ぶほかはない――について真剣な顧慮がないとすれば、危ういといわざるを得ない。それでも、「必要は法を持たない」として「国家の存立か、憲法か」というのなら、その前に、専門家にはしてもらわなければならないことがある。それは、中国の脅威とか、日米同盟の脆弱化とかいうような曖昧な理由ではなく、法秩序を覆さねばならないほど、日本が危急の事態にあるということの証明、すなわち、日本が例外状況にあるということの客観的で、合理的かつ個別具体的な事例の列挙である。そうでない限り、事の重大性からして無責任の誹りは免れないように思われる。

安全保障関連法案の前に再び現れた民主主義の亡霊

憲法審査会の参考人質疑が明確化にした安全保障関連法案の問題の焦点

先日行われた、衆議院憲法審査会の参考人質疑が話題を集めているようだ。与党の推薦した憲法学の専門家を含めた出席者全員が、現在国会で審議されている安全保障関連法案が現行憲法に違反する可能性を指摘したからだ。この指摘は、否応なく、安全保障関連法案の前提の違憲性に逢着する。すなわち、昨年7月の閣議によって決定された、集団的自衛権の行使を容認する憲法解釈の違憲性だ。要するに、この法案の内容云々にとどまらず、その根拠の憲法上の疑わしさが今後の法案審議の主題とされることになる。今回の衆議院憲法審査会における参考人質疑の顛末が、野党に追及のための格好の材料を提供することは誰の目にも明らかだ。

 

しかし、この問題の核心は、国会の審議において野党を勢いづかせたという点にあるのではない。それは、専門家による違憲性の指摘が、安全保障関連法案に対する批判的な世論を増長させる可能性があるという点にある。安倍政権は、様々な世論審査において、政権に対する高い支持率を維持している。それにもかかわらず、集団的自衛権の行使のための憲法解釈変更から安全保障関連法案に至る安全保障政策に関しては、世論の理解と支持を得ているとは言い難い状況にある。そもそも、現行の衆参両院において多数派を形成している自公連立政権にとって、この法案を成立させる上での障害は、国会内にはほとんど存在しない。したがって、この法案の成立の唯一の障害は、おそらく、それに批判的な世論ということになるであろう。野党の抵抗も世論頼みであることは明らかだ。そんな状況下で、法案の内容の曖昧さばかりでなく、その根拠自体に対する違憲性を暴露されたわけだ。このことが世論に対してネガティブな影響を及ぼす可能性は非常に高い。

 

こう考えると、今回の憲法審査会での出来事から、次のことが改めて明確になったように思われる。すなわち、集団的自衛権の行使のための法整備を進めようとしている安倍政権にとっての障害は、国会内での対立ではなく世論との対立であること。その対立の争点は、法案の内容の合憲性ばかりでなく、法案の根拠となる内閣の憲法解釈の内容の合憲性にもあるということである。このことが意味しているのは、安全保障関連法案をめぐる対立の核心、あるいは、争点における真の賭け金として、日本における民主主義の危機という問題が再び焦点化されたということなのである。安倍政権にとっては、昨年末の衆議院の総選挙によって封印したはずのこの問題が、いわば亡霊として再び現れた形だ。

 

立憲主義からの逸脱
民主主義の危機が焦点化されたという理由は2つある。1つは立憲主義の問題が再び提起されたことにある。先に触れたように、先日の憲法審査会の参考人質疑では、安全保障関連法案の違憲性が指摘されただけでなく、その法案の根拠となっている昨年の閣議決定への疑義が提示された。これらが孕む問題としてもっとも頻繁にあげられるのが、立憲主義からの逸脱である。

 

立憲主義については別のコラムで詳しく述べた(http://fujiitatsuo.hatenablog.com/entry/2014/06/19/230220)。それを簡単に定義すれば、憲法への統治権力の服従を命じ、その自立化と暴走を防ぐことで、民主的な社会の諸価値、すなわち、個人の尊厳や人権、社会の多様性を守ろうとする考え方である。教科書的にいえば、もともと、立憲主義は、多数者の暴政の危険を孕んだ民主政治から個人の権利や自由を守ろうとする自由主義的な概念であった。ところが、自由主義的な民主主義が定着した現代では、憲法に明記された個人の諸権利および社会の民主的な諸価値を統治権力から保護する民主主義の重要な概念となっている。したがって、ほとんどの憲法学の専門家たちが指摘するように、閣議決定による集団的自衛権の政府解釈の変更とそれもとづいた今回の安全保障関連法案の法制化が立憲主義からの逸脱あるいは否定を意味するとすれば、それらを推し進めてきた安倍政権は日本の民主主義を危機に陥れつつあると考えることができるのである。

 

