民主主義とその周辺

研究者による民主主義についてのエッセー

「パナマ文書」、そして新自由主義という夢の果て――参議院選挙に向けて考えておきたい、いくつかの事柄――

地震と緊急事態条項

熊本・大分を震源とする大規模な地震は深い爪痕を残したまま、未だ予断を許さない状態が続いている。被災者やその関係者のみならず、今回の震災がもたらした苦しみの光景を様々なメディアをとおして目撃した人びとの中には、そうした苦境にある被災者への共感によって、自分にできる支援を検討し、すでに行動に移している人も少なくないはずだ。その一方で、この地震に関連して緊急事態条項の新設のための憲法改正の話題が最初の地震の翌日にはすでに、菅官房長官の会見における記者との質疑応答で取り沙汰されたということだ。これを聞くにつけ、来る7月の選挙に向けて政治は着実に動いていることを否応なく再認識させられる。そこで、この政治日程に鑑みつつ、今後の政治争点を考える際の視点について、数回にわたり検討しようと思う。今回は、世界を激震させたとして日本でも報道されている「パナマ文書」を手かがりする。そこから、新自由主義の功罪は、それが民主主義に与える影響から検討されねばならないことを指摘する。

 

「パナマ文書」の何が問題か

「パナマ文書」が暴露した、政治家や富裕層の課税逃れや資金洗浄の疑惑は少々スキャンダラスだとはいえ、日常茶飯事の見慣れた光景に過ぎないようにも思える。しかし、すでに、こうした現実が格差の拡大を助長しているとか、納税に対する不公平感を生んだりするといった批判が数多く指摘されている。これらの指摘はそのとおりなのだが、ことの深刻さを理解するにはもう少し説明を重ねる必要があるように思われる。というのも、この出来事に民主主義を支えてきた制度が形骸化されていくやり方を見てとるができるからだ。確かに、ヨーロッパでの一連のテロ事件や難民問題を取り上げるなら、それらがヨーロッパに深く根付いているとされる民主主義を大きく動揺させつつあるということなど誰にでもわかる。しかし、「パナマ文書」が暴露した現実も、民主主義の理念――それをここではとりあえず、平等な者たちからなる自由で多元的な社会の実現としておこう――を支える制度上の基盤を確実に掘り崩しつつあるといえるのだ。ここに、この問題の深刻さの本質がある。

 

「パナマ文書」に関連して、こんな擁護を耳にした人もいるだろう。課税逃れがその目的であったとしても、企業やそれを経営する個人あるいは公的組織が最大限、自己の利益を追求すること自体、当然のことであるから、違法行為でなければ、何ら問題はないという擁護だ。新自由主義の論理からすれば、確かにそうかもしれない。しかし、「パナマ文書」によって暴露された問題の核心が現在の民主主義の形骸化と無関係でないとすれば、はたしてそんな擁護は通用するのだろうか。

 

近代の民主主義は国家の枠組みの下、表現の自由、団体・結社の自由をはじめとする諸権利の保障、公正な選挙や三権分立法治主義の制度化などをとおして、その理念の具体化に取り組んできた。しかし、それだけではない。民主的な社会の実現には、機会の平等といった形式的な平等とあわせて、社会生活でのある程度の実質的な平等が不可欠であるという、19世紀以来積み重ねられてきたコンセンサスが存在する。それにもとづいて、実質的な平等のための制度、すなわち、富を再配分するための広い意味での社会保障制度が国家の枠組みの下で整備されてきた。貧困ゆえに教育や医療を十分受けられず、日々の食費もままならない人にとって、機会の平等を効果的に活用すること、さらには、政治に参加し主権者としての権限を行使することが非常に難しいことなど誰の目にも明らかであろう。日本の場合、社会保障制度が社会保険料と税金によって賄われていることは指摘するまでもない。そうだとすれば、重要なことは、社会保障制度が機能し、ある程度の実質的平等が保障されることによって民主的な社会が維持されるには、国家による確実な税の徴収が不可欠である、ということだ。つまり、「パナマ文書」が示しているのは、民主的な社会を維持するための国家の基本的な役割を妨げるグローバルな仕組み、しかも、国家が厳密に取り締まることがきわめて困難な仕組みが存在しており、これゆえ、国家はその役割を十分に果たすことが難しくなっている、ということではないだろうか。

 

新自由主義と苦境に立つ民主主義

しかし、事態はより複雑である。たんに民主的な社会を維持するために不可欠な国家の任務を妨害するグローバルな仕組みが存在するだけではない。たとえば、日本のように、経済における低成長と社会の超高齢化によって財政が悪化し続ける中、国家は民主的な社会の維持に不可欠な平等を保障する責務や役割から自らを可能な限り解除しよう(せざるを得ない)とする傾向にある。さらに、こうした傾向を許容することになる実質的な平等への無関心やその貶価――それが「競争」や「自己責任」という言葉で正当化されてきたことは周知のとおりだ――が社会の内部で蔓延している。こうした状況では、民主主義のための制度上の基盤の浸食が放置されることで、社会生活の中のある程度の平等の破壊が促される。そして、その結果、民主主義は苦境に置かれることになる。この20年来、民主主義のこうした苦境の背景はしばしば新自由主義との関連から説明されてきた。「パナマ文書」が暴露した現実、それに無関心な世論、はたまた企業や個人の経済活動の自由を根拠にした課税逃れの擁護などに鑑みると、私たちの社会は未だ新自由主義の夢を見る微睡の中にいるのかもしれない。

 

もちろん、課税逃れもタックスヘイヴンも今に始まったことではない。いわば、歴史的に反復される出来事だ。だから、「パナマ文書」が示唆する民主主義の有名無実化を掘り下げて把握するには、それを現代に固有の文脈の中で検討する必要がある。その文脈が新自由主義なのである。

 

新自由主義が何を意味するのかについては、未だに論争を呼び起こす厄介な問題だ。一般に、それは、福祉国家の解体と小さな政府による統治として論じられるが、具体的には、産業とキャピタルフローの規制を緩和することで市場経済を活性化させようとする一方で、課税における累進性を緩和し社会保障費を削減する――これによって、政治による富の再配分機能はかなり弱められることになる――と同時に、公共機関の民営化とアウトソーシングによって公共財を提供するといった形をとって現われる。

 

この新自由主義の問題は、論者によって様々な視点から説明することが可能であろう。しかし、政治思想の観点からすれば、その最大の問題は民主主義の理念の実現に不可欠な諸制度を無効化してしまう点にあるといえよう。別の言い方をすれば、政治の領域の内部で、それに固有な論理と言語によって発展し維持されてきた自由やそのための平等を市場のモデルに従って経済化し、自由を競争に、そして平等を格差に置き換える。フーコーの指摘によれば、新自由主義は、伝統的な自由主義がそうであったように、国家が体現する政治の領域からの経済の領域の自立や政治の介入からの経済活動の放任を求めるのではない。それは政治を含めた社会のあらゆる領域に市場のモデルを適用することで経済化しコントロールすることを目指している。

 

こうして、政治の領域で育まれてきた民主主義の理念、その理念の実現のために設けられた制度は、形骸化され変質してしまうことになる。新自由主義は、人間の多様な生のあり方を経済化する。ウェンディ・ブラウンの言葉を用いれば、その多様なあり方の主要な1つであったホモ・ポリティコスとしての人間のあり方――平等な他者と協働して自分たちを統治する民主主義の主体――は、新自由主義的に定義されたホモ・オイコノミコスとしての人間のあり方――自己責任の下での自己資本の最大化とリスクヘッジにひたすら勤しむ主体――によって駆逐されつつある。福祉国家の行き詰まりの打開策として期待された新自由主義は、民主主義を形骸化させるというまさにこの点において、私たちの(社会の)脅威となっているといえよう。

 

来るべき選挙に向けて忘れてはならないこと

「パナマ文書」で暴露された現実、それを擁護する言説、この現実を変えるための有効な手立ての欠如、これらは新自由主義という文脈で捉えられる必要がある。そのとき、いつの時代でも見受けられた課税逃れの現代的な意味が見えてくる。もちろん、それが民主主義の苦境だ。

 

しかし、それは、何も、「パナマ文書」に限ったことではない。ここしばらくの国内政治に目をやるなら、民主主義を苦境に立たせる出来事はいくつもある。育児や教育、介護などは近年、市場をモデルとする政策によって運営されてきた。しかし、これらはある程度の平等の下で、人びとに提供されるべきものだ。それは民主的な社会が自らを維持するために要請されるところのものなのである。

 

参議院選挙まであと3ヶ月ほどである。消費税の引き上げから安全保障関連法や憲法改正、TPPやアベノミクスまで選挙の争点は多々あるだろう。しかし、どのような争点を重視して投票するにしても、苦境にある民主主義をどうするか、このことがあらゆる争点の裏側で賭けられていることを忘れてはならない。

