民主主義とその周辺

研究者による民主主義についてのエッセー

日本会議の草の根民主主義と憲法改正 ――参議院選挙に向けて考えておきたい、いくつかの事柄(2)――

 

安倍内閣と日本会議

日本会議の研究』がこのところ話題になっているようだ。これは、現在の安倍内閣と親密な関係にある、日本会議という民間の保守系団体の出自とその歴史を追ったルポだ。そこで詳らかにされているのは、日本会議の実働組織である日本青年協議会が戦前から戦後の一時期にかけて右翼的活動で知られた新宗教生長の家」の元学生活動家らに担われている事実、また、安倍首相のブレインの一人が同様に「生長の家」の元学生活動家であり、さらに、首相の周辺の政治家が「生長の家原理主義」――明治憲法の復元を掲げた生長の家の創始者、谷口雅春の教え――を唱える団体に参加している事実だ。これらの事実を焦点に憲法改正を目指す安倍内閣の政治イデオロギーの由来が解き明かされている。

 

もちろん、たとえ安倍内閣と日本会議とが親密な関係にあるとしても、安倍内閣が推し進める政策のすべてをそこから説明できるわけではないし、経済界をはじめ多くの利益団体が現在の内閣に強い影響力を行使していることはいうまでもない。また、国会議員が様々な団体に所属していることもごく自然である。とはいえ、このルポが繰り返し指摘しているように、現在の内閣が、大日本帝国憲法の復元を目指しているとされる団体――日本会議の別同部隊、美しい日本の憲法をつくる国民の会は1000万人の改憲賛成署名の運動に取り組んでいるようだ――やそれに関係する人びとと秘かに志を共にしつつ歩調を合わせて憲法改正に突き進んでいるとすれば、これは看過すべき事態とはいい難い。いずれにせよ、自由で多元的な社会を目指す民主主義とはまったく相容れない反動的な教説を信仰する現代の宗教右派勢力と安倍内閣との密接な関係が公になるということは、選挙を控えた有権者にとって少なからず有意義な情報となるように思われる。

 

右派勢力と草の根の民主主義

先に挙げたルポでは、日本会議をフロント団体とする右派勢力が現在の影響力を獲得した理由として、その草の根的な政治活動、たとえば、デモや勉強会、地方議会への請願および陳情、署名活動などの市民運動を地道に続けてきたことが挙げられている。その上で、この右派勢力がきわめて民主的な方法をとおして、民主主義を転覆させようとしつつある事態に対して警鐘が鳴らされる。これは傾聴に値する。このコラムでも、たとえば、「民主主義の倒錯」という言葉で、民主主義の諸価値や理念がそれらを実現するべく設立された制度や手続き――すなわち、選挙を中心にした代表制度――の下で否定されるような事態が現代の日本で生じつつある可能性を繰り返し論じてきた。これに対して、そのルポでは、草の根の政治活動によって民主主義が転倒させられる可能性が指摘されているわけだ。この点が興味深い。とはいえ、日本会議における草の根の民主主義の実情については、もう少し掘り下げて考えてみる必要があるように思われる。

 

右派勢力と草の根的な政治活動との結び付きは、現在の日本にのみ見られる特異な現象ではない。これは周知のとおりだ。アメリカがきわめて特異な社会であること(アメリカ例外主義)を認めた上で、特にレーガン政権以後の共和党に強い影響を及ぼしてきたキリスト教右派やこれまた共和党と強く結びついた近年のティー・パーティは、共にその草の根的な活動によって知られている。たとえば、合衆国憲法原理主義を唱え、小さな政府を求めるティー・パーティ――スコッチポルらの研究によれば、この団体には、キリスト教右派と同様、プロテスタント福音派のクリスチャンが多いようだ――は、コミュニティに拠点を置き、集会やデモをとおして組織化を行い、ネットやテレビ、ラジオなどあらゆるメディアをとおして自分たちの組織やその主義主張を公然と宣伝し、選挙においても積極的な動員を行う。そればかりか、より効果的な運動を展開するために、20世紀を代表する左派の草の根民主主義のアイコン、ソウル・アリンスキーのコミュニティ・オーガナイジングの手法までも積極的に取り入れている。

 

日本会議と草の根の活動

普通の市民たちが日常生活の場である教会あるいは各支部のコミュニティに集い、そこでの組織化をとおして蓄積された社会関係資本を元手に、公にされた自分たちの主義主張を実現すべく地道な政治活動を行う。この点で、アメリカにおけるそれらの右派勢力の活動は文字どおり、草の根的である。そして、こうした形での草の根の活動が基盤となり、共和党の大統領候補者指名を左右するまでの影響力を持つにいたる(とはいえ、たとえば、ティー・パーティ運動を〈純粋な〉草の根の反乱と見なすとするなら、正確性を欠くことになる。すでに多くの研究が、この運動へのコーク兄弟による資金援助や、既存の保守系シンクタンクあるいはアドヴォカシー集団、大手メディアとの根深い関係を指摘している。しかし、そうだからといって、この運動の上述した草の根的な性格を否定することは誤りであろう。その点については、このコラムではスコッチポルらの研究に依拠している)。