このことは、昨年以来、しばしば指摘されてきたことである。しかし、現在の日本における民主主義の危機を理解するには、立憲主義だけでは十分だとはいない。立憲主義と併せて論じられるべきなのは、以前のコラムで言及した「議会主義」とそれに由来する、民主的な社会としての日本の自己理解という考え方である(http://fujiitatsuo.hatenablog.com/entry/2014/07/19/010629)。この自己理解は、いわば、議会を基盤にした民主的な手続きをとおして歴史的に構築されてきた、民主的な社会としての日本のアイデンティティのようなものである。実のところ、安全保障関連法案に批判的な世論は、突然最近になってマスメディアで流布されるようになった立憲主義という小難しい言葉よりも、この自己理解に意識的にせよ、無意識的にせよ、依拠しているように思われる。そうだとすれば、安倍政権が対立しているのは、たんなる世論というよりも、世論の基底にあるこの自己理解ないしアイデンティティだと考えられる。ここに、民主主義の危機が焦点化されたといえる第2の理由がある。

 

かたくなな世論と民主的な社会の自己理解
「議会主義」という言葉は、「立憲主義」との語呂合わせから、便宜上使用した言葉であるが、それは、次のような民主主義およびその正統性についての理解を表現するものだ。すなわち、議会が生み出す政治的決定の正統性を、たんなる数の力ではなく、民主的な手続きに従った議論の中で積み重ねられる言葉=理由に見出す理解である。別の言い方をすれば、こうなる。民主的な社会における政治的決定の正統性は議論を経た合意に由来するものであり、この合意はその時々の社会に存在する多様な理由を含み込み、さらに時間かけて理由を積み重ねることから形成されねばならない、そして、こうした合意を形成する中心的な場が議会だという理解である。このような議会の役割を重視する立場が「議会主義」の意味するところである。

 

民主的な社会の自己理解が構築されるのは、そのように理解された議会において産出される民主的な合意が社会に共有されることによってである。つまり、こういうことだ。議会で形成された合意――たとえば、法律――は、社会へと送付され現実に適用される。社会の方では、その合意によって多様な反応が引き起こされ、時代の推移の中でその合意の新たな解釈や、それに対する承認あるいは否認の新たな理由が生み出され、それらが議会へと送り返される――たとえば、社会運動や世論形成、そして選挙などをとおして――。そして、議会では新たに見出された理由をさらに積み重ねることで、これまでの合意が再検討され、必要があれば変更され、あるいは破棄される。このプロセスが反復されてもなお存続する民主的な合意は、社会において共有され根を下ろすことで、いわば社会の再帰的な自己理解となる。この社会の再帰的な自己理解こそが、社会を民主的に統合する上での基盤、すなわち、その社会の民主主義の精神となるのである。

 

民主主義の精神の危機
おそらく、集団的自衛権違憲としてきた政府の長年の解釈は、こうした類の合意の一つであったといえるだろう。戦争へのトラウマを抱えた戦後の日本社会では、憲法第9条に掲げられた平和主義の理念をどう理解し、現実のものにしていくのかについて、様々な考えや思惑、それを正当化する様々な理由が存在してきた。9条に記された文言に忠実に従い、自衛権さえも放棄するべきという理由や、自衛権を行使するための組織として自衛隊を合憲とする理由、日米同盟のために憲法を改正し、集団的自衛権の行使を可能にするべきという理由、その他、様々な理由が国会での議論をとおして積み重ねられてきた。その結果が、これまでの集団的自衛権違憲とした政府の解釈であった。もちろん、この解釈は、国会において多数を占めてきた与党の数の力によって、最終的には決定され、また、その解釈にもとづいた法案も、数の力によって可決されてきた。これは否定しようのない事実だ。しかしながら、この解釈は、米ソ冷戦の開始から、朝鮮戦争、安保改定、ベトナム戦争、新冷戦期、そしてポスト・冷戦期にわたり、様々な理由の積み重ねと合意の民主的な再検討を経て、日本の社会に根付くことで、民主的な社会として出発した、戦後日本の再帰的な自己理解となってきた。そして、この自己理解が、現在、安全保障関連法案に対する批判的な世論として顕現しているといえるのだ。

 

そうだとすれば、たんに立憲主義だけでなく、日本の民主主義の精神そのものが、危機に晒されようとしているのだといえそうだ。というのも、安全保障関連法案に批判的な世論と対立する安倍政権は、日本の社会に共有されてきた民主的な自己理解に対して挑戦を突き付けていると考えられるからだ。

 

解散と引き換えに成立を目指すのか?
果たして、安倍政権は、再び現れた亡霊を追いやり、アメリカに約束した法案の成立を今国会中に成し遂げることができるのだろうか。

 

もちろん、唯一の障害となっている世論など法案成立に直接影響を及ぼすことはできないのだから、安倍首相が世論を無視してしまえば済む話だともいえる。しかしその一方で、戦後の安全保障政策を大きく転換させる法案の成立を世論の批判を無視して強行するなら、その後の政権運営はきびしいものになることを容易に予想できる。そればかりか、今後、法案への世論の反対がいっそう高まれば、内閣の辞職と引き換えの法案成立というシナリオさえ現実味を帯びてくる。その場合、安倍首相は、彼の祖父が半世紀以上も前に辿った同じ道を進むことになる。それを許すことになるのか、それとも、今国会での法案の成立を断念させることになるのか。半世紀を経た日本の民主主義の成熟そのものが今、問われているように思われてならない。

 

民主主義はそんなに「すばらしい政治体制」なのか?――大阪都構想をめぐる住民投票から考える直接民主制の問題――

民主主義はすばらしい?