 

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民主主義がテロに屈しないためにこそ、寛容が必要である――11月14日のパリにおけるテロ事件の衝撃について――

11月14日、イスラム過激派組織によるパリでのテロは、文字どおり世界を震撼させることになった。もちろん、その衝撃はその犠牲者の数やパリを標的にした周到な計画に起因するだろうが、それだけではない。このテロが起こるべくして起きた事件であったこと、おそらく、同じ様なテロが今後も、フランスのみならず他の西側先進諸国において発生するだろうということ。ようするに、私たちはテロが日常の一部になりつつある社会に生きているという、目を背けたくなる現実に否応なしに向き合わざるをえなくなったこと。ここに今回のテロの衝撃の一因があるように思われる。だから、「いったい、私たちの社会はどうなってしまうのか」、パリから遠く離れた場所でこの事件を見たり聞いたり人であっても少なからず、こんな不安を感じたはずだ。

 

この場合、「私たちの社会」という言葉が意味しているのは、端的にいえば、民主的な社会だろう。それは、個人の自由と平等を保障し、多様な価値観やライフスタイルの共存を許容することを社会の根本原則として自認するだけでなく、程度の差はあれ、それらを実際に実現しようとしてきた社会である。そうだとすれば、この不安は、テロリストの暴力に晒された民主的な社会が治安の強化の必要性から、その社会の大切な原則を手放してしまうのではないかという直観に由来すると解釈しても見当違いではあるまい。

 

こうした不安を嘲笑する人もいるだろう。パリで今回起きたような虐殺など、イラクやシリアでは日常茶飯事なのであり、何をそこまで騒ぎ立てたり、不安を感じたりする必要があるのか。これが大部分の世界の現実なのだ、いやそもそも、こうした現実の種を蒔いたのは、19世紀以来の欧米諸国の中東政策ではないか、と。確かに、そうした言い分もあるだろう。しかし、ここではこの不安にフォーカスしよう。それが、民主主義と暴力の抜き差しならぬ関係について再考する機会を与えてくれるように思えるからだ。

 

暴力と民主主義

民主主義とテロリズムとの関係については以前のコラムで論じた(http://fujiitatsuo.hatenablog.com/entry/2015/02/02/213122)。そこでは、民主的な社会は革命や戦争のような暴力から始まったこと、民主的な社会はその始まりの暴力を民主的な立法手続きと法の支配によって内部に封じ込めてきたこと、そしてテロリズムのような物理的な暴力は民主的な社会に封じ込められた暴力を解放する危険があることを指摘した。

 

現代の民主的な社会におけるテロリズムの問題を考える上で重要な点は、テロリズムがこの封じ込められた暴力を解放することで、民主的な社会を自己崩壊させてしまう可能性があるということである。まさにそこに民主主義が暴力に対してきわめて脆弱であるといわれるわけがある。

 

暴力が民主的な社会をいわば自殺に追い込むということを理解するには、民主的な社会と例外状況との関係を考えてみる必要がある。政治理論の常識的な理解では、たとえば、民主主義の基本的な価値である自由――これを広い意味での人権と理解してもよい――は、民主的な諸制度の下で制定された法の支配によって実現され維持される。それは、この民主的な法の支配が秩序を実際に統治する国家の目的や手段を規定することで国家権力をコントロールし、その行使が伴う暴力を制約することで可能となる。そうした制約が解除される例外状況だ。この例外状況は、法の通常の機能が停止され、民主的な規制から解き放たれた国家権力が出現する状況を意味する。それは、法が想定しておらず、したがって法によっては適切に対処できないような非常事態に社会が直面する際に生まれる。このとき、法が秩序の支配から後退する中で、法による縛りから自由になった国家が治安のために何をなすべきかを決定し行動する。ここから、例外状況では国家という「怪物」が行使する超法規的な力によって、民主的な諸価値や諸制度が制限されたり、否定されたりすることが起きうる。この場合、平等な者たちからなる自由な社会、すなわち、民主的な社会はその崩壊の可能性に直面することになる。

 

テロリズムは例外状況を作り出そうとする。その目的は民主的な社会を自壊に追い込むことだといえるだろう。すなわち、テロに見舞われた民主的な社会が自ら例外状況を宣告することで民主的な価値や制度を守る法を停止し、平等な者たちからなる自由な社会であることを放棄すること。これがテロリズムの狙いの一つと考えられるわけだ。少なくとも、現代ヨーロッパの民主的社会における文化的あるいは歴史的な自己理解からすれば、そういえるはずだ。

                      

安全と民主主義

今回のテロ事件を受けて、オランド大統領はISとの戦争状態にあるとして即座に非常事態宣言を発令し、さらに、治安維持の強化のための憲法改正も視野に入れていると報道されている。また、空爆などによるISへのフランスの軍事行動も強化され始めた。こうした一連の動向は、先の議論からすれば、自由やそれを守る制度を制約することになるのだから、テロリズムの謀略に嵌められたことになるようにも見える。テロリストからすれば、戦線をシリアやイラクからヨーロッパの心臓部へ拡大することに成功したし、さらに、それによって、アガンベンらが指摘するような、民主的な社会における例外状況の日常化――これが民主主義の自壊が起こりうる環境だ――にも成功したともいえる。とすれば、世界史において燦然たる歴史を誇るフランスの民主主義はすでに、ISによるテロリズムに屈してしまったのだろうか。

 

おそらく、そうとはいえないだろう。フランス政府の一連の行動は、社会の安全を守るための措置だと考えられる。民主的な社会の可能性そのものが、その社会の安全に依拠していることは事実だ。だとすれば、民主的な社会はたとえ自壊の可能性を伴ったとしても、その社会を実際に破壊しようとする明確的で具体的な敵対者(テロリスト)を力ずくで排除することで、自らを守らねばらない。これは確かに矛盾に満ちた事態だ。しかし、そこに民主的な社会と暴力との抜き差しならぬ関係を見て取ることができる。すなわち、民主的な社会は国家権力の暴力によって、自壊の危険を冒しつつも、社会の敵対者からその安全を確保せねばならない場合があるのだ。翻っていえば、例外状況での安全の確保という必要の下で、民主的な社会の原則は簡単に形骸化されてしまうことだってありうるということだ。

 

ここから、フランスの民主主義が敗北したかどうかは、非常事態を宣言したり、治安維持の強化をはかったりしたかどうかでは判断できないことがわかる。その勝敗は、眼前のテロリストの暴力を排除し治安上の安全を確保した上で速やかに例外状況から脱することができるかどうか、換言するなら、法が通常に機能することで人権が保障された民主的な秩序を復元できるかどうかにかかってくるといえる。

 

それでも寛容が必要なわけ

テロリズムとの戦いが厄介なのは、それが例外状況を日常化し永続化させる点にある。だから、例外状況からの民主的な社会の復帰がそう簡単ではないこともまた確かだ。しかし、どれほど困難があろうと、例外状況から復帰を果たそうとするなら、そのための出発点となるのは寛容だろう。この期に及んで寛容とは何事かという人もいるかもしれない。とはいえ、寛容は傷つけられた民主的な社会がその健康を回復するために必要なのだ。具体的には、今回のテロによってこれまで以上に排斥され迫害されるかもしれない、フランス社会に暮らすムスリムへの寛容である。

 

多くの指摘があるように、今回の事件に限らず、ヨーロッパのムスリムの若者たちがテロリズムに手を染める一つの要因が、社会からの経済的あるいは社会的な排除や疎外にあるとするなら、民主的な社会の課題は、そうした若者たちを社会に包摂していくことである。この課題への取り組みが失敗し続けるようであるなら、その社会はテロリズムの脅威に繰り返し晒されることで、恒常的な例外状況に置かれるようになると思われる。しかし、イスラムの過激派によるテロによって傷つけられた現在のフランス社会では、この包摂を進めて行くことはこれまで以上に難しくなるだろう。この状況を乗り越えるために求められるのが寛容なのだ。ここに、寛容が必要だという現実的な理由がある。

 

さらに、この寛容は、自由・平等・友愛という共和国フランスの精神が現代社会に命じるものでもある。現代の社会は、民族や宗教、セクシャリティ、価値観やライフスタイルなどにおいて多元化した社会である。つまり、そのような社会は多様なマイノリティからなる社会であり、そこに暮らす私たち一人ひとりもマイノリティなのだ。この多元性の事実に鑑みたとき、民主的な価値としての自由は、特異であること――他と異なってあること――の自由として再解釈する必要がある。だとすれば、平等は、特異であることへの承認と尊重というアイデンティティの平等を意味するはずだ。そして、このように理解された平等の下で、異なる者たちの間に相互性を作り出し、社会の凝縮力を創出するのが友愛だといえるだろう。ここで重要なことは、友愛という民主的な価値は寛容という徳によって支えられなければならないということだ。だから、テロリストの攻撃に晒されたフランス社会がその傷を癒し、民主的な社会として自由・平等・友愛という民主主義の価値を高らかに掲げるには、この寛容から出発する必要があるといえるのだ。

