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民主主義とその周辺

研究者による民主主義についてのエッセー

民主的な社会とその敵――香港の民主化デモから考える、民主主義と不平等の問題――

香港のデモの光景とその目撃者としての私たち

アンブレラ・レボルーションと呼ばれる、香港での民主化デモから1ヶ月以上が過ぎた。市民による金融街の占拠と行政当局によるその暴力的な排除によって世界の注目を集めたこの抗議行動は、中国政府が決定した香港の行政長官の選挙制度に反発し、「真の普通選挙」の実施を求めるものであった。当初、8万に近くに上る人びとを動員した民主化デモも、行政当局の強硬な姿勢によって、その規模も縮小し、出口の目えない状況に陥っている。

 

この出来事は、テレビや新聞、SNS、そしてYouTubeなどで遠く離れた日本の私たちにも伝えられた。民主化のデモに参加した人たちは、民主主義の制度が確立された社会に住む私たちにとってあまりに当然の要求を掲げているだけだった。それなのに、警棒と催涙ガスによって追い立てられ、咽び苦しむ若者たちの姿がテレビやネット上の動画に映し出された。それを傍観した人の中には――アダム・スミスが考えたように私たちが依然として道徳的な存在であるなら――、香港の若者たちの苦難に共感の念を抱いた人も少なくないはずだ。

 

この共感から出発して、中国共産党の統治に動揺が生じるのではないかと期待をした人もいるだろうし、逆に、現在の中国共産党の支配下での民主化の困難さを再認した人もいるだろう。あるいは、共感に触発された思考を自分たちの暮らす日本社会へと向けた人もいるだろう。その場合、こんな比較が脳裏をよぎったかもしれない。自分たちの代表者は自分たちで決めるという、民主主義の最も基本的な原則にもとづいた社会を作ることを渇望する香港の若者たちの熱意や勇気と、現行の憲法によって保障されてきた民主主義に対して日本社会に蔓延する無関心とシニシズム。民主主義を求めて立ち上がる活力ある向こう側の社会と、制度化された民主主義の帰趨に無関心な麻痺状態にあるこちら側の社会。メディアを通して届けられる光景が日本の民主主義の実情に対するこうした認識を導くとすれば、そこから、少なからぬ落胆や失望といった感情が生れてもおかしなことではない。

 

社会の成熟の代償としての民主主義への無関心さ

ところで、こうした反応がナイーヴで表面的だと批判されるようなことは容易に想像できる。外から見れば、真の普通選挙というきわめて分かりやすい要求を掲げた民主化デモも、香港社会への中国大陸の影響力が拡大したことによる、経済的あるいは文化的動揺がその遠因となっていること考えると、それほど単純な出来事でもなさそうだ。何より、民主主義の成熟という観点からして、日本の社会と香港社会の置かれている状況は大きく異なるわけで、その違いを無視して、双方の社会を比較すること自体、ナンセンスなことだとも言いうる。民主主義を制度として獲得しようとする社会の熱さに対して、すでに制度として民主主義が保障され当たり前のものとなった社会の無関心さは、民主的な社会の成熟の帰結ないしは代償なのだ。日本のように成熟した社会において、民主主義の制度が攻撃されたり、民主的な価値や規範が毀損されたりすることがない限り、つまり、民主主義が危機的な状況にない限り、それに無関心なのは当然のことであり、ましてそれを守るために行動する必要性も可能性も存在するはずがないのである。

 

確かに、この批判は理に適ったものだ。しかし、私たちの社会の民主主義は実際に危機的な状況にある、あるいはそうした状況に向かいつつある、としたらどうだろうか。その場合、香港の民主化デモの光景に触発された失望や落胆といった感情がまったく見当違いだと断言するのは難しくなるはずだ。では、私たちの民主主義は実際、危機にあるのだろうか、あるとすれば、それはどのような意味においてなのか。

 

このことを検討するには、民主的な社会とはどのような社会なのか、いま一度、考えてみる必要がある。そうすることで、民主主義に目覚めてまだ日の浅い香港社会の未来を蝕むのとは違った形で、すでに民主的な制度が確立された日本社会の未来を蝕むものが何であるかが見えてくるはずだ。

 

民主的な社会とは何か?――「平等な者たちからなる自由な共同体」――

20世紀の半ば以降、民主主義の理論的な考察は、民主的な社会の政治制度上の特徴やそれが実現される上での具体的な条件が何であるかを明らかにしようとしてきた。著名な政治学者によれば、それらは、例えば、法を制定する議会、それを施行する政府が、自由で公正な選挙によって選出された代表者によって構成されること。その選挙に参加する権利(選挙権と被選挙権)は、実質的にすべての成人に付与されること。この選挙が定期的に行われること。結社を設立する自由、表現の自由をはじめとする政治的権利が保障されていること。情報へアクセスする権利が市民に保障され、政府がそれを独占しないこと。市民による政治的アジェンダの設定が制度上可能であること、などである。これらが制度化されている社会は民主的な社会と呼ぶことができる。ここから、日本を含めた現在の多くの先進諸国は民主的な社会であると言える。

 

しかし、教科書風に定義されたこれらの民主社会の特徴は、実は、17世紀以降のヨーロッパおよびアメリカの歴史の中で実際に獲得されてきた政治制度を記述したものに過ぎない。そうだとしたら、なぜ、それらの制度が備わっているとき、その社会は民主的なのかという疑問が出てくる――それらの制度が現在の民主的な社会に見出せる制度だからだ、という応答はトートロジーであり、答えのようで答えではないから――。この疑問は次のように変換できる。実際の歴史の中で、このような制度によって目指された民主的な社会とは、元来、どんな社会だったのか?と。