一昨日、多くの注目を集めた大阪都構想をめぐる住民投票が行われ、即日、開票結果が明らかになった。すでに報道にあるとおり、大阪市民は約1万票の差で、橋下大阪市長が提案した大阪都構想の受け入れを拒否することになった。

 

大阪市に特別な利害関係を持たない人たちの中には、衰退の一途をたどる全国の地方自治体に不可欠な行財政改革の先例として、今回の住民投票の結果に期待した人もいるだろう。あるいは、今後の国政における最大の争点である憲法改正の関連で、維新の党との連携を模索する安倍政権改憲戦略への影響という観点から、今回の投票結果に関心を持った人もいるだろう。ここでは、そうした論点には触れず、「民主主義はすばらしい政治体制」という大阪市長の言葉にフォーカスしたい。そう、橋下劇場を締めくくるに相応しい、開票後の会見で発せられたこの言葉、しかもポピュリストと揶揄されることもしばしばあった政治家の言葉である。だから、なおのこと、皮肉にも聞こえるこの無邪気な言葉が気になる。彼が「すばらしい」とした住民投票、すなわち、代表者ではなく有権者自身による直接的な意思決定とは何なのか。大阪市住民投票をはたから見て、有権者による直接的な意思決定の機会には、代表制度の下では見失われがちな民主主義本来の熱気に満ちた活力と同時に、何かしらの危うさを感じた人がいるとすれば、その理由は何か。

 

地方自治における住民投票の重要性

橋下市長の政治手法あるいは政治基盤からして、住民投票はいわば、好機でもあった。強力なリーダーシップと大胆で攻撃的な言動をとおしてマスコミを巻き込み、さらに全国の関心を集めることで有権者の支持を固める手法。このような手法を取る必要があったのは、彼が既成の政党や様々な利権団体に属さない有権者、そればかりか既成の組織に対して不満を持つ有権者を支持基盤にしていたからにほかならない。住民投票は、彼の支持基盤を形成する有権者が直接かつ効果的に政治決定に影響を及ぼすことのできる機会であった。

 

幸か不幸か、橋下市長はこの「戦に負けた」。これによって、大阪市の改革は彼の掲げた構想とは別の形で進められることになった。しかし、今回の住民投票をはたから見ていると、話はこれで終わらないようにも思われる。というのは、今回の住民投票は、日本の地方自治が陥る可能性のある、二つの民主的代表の対立、すなわち、議会と首長との対立を解決する手段として、あるいは、それらの代表者の決定に住民の直接の意思という正統性を付与する手段として、ますます住民投票が実施される可能性を想像させるからだ。今後、地方自治体のよりいっそうの自律性を求める機運が高まり、その中で、現在の国と地方の制度上そして法律上の関係が変更されることがあるとすれば、その可能性を想定することは必ずしも筋違いとはいえないように思われる。

 

今後、日本の地方自治体は、人口の減少、産業の衰退などにより、その維持が困難になるといわれている。そして、衰退を防ぐためには、住民間に深刻な利害対立を引き起こすような大胆な政策や制度改革が必要になるかもしれない。地方自治体がそうした政策や改革を行おうとすれば、おそらく、議会と首長の対立する機会も増えるであろう。それだけではない。大胆な政策の実施や制度改革には住民の痛みが伴うため、その決定にはより強力な民主的正統性が必要になる。簡単にいえば、住民の納得が必要となる。こうして、地方自治における民主主義の制度上の特徴と地方自治体の先行き、そして地方分権推進をめぐるこれまでの国内の議論を併せて考えるなら、法的拘束力をもたせる住民投票の立法――今回の大阪市のように、特別区の設置という限られたイシューにとどまらない、より広範なイシューに関する――が行われることを予想することもできるのだ。

 

そうだとすれば、日本の地方自治が共に民意を代表する議会(立法機関)と首長(行政)とが対立し、こう着状態に陥ったとき、今回の大阪市のように、住民投票などによる住民の意思表示によって、この機能不全の状態を打開可能であるということは、注目されてよい。ここには、国政における代表制民主主義――憲法改正による国民投票はもちろん例外である――とは決定的に異なる地方政治の民主主義の特徴があるからだ。すなわち、直接表明された有権者の意思が、場合によって、極めて重大な政策を決定することが可能であるという特徴、そして、代表制の行き詰まりを解決しうるという意味での、代表制に対して直接民主制が優位性を保持する場合があるという特徴である。

 (この「地方自治における住民投票の重要性」の部分には、大阪市住民投票が行われた過程に関する事実誤認があるのと指摘を受け、確認の上、該当すると思われる箇所を修正しました。)

 

民主主義における住民投票の特徴とその弱み

そうだとすれば、住民投票という代表者によらない直接的な民主主義のあり方がどんなものなのか、基本的なところから考えてみる必要があるだろう。現代の私たちに馴染みのある選挙を中心にした代表制と住民投票のような直接民主制との違いは、どこにあるのか。

 