 

テロリズムが人びとに恐怖と復讐心を掻き立てる中、治安への関心が高まるのは当然だ。しかし、それと共に寛容が社会から消え去ってしまうなら、民主主義がテロリズムに打ち勝つことは甚だ困難になるように思われる。

安全保障関連法が成立した夜に、日本の民主主義に起こったこと――冷たい怪物が再び蘇った日――

集団的自衛権の行使を可能にする安全保障関連法が9月19日の未明に成立してから、もう一週間が過ぎようとしている。それを受けて胸をなでおろしている人もいれば、憤り落胆している人もいるだろう。あるいは、たかだか一つの法律にいったい何を大騒ぎしていたのか分からないまま、この出来事を忘れつつある人もいるだろう。いずれにせよ、すでに法案が国会に上程された時点で予想されたこの事態が現実となった今だからこそ、それを冷静に直視し、その意味について考えてみることが必要だろう。そこで、ここでは、安全保障関連法の制定過程において明らかとなった、日本の民主主義の変質について検討したい。この変質とは、その日以来、日本の民主主義が民主主義という装いの下でその内実を骨抜きにされてしまったこと、ようするに、民主主義が倒錯してしまったことを表している。もちろん、それは、日本の社会の不吉な未来を予感させる。というのも、この倒錯した民主主義から、あらゆる冷たい怪物の中でもっとも冷たい怪物が頭をもたげつつあるからだ。国家というこの怪物は、グローバル化と民主主義の勝利によって息の根を止められたとさんざん吹聴さてきたはずだ。しかし、それが再び蘇りつつあるのだ。

 

今回の一連の騒動で見えてくるのは、現代の国家が軛から逃れ、その恐るべき力を露骨に解放しつつあるということではないだろうか。もちろん、こうした事態は、歴史を見れば、別に珍しいことではない。たとえば、20世紀の全体主義国家がそうだ。しかし、重要なことは、国家が明確な意思をもってその軛を捨て去り、赤裸々な姿で現れる舞台は時代によって異なる、ということだ。現代のその舞台が、倒錯した民主主義なのだ。とはいえ、こんな指摘をすると、国家を重要視しすぎであり、国家の過大評価だというフーコーの言葉が脳裏をかすめる。それを重々承知の上で、あえてナイーヴに、冷たい怪物に言及したくなるのが9月19日以降の日本の民主主義の実情であるように思われる。

 

安全保障関連法をめぐる問題の核心

民主主義の理論から見た場合、今回の安全保障関連法をめぐる問題の核心はどこにあったのか。以前のコラムですでに詳細に論じたが、ここで簡単に問題の核心の所在について確認しておこう。

 

政府を中心したこの法律の推進者たちは、集団的自衛権の行使を認める法律が国家の存続のために必要だという立場に立っていた。ここから、日本を取り巻く安全保障環境の変化を指摘しながら、様々な理由を挙げてこの必要性を正当化しようとしてきた。今回成立した法律は、この必要性を根拠にして、それまで認められていなかった権限を政府に付与することになった。

 

他方、この法律に対して反対してきた人びと、その中でも特に、法律の研究者や実務家たちは、国家が必要性を口実に行使しようとする権力は、無際限ではあってはならず、それに対して何らかの形で制約が課せられねばならないという立場にあった。国家権力に制約が現在求められるのは、その自立化やその暴走を防ぐためであり、これによって、市民社会の民主的な秩序を保持し、人びとの自由や権利を守るためである。今回のケースでいえば、そうした立場に立つ専門家たちが問題視したのは、次のようなことだ。政府は必要性の名の下で集団的自衛権の行使を可能にする法律を制定し、その法律によってこれまで許されていなかった権限を手に入れようとしている。しかし、そのような政府の権力行使およびその行使を可能にする法律の制定は現代の立憲主義的な民主主義が求める制約の下にあるのかどうか、ということである。ここに、安全保障関連法をめぐる問題の核心が存在する。政府の主な任務は、国内外の秩序の統治にあるのだから、その権力を統治権力と呼ぶことにするが、ようするに、統治権力の統制というきわめて古典的な問題が、安全保障関連法をめぐる問題の核心だったわけだ。

 

統治権力に制約を課す民主主義

教科書風に単純化していえば、自由主義の諸理念を取り入れた近代以降の民主主義――一般に、立憲主義的民主主義と呼ばれる――は、自己統治という政治のあり方の下で、個人の諸権利の保護と自由の発展が保証された多元的な社会の実現を目指してきた。その際、この民主主義は、理論的にも、そして歴史の事実としても、自由や平等、多元性といった民主的な諸価値を蹂躙する可能性のある国家権力、特に政府の行使する統治権力に制約を課そうとする。すなわち、統治に必要だという理由であらゆる手段を用いようとする権力、必要性の名の下で民主的な諸価値を蔑にするかもしれない権力を民主的な手続きや制度の下で統制しようとする努力である。この努力は、民主的な国家を維持するための大前提となるものである。たとえば、そのもっとも一般的な例が、自由で平等な選挙による統制である。議院内閣制をとる日本の場合、統治を行う内閣の過半数以上が選挙によって選出された国民の代表でなければならない。また、理論的には、政府の権力行使は、法律にもとづかねばならないが、その法律は、定められた手続きに従い国民の代表者から構成される議会によって作られる。

 

しかし、これら以外にも民主主義には統治権力を制限するための様々なやり方がある。今回の法律に関していえば、政府は、安全保障環境の変化の中、国家の存続の必要性を究極の根拠に集団的自衛権の行使を容認する法案を国会に提出し、定められた手続きに従い法律として成立させた。これによって、政府は集団的自衛権の行使という新たな権限を得たのである。とすれば、確かに、この法律、それを成立させた政府の意思と行動は、申し分なく民主的な統制の下にあったように見える。しかし、この点に関して、この法律に対する反対者たちは、異議を唱える。その反対者たちによれば、集団的自衛権の行使を容認した今回の法制化の過程では、統治権力を民主的な統制下に置くための根本的な約束が反故にされた。その約束が立憲主義である。ようするに、今回の法律は、この根本的な約束を破ったがゆえに、統治権力に課せられた制約を取っ払い、その自立化を促す可能性があるのである。

 

立憲主義について、もはや説明は不要であろう。憲法が課した制約を超えて統治権力の行使を可能にする立法、すなわち、憲法に反した法律の制定は、立憲主義に踏みにじるものである。今回の安全保障関連法が法理からして違憲であることは、専門家たちの共通理解であり、したがって、この立憲主義を否定するものであることは明白である。もちろん、違憲かどうかを判断するのは司法府の役割であり、そうした専門家ではない、という意見がある。しかし、裁判所が法律の専門家たちと異なる見解を打ち出すとすれば、それは、法理上の判断ではなく政治的判断を行った場合に限られることを強調しておこう。もしこのようなことがあるとすれば、それは司法府が、統治権力に制約を課す役割を放棄すること、すなわち、その自立化を容認することを意味する。これは民主主義にとって好ましい事態とはいい難い。

 

倒錯した民主主義の時代

政府の行使する権力、すなわち、統治権力の自立化が民主主義にとって脅威であることは、近代民主主義を理論的に基礎づけたルソーの『社会契約論』ですでに指摘されている。また、近代の民主主義の実際の歴史を回顧しても、統治権力にどう制約を課し統制するのかという問題は、民主国家において切実な課題であった。今回の法律の制定によって、立憲主義的制約が放棄され、統治権力の自立化の道が切り開かれたとするなら、この事態によって現在の日本の民主主義は新たな状況を迎えつつあるといえるかもしれない。それは、民主主義の装いの下で、民主主義の理念が形骸化され無効化されていくような、歪で倒錯した民主主義の時代の到来である。

 

