民主主義とその周辺

研究者による民主主義についてのエッセー

多数決投票ですべてが解決するわけではない(1)――スコットランドの独立問題から考える、社会の分断を乗り越えるために民主主義に必要なこと――

 間近に迫った住民投票

今月の18日に、スコットランドでは、独立の是非をめぐる住民投票が実施される。現在のスコットランドは、イギリス、すなわち、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国を構成しているが、1707年以前は、独立した王国であった。イングランドとの統合後も、スコットランドは独自の文化や産業を発展させることで、その名を歴史に刻んできた。例えば、18世紀には当時のヨーロッパを席巻した啓蒙主義運動の一大拠点――デイヴィッド・ヒュームやアダム・スミス、アダム・ファーガスンらを輩出した、いわゆるスコットランド啓蒙の地――であったし、また、続く産業革命以降、スコットランドグラスゴーは、ヨーロッパの産業の中心地の一つであった。そのスコットランドが、その住民の意思次第で、300年以上の時を経て主権国家として独立するかもしれないというわけだ。かりに、スコットランドの独立が実現するなら、おそらく、それは、20世紀後半のソ連の崩壊とロシアの誕生や南アフリカでのアパルトヘイトの廃止に並ぶ歴史的出来事になるように思われる。

 

間近に迫ったスコットランド独立をめぐる住民投票は、イギリス国内だけでなく、国外の多くの人びとの関心も集めているようだ。今年に入り、オバマ大統領はスコットランドの独立をけん制する発言をしているし、日本でも、新聞の記事やネット上のコラムでしばしばこの話題を見かけるようになった。しかし、スコットランドの独立に直接的な利害を持っているであろうイギリス国内に住む人たちならいざ知らず、ユーラシア大陸を挟み遠く離れた日本の私たちがこの問題に注目するなら、その理由はどこにあるのだろうか。もちろん、その理由は様々なはずだ。世界経済に対する影響に関心を持つ人もいるだろう。例えば、北海油田は独立後のスコットランドに帰属する可能性があり、そうなればイギリス経済に少なからぬ打撃を与えるに違いない。また、通貨ポンドの不安定化を引き起こすことも考えられる。安全保障に対する影響に関心を持つ人もいるはずだ。というのも、イギリスの核兵器を配備する軍事施設は、スコットランドのファスレーンにあるからだ。さらに、国際政治上の関心からすれば、スコットランドの独立は、例えば、北アイルランド問題やバスク問題などヨーロッパにおいてくすぶり続けている民族問題に油を注ぐ可能性もあり、現行の国民国家を中心に組織されているEUを内側から動揺させることになるだろう。

 

スコットランドの独立問題を民主主義の問題として考える

上で述べた関心は、どれも真剣な議論に値するだろう。しかし、ここでは、それらとは異なる関心から、スコットランドの独立問題について考えてみようと思う。すなわち、成熟した社会の民主政治が、独立か否かという社会を二分する政治的争点を、社会の分断という危機に陥ることなく解決するには、何が必要なのかという関心である。この関心からスコットランドの独立問題を考えことによって、民主主義が多数決を原則とする選挙や投票にはとどまらない政治的な思考であり実践であることが自ずと明らかになるはずである。

 

私たちは、通常、民主政治における決定は投票によって確定される多数者の意思にもとづくべきであり、さらに、投票で敗北した少数者は勝利した多数者の意思を受け入れるべきだという考えを共有している。しかし、なぜそうであるべきなのか。この問いに対する答えの一つは、多数者の意思こそ社会全体の共通の意思であるというものだ。したがって、民主主義に関して共有されてきたその考えは、多数者の意思と社会全体の意思を同一視できるという想定に裏付けられてきたのである。

 

しかし、これはあくまでも想定である。したがって、現実の事態を指示しているわけではない。さらに、想定としても、説得的な根拠を欠いた、かなり脆弱な類の想定だ。なぜなら、多数(majority)と全員一致(unanimity)とが異なること、ルソー風に言えば、全体意思と一般意思とが異なることは誰の目にも明らかだからだ。それに少数者によって社会一般の利害が代表される可能性がないとは言えない。そもそも、多数者の意思と社会全体の共通の意思との同一視は、一般意思という概念を代表制民主主義に移植する際に便宜上、必要とされた想定なのだと指摘する人たちもいる。

 

それにもかかわらず、この想定は未だに通用しているようで、それに裏付けられた、多数者の意思に従うべきという考えも相変わらず自明視され現代の民主主義の常識になっている。選挙や法制定における多数決投票によって政治的決定は民主的な正統性を獲得するという考えが、比較的抵抗なく受け入れられていることをみれば、このことは否定しようもない。

 

しかし、今回のスコットランドの独立問題のように、社会を分断するような政治的争点が争われる場合、投票で勝利した多数者の意思に少数者は従わねばならないというこの常識が通用しないことがありうるし、また実際にある。もちろん、政権の選択や法律の制定(その改廃を含む)のような定期的に繰り返される政治的争点においては、投票による勝者の決定という考えは支持され、効力を持っている。それは、いわば、政権選択という競争ゲームにおいて勝者と敗者を決するルールを遵守するのと同じようなことだ。なぜ、ルールが遵守されるかと言えば、このゲームが続く限り、今回は敗者であっても、次のラウンドでは自分が勝者になれるかもしれないからだ。これに対して、国家の独立や憲法の改正などの政治的争点は、ゲームが行われる土台や枠組み自体を変えてしまう可能性を意味するわけで、それまで行われていたゲームのルールをそのまま適応できるとは限らない。だから、そのような争点が争われる場合、少数者が投票によって正統化された多数者の意思への服従を拒絶したり、民主的な決定の手続きとは異なるやり方で、例えば、物理的な暴力に訴えるというやり方で、自分たちの意思を貫徹しようしたりとすることが実際に起きうるのである。その中で、少数者は、多数者の意思が社会の共通の意思であるという想定が虚構であることを暴露し、この偽りの想定にもとづいた投票の結果の正統性を剥奪することで、自分たちの思想と行動を擁護することになる。

 

とすると、社会を分断する可能性のある重大な選択を迫る政治的争点を民主的に解決しようとする上で、それが招きうる危機を避けるためには、多数者の意思=社会全体の意思という想定に依拠する投票以上の何かが必要となってくるはずである。すなわち、この想定が虚構であったとしても、それにもとづいた決定を受け入れるために必要となる何かだ。いったいそれは何か。実は、この問いの答えの一つが、スコットランド市民の草根の根の運動から見えてくる。したがって、以下では、この運動に焦点を当てることで、その何かついて考えようと思う。このことについて考えることは、何より、憲法の改正という、社会を二分する政治的争点に遠からず向き合わねばならない私たちにとって、切迫した課題であるはずだ。

(後編に続く)