ここで、カール・シュミットの議論――憲法問題の関連で、国家制度を対象とした議論ではあるが――を参照してみよう。それによれば、代表制では、公開の場(議会)での理性にもとづく議論によって決定が行われる。ここから、代表制における政策などの意思決定の特徴は、理性や議論あるいは節度によって媒介されている点にあるといえる。これに対して、人民投票型の直接民主制では、投票をとおして直接表現される市民の意思によって決定が行われる。このため、このタイプの直接民主制の特徴は、有権者の感情や思考などが無媒介な形で、したがって、反省の機会なしに意思決定に対して直接反映されることになる。シュミットはこの区別から、一般に同じ民主主義の制度として見なされる代表制と直接制が理論的にも組織的にも独立したものであることを指摘している。

 

シュミットのこの議論はきわめて古典的なものであり、これはこれで、それなりの説得力がある。彼の議論をさらに敷衍するなら、代表制と直接制それぞれの意思決定における強みが分かる。代表制の強みに関しては、理性的な議論を経ているわけであるから、より理に適った決定、あるいは、より合理的な決定が可能であるということであり、直接制に関しては、主権者が自分たちで直接決定を行うわけであるから、国民主権という点においてより民主的に正統な決定が可能だというところに強みがある。

 

これらの直接民主制の特徴や強みは、地方自治における住民投票に当てはまる。とすれば、住民投票は、代表制に比べ、より民主的な正統性を意思決定に付与することができるという利点がある一方で、弱みがあることも歴然としている。それは、住民投票が十分な情報や議論や熟慮にもとづく理に適った決定を生み出すのが難しいという、弱みである。

 

このとこは、今回の大阪市住民投票においても見受けられたように思われる。たとえば、住民投票の争点が、大阪都構想の内容の是非よりも、橋下市長の信任投票的な傾向を帯びたこと。あるいは、都構想の賛成派および反対派の双方が、それぞれその利点や欠点のみを指摘しあう、宣伝合戦の様相を呈し、中立的な立場から構想の利点や欠点を比較考量する冷静な議論が十分に有権者に届かなかったことなど。ただでさえ複雑で専門的な都構想の内実に対して合理的な判断をするのに、このような状況が理想的でないことなど誰の目にも明らかである。これらの点に、住民投票の危うさを感じた人がいるのかもしれない。

 

必要なことは何か

このコラムで繰り返し指摘したように、現代の民主主義の基盤である代表制度には多くの問題が存在する。しかし、代表制だけに問題があるわけではない。直接民主制としての住民投票にも弱みが存在する。そしてその弱みは、19世紀以来、衆愚政治の危うさとして論じられてきたし、そう論じる人も未だにいる。もちろん、この危うさに対する伝統的な議論を真に受けるわけにはいかない。なぜなら、こうした議論に見られる、民主的な正統性を軽視し、意思決定における合理性をあまりに重視する立場は、結果として、反民主主義的傾向を持つことが多いからだ。とはいえ、住民投票にも弱みがある以上、放置しておけば済む話でもない。したがって、その弱みを改善する試みが必要になるはずだ。すなわち、民主的により正統性のある決定を合理的で理に適ったものにするような試みである。先にも指摘したとおり、国民投票ばかりでなく、地方自治において、政策決定における民主的な正統性を住民投票によって補おうとする傾向を想定できるとすれば、なおのことそうだ。

 

そうした改善の試みは、世界を見渡せば、すでに多く行われている。その一つが、別のコラムで言及した、熟議のフォーラムを住民投票のプロセスに組み込む試みである。これは、投票に先立ち、中立的な形で知識や情報を市民に提供し、専門のファシリテーターの下、公的な空間での他の市民たちとの議論をとおして、より熟慮された判断を形成することを目的とする制度的工夫である。確かに、それはコストのかかる制度的な工夫であり、これが大阪市のような大規模な自治体で実現可能かどうかに議論の余地がある。それが困難であるとすれば、改善のための別の工夫を考案していく必要があるだろう。

 

橋本市長は、民主主義を「すばらしい政治体制」と呼んだ。確かに彼のような人物を政治の檜舞台に引き上げたのも、あるいは、そこから引きずりおろしたのも、民主主義という政治体制だからできた話なのかも知れない。しかし、彼に素晴らしいと発する機会を提供した今回の住民投票について簡単に見るだけでも、そこには、制度上の弱みやそれに由来する危うさがあることが分かる。歴史を見れば、このことは否定しようがない。近代以降の民主主義は、こうした弱みや危うさをコストのかかる制度上の工夫でもって修正しながら、なんとか平等な市民からなる自由な社会という理念を実現しようとしてきた。ようするに、民主主義のそうした理念は決して譲ることのできるものではないが、それを実現するための制度は、代表制にせよ、直接制にせよ、万全どころではない。だから、彼のこの言葉を聞いて素直にうなずくことのできない人がいても、少しもおかしなことではないのだ。

代表制民主主義は生き残ることができるのか?――2015年統一地方選挙から再考する代表制と民主主義の関係――

先日の憲法記念日には、現行の日本国憲法に対して、改憲派護憲派双方による活発な発言が相次いだ。そのうち最も注目すべきは憲法改正の中心的勢力である自民党の動きである。自民党船田元憲法改正推進本部長によれば、自民党はまず「緊急事態条項」を憲法に規定するべく、現行憲法の改正を目指すという。この是非はともかく、先日の憲法記念日は、来年の参議院選挙後の憲法改正の発議、および、国民投票という戦後最大の政治的イベントに向けて、着実に政治日程が進んでいることを実感させる日であった。

