民主主義とその周辺

研究者による民主主義についてのエッセー

集団的自衛権の解釈改憲はなぜ問題か?(1)――安倍政治とボナパルティズム――

先月末、日本と北朝鮮の政府間の協議で、拉致問題の進展が見られた。北朝鮮が日本人拉致被害者再調査を実施し、その見返りに、日本は独自の制裁措置を解除するという内容だ。この突然の出来事と、国内政治の主要な争点となっている集団的自衛権の問題との間には、何かしら関係が存在するように思えてならない。

 

拉致問題は利用されたのか?

例えば、このニュースを耳にして、「やはり、このタイミングか」、という印象を持った人は少なくないに違いない。このタイミングというのは、安倍首相が、国内政治の重要課題の実現を容易にするべく、拉致問題を「だし」に使った、という意味である。この重要課題はいくつもあろうが、おそらく誰もが頭に浮かぶのが、集団的自衛権の問題である。いわゆる解釈改憲による集団的自衛権の行使の解禁については、連立を組む公明党、特にその支持母体である創価学会の反対を受け、さらに、法律や政治学の専門家の多くからは厳しい批判を突き付けられている。また、世論調査も各調査媒体によって結果が割れている現状を見ると、世論の動向を予測することは容易ではなさそうだ。とはいえ、安倍首相としては、公明党との交渉を有利に進めるためにも、世論を味方につけておきたいところであろう。とすると、彼にはどのような選択肢があるのか。おそらく、懸案の集団的自衛権の問題からは世論の目を背けさせ、それとは別のイシューで自らへの支持を確保した上で、強行突破への体力を蓄えておくこと、これを目指すだろう。このために拉致問題が利用されたのかもしれない。「このタイミングか」という印象は、こんな素朴な推論に裏打ちされているように思われる。

 

これが印象論であることは言うまでもない。事の次第は安倍首相を中心にした関係者のみ知るところだろう。とはいえ、今回の協議における日本側の決定がこの時期に下されなければならなかった理由を、拉致問題の政治的重要性や安倍首相本人の政治的信条に求めるとすれば、あまりにナイーヴに過ぎるだろう。政治家(君主)にはキツネのような狡猾さが必要であるとするなら、拉致問題の利用の可能性は十分にあるはずだ。上記の推論の根拠の一つは、ここに求められることになる。

 

ボナパルティズムについて

こうした印象は多くの人たちが指摘するところであろう。しかし、ここではまったく別の観点から浮かび上がる関係を指摘しておきたい。それは、拉致問題集団的自衛権の問題への安部首相の取り組みには共通する点があって、この共通点が彼の政治の一面を象徴しているというものである。その一面とは、安倍政治のボナパルティズム的性格である。

 

ボナパルティズムを分かりやすく言えば、執行権力を掌握した政治家(政府)が大衆の支持の下で行う独裁政治といったものだ。この言葉を広く世に普及させる一因になったのが、カール・マルクスの『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』というテキストである。そこでマルクスは、ボナパルティズムの語源となったナポレオン・ボナパルトの甥、ルイ・ボナパルト(後のナポレオン3世)を取り上げ、1848年の二月革命に対してボナパルトが遂行した反革命のプロセスを描いている。

 

すべての国民の「家父長的な恩人」であることへの欲望

安倍首相のボナパルティズム的性格は、このテキストの「ボナパルトは、すべて階級の家父長的な恩人として現われたがっている」というセンテンスにおいて予感される。すなわち、安部首相は、ルイ・ボナパルトが19世紀のフランスでそうであったように、現代の日本社会を構成するすべての国民の父のように振る舞い、頼りになる恩人として敬愛されることを欲望する政治家なのではないか、彼の政治の特質はこの欲望から理解されるべきではないか、と。

 

この予感を例証するのが、拉致問題集団的自衛権の問題である。例えば、集団的自衛権行使の解禁を進める旨を国民に自ら公表したテレビでのプレゼンで、彼が用いたフリップ・ボード。集団的自衛権の行使によって派兵される自衛隊、そして自衛隊の軍事行動に最終的な責任を負う安部首相は、温情の厚い父として、他国で紛争に巻き込まれた母親とその子を救出するのだ。

 

拉致問題に関しては言うまでもない。彼は、他国によって拉致されたあらゆる日本の国民――すなわち子――を自らの手で救出する父として振る舞うことを望む。まるで父のように振る舞うことですべての国民の恩人として承認され愛されることを欲する政治家、それが安部ではないだろうか(だからといって、安倍首相の政治の本質が、外交的な想像力と歴史的な見通しを欠いた対米従属路線にあるという解釈を否定するわけではないのだが)。その結果、恩義を施す父として安倍首相は、マルクスの言葉を捩って言えば、「日本を取り戻すことができるようにするために、日本のすべてを売り払う」ことになるのかもしれない。

