民主主義とその周辺

研究者による民主主義についてのエッセー

いま、デモを擁護しなければならない、いくつかの理由について

この期に及んでも頻発するデモ

現在、参議院では、9月中の安全保障関連法案の成立に向けて、審議が進んでいる。衆議院ですでに可決された本法案は参議院での賛成多数で成立するので、与党議員が過半数を占める以上、採決にこぎつきさえすれば、この法案は正式に成立する。たとえ参議院で採決ができなくとも、憲法59条4項の規定にもとづき衆議院で再議決が行われるなら本法案を成立することになる。だから、安全保障関連法案の成立は、憲法に規定された立法手続きからして、もはや既定路線なのである。それも関わらず、安全保障関連法案に反対する人たちは、その意思を表明するためのデモを懲りもせず計画しているようだ。

 

その一方で、特にネット上では、安全保障関連法案に反対するデモへの批判、たとえば、学生を主体とするSEALDsのデモに対する批判――誹謗中傷やデマから、まともな批判まで――が垂れ流されている。その多くは、党派的な立場からの言説、すなわち、自公の連立政権を擁護する立場からの言説だと考えてよいであろう。もちろん、一種のネガティヴ・キャンペーンとして、デモに対する党派的な批判はよくある。しかし、たんなる党派的意図からだけでなく、選挙以外の直接的な政治行動への嫌悪感から、民主社会におけるデモの機能や重要性を否認する批判も少なからず見受けられる。このタイプの批判は、人びとが自らの政治上の意思表明や政治へのコミットメントを選挙に限定すべきだ想定している点、このため、選挙によって選出された代表者による意思決定こそ、民主主義なのだという単純化された理解へと行き着いてしまう点に問題がある。そんな理解では、政治学においてもはや定説となっている、現在の民主主義の制度が直面する行き詰まりに対処できない。すなわち、有権者の期待や要求と代表制度のパフォーマンスとの間のギャップが生み出す「民主主義の赤字」(ピッパ・ノリス)という事態を正面から受け止めることを妨げ、それを解決しようとする試みを困難にしてしまう。ここに、単純化された民主主義理解の真の問題が存在する。

 

こうした現状だから、党派的な視点からSEALDsのデモを支持するかしないかではなく、日本の民主主義の先行きという視点からデモについて考える必要があるのではないか。そして、後者の視点に立つならば、その主張や要求のいかんに関わらず、デモを擁護する必要があるように思われる。このとこは、もちろん、安全保障関連法案に反対する人たちが、その成立の阻止がほとんどの不可能な状況にあっても、デモに行く理由について考えることでもある。

 

デモへのありふれた批判

いつ時代でも、デモに対する批判は、おおよそ2つの種類に分けられる。1つが、デモは代表制民主主義を破壊するという批判。もう1つが、デモには何らの効果がないという批判だ。

 

デモが代表制民主主義を破壊するという場合、2つの事態が想定されているようだ。1つは、街頭に立つ一部の市民が、公式の決定権力、すなわち、選挙で選ばれた代表者からなる議会の法制定権やそうした代表者を中心に構成される政府の政策決定権を簒奪し、意思決定を行うという事態だ。もう1つは、街頭で表明された一部の市民の主張や要求が公式の決定権力に影響を及ぼすという事態である。前者に関して、そのような事態は革命と呼んでよい事態であり、現在の日本で行われるデモで革命が可能になるとはほとんど考えられない。したがって、問題となるのは後者の事態である。

 

現代の政治理論において、市民が投票以外で議会や政府に影響を及ぼす事態は、必ずしもネガティブに捉えられているわけではない。むしろ、選挙を基盤にした代表制度の欠陥が露呈している状況では、民主社会の健全性の証左として、ポジティヴに捉えられることが多い。ここでは2つの説明を挙げておく。1つは、現代の民主社会に固有な事態――多元性の事実――に関わる。現代の多元的な社会には多様な利害関心や価値観が存在するが、そこから出てくる要求や争点を選挙だけで集約することは不可能であり、また、それらは選挙後に変化することが大いにある。ここから、選挙以外で表出された要求に議会や政府が敏感に反応し対応することは、代表制度全般がうまく機能するには必要であると同時に、その民主的正統性にとっても望ましいということになる。実際の政治的意思決定が市民社会の多様な団体の要求の影響下でなされるという事実からすれば、デモで表明される要求だけを排除する理由はない。もう1つは、デモが選挙では代表されないような社会の少数派の主張や要求を表明する機会だという点に関わる。現代の民主主義にとって主要な課題の一つは、代表制度の多数決ルール=多数者支配(majority rule)から少数派の権利や利益を擁護するだけでなく、積極的に政治的決定に反映させていくことにある。ここから、少数派の意思表明を可能にするデモは、代表制度を基盤とする民主主義にとって必要不可欠な政治上の機会だといえる。たとえば、日本国憲法が、このような機会を表現の自由などの政治的権利として保障し、民主的な社会の礎としていることはあえて指摘するまでもない。ようするに、これらの説明から、現代の代表制民主主義では――しばしば誤解されているのとは違って――、デモのような選挙以外の政治活動が代表制度の性質ゆえに、必要になることが分かる。

 