 

そんな中、もはや先月の統一地方選挙の結果を総括するような議論がほとんど見受けられないのも致し方ないのかもしれない。確かに、先の地方選挙では政権選択をにらんだ争点がなかったため、人びとの関心は薄く、また、その結果も取り立てて論ずるまでのものではなかった。そもそも統一地方選挙などそうしたものだという意見もあるだろう。とはいえ、各地での最低投票率の更新、89の市長選のうち3割の無投票といった事例に示されるこの度の選挙の実情は、有権者の政治的関心の低さでは片付けられない深刻な問題を提起している。その問題とは、代表制にもとづいた民主政治の危機、すなわち、代表制民主主義の危機である。

 

代表制民主主義の危機

代表制民主主義の危機。確かに、選挙のたびに様々なメディアで耳にするものの、実際は、何の危機意識も喚起しない陳腐な空語だ。こんなふうに思う人も少なくないだろう。それは、しばしば、有権者政治的無関心や受動性を問題視するために使われる。

 

しかし、今回の統一地方選挙を思い出して欲しい。対抗馬が不在のため、無投票となったいくつもの首長選挙。あるいは、東京都の区議会議員選挙。掲示板に張られたポスターの写真と自宅に配布される選挙公報というほとんど無いに等しい情報にもとづいて、あれほど多くの立候補者の中から、自分の利害や意思の代表者を選択することが求められる。選択肢の不在、逆に、ほとんど違いのない選択肢の過剰さ、選択する上での情報や議論の欠如など。こうした状況において、低投票率を嘆いたり、有権者の政治的受動性や無関心さだけを責めたりするだけでは、少々短絡にすぎるし、今後何も改善されることはないであろう。

 

そうだとすれば、今回の統一地方選挙で改めて示された選挙の形骸化が、なぜ、地方政治における代表制民主主義の危機といえるのか、ちゃんと考えることから始めたい。

 

次のような指摘があることば承知の上だ。法律的にも財政的にも地方議会や地方行政の首長の政治的な権限は極めて限定的であり――したがって、実行可能な政策など限られている――、また、地方議会の議員の主な機能は居住地域の日常生活のありふれた要望や苦情を収集し解決を図る点にある。だから、そうした首長や議員を選出する選挙と国政レベルの選挙とを同一視して、ああだこうだいっても仕方ないではないか、と。

 

しかし、そうではない。地方、国を問わず、選挙の形骸化は、理論上、代表制の下での民主政治を劣化させ機能不全に陥らせる可能性がある。だから、シニカルに現状を追認したり、あるいは、取ってつけたように有権者に投票を呼び掛けたりするだけ済ますわけにはいかないのである。

 

選挙と代表制民主主義

では、選挙の形骸化がなぜ代表制民主主義を行き詰まらせるのか。その理由を理解するには、選挙とそれによる代表者の選出と民主政治とを混同するという、よくある間違いを退ける必要がある。つまり、代表制が民主主義なのだという誤解を捨てる必要があるのだ。

 

代表制民主主義とは、代表制という制度のもとでの実行される民主主義、あるいは民主的な政治である。代表制とは、何らかの方法で選出された代表者たちが政治的決定を行う制度である。この制度の根本原理は代理である。これに対して、統治者と被統治者が同一な政体として定義される民主主義は、元来、社会における共通の(=一般的な)利益ないし、社会における多数派の利益にもとづいた政治のあり方を意味する。そして、このような政治のあり方から、政治的決定に対する政治体の構成員全員の関与が求められることになる。ここで重要なのは、代表制と民主主義が、歴史的にも、理論的にも、異なるものだということだ。異なるものであるにもかかわらず、これらが18世紀末19世紀にかけて、理論的にも実際にも接合され、近代の民主主義の基礎が出来上がることになった。

 

19世紀以来の代表制民主主義の発展の歴史を振り返るなら、相異なる民主主義と代表制との結び付きを強固なものにし、代表制を民主的な政治の実現に不可欠なものにしていったのが、選挙、より正確には、民主的な選挙である。社会を構成するすべての成人に参政権を付与するこの選挙は、むろん、民主的な政治を求める闘争の中で徐々に獲得されたものであるが、これこそ異なる二つのものを接合する蝶番だと見なすことができる。

 

繰り返しになるが、現在の民主政治を機能させる代表制は、それ自体、民主主義と関係のないものである。したがって、代表者が代理として決定を行う政治が民主政治であるための条件――すなわち、代表制民主主義が機能するための条件――が、現行の選挙なのだ。このことは、代表制こそ民主主義の理念の実現に欠くことのできないものだという立場に立つ、どのような代表制民主主義のモデルであろうと、変わらない。それが、シュンペーターの競争-利益集約型民主主義のモデルであろうと、あるいは、多様な特殊な利害によって分裂している社会では、代表者が社会の共同=一般的な利害を見出し、それにもとづいて政治を行うべしとする代表制民主主義のモデルであろうと。

 

