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民主主義とその周辺

研究者による民主主義についてのエッセー

「ネット右翼と民主主義」(2) ――「Japanese Only」から民主主義への怨念へ――

「Japanese Only」、ありていに訳せば、「日本人以外、お断り」。この言葉が書き込まれた横断幕が、Jリーグ第2節浦和レッズ鳥栖戦の際、浦和サポーターが入場するゲートに掲げられた。この事件は、大きな話題となっている。その横断幕における「日本人以外」という文言が具体的に誰を名指しているのかについて議論の余地があろうが、民族や人種、国籍における差別を意味していることは明らかだ。こうして、スポーツに排外的で差別的なナショナリズムを持ち込んだことへの非難や、そうした行為への厳罰を求める声が上がっている。この事件から、ネット上で増殖したいわゆるネット右翼言説――以前ならカルト的なネタと見なされた排外主義的言説――が、急速に社会に溢れ出し公共の場で公然と表明されるに至った日本社会の現状を再確認した人も少なくないだろう。 

しかし、それだけでなく、こう疑問に感じた人もいるはずだ。「なぜ、非難され罰せられるかもしれないリスクを冒してまで、排外主義の言説を公の場でアピールするのか」と。そうすることで何かしら具体的な利益を手にしているのであろうか。一部の人たちはそうかもしれないが、多くが利益を得ているとは信じがたい。では、ネット上での高揚感に任せた日常の不満の解消なのか。そうした人たちもいるかもしれないが、憂さ晴らしをするには、「在日朝鮮人出ていけ」とか「日本人以外は入場するな」と挑発する以外のやり方もあるはずで、そのリスクを考えれば、割に合わずあまりに不合理だ。

確かに、ネット右翼的言説を弄する人たちは幼児的で愚かなのだということでこの不合理さを説明するのは簡単だし、その方が安心感もある。しかし、どれほど幼児的で愚かであろうと、利害のためでもなく一時的な憂さ晴らしのためでもなく、そうした言説を真面目に信奉し、たとえ公言することはないにしても、熱心に支持する人たちが存在しているに違いない。そうでなければ、ネット右翼的な言説が社会に広く浸透することは不可能であったろうし、相変わらず一部の人たちのカルト的なネタで終わっていたであろう。

なぜそこまで真面目で熱心なのか。よく言われる答えがある。それは、彼ら彼女らにとって、その排外主義的ナショナリズムを唱えることで確証される「日本人であること」が、不確実で不安定な日々の生活の不安――現在では、それらは程度の差こそあれ、低所得者層に限られた事態ではもはやない――によって苦しめられ傷つけられた自己を癒すためのより所となっている、という指摘だ。つまり、それは傷つけられた自己への愛着と尊厳を回復することで、自らアイデンティティを維持するための基盤になっているというわけだ。このことがネット右翼的言説を支える真面目さや熱心さの理由と考えて差支えないだろう。自らのアイデンティティが賭けられているからには、真面目にならないわけにはいかない。

このように、ネット右翼と呼ばれる集団をアイデンティティの視点から掘り下げて検討すると、この集団と現在の日本の民主主義との不幸な関係が見えてくる。不幸というのは、現在の民主主義の産物であるネット右翼的集団が民主主義を怨念の対象としているからである。

ネット右翼的集団が民主主義の産物であることは、脱工業化社会の下での代表制民主主義の行き詰まりと、この社会で進む脱物質主義的価値観の浸透による「ニュー・ポリティクス」の出現という視点から、これまでの投稿で論じた。それによれば、代表制を基盤に据えた民主主義の行き詰まりから出現したこの集団は、既成の利益集団や政党によって代表されることはなかった。階級的な対立の下で富の配分を主要な争点とするこの制度の内部では、この集団の代表を見つけることは難しい。だから彼ら彼女らはその制度の外部で、日常の政治に従事するわけだ。

