民主主義とその周辺

研究者による民主主義についてのエッセー

「パナマ文書」、そして新自由主義という夢の果て――参議院選挙に向けて考えておきたい、いくつかの事柄――

地震と緊急事態条項

熊本・大分を震源とする大規模な地震は深い爪痕を残したまま、未だ予断を許さない状態が続いている。被災者やその関係者のみならず、今回の震災がもたらした苦しみの光景を様々なメディアをとおして目撃した人びとの中には、そうした苦境にある被災者への共感によって、自分にできる支援を検討し、すでに行動に移している人も少なくないはずだ。その一方で、この地震に関連して緊急事態条項の新設のための憲法改正の話題が最初の地震の翌日にはすでに、菅官房長官の会見における記者との質疑応答で取り沙汰されたということだ。これを聞くにつけ、来る7月の選挙に向けて政治は着実に動いていることを否応なく再認識させられる。そこで、この政治日程に鑑みつつ、今後の政治争点を考える際の視点について、数回にわたり検討しようと思う。今回は、世界を激震させたとして日本でも報道されている「パナマ文書」を手かがりする。そこから、新自由主義の功罪は、それが民主主義に与える影響から検討されねばならないことを指摘する。

 

「パナマ文書」の何が問題か

「パナマ文書」が暴露した、政治家や富裕層の課税逃れや資金洗浄の疑惑は少々スキャンダラスだとはいえ、日常茶飯事の見慣れた光景に過ぎないようにも思える。しかし、すでに、こうした現実が格差の拡大を助長しているとか、納税に対する不公平感を生んだりするといった批判が数多く指摘されている。これらの指摘はそのとおりなのだが、ことの深刻さを理解するにはもう少し説明を重ねる必要があるように思われる。というのも、この出来事に民主主義を支えてきた制度が形骸化されていくやり方を見てとるができるからだ。確かに、ヨーロッパでの一連のテロ事件や難民問題を取り上げるなら、それらがヨーロッパに深く根付いているとされる民主主義を大きく動揺させつつあるということなど誰にでもわかる。しかし、「パナマ文書」が暴露した現実も、民主主義の理念――それをここではとりあえず、平等な者たちからなる自由で多元的な社会の実現としておこう――を支える制度上の基盤を確実に掘り崩しつつあるといえるのだ。ここに、この問題の深刻さの本質がある。

 

「パナマ文書」に関連して、こんな擁護を耳にした人もいるだろう。課税逃れがその目的であったとしても、企業やそれを経営する個人あるいは公的組織が最大限、自己の利益を追求すること自体、当然のことであるから、違法行為でなければ、何ら問題はないという擁護だ。新自由主義の論理からすれば、確かにそうかもしれない。しかし、「パナマ文書」によって暴露された問題の核心が現在の民主主義の形骸化と無関係でないとすれば、はたしてそんな擁護は通用するのだろうか。

 

近代の民主主義は国家の枠組みの下、表現の自由、団体・結社の自由をはじめとする諸権利の保障、公正な選挙や三権分立法治主義の制度化などをとおして、その理念の具体化に取り組んできた。しかし、それだけではない。民主的な社会の実現には、機会の平等といった形式的な平等とあわせて、社会生活でのある程度の実質的な平等が不可欠であるという、19世紀以来積み重ねられてきたコンセンサスが存在する。それにもとづいて、実質的な平等のための制度、すなわち、富を再配分するための広い意味での社会保障制度が国家の枠組みの下で整備されてきた。貧困ゆえに教育や医療を十分受けられず、日々の食費もままならない人にとって、機会の平等を効果的に活用すること、さらには、政治に参加し主権者としての権限を行使することが非常に難しいことなど誰の目にも明らかであろう。日本の場合、社会保障制度が社会保険料と税金によって賄われていることは指摘するまでもない。そうだとすれば、重要なことは、社会保障制度が機能し、ある程度の実質的平等が保障されることによって民主的な社会が維持されるには、国家による確実な税の徴収が不可欠である、ということだ。つまり、「パナマ文書」が示しているのは、民主的な社会を維持するための国家の基本的な役割を妨げるグローバルな仕組み、しかも、国家が厳密に取り締まることがきわめて困難な仕組みが存在しており、これゆえ、国家はその役割を十分に果たすことが難しくなっている、ということではないだろうか。

 