歴史的に見れば、統治権力がその自立化をとおして民主主義を破壊したもっとも有名なケースが、20世紀にドイツのナチズムやイタリアのファシズムとして展開された政治運動であろう。周知のとおり、それは当時の代表制民主主義の下での選挙をとおして、政治権力を掌握することになるが、全体主義と呼ばれるその後の思想と行動を見るなら、それらは明確な反民主主義、より正確には、自由主義的(議会主義的)な民主主義を否定するイデオロギーに依拠していた――だからといって、シュミットの民主主義論を忘れているわけではないが――。すなわち、全体主義という政治運動は、公にされた反民主主義的なヴィジョンの下に、統治権力が政党を解散させ、言論や思想の自由を取り締まり、様々な権利を制約することで民主主義を破壊したケースだといえるだろう。これに対して、現在の倒錯した民主主義では、表向きはけっして民主的な諸価値や民主的な立法手続きが否定されることはない。むしろ、自由で平等な選挙やその下での政党間の競争、マスメディアの報道の自由言論の自由は基本的に保障されている。しかし、そうであるにもかかわらず、統治権力の自立化を防ぐための諸制度やその前提となる約束が骨抜きにされ、その結果、民主的な諸価値が有名無実化される危険性が生じる。だから、この倒錯した民主主義を安易に全体主義などと呼んだりすることは正確ではないし、適切でもない。なぜなら、それでは、現在の私たちの社会に生じつつある事態を見過ごしてしまうことになりかねないからだ。重要なことは、それが民主主義の可能な一つのあり方だと理解することだ。その上で、この倒錯した民主主義が私たちの社会に根を下ろしつつあるのではないかと警戒することである。

 

倒錯した民主主義の典型的な事例は、ウォリンが指摘しているように――この転倒した民主主義という言葉は、彼の「倒錯した全体主義(inverted totalitarianism)」の捩りである――、9.11以後のアメリカに見出すことができる。そして、日本でも、安倍政権が安全保障関連法を成立させた過程をとおして、この倒錯した民主主義が姿を現しつつある。しかし、このタイプの民主主義が出現する背景は何か。それについては、アメリカそして日本の現在を見てみればよい。現在の統治権力は激変する国内外の情勢に対応するべく、必要性という論理と不安という心理を国民に押し付け、可能な限り自由に思考し行動すること――日本の場合、それがアメリカの要請であるかどうかは、ともかくとして――を意思しつつある。この意思を背景にして、倒錯した民主主義が出現したように思われる。いわば、統治権力は、倒錯した民主主義をとおして、したがって、選挙や政党、マスメディアなど活用することで、民主主義を標榜しつつその制約を振りほどき、自らの意思を貫徹しようとしているのである。いずれにせよ、政府は、法理上、まったく根拠を欠いた憲法解釈を持ち出すことで憲法を超えた立法を行い、自らを立憲主義的制約から解放し、これまでに許されなかった権限を手に入れた。もはや現実となったこの事態は、倒錯した民主主義の時代の到来であるように思われる。

 

これからの民主主義

倒錯した民主主義は、不健全であるだけでなく、危険であることは指摘するまでもない。また、見分けにくい分、性質も悪い。この変質が見過ごされ放置されるなら、倒錯した民主主義が定着し、常態となるだろう。その場合、私たちの社会の未来はきわめて暗い。この民主主義の変質に対して抗うには、何が必要なのか。

 

倒錯した民主主義は代表制度の土壌に繁茂する。選挙で勝ち、議会で多数派を形成できさえすれば、そこでの決定はすべて民主的な正統性を持つものとされる。これこそ民主主義だ、といわんばかりに。だから、このタイプの民主主義は、政治は政治家に任せ、静かにしていないさい、悪いようにはしないから、と人びとに語りかける。この語りかけに対して、民主的な正統性はそれだけでは不十分であると異議を唱える人たちが必要なのだ。議会での意思決定では道理に適った理由――たとえ、その決定に反対する人であっても認めざるを得ない理由――を提示せよと声を上げ、権力を縛る立憲主義の約束を守れと声を上げる人びとが必要なのだ。もちろん、この不吉な事態を覆す好機は選挙だという人もいるだろう。確かにそのとおりだ。しかし、選挙の日まで、そうした声が社会に響き渡り続けることがなければ、その好機をものにすることなどできはしまい。

いま、デモを擁護しなければならない、いくつかの理由について

この期に及んでも頻発するデモ

現在、参議院では、9月中の安全保障関連法案の成立に向けて、審議が進んでいる。衆議院ですでに可決された本法案は参議院での賛成多数で成立するので、与党議員が過半数を占める以上、採決にこぎつきさえすれば、この法案は正式に成立する。たとえ参議院で採決ができなくとも、憲法59条4項の規定にもとづき衆議院で再議決が行われるなら本法案を成立することになる。だから、安全保障関連法案の成立は、憲法に規定された立法手続きからして、もはや既定路線なのである。それも関わらず、安全保障関連法案に反対する人たちは、その意思を表明するためのデモを懲りもせず計画しているようだ。

 

その一方で、特にネット上では、安全保障関連法案に反対するデモへの批判、たとえば、学生を主体とするSEALDsのデモに対する批判――誹謗中傷やデマから、まともな批判まで――が垂れ流されている。その多くは、党派的な立場からの言説、すなわち、自公の連立政権を擁護する立場からの言説だと考えてよいであろう。もちろん、一種のネガティヴ・キャンペーンとして、デモに対する党派的な批判はよくある。しかし、たんなる党派的意図からだけでなく、選挙以外の直接的な政治行動への嫌悪感から、民主社会におけるデモの機能や重要性を否認する批判も少なからず見受けられる。このタイプの批判は、人びとが自らの政治上の意思表明や政治へのコミットメントを選挙に限定すべきだ想定している点、このため、選挙によって選出された代表者による意思決定こそ、民主主義なのだという単純化された理解へと行き着いてしまう点に問題がある。そんな理解では、政治学においてもはや定説となっている、現在の民主主義の制度が直面する行き詰まりに対処できない。すなわち、有権者の期待や要求と代表制度のパフォーマンスとの間のギャップが生み出す「民主主義の赤字」(ピッパ・ノリス)という事態を正面から受け止めることを妨げ、それを解決しようとする試みを困難にしてしまう。ここに、単純化された民主主義理解の真の問題が存在する。

 

こうした現状だから、党派的な視点からSEALDsのデモを支持するかしないかではなく、日本の民主主義の先行きという視点からデモについて考える必要があるのではないか。そして、後者の視点に立つならば、その主張や要求のいかんに関わらず、デモを擁護する必要があるように思われる。このとこは、もちろん、安全保障関連法案に反対する人たちが、その成立の阻止がほとんどの不可能な状況にあっても、デモに行く理由について考えることでもある。

 

デモへのありふれた批判

いつ時代でも、デモに対する批判は、おおよそ2つの種類に分けられる。1つが、デモは代表制民主主義を破壊するという批判。もう1つが、デモには何らの効果がないという批判だ。

 

デモが代表制民主主義を破壊するという場合、2つの事態が想定されているようだ。1つは、街頭に立つ一部の市民が、公式の決定権力、すなわち、選挙で選ばれた代表者からなる議会の法制定権やそうした代表者を中心に構成される政府の政策決定権を簒奪し、意思決定を行うという事態だ。もう1つは、街頭で表明された一部の市民の主張や要求が公式の決定権力に影響を及ぼすという事態である。前者に関して、そのような事態は革命と呼んでよい事態であり、現在の日本で行われるデモで革命が可能になるとはほとんど考えられない。したがって、問題となるのは後者の事態である。

 

現代の政治理論において、市民が投票以外で議会や政府に影響を及ぼす事態は、必ずしもネガティブに捉えられているわけではない。むしろ、選挙を基盤にした代表制度の欠陥が露呈している状況では、民主社会の健全性の証左として、ポジティヴに捉えられることが多い。ここでは2つの説明を挙げておく。1つは、現代の民主社会に固有な事態――多元性の事実――に関わる。現代の多元的な社会には多様な利害関心や価値観が存在するが、そこから出てくる要求や争点を選挙だけで集約することは不可能であり、また、それらは選挙後に変化することが大いにある。ここから、選挙以外で表出された要求に議会や政府が敏感に反応し対応することは、代表制度全般がうまく機能するには必要であると同時に、その民主的正統性にとっても望ましいということになる。実際の政治的意思決定が市民社会の多様な団体の要求の影響下でなされるという事実からすれば、デモで表明される要求だけを排除する理由はない。もう1つは、デモが選挙では代表されないような社会の少数派の主張や要求を表明する機会だという点に関わる。現代の民主主義にとって主要な課題の一つは、代表制度の多数決ルール=多数者支配(majority rule)から少数派の権利や利益を擁護するだけでなく、積極的に政治的決定に反映させていくことにある。ここから、少数派の意思表明を可能にするデモは、代表制度を基盤とする民主主義にとって必要不可欠な政治上の機会だといえる。たとえば、日本国憲法が、このような機会を表現の自由などの政治的権利として保障し、民主的な社会の礎としていることはあえて指摘するまでもない。ようするに、これらの説明から、現代の代表制民主主義では――しばしば誤解されているのとは違って――、デモのような選挙以外の政治活動が代表制度の性質ゆえに、必要になることが分かる。

 

