民主主義とその周辺

研究者による民主主義についてのエッセー

奇妙な選挙と民主主義の蹉跌(後編)――選挙だけが「民意」を表明する機会ではない――

予期された結果

第47回衆議院の総選挙は、52%という戦後最低の投票率の下で、総議席数の3分の2以上を獲得した自民党公明党連立政権の圧勝という結果に終わった。この結果は、今回の選挙への有権者の関心の低さを含め、事前の予想通りであり、何らの驚きも、悲嘆も喚起するものではなかった。次世代の党の議席数の激減と、日本共産党の躍進以外は、結局、選挙前の勢力図とほとんど変わっていなことからもそう言える。要するに、安倍首相は、今回の選挙の本当の目的、すなわち、行政府内の消費税引き上げを主張する勢力を黙らせることで、自らの権力基盤の強化を成し遂げたわけだ。では、なぜ、こうした結果になったのか。

 

投票率の低さに関しては、その理由は二つ考えられるであろう。一つは、今回の選挙には参加するに値するほどの争点がなかったということである。前編で指摘したように、アベノミクスの継続を争点にされても、その成功も失敗もはっきりしない状況では判断しかねるというのが多くの有権者の本音であろう。自・公優勢という事前の世論調査を耳にしつつ、「まだ成功の可能性もあるわけだから、結果が出るまでやってみて下さい」と考えるのは理に適っているわけで、そうした有権者の中には、わざわざ休日の寒さをおして、投票所まで足運ぶ気にならなかった人も少なくないはずだ。もう一つの理由は、これも前編で指摘したとおり、衆院選は各政党のマニフェストを参照しながら次の政府とそのリーダーを選出する政権選択選挙であるのに、今回の選挙では安倍首相の経済政策の継続を是とするか非とするかという争点の下で、いわば国民投票型の選挙が行われたことにある。この結果、非という意思を表明するには、自公以外の野党に投票せねばならないが、その野党のいずれにも魅力を感じなかったため、少なからぬ有権者が困惑することになった。最後まで、投票先を決められなかった有権者は、白票を投じるか、そもそも投票所へ足を運ばないという選択をしたに違いない。これらの二つの理由から、投票率の低さを説明することができるであろう。

 

今回の選挙に対する有権者の関心の低さを考えれば、自公の連立政権が圧勝した理由もある程度、推測できる。それは、野党およびマスコミが、原発の再稼働問題や、集団的自衛権憲法解釈変更による行使容認問題、そして特定秘密保護法の施行といった、未だに世論を二分する第二次安倍政権の政策の争点化に失敗したということである。あるいは、こう言ってもよいだろう。有権者にとって、これらの問題は、主要な争点とはならず、結局、アベノミクスの継続と消費税の増税延期(景気条項の削除)が投票行動を左右する唯一の争点であったということである。わざわざ投票所へ足を運んだ有権者たちの多くがこの争点をめぐって票を投じたとすれば――先に指摘したアベノミクスへの有権者の常識的な判断に鑑みれば――、その票が自民党あるいは公明党へ流れたことは、何らの不思議もない。

 

今後の安倍政治

安倍首相は今回の選挙の結果を受けて、自らの政権そして政策全体への信認を得たことになる。どれほど投票率が低く、与党の絶対得票率(全有権者に占める得票数の割合)も3割にも満たず、また、今回の選挙結果がアベノミクス継続への是認に過ぎないにしても、安倍首相はそのように認識し、そのように振る舞うであろう。そして、今後、安倍首相はこの信任を盾にして、選挙で争点化された経済問題以外の課題、例えば、集団的自衛権の法制化を意のままに進めるべく精力を注ぐだろうし、現行憲法の改正ための準備にも着手するであろう。

 

安倍政権に反対している人はもちろん、今回、自民党に投票した人でさえ、それでは困る、あるいは、それでは話と違う、と思うかもしれない。安倍首相に好きなように何でもやってよいと白紙委任をしたわけではない、と。しかし、安倍首相に限らず、政府のリーダーが、次のように主張することは理論上、可能であるし、実際そう主張されることがしばしばある。すなわち、選挙結果そして選挙で得た議席数は「民意」の表れであり、この「民意」こそ政府の思想と行動を正統化する唯一の根拠であるから、「民意」による信任を得たリーダーがどのような政治を行おうと、法の許容する範囲内であれば、批判される筋合いはない。それこそ民主主義であって、その批判は次の選挙で表明すればいいではないのか、と。だとすれば、「民意」が選挙で示された以上、安倍政権の行き先に不安を感じる人たちは、次の衆院選挙までただ手をこまねいているしかないのだろうか。