 

他方、日本会議日本青年協議会は、こうした形での草の根レベルでの組織化に取り組んでいるようであるが、それがうまくいっている、あるいは、そうした形での草の根の活動が勢力拡大の基盤となっている、というようには見えない。『日本会議の研究』にあるエピソードを読む限り、自らの正体をひた隠すカルト集団の洗脳活動を想起させさえする。ここからも、日本会議の草の根の活動がアメリカの右派勢力のように、大規模な大衆運動に発展すると考えるのは非常に難しい。むしろ、この組織の現在の成功は次のように説明できるように思われる。すなわち、生長の家で頭角を現した有能な元青年活動家たちがその正体を偽装しつつ少数精鋭の職業活動家となり、彼らの指導の下で行われる、他の右派組織との連携の形成、宣伝や広報、集会やデモへの動員、地方議会やその政治家から国会議員に及ぶロビー活動などが実を結んだことによる、という説明だ。

 

日本会議の草の根的性格を否定しようというわけではない。それも1つの草の根の政治活動のあり方と考えることはできる。ただ、たとえば、ティー・パーティのような、日常生活を拠点にした普通の市民たちの信頼とネットワークの醸成を基盤にした草の根的な活動と日本会議のそれとがまったく同じかといえば、そうはいいきれないと指摘したいだけだ。とはいえ、この指摘から、日本会議の政治運動の脆弱さと強みを改めて考えてみることもできる。日々の生活の中での普通の市民の協働に根を持たない民主主義の運動はそれが左派の運動であろうが右派の運動であろうが、その指導者を失えば遅かれ早かれ衰退する。とすれば、これが日本会議の脆弱さとなりうる可能性は十分ある。

 

では、その強みとは何か。自民党を中心とする日本のエスタブリッシュメントには、明治憲法を復活させようとする反民主主義的な運動に同調的な価値観と信念を有する人びとが未だに少なからず存在しており、そうした人びとの支えこそが、その強みにほかならない。さらに、私たちの社会が民主主義にとって自己破壊的なそうした人びとの価値観や信念に対して無批判であるだけでなく無関心でさえあるという点もその強みとして勘定することができるかもしれない。たんなる草の根の活動に還元できないこれらの点に日本会議の暗躍の一因があることを低く見積もるべきではないように思われる。

 

権力の空白を埋めつつある民主主義の破壊者

かつてフランスの政治理論家が論じたように、民主主義という政治の在り方の特異性は、権力の座が空位な状態にある点に見ることができる。近代の民主主義が打倒した君主政では、その座は神とその被造物とを媒介する王という受肉された具体的な存在によって占められていた。王という存在の神性――もちろん、それは主権の絶対性という形で世俗化されていくことになるが――は、彼の統治やそのための法の正統性を供給する一方で、王の生身の身体は彼の統治する王国の統合を表していたわけだ。これに対して、民主主義という政治の在り方において、かつて権力の座を占拠した王は追放され、代わりに、国民と呼ばれる抽象的で匿名的な存在がその場を埋めることになる。しかし、そのような存在としての国民とは誰なのか。それは誰もが国民となりうるがゆえに――たとえば、それはブルジョワジーであり、労働者であり、あるいは民族であり‥‥――、誰でもない。まさにこの意味において、すなわち、権力の座を最終的に占拠する具体的な存在を決定できないという意味において、民主主義の権力の座は決して埋められることのない空白の場といえるのだ。ただ、社会における諸勢力の抗争を制度化した民主主義の手続き――その中心は無論、選挙である――の内部で勝利を収めた者たちが一時的にその場に留まることができるだけなのである。

 

民主主義のこうした特異性から、それがつねに開かれた未完のプロジェクトであることの一端を理解できるわけであるが、その一方で、民主主義が伴う危うさもそこから説明することができる。その危うさとは、民主主義の手続きさえパスしてしまえば、どのような主義主張、価値観を持った勢力であろうと、したがって、巧みな装いの下に反民主主義的な主義主張や価値観を隠し持った勢力であろうと、権力を手に入れることができるということにある。要するに、民主主義という政治の在り方には、その内部に自らを蝕む可能性があるわけだ。

 

おそらく、日本会議の暗躍から垣間見られるのは、こうした可能性が現実のものとなりつつあるということなのかもしれない。とすれば、それに対してどのような抵抗が可能なのだろうか。世論の覚醒だろうか。日本会議を中心とする勢力に対抗する左派勢力の草の根的な活動だろうか。もしかしたら、たとえば、戦後のドイツのように、民主主義の自己崩壊を防ぐための別の方法が新たに必要なのだろうか。いずれにせよ、安倍内閣と日本会議の関係が多くの人びとの知るところになりつつある今、間近に控えた国政選挙の紛れもない争点の核心を次のように規定してもよいだろう。すなわち、きわめて反動的な形で憲法改正を目論む、反民主主義的な勢力が民主主義の権力の空位を埋めることを私たちの社会が黙認し続けるかどうか。これこそ、憲法改正という争点に秘匿された真の問題なのではないだろうか。