それでは、デモには効果がないという批判はどうであろうか。確かに、先に述べたとおり、今回の安全保障関連法案に反対するデモの目的が法案成立の阻止にあるわけだから、その阻止がほぼ不可能であることが分かった時点で、デモには効果がないといってもよさそうだ。しかし、これは、デモで掲げられた主張や要求が受け入れられ、即座に法律や政策として結実するかどうかという、限定された視点から見た場合、そういえるに過ぎない。何らかの政治的行為の影響力を、限定された視点や短期的なスパンで測ることはもちろん重要だが、多角的な視点から測っていてみることもまた必要だ。そうした場合、デモには効果がないと即座に断定することの難しさが分かる。

 

民主的な社会におけるデモの機能

デモには、その効果の有無を即断することが困難な機能がいくつかある。そこで、過去、現在、未来という多角的な視点からそうしたデモの機能を整理してみよう。

 

現在との関係で見た場合、ほとんどのデモは、現在の政治状況や社会状況に対して異議を申立てる政治行為だ。デモを行う当事者からすれば、この異議申し立ての狙いは、そこで表明した自分たちの要求がメディアの関心を喚起し、新たな世論を形成し、その結果、公式の決定プロセスに影響を及ぼすことにある。それに対して、代表制度全体という客観的な視点から解釈するなら、これは、新たな社会問題の発見や政治争点の提起、あるいは、顕在化している争点への解決策の提示として理解できる。さらに、デモにおける異議申し立ては、別の客観的な機能がある。それは選挙の狭間において代表者のパフォーマンスをチェックし、監視する機能だ。選挙時に約束した政治課題への取り組みはどうか、ある一部の人びとの利益や代表者自身の利益を優先した独善的な政治を行っていないか、世論の動向や新たに提起された争点に敏感に応答しようとしているのか。それらについて代表者をチェックし、そのパフォーマンスが不十分な場合には、代表者たちに警告する機能がそれだ。代表者を監視する「番犬」として異議申し立てが機能するには、代表者たちの政治が人びとの期待や信用を裏切るような場合は必ず、デモが一定の規模で起きることが必要だ。すなわち、街頭での異議申し立てが反復されることで、制度化されざる制度となることが必要なのだ。

 

過去との関係から見たデモの機能は、その社会の民主主義の記憶や歴史を継承することにある。ほとんどの民主的な社会には、デモをはじめとする普通の市民の直接的な政治行為が、政治を動かし、民主的な社会の発展に寄与した歴史がある。それは、定期的に行われる選挙と代表者による政治とは異なる、市民社会に根差した政治文化としての民主主義の歴史である。戦後の日本からその一例を挙げるとするなら、公害に対する住民運動がある。公害に苦しむ住民たちの地道な異議申し立てが、マスコミを動かし、世論の関心を喚起し、ひいては、環境政策を進展させたことは、周知のとおりだ。デモは、その参加者が意識しているかどうかは別にして、現在の民主的な社会に対して、その礎を築いてきた市民の直接的な政治行為の記憶を蘇らせる。こうして、代表制では語り尽くせない民主主義のもう一つの歴史の持続が可能になるわけだ。

 

最後に、未来との関係から見るなら、デモには、今後の民主主義の担い手を作り出す機能もある。家庭や学校あるいは職場での日常生活を切り裂いて出現するデモは、選挙とは異なる、民主主義を直に体験する場となる。こうした体験が、いわゆる学校教育では教わることのない、政治教育の機会となるのだ。デモの参加者は、選挙以外の方法で、自らの政治的な意思を公的に表明することが可能なこと、それが必要なことを学ぶだろう。また日常生活に戻っても、その経験は、公共的な問題へコミットしようとする態度を培い、政治的なリテラシーを高めようとする動機づけとなるように思われる。街頭という民主主義の学校でその担い手としての自覚を喚起された人たちの中から、現在の代表制度の下で求められている、「番犬」が出てくると推測することは難しくないだろう。

 

デモとどう向き合うか

こうしたデモの機能は、その効果を即座に判断することが難しい。なぜなら、それらは、定期的な選挙への参加だけでは育むことのできない、民主的な社会の政治文化に関係するからだ。そして、このような政治文化の成熟こそ、現在の代表制度の下で蓄積した「民主主義の赤字」を清算していくために必要とされていると考えられるのだ。

 

それでも、デモなどくだらないと考える人もいるだろう。そう考えることは、もちろん自由だ。しかし、もしかしたら、そんな人も、今後、デモに参加せざるを得ないような状況に置かれることがあるかもしれない。これは誰にでもある可能性だ。そうだとすれば、デモで掲げられている主張や要求が気に入らないからといって、デモそのものを否定したり、冷笑したりすることは民主的な社会のメンバーとして、フェアではない。あるいは、デモで重要なのは、議会や政府に影響力を行使し、自分たちの主張や要求を即座に実現することだという人もいるだろう。確かにそのとおりだ。しかし、民主主義の歴史を見るなら、そうした期待のほとんどは裏切られてきたといってよい。この点については、現実的であるべきだ。とはいえ、現実的であるためには、民主政治における決定は、つねに暫定的であり、変更が可能だということを思い出す必要もある。これが意味しているのは、異議申し立てを、一過性のお祭り騒ぎに終わらすことなく、持続させねばならない、ということだ。これは容易なことではないだろう。そんなとき、自分が従事している行為の意味や機能を多角的に検討してみるのも、無駄ではないように思われる。

なぜ、自民党若手議員の発言を見過ごすことができないのか――極端化する時代の代表制民主主義――

自民党内で一連の動向

安全保障関連法案の今国会での成立や、米軍普天間飛行場名護市辺野古への移設問題、TPPの締結など多くの難題を抱えた安倍政権は、このところ、その身内によって足を引っ張られているようだ。もちろん、念頭にあるのは、6月25日の「文化芸術懇話会」の会合で沖縄の新聞社への過激な批判を展開した安倍首相に近い若手国会議員たち、7月26日の大分市の講演で「法的安定性」を否定する発言した首相補佐官、そして7月30日付けのツイッターの投稿において、安全保障関連法案を批判する学生グループの主張を利己主義と批判した若手国会議員――この議員は、「文化芸術懇話会」に出席していたようだ――などのケースだ。これらのケースで自民党国会議員が行った発言は、現代社会の民主的な価値観や政治文化から逸脱するものであったため、様々な方面からの批判に晒された。その結果、ツイッターのケースを除き、それらの発言の多くは撤回され、発言者は謝罪をすることになったのは、周知のとおりだ。

 

こうした発言は、内容云々の前に、軽率であるばかりか、不合理な発言だと考えられる。不合理だというのは、安全保障関連法案の法制化に対して世論が批判的な反応を示している状況下で、あのような発言をすれば、世論を刺激し、ひいては、政府与党およびその議員にとって今国会での最大の課題である本法案の成立に対する障害を生むことになるということなど子供にでもわかるはずなのに、あえてそうしたからである。

 

一連の発言の不合理さに対する合理的な説明は、こんなものがあるだろう。たとえば、党による若手議員の教育がうまく機能しておらず、このためそれらの議員の言動を党がコントロールできなくなった結果だという説明。あるいは、若手議員が政権の中枢に対して自らの存在をアピールし重用されるべく、功名心に逸った結果だという説明。確かに、これらはそれなりに今回の事態を合理的に説明しているし、まだまだほかの説明もあるだろう。しかし、ここでは、極化という現象から、彼らの発言について考えてみる。その理由は、彼ら発言の特徴の一つが、その過激さ、民主的な価値からの逸脱の極端さにあるからだが、それだけではない。この極化現象への着目によって、現代の代表制民主主義の機能不全への新たな懸念について、さらには、代表制度の主要なアクターであった国民政党の行く末をめぐる不安について考えてみたいからでもある。つまり、それは、日本共産党公明党のような少数政党とは異なり、長らく政権を担い国民政党として自ら標榜するだけでなく(もちろん共産、公明両党も国民政党を標榜してはいるが)、国民もそう認めてきた自由民主党において、このように極端な発言が頻発することの民主主義的な含意について考えるということだ。

 

極化現象とは何か

極化(polarization)、より正確には、集団極化という言葉は一般には耳慣れない言葉かもしれない。それは、似かよった傾向を持つ人びとからなる集団が、閉鎖的な状況下で議論を行うと、その集団の構成員はその傾向を議論の前よりも極端化させるという現象を意味する。たとえば、日々の生活において動物を愛し、動物愛護運動に関心のある人びとだけが集まって議論をすると、そこに参加した人びとは、かなり過激な動物愛護派になっている、というような現象を指す。この現象は多くの実証研究の対象とされてきた。

 

集団極化の現象は民主主義理論の文脈では、キャス・サンスティーンが行った熟議(民主主義)批判として人口に膾炙することになった。そこで彼が指摘するとおり、この現象は民主政治に対して2つの効果を持っている。それらは現代の民主主義の相異なる側面に関連する効果である。