それでは、デモには効果がないという批判はどうであろうか。確かに、先に述べたとおり、今回の安全保障関連法案に反対するデモの目的が法案成立の阻止にあるわけだから、その阻止がほぼ不可能であることが分かった時点で、デモには効果がないといってもよさそうだ。しかし、これは、デモで掲げられた主張や要求が受け入れられ、即座に法律や政策として結実するかどうかという、限定された視点から見た場合、そういえるに過ぎない。何らかの政治的行為の影響力を、限定された視点や短期的なスパンで測ることはもちろん重要だが、多角的な視点から測っていてみることもまた必要だ。そうした場合、デモには効果がないと即座に断定することの難しさが分かる。

 

民主的な社会におけるデモの機能

デモには、その効果の有無を即断することが困難な機能がいくつかある。そこで、過去、現在、未来という多角的な視点からそうしたデモの機能を整理してみよう。

 

現在との関係で見た場合、ほとんどのデモは、現在の政治状況や社会状況に対して異議を申立てる政治行為だ。デモを行う当事者からすれば、この異議申し立ての狙いは、そこで表明した自分たちの要求がメディアの関心を喚起し、新たな世論を形成し、その結果、公式の決定プロセスに影響を及ぼすことにある。それに対して、代表制度全体という客観的な視点から解釈するなら、これは、新たな社会問題の発見や政治争点の提起、あるいは、顕在化している争点への解決策の提示として理解できる。さらに、デモにおける異議申し立ては、別の客観的な機能がある。それは選挙の狭間において代表者のパフォーマンスをチェックし、監視する機能だ。選挙時に約束した政治課題への取り組みはどうか、ある一部の人びとの利益や代表者自身の利益を優先した独善的な政治を行っていないか、世論の動向や新たに提起された争点に敏感に応答しようとしているのか。それらについて代表者をチェックし、そのパフォーマンスが不十分な場合には、代表者たちに警告する機能がそれだ。代表者を監視する「番犬」として異議申し立てが機能するには、代表者たちの政治が人びとの期待や信用を裏切るような場合は必ず、デモが一定の規模で起きることが必要だ。すなわち、街頭での異議申し立てが反復されることで、制度化されざる制度となることが必要なのだ。

 

過去との関係から見たデモの機能は、その社会の民主主義の記憶や歴史を継承することにある。ほとんどの民主的な社会には、デモをはじめとする普通の市民の直接的な政治行為が、政治を動かし、民主的な社会の発展に寄与した歴史がある。それは、定期的に行われる選挙と代表者による政治とは異なる、市民社会に根差した政治文化としての民主主義の歴史である。戦後の日本からその一例を挙げるとするなら、公害に対する住民運動がある。公害に苦しむ住民たちの地道な異議申し立てが、マスコミを動かし、世論の関心を喚起し、ひいては、環境政策を進展させたことは、周知のとおりだ。デモは、その参加者が意識しているかどうかは別にして、現在の民主的な社会に対して、その礎を築いてきた市民の直接的な政治行為の記憶を蘇らせる。こうして、代表制では語り尽くせない民主主義のもう一つの歴史の持続が可能になるわけだ。

 

最後に、未来との関係から見るなら、デモには、今後の民主主義の担い手を作り出す機能もある。家庭や学校あるいは職場での日常生活を切り裂いて出現するデモは、選挙とは異なる、民主主義を直に体験する場となる。こうした体験が、いわゆる学校教育では教わることのない、政治教育の機会となるのだ。デモの参加者は、選挙以外の方法で、自らの政治的な意思を公的に表明することが可能なこと、それが必要なことを学ぶだろう。また日常生活に戻っても、その経験は、公共的な問題へコミットしようとする態度を培い、政治的なリテラシーを高めようとする動機づけとなるように思われる。街頭という民主主義の学校でその担い手としての自覚を喚起された人たちの中から、現在の代表制度の下で求められている、「番犬」が出てくると推測することは難しくないだろう。

 

デモとどう向き合うか

こうしたデモの機能は、その効果を即座に判断することが難しい。なぜなら、それらは、定期的な選挙への参加だけでは育むことのできない、民主的な社会の政治文化に関係するからだ。そして、このような政治文化の成熟こそ、現在の代表制度の下で蓄積した「民主主義の赤字」を清算していくために必要とされていると考えられるのだ。

 

それでも、デモなどくだらないと考える人もいるだろう。そう考えることは、もちろん自由だ。しかし、もしかしたら、そんな人も、今後、デモに参加せざるを得ないような状況に置かれることがあるかもしれない。これは誰にでもある可能性だ。そうだとすれば、デモで掲げられている主張や要求が気に入らないからといって、デモそのものを否定したり、冷笑したりすることは民主的な社会のメンバーとして、フェアではない。あるいは、デモで重要なのは、議会や政府に影響力を行使し、自分たちの主張や要求を即座に実現することだという人もいるだろう。確かにそのとおりだ。しかし、民主主義の歴史を見るなら、そうした期待のほとんどは裏切られてきたといってよい。この点については、現実的であるべきだ。とはいえ、現実的であるためには、民主政治における決定は、つねに暫定的であり、変更が可能だということを思い出す必要もある。これが意味しているのは、異議申し立てを、一過性のお祭り騒ぎに終わらすことなく、持続させねばならない、ということだ。これは容易なことではないだろう。そんなとき、自分が従事している行為の意味や機能を多角的に検討してみるのも、無駄ではないように思われる。