民主主義とその周辺

研究者による民主主義についてのエッセー

「2014年都知事選から日本の民主主義のこれからについて考える」(2)ーー反復の中から出現しつつある民主主義の新たな徴候ーー

今回の都知事選の結果が示していることは何であったのか。それは、これまで何度も目にした事態が今回もただ反復されたに過ぎない、ということである。そしてこの反復がなぜ生じるのか。それは、代表制民主主義が正常に機能しているためである。これらのことを先の投稿(「2014年都知事選から日本の民主主義のこれからについて考える」(1)」で指摘した。

今回の選挙結果だけにフォーカスするのなら、この指摘は正しいように見える。しかし、19世紀フランスの代表制民主主義を分析したマルクスのテキストの冒頭を思い出してみよう。そこでマルクスがヘーゲルの言葉を敷衍したのと同じように、マルクスの言葉を敷衍して、「反復の中にこそ、新しい出来事の芽生えがある」とするなら、今回の選挙における同じ結果の...反復の中に新しい出来事を見出すことはできるのではないか。

今回の選挙において、民主主義の新しい徴候を把握するには、結果ではなく過程に目を向ける必要がある。そのとき見えてくるのは、「二ュー・ポリティクス」と呼ばれるような脱工業化社会に特徴的な政治の傾向である。つまり、日本の政治の片隅ではなく中心において新しい出来事が生じつつあること、これが今回の選挙において見逃がしてならない事態である。なぜなら、長期的な視野に立つならば、この事態こそ、今後の日本の民主主義の動向に決定的な影響をおぼすことになるはずだからである

「ニュー・ポリティクス」とは、1973年のオイルショックよる高度経済成長の終焉とそれによる福祉国家的政策の行き詰まりに直面したヨーロッパにおいて、旧来の政治のあり方に対抗する形で登場する。旧来の政治は、階級的なイデオロギー対立を前提とし、豊かさと利便性を追求する物質主義的な価値観にもとづいた社会における政治である。この旧来の政治では、富の社会的配分の仕方が主要な政治争点となる。この政治は、労働者および労働組合を支持基盤とする左派政党と経営者や企業などを支持基盤とする右派政党とが議会での支配権をめぐって競争する、政党‐代表制民主主義という枠組みにおいて展開される。こうした旧来の政治に対して、「ニュー・ポリティクス」と呼ばれる新しい政治の潮流は、脱物質主義的価値観から生まれる。この脱物質主義的な価値観を大切にする人たちは、原発問題をはじめとする環境問題やマイノリティの権利の擁護、個人のアイデンティティに関わる民族や宗教などの文化問題を政治的争点として掲げる。さらに、旧来の政治が権威主義あるいはエリート主義的性格をもつ政党-代表制民主主義の枠組みを前提としているのに対して、「新しい社会運動」から生まれた「ニュー・ポリティクス」では、草の根的で自発的な直接参加型の民主主義を重視する。「ニュー・ポリティクス」を担う政党の代表が緑の党であることはよく知られている。

近年、しばしばし指摘されているように、現在の日本において、「ニュー・ポリティクス」として理解できる政治的争点が顕現化してきている。もちろん、1970年代以来、日本でも、ヨーロッパと同様に、「ニュー・ポリティクス」の枠組みの中で理解すべき思考や運動は持続的に存在してきた。しかし、2011年の震災以降原発問題が政治の主要な議題となったことに象徴されるように、物質主義的な価値観に基づいた旧来の政治への批判が、これまでにない規模の広がりで多くの人たちに共有され始めてきた。このことは、もはや疑いようもない。日本の政治がニュー・ポリティクス化の傾向にあるとすれば、それは日本の民主主義も新たな段階に入りつつあることを示唆する事態であるとも考えられる。旧来の権威主義的な政党‐代表制民主主義への自覚的な批判にもとづいて、それとは異なる形で価値観やアイデンティティを構築し、ネットワークを形成し、政治への参加を試みる、そうした民主主義の段階である

それでは、具体的に、今回の選挙のどこにニュー・ポティクス化の傾向を読み取ることができるのか。物質主義から脱物質主義への価値観の転換を象徴する争点が脱原発であることはすでに述べた。これが、脱原発を掲げた宇都宮、細川両氏の対立候補であった舛添氏の曖昧な立場によって暈されたとはいえ、今回の都知事選挙の主要な争点の1つであったことは間違いない。これ以外にも、「ニュー・ポリティクス」を担い手の1つである排外主義を掲げる極右勢力の台頭、「ニュー・ポリティクス」の政治運動に特徴的な草の根的な民主主義の浸透という2つの点にその傾向を読み取ることができる。