 

1つは、ネガティヴな効果だ。社会における極化の程度が高まれば、当然、その社会は極端化あるいは断片化し、その結果、不安定な状態となる。現代社会は、利害関心や価値観、ライフスタイルの多元化が進んでいるが、その一方で、規範的には、この社会の多元性の事実を前提としつつも、そこから出発して、共有可能な利益や意思を交渉や調整をとおして見出し、法として実現することが民主政治に求められている。だとすると、極化による極端化や断片化という作用は、異なる価値観や利益間の対立を激化し調整や妥協を困難にするわけだから、民主政治にとってネガティヴな効果を持つことになる。いわば、社会をタコツボ化することでマジョリティ集団の形成を困難にするのだ。

 

もう1つの効果は、ポジティヴなものだ。極化は集団内の連帯を強化し、その集団固有の主張を鮮明にしかつその意見を強固なものにする。社会のマイノリティ集団の利益や価値観に配慮し意思決定に反映していくことは現代の民主政治の重要な課題である。この極化の作用は、マイノリティ集団の利益や意思を社会に対して可視化し、その集団が社会のマジョリティ集団や政治に働きかける上で手助けとなる。この点で、極化現象は、民主政治にポジティヴな効果を持つと考えることができる。いわば、マイノリティ集団の可視化と政治化を容易にするのだ。

 

極化の生じやすい現代社

極化現象は、現代社会に固有なものではない。それが、集団内での自己評価を気にし、アイデンティティを維持しようとする個人の欲求と、多様な意見の蓄積が難しい閉鎖された集団において一方的な議論が過剰に行われる状況とが重なることで生じるとすれば、どんな時代でも、どんな場所でも起きる現象だ。とはいえ、しばしば指摘されるように、極化現象が生じやすい特殊現代的な要因があるようだ。それは、SNSなどを含めたインターネットによるコミュニケーション環境である。

 

フェイスブックツイッター、ブログ、BBSなどが、上で説明したような集団極化現象を引き起こしているように思われる。確かに、ツイッターBSSにも、そこで極化しつつある集団の言説を批判する投稿や書き込みはある。しかし、それらはその集団の極化をさらに促進する材料にしかならない場合が多い。だから、そうしたコミュニケーション環境では、自分とは異なる意見に耳を傾け、必要があれば批判的な視点から自分の意見を修正することで、共通の理解の獲得を目指すような議論を期待することはほとんど不可能だというのが実情であろう。

 

大衆という社会的マジョリティの存在を想定していた新聞やテレビといったマスメディアの影響力が低下しているのに対して、インターネットによるコミュニケーション環境の影響力が増大していることが指摘されて久しい。この傾向はますます強まりつつあるように感じる人も少なくないだろう。そうだとすれば、私たちの社会では、極化現象が生じやすい状況にあるといえる。ここから、そのような社会は価値観やライフスタイルが多元化した自由な社会というよりは、極化した集団が乱立する極端な社会という様相を呈しているという見方さえできるように思われる。

 

代表者の極化による代表制度の機能不全

社会が、極化を招きやすいコミュニケーション環境の拡張をとおして極端化しつつあるとすれば、先に言及した政治家たちの言動の極端さも、そうしたコミュニケーション環境やその帰結としての極化現象から説明することが可能であろう。極端化する傾向にある社会から政治家が無縁であるはずはなく、むしろ、そうした傾向に意識的せよ無意識的にせよ、便乗する者も出てきているようだ。しかし、だからといって、政治家個人の主張の極端さだけを批判したとしても、それほど有益なことではないであろう。むしろ考えてみるべきは、かりに、新たなコミュニケーション環境の下での極化現象が民主政治における代表者(政治家や政党)の側に生じつつあるとすれば、このことが代表制民主主義そのものに及ぼす影響についてである。

 

極化現象は先に述べた条件さえ整えば、議会や同じ政党の議員たちの集まりにおいても起きる。しかし、現在の事態は、代表者たちの極化とその帰結としての主張の極端化が、インターネットという新たなコミュニケーション環境をとおして今までにない規模と形で進行しつつあるのではないかという懸念を喚起させる。この事態を代表制民主主義との関連で考えるなら、さらに深刻な懸念が出てくる。それは、代表制度がますます機能不全に陥るのではないかという懸念である。

 

現在の代表制度の機能不全の原因について、理論的な観点から次のように論じられることが多い。そうした機能不全は、代表される側である有権者の利害関心や価値観、ライフスタイルの多様化の伴い、代表する側の政治家や政党が、この多様性を集約し代表することが難しくなったことにその原因があるのだ、と。したがって、代表制度の機能不全の問題の核心は社会の多様化ないし多元化にあるとされてきたわけだ。こうした考えは、代表者(政治家あるいは政党)が、有権者の利益や意思を集約する機能を持っているという前提に立っている。代表制度を擁護する際の伝統的な論拠は、代表者のこの集約機能であり、代表者たちが社会の多様な意思や利益を集約しつつ、妥協や調整をとおして社会全体の意思や利益に鑑みた政治を行うというものだ。ところが、代表者たちの極化は、こうした機能の遂行を困難にすることになる。極化をとおして極端化した代表者たちの間で、多様な意思や利益を集約し、妥協や調整を行うことが困難なのは想像に難くない。ようするに、現在を進行しつつあるのは、代表される有権者の極化ばかりでなく、代表者の極化であり、これが代表制度の機能不全を新たな生じさせる可能性があるということなのだ。これは、いわば、前で論じた極化の民主政治へのネガティヴな効果が、いわば、二重化された事態だといってもいいのかもしれない。

 

極端な社会における国民政党の運命

もちろん、このところの自民党の若手議員の発言から、現在の自民党全体に極化現象を見るのには、かなりの無理がある。そもそも、昔からそうした議員は少なからず存在していたという指摘ももっともだろう。とはいえ、現代社会が極化現象を生み出しやすい環境にあるとすれば、そのような社会の政治家そして政党が極化傾向にあるかどうかには注意を払う必要があるだろう。

 

かりに、今後、代表者の極化が進行することになるなら、その際生じるのは、社会の多様な利益や意思を代表することを標榜する国民政党の消滅の可能性であろう。いや、国民政党などイデオロギー的幻想であり、そうした政党も国民という名を騙ってある特定の社会階層の利益を代表しているに過ぎないという見方も確かにある。しかし、問題は、極化した代表者は、自らその幻想を捨て去り、その幻想を維持するための必要な言動を放棄するということである。そんな事態は果たして来るのだろうか。国民政党の代表である自由民主党憲法草案や若手議員の発言を見るにつけ、この懸念を完全に払拭できないのがもどかしい。

民主主義が民主主義に敗北した日――安全保障関連法案の衆議院通過の意味について考える――

7月16日以後の日本社会

先日の安全保障関連法案の衆議院での可決は、第二次世界大戦後、民主国家として出発した日本を大きく転換させることになった。2015年7月16日を挟んで、それ以前の日本とそれ以後の日本は、まったく異質な社会となったのだ。なぜなら、この法案の可決によって、戦後の日本社会が民主的な社会として自らを理解してきた根拠、すなわち、憲法で保障された国民主権や基本的な諸人権あるいは平和主義などを国家権力から守るための大原則が失われたからである。立憲主義の否定といわれるこの事態は、現行の日本国憲法下で紆余曲折を経て発展してきた日本の民主主義の破壊を意味する。そもそも、立憲主義とは執行権力を憲法の制約下に置くことで、現代の民主主義の根源的な価値である私的領域における個人の自由、ならびにこの自由の保障に不可欠な政治参加などの公的領域における自由を執行権力から保護するものだ。こうした立憲主義にもとづく民主主義を一般に、立憲民主主義というが、それを国権の最高機関である国会が否定したのである。したがって、7月16日を境に、立憲主義に対して死亡宣告が突き付けられることで、日本国憲法を基調とする我が国の戦後民主主義の命も風前の灯となったといえる。

 

何を大袈裟な、という人もいるだろう。しかし、16日以前も現在も、表面上は何ら変わりのない日常の生活が続いているように見えたとしても、日本社会の変質を誤魔化すわけにはいかない。そして、昨年の7月1日の集団的自衛権の行使を解禁した閣議決定に端を発する現在の事態が、法令審査権を持つ司法府によっても容認されるようなことになるなら、日本社会の変質は常態となる。つまり、例外的状況が日常となるのだ。

 

このことは何を意味するのだろうか。例外状況が日常となるということは、必要の名の下に、法秩序を凌駕する国家権力の行使が可能となるということである。つまり、国家権力が必要と判断すれば何でもアリということだ。歯止めがなくなれば、あとは滑りやすい坂を転がるしかない。その先にあるのは、民主主義の終わりである。歴史が教えてくれる苦い教訓に思いを致す人なら、おそらくそう危惧するだろう。