 

この疑問への答えは近代の民主主義の理論上の起源として位置づけられるテキスト――例えば、ルソーやシィエスのテキスト――に明確に刻み込まれている。すなわち、民主的な社会とは「平等な者たちからなる自由な共同体」である。これが実際の歴史の中で目指すべき民主的な社会の像とされたのである。

 

民主社会が「平等な者たちから構成される」という理解を意外に思う人もいるだろう。なぜなら、現代の私たちは、自由と平等とは両立し難いと考えがちだからだ。しかし、ロザンヴァロンが指摘しているように、民主的な社会の創設を目指した当時の人びとにとって、自由であるためには、平等が不可欠であることは余りに自明なことであった。ルソーも、「平等――自由はそれを欠いては、存在できない」と言っている。

 

いずれにしても、民主的な社会の元来の姿をこのように理解するなら、私たちの社会が直面している問題が何であるかは判然としている。すなわち、現代の民主的な政治制度を備えた社会において、平等が失われつつあるということである。そして、この平等の喪失が、日本を含めた民主的な社会を危機に晒しつつあるように見える。

 

民主的な社会における二つの平等

しかし、「平等な者たちからなる自由な社会」といった場合の、平等とは何を意味するのか。一般に、それは法によって保障された権利の平等を意味する。とすれば、現在の民主的な社会において憲法を中心にした制度が、これを保障している。したがって、この意味での平等が喪失されつつあるというのは、現状に対する誤認ではないのか。

 

この指摘は一面で正しい。例えば、ルソーが構想した「平等な者たちからなる自由な共同体」においても、平等とは、第一に、権利主体における形式的な(法的な)平等を意味している。しかし、この意味での平等が制度上保障されさえすれば、即座に「平等な者たちからなる自由な共同体」が実現するというのであれば、それは誤りである。なぜなら、この形式的な平等は、ある程度の実質的な平等――すなわち、経済的あるいは社会的、文化的な平等――を欠いては、空虚なものとなってしまうからである。例えば、貧しさゆえに奴隷的な条件で労働に従事せざるをえない人は、どれほど権利上の平等が保障されていたとしても、自由な存在であるとは言えない。

 

だから、ルソーは、民主的な社会には、極端な経済的不平等が存在してはならないとした。すなわち、自由な社会に生きる平等な市民たちは、「他の市民を買えるほど、豊かではなく、身売りを余儀なくされるほど貧しくはない」状況になければならないのである。また、実際の歴史においても、民主的な社会の実現のためには、ある程度の実質的な平等が不可欠であるという社会的な合意が徐々に形成されてきた。そこで、20世紀の福祉国家は富の再配分を中心にしたさまざまな政策によって、ある程度の実質的な平等の保障――実質的な形での極端な不平等の排除――を目指してきたのである。要するに、私たちの民主的な社会はその存続のために、たんなる法=権利上の平等を制度化するだけでなく、極端な経済的あるいは社会的不平等が容認され放置されるのを拒否し、ある程度の実質的な平等が保障されるよう努力してきたのである。

 

民主的な社会とその敵

もちろん、どの程度の実質的な不平等が容認され、どのようにして実質的な平等が保障されるべきであるかという問題は、つねに論争の対象であり続けており、それに対する満場一致の答えがあるわけではない。しかし、近年の統計調査が示しているとおり、日本の含めた多くの民主的な社会では、現在その内部に、極端な不平等が蔓延することによって、一部の少数の持てる者とその他の大多数の持たざる者との分断が生じつつある。1980年代以降、新自由主義福祉国家の息の根を止めるべく登場して以来、この分断は徐々に進行していった。しかし、それは、もはや新自由主義的な政策をやめればどうにかなるような問題ではなくなってしまった。

 

現在、この分断が民主主義の未来に暗い影をとしている。というのは、この分断が、民主的な社会の構成員すべてにとっての共同利害が存在するという想定を困難にしつつあるからである。ルソーによれば、この利害の共同性こそ民主的な社会の建設を可能にする紐帯であった。だから、共同の利害の想定が難しくなるということは、共に一つの社会を作り上げ守っていく動機も利益も存在しなくなりつつあることを意味する。要するに、シィエスの言葉を拝借すれば、「国家の中のもう一つの国家」が再び生まれつつあるのだ。この「もう一つの国家」は、言うまでもなく、現代に再び現れた「貴族」――フランス革命時にシィエスが厳しく弾劾した、来たるべき社会の敵――という階層によって構成されているのである。

 

日本の民主主義が危機にあるかどうかは、例えば、安倍政権下における、特定秘密保護法の施行や、閣議決定による憲法解釈の変更にもとづく集団的自衛権の行使の容認とその法制化などから議論することが可能であるし、実際に議論されている。しかし、これまでに論じてきたことは、民主主義の危機はそれだけではないということだ。それらの事例のようにそれほどはっきりとはしないものの、民主的な社会の根幹を着実に蝕む極端な不平等の蔓延が、確実に私たちの社会の脅威になりつつあるように思われる。なぜなら、この不平等の蔓延が、憲法によって保障された、法=権利上の平等を形骸化することで、「平等な者たちの自由な社会」を崩壊させてしまう可能性があるからだ。

 

そう考えると、香港のデモの光景によって喚起された落胆や失望をナイーヴすぎると簡単に切り捨てることはもはやできないのではないか。むしろ、その光景を目撃したにもかかわらず、自分たちの民主的な社会の実情に再帰的な眼差しを向けることのない人がいるとすれば、それはそれで、ナイーヴすぎるように思われる。