まず、極右勢力の台頭の問題である。アカデミズムの言説では、緑の党のような典型的なニュー・ポリティクス政党に、例えばフランスの国民戦線のような極右政党を加えることへの反論があるようだ。しかし、ここでは、政党に限定するのではなく、それを支持す有権者にまで視野を広げることで、そこに見出される草の根的なイデオロギー形成や連帯意識の醸成の仕方、そして何より、極右勢力に共通する排外主義的なナショナリズムがその支持者のアイデンティティ形成の文化的資源となっていることなどを理由に、極右勢力の台頭を「ニュー・ポリティクス」の徴候の1つとして捉える。

今回の都知事選では、極右勢力の支持を集めたのが、田母神氏であった。選挙戦では、彼は自らの政治的イデオロギーではなく、無難な政策の発信に終始していた。しかし、彼の積み重ねられた言動や彼の応援演説を行った人たちの発言から、歴史修正主義に依拠した排外的なナショナリズムを政治的イデオロギーとする極右勢力の代表者であったと判断できる。さて、今回の都知事選では、伝統的な保守勢力とは区別される田母神氏の得票率が12%を超え、20代の推定の得票率では20%を超えたことが話題となった。この数字をどう評価するべきだろうか。単純に比較できないものの、2000年代初頭のヨーロッパの国政選挙で極右政党の幾つが得票率10%を超えていたことを考えれば、これは想定外の数字とは言えないだろう。むしろ、この数字が、日本の政治のニュー・ポリティクス化の一つの徴候を示していると理解できるのではないか。そしてここから、今後の民主主義においてこの勢力をどうコントロールしていくかが課題になると推測できるのである。

次に、旧来の政党‐代表制のトップダウンとは異なる、ボトムアップ的な参加民主主義の広がりにニュー・ポリティクス化の傾向を見ることができる。3つの例からこの点を考えてみよう。1つは、ウエッブ系の企業家である家入氏の選挙戦である。SNSを活用した彼の選挙戦の最大の特徴は、政策の策定過程にあったと言える。彼は政策のアイデアをひろく一般の人たちからSNSをとおして募り、それをまとめ上げることで今回の選挙のプラットホームにしたのであった。おそらく、これは政策決定過程に有権者の直接的な関与を可能にしたと言う意味で、ICT(information communication technology)による、新しい直接参加型の民主主義の試みと見なすことができる。しかしながら、そのような手法で策定された政策は、何でもありだがその分、政策の優先順位も、理念上の一貫性も欠如したものであり、また、数値的な裏付けのない実現可能性に乏しいものであった。ここから、家入氏はたんに得票率の低さ(1.6%)という点で幅広い有権者の支持を集めることができなかっただけでなく、ICTによる直接参加において民主主義の質を確保することの困難さや限界を図らずも露呈させた結果となったと言えよう。

もう一つは、先に言及した極右勢力に関してだ。田母神氏の支持層の多くは、自民党支持層に見られる伝統的な保守層というよりはネトウヨと呼ばれる過激な右派勢力だとされる。ネトウヨという集団は、排外主義的なナショナリストの集団であるが、インターネットという言説空間とSNSというコミュニケーション手段をとおして出現した点にその新しさがある。この集団のイデオロギーとアイデンティティはネットという秘匿性の高い言説空間を中心にして形成され、SNSを介した分散的でフラットな関係性の下で連帯意識が醸成される。田母神氏の支持層はネトウヨが主体だとする理解が正確であるなら、彼の善戦は、ネットを主戦場とするネトウヨちの新しいタイプの草の根的な運動の結果であったとも考えられよう。

最後に、政策的には、「ニュー・ポリティクス」にもっとも近い宇都宮氏についても、草の根的な参加が見受けられた。もちろん、この候補は、共産党社民党などの推薦を受けていたため、伝統的な政党の息がかかっていない票を見分けるには、98万票を超える彼の得票数のうちの特に強力な共産党の組織票を割り引かねばならない。昨年の参議院の選挙結果からその組織票をおおよそ70万票と想定すると、30万票近くが既成の政党に依拠しない票と見なすことができる。この票をどう評価するのかは難しい。しかし、例えば、若年世代のネットユーザが利用する視聴者参加型のライブストリーミングスタジオDOMMUNEで宇都宮氏が選挙活動を行い、10万以上の視聴数を獲得したことを考えると、この30万票には、ネットを活用した直接参加型の運動の効果があったよう思われる

これらの2つの視点から今回の都知事選挙を見た場合、日本の民主主義においてニュー・ポリティクス化の傾向が確実に強まりつつあるように思われる。この意味で、代表制民主主義の同じ結果の反復の中に、新しい民主主義の徴候は無視できない形で存在したのである。もしかしたら、今回の選挙は後々、日本の民主主義の分岐点であった評価されることになるかもしれない、そんな選挙であったのである。