 

現代の民主主義はどのようにして破壊されうるのか

とはいえ、ペシミズムやシニシズムを弄んでいてもあまり意味がない。そこで、あらためて、安全保障関連法案の衆議院通過の意味について考えてみよう。しばしば耳にするのは、15日の衆議院特別員会での安全保障関連法案の強行採決やそれに続く16日の衆議院本会議での野党欠席の下での採決に関して、それらが民主主義に対する暴挙だという野党側からの主張である。これは、本法案の審議やそれをとおしての国民の理解が不十分であるにもかかわらず、与党が数の力で決定を行ったという批判を表明している。しかし、こうした主張に説得力があるとは必ずしもいえないし、さらに、そのように主張するだけでは、この出来事の問題の核心を見逃してしまう可能性がある。

 

たとえば、政治的決定の民主的な正統性の源泉を民主的な手続きに求める手続主義を形式的に解釈することで、先の主張に対して次のような批判が可能だ。衆議院の特別委員会そして本会議において採決を行った代表者たちは、民主的な選挙を経た正統な代表者であり、その代表者による採決自体も法律に定められた手続きに従って行われた。つまり、一連の採決は、現行の憲法および法律によって定められた代表制度の意思決定の手続きに従い行われたのだから、反民主的であるとは言い難い。これゆえ、そのような主張は的外れだというわけだ。確かに、数の力で強硬に採決が行われたというだけでは、その採決そのものが民主主義を逸脱する暴挙であり、反民主的であるがゆえに無効だとはいえないかもしれない。

 

そうだとすれば、今回の衆議院における一連の採決をとおして確認せねばならないことは、民主主義はそもそも、憲法によって守られた民主的な社会を危機に陥れ、あるいは破壊してしまう可能性があるということではないだろうか。より正確にいえば、憲法により保障された現代の民主主義の諸価値は、代表制民主主義として制度化された意思決定の手続きを踏むことで、否定されてしまう場合があるということだ。今回のケースでいえば、憲法違反の可能性がきわめて高い法案、すなわち、現代の民主主義を保障した最高規範をそのもの否定していると見なしうる法案に対して、民主的な正統性が代表制民主主義の手続きをとおして与えられてしまったわけだ。こうしたことが可能となるのが、民主主義の元来の姿なのである。だから、自公の連立政権が数の力で民主主義に対する暴挙を働いたというのでは正確ではない。代表制民主主義が民主主義に対する暴挙を働いたのである。

 

民主主義が民主主義を破壊することがある。この矛盾した事態を直視しなければならない。何も無知で情緒的な群衆がレファレンダムによって、そうした事態を引き起こすだけではないのだ。それは代表制度においても起こりうる。現在の日本が何よりの証拠だ。

 

しかし、そうだからといって、代表制が現代の民主主義におけるもっとも重要な制度であることに変わりはない。とすれば、先の衆議院での一連の採決に関して検討すべき問題は、この事態をどうしたら止めることができるのか、ということになる。

 

破壊された民主主義を救うには

議会において憲法に違反する可能性の高い法案が可決成立した場合、裁判所がその法律の違憲性を審査することができる。したがって、今回のケースのように、立憲主義にもとづく民主主義を危機に陥れるような立法行為の歯止めとなるのは、法令審査権を持つ司法府である。安全保障関連法案が法制化された後には、この法律の合憲性をめぐる多くの裁判が起こされるであろう。とはえい、たとえ、ほとんどすべての憲法学者違憲性を指摘しているとしても、裁判所がそのように認定するとは限らないし、また、何より裁判所には時間がかかる。

 

そうだとすれば、7月16日以来、変質した日本社会を早急に元に戻したいと考える人びとに手はないのだろうか。手っ取り早い手段はもちろんある。それは、選挙によって問題の法律に対する反対の意思表明をすることである。つまり、代表制民主主義によって危機に陥った現在の日本の民主主義を代表制民主主義によって救い出すという手段だ。来年の参議院選挙が、現政権への批判を突き付ける絶好の機会である。また、時期は明確ではないものの政権選択をする衆議院選挙も行われる。そこで新たな政権に集団的自衛権の行使を認める法律およびその法律の根拠となった昨年7月の閣議決定の破棄を約束させればよいわけだ。

 

しかし、もちろん、その実現可能性についてはいかなる保証もない。いやむしろ、通常の経験則にもとづけば、その可能性は低いといわざるを得ない。すでに、政権内部から、今回の強行採決についても、国民は数日たてば忘れてしまうというような発言が出ているではないか。そうだとすれば、その可能性はこの健忘症との戦い次第ということになるように思われる。

 

議会の外での直接的な行動の機能

議会における代表者たちによって立憲主義的な民主主義が否定されようとしている現状では、そうした代表者たちに異議を申し立てる直接的な行動がこの戦いにおける鍵となるだろう。そうした直接的な行動の中心となるのが、現在も行われている街頭におけるデモだ。

 

もちろん、デモに参加した人びとの直接的な意思表明は、選挙と議会において表明される意思のように、公式の政治的決定過程に組み込まれない。このため、デモにおいて表明された意思は、市民社会に共感と連帯を呼び起こし、マスコミの関心を喚起させることで、世論の形成を可能にする。そうすることで、間接的に、意思決定の公式機関である議会への影響力を行使する。

 

デモが鍵となる理由は、それが、もの忘れの激しい世論やマスコミに対して、そして、国民の健忘症に付けこもうとする代表者たちに対して、集団的自衛権の行使を認める法律およびその根拠となる内閣の憲法解釈の撤回を求める意思を表明し続け、来るべき選挙の争点であることを提示し続けることが可能だからである。しかし、これだけが理由ではない。デモにはこうした機能以外にも、様々なものがあるからだ。たとえば、デモは、デモに参加することはなくても、そこで提示される意思を共有している人たちをエンパワーすることができる。また、デモには、その参加をとおして、政治に対する関心と知識を持ち、政治へのコミットメントに意欲的な人びとを作り出すという、いわゆる、政治主体の産出機能もある。これらの機能を備えたデモや、それ以外の議会の外で行われる直接的な行動が、代表制民主主義によって危機に陥った現在の日本の民主主義を今後の選挙をとおして救い出すための土台となるように思われる。

 

民主主義という不確実な政治制度

繰り返し指摘してきたように、7月16日の出来事は、代表制民主主義によって引き起こされた現在の日本の民主主義の危機として解釈することができる。これは、極めて深刻な事態ではあるが、驚くべきものではない。近代の民主主義の歴史は、この反復の歴史とさえいえるからだ。したがって、現在の日本の状況は、代表制を基盤に整備された政治制度としての民主主義の不確実さないし危うさを改めて私たちに示しているわけだ。しかし、だからといって、この状況を前に悲嘆にくれる必要もない。また、シニカルになる必要もない。

 

その理由は2つある。1つは、民主主義における決定はつねに暫定的なものであり、変更が可能であるということだ。もう1つは、代表制にせよ直接制にせよ、制度化された民主主義とは違った、民主主義を守るための制度化されざる行動が、日本国憲法第21条によって権利として保障されているということだ。もちろん、それがデモなどの直接行動を含めた社会運動である。市民社会におけるそうした行動が代表制度にどのような形であれ影響を及ぼすとき、おそらく、民主的な社会の実現を妨げたり、民主的な社会を脅かしたりする決定を変更できるであろう。確かに、歴史は、そうした試みが幾度となく失敗に終わったことを教える。しかし、そうした歴史の反復に抗うことができなければ、現在の日本の例外状況が日常化してしまうことを食い止めることはまずできないだろう。

「国家の存続か、憲法か」という問いかけが意味すること――安全保障関連法案の第3の局面における争点を理解するために――

安全保障関連法案の第3の局面

安全保障関連法案の国会での審議は難航しているようだ。最近の世論調査を見る限り、この法案に対する国民の理解は深まっているとはいえず、その反応は、慎重なままのようだ。安倍政権は、今後、世論の軟化を図ることになるのであろうが、それが思い通りにいくかどうはさておき、法制化の道のりにはまだまだ紆余曲折がありそうだ。

 