 

選挙結果だけが「民意」を表しているわけではない

もちろん、選挙結果だけが「民意」ではないこと、したがって、「民意」は選挙以外でも表明できるということなど誰でも知っている。例えば、街頭でのデモによって、「民意」を表明することである。それは、憲法にも保障された主権者としての国民の権利でもある。

 

とはいえ、そんなことは頭でわかってはいるものの、自らの政治的な意思を表明する機会を投票箱に限定してしまい、街頭でそれを表明することへの明らかな躊躇が、私たちの社会には存在する。それには理由があるだろう。デモに対して作り上げられた否定的なイメージ、政治的な態度表明をすることが日常の生活に悪影響を及ぼすかもしれないリスクなどがすぐに脳裏に浮かぶ。しかし、もはやそうした社会的な雰囲気に安寧している場合ではないのかもしれない。有権者全体のたった3割ほどの得票率で議会の3分の2以上の議席を獲得させる小選挙区制のマジックが生み出した「民意」が振りかざされ、世論を二分するような政治争点を真摯な議論も誠実な説明もなく――これが安倍政治の特徴の一つであることは論を俟たない――、為政者の意のままに推し進めることが実際に可能となっている状況だからである。

 

「民意」とは何か

自らの政治的な意思を表明する機会を選挙に限定してしまうという社会的な傾向が未だに強いとすれば、私たちが古い民主主義のイメージにとりつかれているせいかもしれない。

 

そのイメージの中では、「民意(will of the people)」は、選挙結果に表れる多数派の意思(will of the majority)を意味する。しかし、「民意」が字義通り、国民(人民)全般の意思(general will)を意味するとすれば、多数者は決して国民それ自体ではないのであるから、多数者の意思は「民意」ではあるとは限らない。では、なぜ、「民意」は選挙結果に表れる多数派の意思と同一視されるのか。そもそも、どうして、社会の共通の意思とされる一般意思と多数派の意思は同一視されるようになったのか。それは、1789年の革命直後のフランスの政治を見てみればよく分かる。当時の共和国フランスの政治家たちは、ルソーによって提起された民主主義の理念――社会の共同の利益を目指す、社会の構成員に共通する意思、すなわち、一般意思にもとづく政治――を代表者からなる議会での多数決原理によって実現することを試みた。このとき、一般意思としての「民意」と議会の多数派の意思とを同一することが便宜上求められたわけだ。便宜上ということは、もちろん、一般意思としての「民意」が議会の多数派の意思とは必ずしも一致しないからである。

 

要するに、民主主義と議会制度を結びつける中で、「民意」は、社会の共通の意思の代替物として、議会おける多数者の意思と同一視されるようになったわけである。これはきわめて教科書的な説明であるが、ここで、注意すべき点は、当時の議会の多数派が、同時代の社会共通の意思を代表しうるという想定が可能だったということである。想定が可能であったのは、当時の人たちの間に、革命後の社会は同質的な人間から構成されているという虚構が成立していたからである。それゆえに、議会の多数派は、この同質性を反映することが可能だと考えられたのである。一般意思を議会における多数派の意思と同一視することを理論的に基礎づけたのは、シィエスであるが、周知のとおり、彼はこの同一視を可能にする条件、すなわち、社会の同質性を「第三身分とは何か――それはすべてである」という言葉で表明したのであった。

 

したがって、「民意」を議会における多数派の意思に見出す民主主義のイメージは、近代社会の始まりに生まれたかなり古いものであり、しかも、それは同質的な社会を前提としたものなのである。ところで、市民革命を経た近代社会の特徴は、同質的な社会から多元的な社会の移行にある。言い換えれば、私たちの社会は、同質の多数者によって構成される社会から、価値観や利害関心、そしてライフ・スタイルにおいて相異なる《多様な少数派》によって構成される社会へ変容してきたのである。このような変化を遂げた現代の社会において、「民意」=選挙の結果=議会の多数派という想定は、もはや、理論的にも経験的にも説得力を失いつつある。なぜなら、想定を可能にした社会の同質性(という虚構)――もちろん、時に階級、時にナショナリズム、時に社会的連帯と名指されてきたこの同質性自体が作為的なものである――は、グローバリズム新自由主義の最後の一撃によって、維持できなくなりつつあるからだ。

