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民主主義とその周辺

研究者による民主主義についてのエッセー

集団的自衛権の解釈改憲はなぜ問題か?(2)――立憲主義から国民主権へ――

どうやら、解釈改憲による集団的自衛権行使の解禁は、もはや時間の問題でしかないような状況のようだ。大方の予想通り、公明党は連立を離脱するほどの覚悟もなく、結局、自民党集団的自衛権行使の解禁案に対して多少の制約を課す程度で、妥協することになりそうだ。また、相変わらず世論の反応も鈍く、どこか他人事のような雰囲気が支配的である。ここから、集団的自衛権解釈改憲に反対の立場の人びとは、勝敗の決したゲームを続けることになると言えそうだ。

 

このような事態は予期できたことなので、悲嘆する人は少ないだろう。なにより、このゲームが終わった後にも新たなラウンドが始まるわけで、それを考えれば、ここで悲嘆するより、現在懸案となっている集団的自衛権問題の成り行きを改めて検討してみることが賢明だろう。そこで、以下では、集団的自衛権の行使解禁を憲法解釈の変更によって実現するという、いわば掟破りの手法を許容するような近年の日本政治の状況を指摘しようと思う。そのあと、解釈改憲に対する理論的な批判がどのように展開されているのかを確認した上で、最後に、集団的自衛権の行使の解禁が実現した場合、日本の民主主義を守るために何ができるのか考えてみよう。

 

民主的な社会に内在する脅威

前回の投稿では、安倍政治のボナパルティズム的性格を指摘した。ただ、注意を促したいのは、このボナパルティズムという言葉は学問的な意味において厳密に使われていたわけではない、ということである。19世紀の終わりから20世紀にかけてしばしば使用されたシーザリズム(caesarism)という言葉でも安倍政治の性格を指摘できたであろう。これらの言葉によって表象される安倍政治の特徴は、安倍首相をトップに据える行政府の権力がその自立化とその暴走を防ぐためのさまざまな歯止めから逃れ、制約のより少ない形で行使されるようになる点にある。

 

こうした行政府の権力の自立化やその暴走の可能性は、近代以降の民主主義をめぐる議論においてつねに懸念された問題であった。ジャン=ジャック・ルソーは『社会契約論』において、行政府の逸脱を民主的な国家を崩壊させる原因として指摘している。また、19世紀後半以降、経済的領域への積極的な介入と社会福祉制度の拡充を目指した社会国家の発展に伴い、複雑化し巨大化した行政府とそれが行使する権力を民主的なコントロールの下に置くことが、民主主義の理論家にとって切実な課題であり続けた。一般に、この課題に対する取組みは、三権分立人民主権という理論を素地にして、司法府や立法府によって行政府をコントロールするための具体的な制度として結実していく。

 

いずれにせよ、重要なことは、現代の多くの国々の憲法に表明された近代民主主義の理念――それは個人の自由と社会の多様性の最大限の尊重、それを実現する条件としての社会生活(経済・文化・政治)への参加の同等性――に立脚する社会にとって、その脅威は社会秩序の統治を任務とする権力、すなわち行政権力だ、という認識が持続して存在してきたということである。すなわち、行政の行使する権力は、民主的なコントロールに服することなく自立化してしまうことで、民主主義の理念を踏みにじり、この結果、民主的な社会を破壊する可能性があるという認識である。この認識が、たんなる理論からの抽象的な帰結というよりは、多くの社会が記憶する歴史上の経験に根差したものであることは言うまでもない。

 