5月に安全保障法関連案が国会に上程されて以来の経過を振り返ると、3つの局面に区分できる。第1は、衆議院の特別委員会での法案の審議において、安倍首相、中谷防衛大臣、岸田外務大臣らの答弁における齟齬が顕著になるにつれ、法案の内容への野党の攻勢が勢いづいた局面。第2は、衆議院憲法審査会において召喚された憲法学者全員が安全保障関連法案の違憲性を指摘したことで、法案に対する世論の否定的な反応を助長した局面。先のコラム(http://fujiitatsuo.hatenablog.com/entry/2015/06/08/120503)で指摘したとおり、この時点で、国民が注目する論争の場は議会にとどまらず、法律や安全保障などの専門家を巻き込んだ市民社会へと広がりを見せることになる。そして、第3は、ほとんどすべての憲法学者が今回の法案の違憲性を認めている状況――したがって、政府は法案の合憲性を主張せざるを得ないものの、その根拠には説得力がなくなりつつある状況――で、法制化を目指す勢力が政府の外からその劣勢を挽回しようとする局面である。現在は、この第3の局面にあり、その中心的な役回りは、安全保障や国際政治の専門家によって担われる。ここでは、そうした専門家たちが、何とかして憲法の専門家たちが主張する法案の違憲性に対して反論し、この法案の重要性を世論に対して提示できるかどうかということが問題となる。

 

第3の局面における争点

では、どのようにしてその反論は行われているのだろうか。もちろん、安全保障の専門家が、憲法学者の指摘する法案の違憲性を、法律論によって覆すことは不可能であろう。とすれば、この第3の局面において、安全保障や国際政治の専門家ができる反論は、憲法を踏み越えてでも、この安全保障関連法案によって新たに可能となる集団的自衛権の行使が「必要だ」ということを論証することである。必要性の説明はこんなふうに単純明快だ。国家の存立がなければ、日本国民の生命や財産が損なわれるのであって、憲法立憲主義どころの話ではない。この法案が許容する集団的自衛権によって国家としての日本の存立が保障され、国民の生命や財産が守られ、結果として、憲法の存在や立憲主義の議論が意味を持つ。だから、憲法の制約を踏み越えてでも、この法案を成立させ集団的自衛権の行使を可能にする必要がある、と。安全保障あるいは国際政治学の立場からのよくある主張は、この議論の下に、日米同盟の強化の必要性が理由として主張されていることは周知のとおりだ。

 

こうして、第2の局面の争点が安全保障関連法案と立憲主義の関係性であったとすれば、第3の局面では、国家の存続のための必要(緊急事態)と憲法を頂点にした法秩序との関係性が争点となっていることになる。より正確には、必要は法秩序を踏み越えることが理論上許されるのか、これが争点となっているのだ。

 

必要(緊急事態)と法秩序とのこの関係性は「必要(緊急)は法を持たない(Necessitas non habet legem)」というラテン語の格言によって言い表すことができる。この必要とは緊急事態として理解できるし、それは概念として例外状況の根拠となる。こうして、この格言は、公法および私法、そして近代の民主主義理論にとって主要な議題であり続けることになる。法学や政治学を少しでもかじった人ならばご存知のとおりだ。そこで、この格言を手掛かりにして、現在しばしば耳にする「国家の存立か、憲法か」という問いかけの含意を考えてみよう。

 

現代の民主国家における必要と法秩序の関係性

もともと、「必要は法を持たない」という格言は、次のようなことを意味していた。すなわち、必要は法律の拘束力や強制力が及ばない、したがって、法律の制約から解放されるような特異な状況を規定する、と。このように、法から分離された、法-外的な必要という概念を用いることで、法秩序の限界ないし外部を画定し、法の制約から外れて行いうる具体的な事例を論じることが可能であった。ところが、アガンベンの指摘にあるように、特に近代の公法では、法‐外的なこの必要を法秩序の内部に組み込もうとする傾向が顕著になる。すなわち、法秩序の内部に、その秩序を穿つ法-外的なものが挿入されるというわけだ。実際、20世紀の多くの国家では、この必要は緊急権として憲法の条文に明記されたり、あるいは、関連する法律が制定されたりすることで、法体系に包摂されるようになっている。

 

この傾向は、近代社会の発展の中で生じた、統治の領域や任務の拡張とそれを司る執行権力の伸長に付随するものと理解できるであろうし、この意味で、統治の合理性や実効性の追求においては肯定すべき必然的な傾向であると考えられる。とはいえ、この傾向に対しては一貫した懸念も存在する。それは、この組み込みが執行権力の権能とその範囲の拡張に帰結し、その結果、現代の自由主義的な民主国家の規範原理が侵犯されることになるのではないかという懸念だ。たとえば、民主的な政治制度を維持するためには不可欠な、三権の分離の下での権力均衡が破られたり、国民主権を事実上保障する立法手続きが蔑にされたりする可能性、あるいは、基本的人権が蹂躙される可能性など、ようするに、それは、民主主義を保障する法秩序を破壊する可能性への懸念だといえるだろう。このことは、19世紀のフランス、20世紀のドイツそして21世紀のアメリカを見るだけでも、理に適った懸念だといわざるを得ない。

 

そうだとすれば、現代における必要と法秩序との関係性についてこう指摘できるだろう。すなわち、民主的な法秩序への必要の組み込みによる生じる内的連関ゆえに、現代の法秩序から必要を切り離すことは不可能であるということ。さらに、必要の法秩序への内部化がかえって法秩序の安定性を損ね、その法秩序に依拠する民主的な政治制度を動揺させる可能性があるということ。だからこそ、必要は、より慎重かつ厳重に法秩序を前提にした民主的なコントロールの下に置かれなければならない、ということだ。

 

「国家の存立か、憲法か」という問いかけが提起していること

以上の議論を念頭に置いて、「国家の存立か憲法か」という問いかけについて検討してみよう。この問いかけについて、こう批判する人がいるはずだ。すなわち、日本という国家の存立とは、民主的な国家の存立であるのだから、民主的な国家の存立のために必要な措置は、憲法を頂点とする法秩序に適合したものでなければならない。法秩序を踏みにじった上で存立が救済される国家は、もはや民主的な国家ではない。ここから、国家の存立と憲法とは二者択一の対象とはなりえない。したがって、この問いかけは、無意味なのだ、と。確かに、こうした批判は、理に適ったものだといえる。しかし、この批判が、先に触れた、必要と法秩序の本来の関係性や、近代以降のその関係性の変容を検討することなく、こうした問いかけを封じ込めた気になっているとすれば、ナイーヴすぎるように思われる。なぜなら、その検討を欠いては、「国家の存立か憲法か」という現在の問いかけの重大さをつかみ損ねる可能性があるからだ。

 

試みに、この批判を「国家の存立か憲法か」と問いかける人に向けてみよう。そうすれば、おそらくこんな返答があるだろう。確かにそうだ、しかし民主的な国家の存立を確保せねばならないという必要(緊急事態)において、民主的な立法手続きも人権を保障する法律もその存立を守ることができないなら、それらは沈黙すべきである。必要が法秩序に関わりなく、何がなされるべきかを決定する、必要は法を知らない、と。この噛み合わない返答が何を意味しているのか。それが意味しているのは、現代における、必要と法秩序の本来的な関係の回復であり、必要の本来的な権能の回帰に他ならない。必要は、現代の民主的な政治体制の下であっても、そして、それを民主的なコントロール下に置こうとする努力にかかわらず、結局は、法の手綱を振りほどき、法秩序とそれに支えられた民主的な政治体制の限界を乗り越える能力と権利を失いはしない、というわけだ。こうしたことを「国家の存立か、憲法か」という問いかけは意味しているのである。

 

もちろん、現在、「国家の存立か、憲法か」と問いかけているのは、政府ではなく、政府の外部で、安全保障関連法案の法制化を望む人たち、特に安全保障や国際政治の専門家たちである。政府は、この問いかけすることは許されないし、実際、今後もそうすることはないだろう。これに対して、安全保障や国際政治の専門家、さらに一部の政治家は、たとえ憲法に違反した法案であったとしても法制化の重要性を世論に訴えるために、「国家の存立か、憲法か」と問いかけることで、いわば、「必要は法を持たない」という古くからの格言を持ち出しているわけだ。だとすれば、それは、この格言を手にワイマールの法秩序を乗り越えようとしたシュミットばりに、こう言っているのとそんなに変わらないはずだ。「現代の安全保障環境の変化の結果、日本は切迫した緊急事態、すなわち例外状況にある、だから、例外状況に関して決定する主権者、すなわち国民よ、今こそ法秩序を乗り越え、国家存立ために決断せよ」と。

 

「国家の存立か、憲法か」と問いかける専門家や政治家たちは、このことを十分に理解しているにちがいない。しかし、こうした問いかけが孕む危険――これについては歴史に学ぶほかはない――について真剣な顧慮がないとすれば、危ういといわざるを得ない。それでも、「必要は法を持たない」として「国家の存立か、憲法か」というのなら、その前に、専門家にはしてもらわなければならないことがある。それは、中国の脅威とか、日米同盟の脆弱化とかいうような曖昧な理由ではなく、法秩序を覆さねばならないほど、日本が危急の事態にあるということの証明、すなわち、日本が例外状況にあるということの客観的で、合理的かつ個別具体的な事例の列挙である。そうでない限り、事の重大性からして無責任の誹りは免れないように思われる。