 

ボナパルティストの夢

もちろん、安倍政治≒ボナパルティズムという指摘がこうした例証に依拠するだけなら、それは表層的な印象論の域を出ることはない。しかし、ボナパルティズムという政治の手法をマルクスが分析した歴史的な事態に即して理解した上で、集団的自衛権の行使を解禁しようとする安倍首相の取り組みを検討するなら、彼の政治のボナパルティズム的性格は、たんなる印象論以上の含意を持つことになる。

 

そこで、1848年から1852年までのフランスにおけるボナパルティズムに話を戻そう。マルクスが分析した事態とは、官僚組織と軍隊を掌握した大統領(行政府の長)ルイ・ボナパルトによる、民主的に選挙された議会=立法府の無力化、最終的に議会の息の根を止め憲法を踏みにじるクーデタの実施、そして新たな憲法の下での帝政の復活である。先にも触れたとおり、この事態は、単純化して言えば、執行権力=行政権力の独裁という政治のあり方を意味する。しかし、ここで注目したいのは(マルクスの議論からは少々離れることになるが)、行政府の独裁がどのように実現されたのか、ということである。これに焦点を合わせるなら、代表制民主主義――議会主義と呼んでもよいであろう――の形骸化と憲法の蹂躙、そして国民投票によるクーデタや独裁の正統化、これらがボナパルティズムの政治手法として浮かび上がる。

 

もちろん、19世紀のフランスで生じたこの事態を一般化して、現在の日本にそのまま当てはめることは適切ではないし、そもそもそれは不可能だ。しかし、少なくともそこには、曲がりなりにも民主的と呼びうる国家において、行政府が立法府や司法府を支配下に置くことですべての政治権力を章掌する一つのやり方を見ることができる。それが行政(政府)による代表制民主政治(議会)の軽視であり、政府と議会双方をコントロールする機能を持った憲法の否定である。この手法を踏むことで、いわゆる民主的な国家において無制約の政治的権力を手に入れること、これがボナパルティストの夢なのだ。

 

集団的自衛権の問題の核心

それでは、安倍首相の政治のボナパルティズム的性格は集団的自衛権の問題においてどのように現れているのか。それは、安倍首相が現行憲法の根幹にかかわる集団的自衛権の行使を解禁しようとする際の、そのやり方において現れる。すなわち、日本国憲法第96条に明記された正統な手続きを経た憲法改正ではなく、行政府の憲法解釈の変更による解禁というやり方である。

 

言うまでもなく、この96条は、憲法改正へのハードルを高くすることで最高法規としての憲法の地位を保証しているだけでない。それは、最終的な決定を下す国民投票の前に、国会における総議員の3分の2以上の賛成にもとづく発議というプロセスを定めることで、憲法改正の正統性をより十全な民主主義的手続きに求めている。したがって、こうしたプロセスが不可欠な理由は、たんに国民投票で生じうる多数者の暴政から憲法を守るためだというのだけでは不十分である。むしろ、再帰性の深まりの中で説得力を持ちうる理由は、次のようなものである。すなわち、議会こそ、3分の2という条件が求めるより濃い民主的正統性を、開かれた討議と徹底した説明責任をとおして憲法改正に付与する能力と義務を持った機関だからだ、という理由だ。

 

そうだとすれば、憲法に記された正統な手続きを踏むことなく、憲法の根幹を変更しようとする安倍首相の取り組みは、究極的には憲法を否定することであると同時に、憲法改正に正統性を付与する議会を軽視する試みであると言える。これがボナパルティズム的手法の反復であることは論を俟たない。

 

この手法を容認するのなら、どうなるのか。確かに、政治家個人による独裁という事態が生じることは考えにくい。しかし、ただでさえ行政権力の肥大化が問題となっている現代の国家において、それを民主的にコントロールし、行政府の暴走を防ぐことはいっそう困難になるに間違いない。万能感に浸った安倍首相が国民の恩人として父のような存在であることを欲望しているとするなら、彼が限りなく無制約な権力を手に入れようとするボナパルティストの夢を見ないと誰が断言できようか。

 

こうして、安倍政治のボナパルティズム的性格の予感は、集団的自衛権の問題の核心とその危険性に気付かせてくれるのである。すなわち、それが、憲法改正ではなくて憲法解釈の変更による手段的自衛権の解禁というそのやり方にあるということである。