安倍政治を生み出した背景

しかし、その一方で、行政府が社会秩序の統治に必要な政策を効果的にかつ円滑に実施することを求める要求もつねに存在した。特に1970年代以降、社会の民主化が進んだ福祉国家において、行政府が対応すべき国民のニーズの増大と多様化という事態が生じたが、この事態は行政府の統治能力を超過する深刻な負荷になると理解されていく。ここから、サミュエル・ハンチントンらが論じたような行政府の「統治能力の危機」という言説が福祉国家批判を伴い、広く社会に浸透することになる。こうした中、社会における民主化の流れを抑制する一方で、行政府の権限の強化とその組織のリーダーのリーダーシップによる政治の停滞の打破を求める声が高まることになる。そして冷戦の終結後、新自由主義と結びついたグローバリゼイションの進展による国内外の秩序の再編は、この声をいっそう強くし、また拡散させる結果となった。

 

こうした傾向は、それぞれの社会において多様な形で現実の政治に反映されてきた。最近の日本の政治に目を向けた場合、衆参のねじれ現象が話題とされたゼロ年代後半以降、政党やマスコミによって盛んに吹聴された「決断する政治」や「決められる政治」はその一例と言える。そして、この流れの中から安倍政治が出現したわけだ。ただ、安倍政治に特徴的なのは、この政治家特有の高揚感に任せて「決められる政治」を手段を選ばず推し進めることで、上で述べた民主主義と行政府の権力との緊張関係を一気に露呈させた点にある。それが掟破りの憲法解釈の変更による集団的自衛権の行使の解禁である。手段を選ばないというのは、安倍首相が慣行に反して、集団的自衛権行使の解禁に積極的な外交官を内閣法制局長官に任命したことに見て取れるだろう。こうして安倍政治は、多くの人びとに、歯止めを失った行政権力の暴走という民主国家に内在する悪夢を思い出させたわけだ。

 

立憲主義からの批判

さて、安倍首相が推し進める解釈改憲への批判はどのようなものがあるのだろうか。一般には、立憲主義的な立場からの批判と、議会主義的な立場からの批判がある。このうち主流は、前者からなされるものである。そこで立憲主義から批判について簡単に見てみよう。

 

立憲主義は、法律の専門家の多くが安倍首相の解釈改憲を批判する際のより所となっている。それによれば、憲法は統治権力に対してすべきこととしてはならないことを規定し、行政・立法・司法各府の権力の自立化と暴走を抑制することで、国民の自由と権利を守る機能を持つ。民主的な社会を維持するには、統治権力がこの憲法の地位と機能を尊重しその命令を遵守して法を制定・執行・適用せねばならない。これを近代立憲主義と言う(ただ、立憲主義と民主主義との間に親和的な関係が確立されるのは、近代に至ってのことでしかない)。この立憲主義を擁護しようとする人たちは次のような批判を展開する。すなわち、安倍首相の解釈改憲は、コントロールされるもの(行政府)がコントロールするもの(憲法)を自らの都合に合わせて変えることを意味するのであって、それゆえ、立憲主義という民主的な社会の根本原則を侵し、行政権力の暴走を許す危険性がある、と。では、立憲主義からの批判は、安倍首相が進める解釈改憲の現実的な歯止めをどう想定しているのであろうか。

 

立憲主義を守ることは可能か?

立憲主義からの批判はあくまでも規範的な立場からの批判である。したがって、この批判の狙いは、何よりも、解釈改憲による集団的自衛権行使の解禁に反対する世論の喚起にある。ここから、それが想定する第一の歯止めは世論であり、その世論に影響されざるをえない政党や政治家であろう。しかし、世論という歯止めは、あまりに不確かなものであり、現在の世論がそうした機能を果たしうることは想像すら難しい。すでに指摘した通り、実際の政治日程では、この解禁は憲法解釈変更の閣議決定を経て、今年中には関連する法案が可決されることで現実のものとなるであろう。では、その期に及んでも、解釈改憲による集団的自衛権の行使に対して、何らかの歯止めを想定できるであろうか。

 