 

《多様な少数派》からなる社会の「民意」

だからといって、選挙がなくなるわけではないなし、選挙結果に「民意」を見出す民主主義の慣行がなくなるわけではない。それは、民主政治の根幹をなす制度として存続し続けるであろう。しかし、この制度や慣行の正統性は徐々に弱まりつつあることは間違いない。とすれば、《多様な少数派》からなる社会に相応しい「民意」の表明の仕方とは何か、ということが問題となる。つまり、選挙による多数派の意思=「民意」という古い民主主義のイメージでは捉えられない「民意」の表明の仕方である。

 

その典型的なやり方の一つが、先に言及した街頭でのデモなのだ。もちろん、デモのような直接行動は、なんら目新しいものではない。そして、民主政治におけるその役割はいくつもある。例えば、社会問題の政治的争点化など、社会から政治に向けて発せられる問題提起がそうだ。しかし、それだけではない。デモは、議会における多数派の意思としての「民意」に異議を申立て、その多数派の意思によって無視されたり、排除されたりする「民意」を表明することを可能にする。しかも、現代社会により適合的な形で「民意」を表明しうるのである。

 

現代の社会において、すなわち、《多様な少数派》からなる社会において、デモで表明される「民意」は《多様な少数派》のうちの一つ(ないし複数)の少数派の意思として表明される。この点に、デモが選挙とは異なり、現代社会により相応しい「民意」の表明の仕方である理由がある。この場合、重要なのは、この一少数派の意思が他の少数派によって共有されるかどうかであり、より多くに共有されればされるほど、その「民意」の正統性は高まることになる。それは、構築的な「民意」であって、選挙による多数派の意思を自動的に一般意思と見なす同質的な「民意」とは異なることはいうまでもない。

 

繰り返しになるが、民主的な社会において選挙で示される「民意」がなくなるわけではない。また、それが保持してきた政治的効力は、今後も制度的に担保されることで持続するであろう。とはいえ、もはやそうした「民意」に納得できないのならば、さらに、私たちの社会のあり方に適した「民意」の表明する手段があることを知っているのならば、現状に手をこまねいているのは怠惰でしかない。だから、今回の選挙に不満を感じる人がいるならば、まず街頭に立って、その不満を「民意」として表出するべきなのである。

 

民主主義の躓きとしての選挙

以前のコラムで指摘したように、民主的な社会における選挙には、社会の統合を促したり、あるいは、社会の分断を露わにしたりする機能がある(http://fujiitatsuo.hatenablog.com/entry/2014/11/21/190345)。そうした選挙は好もうと好まざると今後の民主政治の基盤であり続けるであろう。しかしながら、だからといって、民主主義を選挙と同一視してしまうとするなら、それは、民主主義の偏狭な理解でしかない。そして、その偏狭さは民主主義の躓きとなる。ルソーが選挙そして代表制度を批判してイギリス人を揶揄した言葉を思い起こしてもよい。すなわち、「イギリスの人びとが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人は奴隷となり、無に帰してしまう」のである。

 

私たちの民主的な社会、すなわち、「平等な者たちからなる自由な社会」を守るためには、選挙だけでは不十分である。このことは過去も現在も変わらない。まして、《多様な少数派》からなる現代社会の変化の中で、選挙やその結果で表示される「民意」の正統性は低下している。それは、社会の変化ゆえに不可避の事態である。だから、社会の変化に対応した選挙の制度上の改革がまず必要である。例えば、《多様な少数者》からなる社会の実情に適した、比例代表制を基軸にした選挙制度改革や、市民の熟議の機会を組み込んだ選挙制度などだ。しかし、そうした制度上の改革だけでは、現代の社会に適合的な「民意」が表出される上で十分だとはいえない。これまで述べてきたように、デモはそうした不十分さを補完することができるのである。

 

こうして、社会の変化は主権者としての私たちのあり方に再検討を求めることにもなる。投票さえすれば、主権者としての務めは終わりという、主権者=有権者というあり方への反省が求められているのである。私たちは投票した後も、主権者として様々な方法で「民意」を新たに表明し続けることで、私たちの代表者の行う政治を監視し続ける必要がある。この意味でのデモは、選挙で示された「民意」を覆す手段というよりはむしろ、それとは異なる「民意」を政府や議会に突き付けることで、政治を民主的にコントロールするための一つの手段でもあるのだ。