もちろん、代表制民主主義において代表されることなく排除される事態は、ネット右翼的な集団が現行の民主主義を恨む理由にもなるかもしれない。しかし、たとえそうだとしても、この事態は、ヨーロッパ諸国に見られるように、脱工業化社会に適合した政党――例えば、緑の党や極右政党――が登場することによって日本においても徐々に解消されていく可能性がある。そして、それに伴ってこの類の怨念は多少とも緩和されるだろう。したがって、以下では、社会の脱工業化と伝統的な代表制度の間に齟齬に起因するのではない、民主主義への怨念について指摘ようと思う。それは、現行の日本憲法が掲げる自由や平等といった人権の理念を実現することで、日本の市民社会の近代化を目指した「戦後民主主義」との関係において生まれる怨念である。代表制とは区別される、思想と行動としての戦後の民主主義を標的とする怨念こそ、おそらく、現在のネット右翼の言説の特異性を表している。このことを理解するために、ネット右翼の代表的格である在特会(在日特権を許さない市民の会)の言説を取り上げてみよう。この組織の主張はネット右翼的言説の中でももっともラディカルなものであるが、それゆえに、ネット右翼的言説の性格を明示するものと思われるからである。

この会は「在日コリアンをはじめとする外国人が日本で不当な権利を享受し、それによって日本人を苦しめている」と主張する。それは、不正を告発し公正さを求める怒りに満ちた市民の声として掲げられる。もちろん、この集団が言うこところの「在日特権」なるものを確認することはできず、かりにあったとしても、それによって日本人が苦しめられているという認識には妥当性がない。したがって、注目するべきなのは、この奇想天外な主張の内容よりは、その主張の裏にある怒りの感情、公正さへの要求である。

ネット右翼的な言説の多くには、怒りの感情と公正さへの要求が存在する。これらの感情や要求が何に由来するかと言えば、それは、与えられるべきはずのもの、正当に約束されたはずのものが剥奪された苦しみの経験、しがって不当な苦しみの経験である。この苦しむ主体は「日本人」としての私たち、その一部としてのこの私である。そして、正当な享受を剥奪されることで苦しむ私とは、本来あるべき存在であることを不当に否定された私である。ここにおいて、苦しむ私のアイデンティティが問題となっていることが分かる。このとき、怒りは恨みへ、公正さへの要求は非難や復讐心へと容易に転化する。 

ところで、この苦しみを自分の努力で解決できない場合、苦しみの原因が自分の置かれた現在の状況に転嫁され、そこから非難や恨みの対象が選びとられる。先に挙げた例では、それが在日朝鮮人をはじめとする外国人ということになる。こうした存在が私たちに約束されたはずの平等な権利、それによって実現される安全な生活を奪っているというわけだ。しかし、苦しみの原因をめぐる告発はここで終わらないであろう。なぜなら、そうした約束をしておきながら、私たちを苦しめる存在を保護することで、結局約束を裏切る当のものがあるからだ。それが、現行の憲法であり、その下で発展した戦後民主主義に他ならない。確かに悪いのは、在日朝鮮人をはじめとする外国人だ。しかし、日本人の権利や生活の安全の保障を理念としている憲法、その理念を実現しようとした戦後民主主義は弱者を装う外国人の権利ばかりを優遇することで、結果として私たち日本人を逆に差別し、公正に享受すべきもの剥奪しているのだ。こうしネット右翼的な集団は、自分たちを苦しめる戦後の民主主義への怨念を募らせることになる。「反日サヨク」というネット右翼のお決まりの文句は、この怨念が喚起する亡霊のような(実体のない)言説だと言えるだろう。

もちろん、ネット右翼的に言説において、苦しみに責任を負うべき対象の選択はきわめて恣意的に行われる。在特会の例で確認したように、そこでは事実の客観的な検証はほとんど重視されない。だからといって、この恣意的な選択を見当違いだと非難しても、意味があるとは思えない。これまでの議論からすれば、ネット右翼をめぐる問題を真剣に受け止めるには、現在の日本の民主主義の制度、さらには戦後民主主義双方のあり方や質について再検討し、その上で、未来の民主主義がいかなるものであるべきか考える必要があるのかもしれない。なぜなら、苦しみの経験は現在から過去へと遡るその原因の追究をとおして歴史(意識)化された怨念を生み出すが、この怨念は未来への展望によってしか消し去ることはできないはずだからである。