もちろんそれは可能だ。歯止めとなるのは、憲法を守るための権能を備えた組織、すなわち、違憲立法審査権を有した司法府である。この司法府が立憲主義を唱える人たちの最後の砦である。集団的自衛権を行使可能にするための法案が成立し施行された後には、日本国内でその法律をめぐる法的紛争が起きるに違いない。そして、その法律の合憲性が訴訟の中で争われることになるだろう。このとき、最高裁判所を頂点とする司法府は、法律に対する違憲判決を出すことで、安倍首相の解釈改憲による集団的自衛権の行使を無効にする最後の防波堤となる、こんな想定が可能なのだ。

 

とはいえ、これはあくまでの想定である。はたして、最高裁違憲判決を出すことで、憲法に対する守護者となるのだろうか。現時点で、この問いに対して答えられる人は誰もいない。そもそも、最高裁憲法判断を回避することができる(例えば、「統治行為論」)。それだけでない。三権分立論から憲法上許された、内閣による最高裁判事の任命権を利用することで、行政府が司法府を支配下に治めることは不可能ではない。つまり、行政府が自らの傀儡によって最高裁の判事を構成することが考えられるのだ(もちろん、最高裁判事の任期という制約はあるが)。そうなれば、行政府の恣意的な解釈から憲法を守ることを司法府に期待することはできない。

 

究極の歯止め――国民という主権者の顕現――

では、こうした悪夢が現実のものとなり、立憲主義は踏みにじられ、そして行政府はその権力を思うままに行使するという事態がすんなりやってくることになるのだろうか。現行憲法の民主的な制度設計においては、そうならない可能性もある。すなわち、民主的な社会を守るために必要な行政権力をコントロールするための手段は、まだ残されている。

 

よく知られたいくつかの例を挙げよう。その中心となる手段は、もちろん、選挙である。選挙によって行政府を交代させることが可能となる。さらに、先に述べた行政府による司法府の支配に関して言えば、衆議院総選挙と同時に実施される最高裁判所判事に対する国民審査もその手段に数えることができる。理論上は――したがって、実際にはまだ実現してはいないが――、国民はこの手続きをとおして、最高裁判事を罷免することが可能となる。

 

もう一つは、デモなどの直接行動である。デモには執行権力に対して直接の強制力はないものの、街頭に立つ市民が、民主的な社会を守るという理由の正統性によって主権者としての国民を代表することになる。これらは、国民が主権者として顕現し、その権力を行使する事例だと言える。

 

ここから、安倍首相の解釈改憲による集団的自衛権行使の解禁を防ぐことができるかどうかは、民主的な社会を守るために主権者である国民が顕現するかどうかにかかっている、ということが分かる。言い換えれば、現行の日本国憲法では、主権という究極の権力を保持した国民こそ、民主的な社会を守る究極の番人として指名されているのである。

 

ほとんど不可能な期待

民主的な社会を守るために、国民が主権者として顕現するなどということが現実にあるのだろうか。確かに、日本の社会の実情を見るかぎり、それはほとんど不可能な期待でしかない。しかし、少なくとも言えることは、現行の憲法において、行政府の解釈改憲による立憲主義の蹂躙、ひいては民主主義の破壊に際し、主権者にはそれに対抗する手段が存在するということである。その手段を行使するかしないかは主権者の意思と能力によるが、いずれにせよ、行使することは可能なのである。

 

やはり、そうした可能性を指摘するだけでは、むなしさが残るだけだ。結局、立憲主義や民主的な社会を行政府の権力から守ろうとする人たちにとって、事態はここまで深刻だということなのだろう。もはや、偽りの安寧の中でまどろむ主権者としての国民に期待するしかないからだ。

 

こうして、またしても、民主主義の凡庸な鉄則を思い出すことになる。すなわち、民主主義ほど、それが危機に直面したとき頼りにならないものはない、という鉄則だ。そうであるのは、危機を乗り越えるのに必要な市民の意思も能力も一日で獲得されるわけがないからだ。それらは日常生活の中の民主的な取り組みの中でしか培われない。だから、エリート(主義者)たちが民主主義の危機に際して、立憲主義を守れと叫んでも多くの普通の人たちには十分に届かないのである。