代表制の民主的な正統性の欠如が代表制民主主義の危機を生む

こんなことは知っている。選挙が形骸化した結果、代表制と民主主義の結び付きが弱まったとして、だからどうなんだ、法律で定められた手続き上の瑕疵がなければ、代表制にもとづく民主政治は、それはそれでまわっていくのだ。こんなふうに考える人もいるだろう。しかしながら、日常を貫く慣性の力を見くびるわけではないが、それではあまりに民主主義に対して楽観的すぎる。

 

選挙の形骸化が生み出す代表制と民主主義との接合の緩みが問題なのは、それによって、代表制民主主義の正統性が脆弱になる点にある。別の言い方をすれば、代表制にもとづく政治が民主的だとする根拠が薄弱になる点だ。そもそも、代表制それ自体では、民主的な正統性を主張できないことはすでに指摘した。このため、代表制と民主主義との結び付きが弱まると、代表者たちによる決定になぜ従わなければならないか、特に、その決定に不満を抱く人びとに疑念を生じさせる。

 

代表制民主主義の正統性へのこうした疑念をあまり安く見積もらない方がよい。もちろん、現代の政治は、どのようなあり方であろうが、法律に従って行われる必要がある。しかし、それで十分というわけではない。政治が円滑に機能するには、それらに対する人びとの信頼や納得といった内面的な基盤が不可欠である。特に、現行の政治に不満を持つ人びとに対して、不満があるにもかかわらず、それに従う理由や根拠、すなわち、政治の正統性が必要なのだ。この正統性を欠いては、政治が秩序を維持することは結果的に困難になる。このことは、もちろん、民主的な政治においても同様だ。選挙の形骸化が進み、ある程度の数の人びとが代表制の民主的な正統性に猜疑心を向け始めるとき、現行の代表制民主主義は危機的な事態に陥る可能性がある。

 

代表制を補完する市民の直接参加と熟議

今後の日本の政治には、国、地方を問わず、増々限られた社会的資源を有効に配分することが求められる。このことは、端的に、政治に不満を抱く人びとがより増えることを意味する。したがって、そのような決定を行う代表制にはいっそうの民主的な正統性が必要になる。とすれば、代表制の下での民主政治の先行きを不安に思う人も少ないはずだ。

 

しかし、だからといって、代表制をやめるというのは、現実的でもないし、望ましくもない。代表制には、市民が直接参加し決定を行う直接制と比較したとき、理論的には、多くの利点がある。たとえば、利害や意思の集約化や、政治的争点の明確化、代表者による取引や熟議を経た合意調達(の可能性)などである。しかし、こうした強みがある一方、とりわけ地方自治体での選挙の形骸化が明らかな今、代表制民主主義の正統性の脆弱化の可能性という弱みから目を背けることはできない。ならば、地方の代表制民主主義は、この事態にどう対処するか。ここで検討したいのは、国政に比較して、規模も小さく、政治的権限も限定的で、それゆえ、政治的争点も限定されざるを得ない地方自治体だからこそ可能な、代表制を補完する方法である。

 

その一例は、代表制における政策決定過程に、熟議をとおして市民の意思形成が行われる機会を組み込み、それを政策に反映させる制度上の工夫である。これは、ある政治的争点をめぐり、集まった市民が専門家のレクチャーを受け、ファシリテーターの下で様々な立場の人びとの意見に耳を傾け、その中で自らの政治的意思を形成することを可能にする。海外ではこうした工夫は、ミニ・パブリックス(mini-publics)や市民集会(citizen assembly)などとして知られ、実際に制度として活用されている。

 

こうした試みは、代表制の下での地方政治の決定過程に、熟議された市民の声を直接反映させる――その程度は、様々であるが――ことで、そこに欠落しがちな民主的な正統性を補い、さらに、この正統性の補充によって、政策の実行性や効率性を高めることを狙いとしている。そして、近年の研究を見る限り、こうした試みは、念入りに設計され、慎重に実行されるなら、この目的に対して効果的であると考えられる。

 

おそらく、代表制を補完する制度的工夫はまだあるだろう。また、代表制を補完しようとする試みには多くの障害が待ち受けているだろう。しかし、いずれにせよ、今回の統一地方選挙の実情を目にしてもなお、今までどおり、紋切り型の代表制民主主義の擁護をするとすれば、あまりにナイーヴすぎる。中国の軍事的台頭の中、日本の安全保障の環境が変化したから、集団的自衛権に関する憲法解釈を変更し、さらに、現行の日本国憲法を改正しなければならないというのなら、代表制のあり方の改革も検討したらどうであろうか。この代表制が民主主義の制度として整備された、19世紀から20世紀にかけての比較的同質性の高い社会環境と、現代の再帰的で多元的な社会環境とはあまりに異なっているのだから。ただ、その場合、民主主義を深めるという目的から離れてはならないことは、言うまでもない。そうだ、先日のアメリカ議会での演説で安倍首相の述べたではないか、民主主義こそ、世界の希望の同盟たる日米が共有する価値だと。まあ、彼がどれほど真剣に民主主義について考えているかは知らないけれど。