新自由主義と苦境に立つ民主主義

しかし、事態はより複雑である。たんに民主的な社会を維持するために不可欠な国家の任務を妨害するグローバルな仕組みが存在するだけではない。たとえば、日本のように、経済における低成長と社会の超高齢化によって財政が悪化し続ける中、国家は民主的な社会の維持に不可欠な平等を保障する責務や役割から自らを可能な限り解除しよう(せざるを得ない)とする傾向にある。さらに、こうした傾向を許容することになる実質的な平等への無関心やその貶価――それが「競争」や「自己責任」という言葉で正当化されてきたことは周知のとおりだ――が社会の内部で蔓延している。こうした状況では、民主主義のための制度上の基盤の浸食が放置されることで、社会生活の中のある程度の平等の破壊が促される。そして、その結果、民主主義は苦境に置かれることになる。この20年来、民主主義のこうした苦境の背景はしばしば新自由主義との関連から説明されてきた。「パナマ文書」が暴露した現実、それに無関心な世論、はたまた企業や個人の経済活動の自由を根拠にした課税逃れの擁護などに鑑みると、私たちの社会は未だ新自由主義の夢を見る微睡の中にいるのかもしれない。

 

もちろん、課税逃れもタックスヘイヴンも今に始まったことではない。いわば、歴史的に反復される出来事だ。だから、「パナマ文書」が示唆する民主主義の有名無実化を掘り下げて把握するには、それを現代に固有の文脈の中で検討する必要がある。その文脈が新自由主義なのである。

 

新自由主義が何を意味するのかについては、未だに論争を呼び起こす厄介な問題だ。一般に、それは、福祉国家の解体と小さな政府による統治として論じられるが、具体的には、産業とキャピタルフローの規制を緩和することで市場経済を活性化させようとする一方で、課税における累進性を緩和し社会保障費を削減する――これによって、政治による富の再配分機能はかなり弱められることになる――と同時に、公共機関の民営化とアウトソーシングによって公共財を提供するといった形をとって現われる。

 

この新自由主義の問題は、論者によって様々な視点から説明することが可能であろう。しかし、政治思想の観点からすれば、その最大の問題は民主主義の理念の実現に不可欠な諸制度を無効化してしまう点にあるといえよう。別の言い方をすれば、政治の領域の内部で、それに固有な論理と言語によって発展し維持されてきた自由やそのための平等を市場のモデルに従って経済化し、自由を競争に、そして平等を格差に置き換える。フーコーの指摘によれば、新自由主義は、伝統的な自由主義がそうであったように、国家が体現する政治の領域からの経済の領域の自立や政治の介入からの経済活動の放任を求めるのではない。それは政治を含めた社会のあらゆる領域に市場のモデルを適用することで経済化しコントロールすることを目指している。

 

こうして、政治の領域で育まれてきた民主主義の理念、その理念の実現のために設けられた制度は、形骸化され変質してしまうことになる。新自由主義は、人間の多様な生のあり方を経済化する。ウェンディ・ブラウンの言葉を用いれば、その多様なあり方の主要な1つであったホモ・ポリティコスとしての人間のあり方――平等な他者と協働して自分たちを統治する民主主義の主体――は、新自由主義的に定義されたホモ・オイコノミコスとしての人間のあり方――自己責任の下での自己資本の最大化とリスクヘッジにひたすら勤しむ主体――によって駆逐されつつある。福祉国家の行き詰まりの打開策として期待された新自由主義は、民主主義を形骸化させるというまさにこの点において、私たちの(社会の)脅威となっているといえよう。

 

来るべき選挙に向けて忘れてはならないこと

「パナマ文書」で暴露された現実、それを擁護する言説、この現実を変えるための有効な手立ての欠如、これらは新自由主義という文脈で捉えられる必要がある。そのとき、いつの時代でも見受けられた課税逃れの現代的な意味が見えてくる。もちろん、それが民主主義の苦境だ。

 

しかし、それは、何も、「パナマ文書」に限ったことではない。ここしばらくの国内政治に目をやるなら、民主主義を苦境に立たせる出来事はいくつもある。育児や教育、介護などは近年、市場をモデルとする政策によって運営されてきた。しかし、これらはある程度の平等の下で、人びとに提供されるべきものだ。それは民主的な社会が自らを維持するために要請されるところのものなのである。

 

参議院選挙まであと3ヶ月ほどである。消費税の引き上げから安全保障関連法や憲法改正、TPPやアベノミクスまで選挙の争点は多々あるだろう。しかし、どのような争点を重視して投票するにしても、苦境にある民主主義をどうするか、このことがあらゆる争点の裏側で賭けられていることを忘れてはならない。

 

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