テロ、例外状況、民主主義――イスラム国による日本人人質事件が提起する、民主主義における暴力の問題――

最悪の結果

いわゆるイスラム国(ISISあるいはISIL)による、日本人二名の人質事件は、日本社会に大きな衝撃をもたらしている。報道によれば、そのうちの一人はすでに殺害され、もう一人のジャーナリストも、昨日、その命をテロリストの手によって奪わることになった。

 

この事件をめぐっては、当初から人質の無事の解放を最優先にすべきという声が上がる一方、「テロリストとはいかなる取引もしない」、なぜなら「取引をすることはテロリズムに屈することになるからだ」という言葉が様々なメディアをとおして流されてきた。人質は救出されるべきだと考えていた人は、この言葉を耳にしたときこんな素朴な疑問を感じたはずだ。いかなる取引もすることなく、どうやって人質を解放することができるのか、と。そして、こう考えたに違いない。これは建前の発言であり、その裏で人命第一を掲げる日本政府はあらゆる策を講じて人質の解放の努力をしているのだ、と。しかし、現実には二人の日本人が殺害された。二人の死は政府があらゆる策を講じた上で取引に失敗した結果なのか、それとも発言通りに一切の取引をしなかった結果なのか。実は、人命第一という発言こそ、建前であったのか。今回の事件に対する日本政府の対応を検討するには、これらの点が明らかにされねばならない。

 

しかし、そうした検討の前に、前のめりになりつつある政府に対して向けられる批判的な言説を封じ込めよとする機運が社会に広がりつつある今だからこそ、掘り下げて考えてみるべきことがある。それは、上述の発言の「テロに屈する(あるいは屈しない)」がどういうことか、ということだ。この発言を掘り下げてみることで、民主的な社会にとってテロがもたらす脅威や危険とはいったいどのようなものなのか、テロとの戦いに直面した私たちの社会の行き先に立ちはだかる困難がいかなるものであるのかを見定めることができるはずだ。

 

テロリズム、暴力と民主主義

イスラム国による今回の二人の日本人の殺害を受けて、政府は声明を発表し、テロには屈しないという姿勢を改めて強調した。この「テロには屈しない」ということを検討するには、テロリズムという形で現れる暴力(とその恐怖)による政治と民主主義との関係に目を向ける必要がある。

 

テロリズムは、単純にいえば、暴力の行使とそれが伴う恐怖を利用することで何らかの政治的目的の達成を目指す活動や運動を意味する。これゆえ、「テロに屈しない」と発言することは、そうした暴力や暴力による脅迫に屈しないという態度を表明することである。この態度表明には、いうまでもなく、民主社会の自己理解が存在する。言い換えれば、この発言は、私たちの社会は民主主義を標榜する社会である、ということを表明することに他ならない。すなわち、私たちの社会は議論と多数決によって法律を作り、その法律によって治められた民主的な社会であるからこそ、暴力の行使や暴力による脅迫に屈することは許されないし、かりに屈することがあるとすれば、それは自分たちの社会の根本原理を放棄することになるのだ、ということを意味しているのである。ここから、私たちの社会がテロに屈してはならない理由を説明することができる。

 

このように考えるなら、「テロには屈しない」という発言には、民主主義とテロリズムはまったく相容れない異なる政治についての原理であり、テロリズムは民主的な社会をその外部――これは領域的な区分を意味するだけの外部ではない――から攻撃する敵なのだ、という認識が存在することが分かる。

 

民主主義の起源にある暴力と民主的な法によるその封じ込め

民主主義を外部から襲うテロリズム、民主主義的な価値に絶対的に対立する、民主主義とは無縁の暴力。このような民主主義と暴力との関係の理解は、今では当たり前のように見える。しかし、近代の民主主義の歴史を振り返るなら、必ずしもそうとはいえない。

 

そもそも、近代の民主的な社会の多くは、革命によって生まれた。そして、革命とは、多くの場合、暴力を用いた被支配階級による支配者階級の打破であり、端的に、内戦である。フランスの18世紀末から19世紀における民主化の過程は、その典型であり、それは血で血を洗う暴力とテロルの歴史である。要するに、民主主義の起源には暴力があったわけだ。

 

しかし、もちろん、近代の民主的な政治はその成熟の中で、自由主義と結びきつつ、政治的な闘争をむき出しの暴力によってではなく、選挙で選ばれた代表者の議論と多数決によって制定された法をとおして解決することを目指してきた。言い換えれば、近代の社会は民主主義というルールの確立をとおして、その社会を打ち立てた暴力による秩序の維持も、あるいはその破壊も共に不可能な社会の形成を目指してきたのである。こうして近代の民主的な社会は、その起源にある暴力や革命をその内部に封じ込め、政治的な闘争の手段とならないようにすることで発展してきたのである。

 

民主主義の内部に暴力が存在するのなら、民主主義と暴力の関係について考える際に大切なことは、今回のような誘拐や爆弾テロなどを念頭に置いて、民主主義とは無縁の暴力が外部から民主的な社会を脅威に晒そうとしている、というような理解にとどまっていてはならない、ということだ。というのも、そのような理解にとどまるなら、イスラム国をはじめとするイスラム過激派の存在によって、現在の民主的な社会が直面させられている脅威を正しく見定めることが難しくなるからだ。では、民主主義は内部に暴力を封印しているという理解から見定めることのできる脅威とは、何なのか。それは、イスラム国などによる外部からのテロリズムが、民主的な社会の内部に封じ込められた暴力を解放することによって生じる脅威である。

 

例外状況と民主社会における暴力の解放

先に指摘したとおり、民主主義は、民主的な手続きにもとづいた法によって社会の秩序を統治してきたが、そうすることでその内部の暴力を封じ込めることに曲がりなりにも成功したのであった。とするなら、民主的な社会においてその暴力が解放されるのは、法の通常の機能が停止され、法以外の何かによって社会の秩序が統治されるような状況においてである。

 

このような状況をカール・シュミットに倣い「例外状況」としよう。この例外状況は、法が想定しておらず、したがって法によっては適切に対処できないような非常事態に社会が直面するとき生まれる。それは、法による封印を解かれた暴力が社会の秩序を脅かすような状況だといえる。このとき、法が秩序の統治において後退する中で、法による縛りから自由になった国家(より正確には、行政府)が何をなすべきかを決定し行動することになる。

 

だとしたら、国家は、法以外の何によって例外状況下における秩序を統治するのか。その答えは単純だ。超法規的な措置を含むあらゆる手段によってである。要するに、民主的な社会が例外状況に陥ったとき、法の封印を解かれた暴力によって脅威に晒された秩序を維持するのは、法に規制されない国家の暴力――法に規制されない剝き出しの権力という意味での暴力――なのだ。

 

しかし、たとえそうだとしても、そんなことはワイマール期のドイツがしばしば引き合いに出されるように、過去の話ではないのか。現代の民主的な社会が例外状況、すなわち、通常の法の機能が停止され、国家による超法規的な決断と行動が許されるような状況に陥ることなどあるのか。

 

確かに、シュミットが論じたような独裁がそのまま現代の民主的な社会において敷かれるとは考えにくい。しかし、たとえば、ジョルジョ・アガンベンの議論を参照するなら、その徴候はもちろんあるといえる。それは、対テロ戦争の先陣を切ったブッシュ政権下のアメリカに見えることができる――その典型的な例として挙げられるのが、グアンタナモ収容所だ――。しかも、対テロ戦争は、対国家ではなく国内外のテロリスト集団との「いつでもどこでも」起こりうる戦争であるため、終わりのない永遠と続く日常化された戦争と考えられる。ここから、テロリストの攻撃やそれに対する対テロ戦争は、日常化された例外状況を作り出したといえる。

 

実はここに、見逃されがちなテロリズムがもたらす民主社会への脅威がある。それは、いうまでもなく、目前の状態を例外状況と認定し、法による拘束から解放された剝き出しの統治権力を行使する国家=政府の出現の可能性であり、危険性なのである。しかも、例外状況が日常化し、常態化している以上、その国家=政府が例外状況を先取りしつつ、予防的に決断し行動する可能性が出てくるのである。

 

日常化した例外状況と今後の日本の社会

テロリズムは、民主的な社会を例外状況に置くことを可能にし、部分的であろうが全面的であろうが民主的な法の機能を停止させることで、抑え込まれてきた暴力を解放する。そのとき、政府は、社会の秩序を回復するべく、超法規の統治権力を行使することになる。さらに、いわゆる現代のテロとの戦争は、このような例外状況を日常化する危険がある。

 

このような理解に立つとき、今回の人質事件後の日本社会の行き先をどう見通すことができるだろうか。もちろん、今回の事件をとおして、日本がテロとの戦争の当事者になったことを否認できなくなったとはいえ、直接テロの攻撃を受けたわけではない。しかも、現行の日本憲法下には、政府が例外状況と判断した上で、憲法の一部を停止し超法規手措置をとる「国家緊急権」はないとされている。だから、法によらずに、執行権を政府が行使することは、まず考えられない。しかし、テロリズムが日常化した例外状況を作り出す以上、政府はそうした状況を先取りしつつ予防的に決断し行動する可能性が出てくるだろう。そして、例外状況下の最大の特徴であるが、行政府の権力が例外的に拡大されたり、立法府や司法府の権力に対して不均衡な形で優越したりする傾向が生じる可能性も、それに合わせて出てくるかもしれないのである。

 

もちろん、日本政府には、日本政府自ら主張するように、国内外の日本人の生命をテロから守る義務がある。この点は繰り返し強調されるべきだ。しかし、そうだからこそ、日本政府がその義務の遂行において、どのような決断し行動をするのかを批判的に見守っていく必要がある。なぜなら、例外状況の議論が教えてくれるように、政府にはそのような義務があるからこそ、可能な限りのあらゆる手段、現行の法を超えるような手段でさえ取ろうとする――現行の憲法や法律の改正をとおして――傾向があるからである。

 

こうして、テロリズムの脅威は、政府にその義務の確実な遂行を要求しつつ、その遂行に際して行き過ぎが無いよう厳しく監視するという難しい役回りを私たちに押し付けることになったといえるであろう。とはいえ、この役回りは、私たちの社会の自由・平等といった民主的な価値を死守しようとした結果、民主的社会そのものを破壊してしまったというような事態を避けるためにも、どうしても必要な役回りなのだ。