民主主義とその周辺

研究者による民主主義についてのエッセー

テロ、例外状況、民主主義――イスラム国による日本人人質事件が提起する、民主主義における暴力の問題――

最悪の結果

いわゆるイスラム国(ISISあるいはISIL)による、日本人二名の人質事件は、日本社会に大きな衝撃をもたらしている。報道によれば、そのうちの一人はすでに殺害され、もう一人のジャーナリストも、昨日、その命をテロリストの手によって奪わることになった。

 

この事件をめぐっては、当初から人質の無事の解放を最優先にすべきという声が上がる一方、「テロリストとはいかなる取引もしない」、なぜなら「取引をすることはテロリズムに屈することになるからだ」という言葉が様々なメディアをとおして流されてきた。人質は救出されるべきだと考えていた人は、この言葉を耳にしたときこんな素朴な疑問を感じたはずだ。いかなる取引もすることなく、どうやって人質を解放することができるのか、と。そして、こう考えたに違いない。これは建前の発言であり、その裏で人命第一を掲げる日本政府はあらゆる策を講じて人質の解放の努力をしているのだ、と。しかし、現実には二人の日本人が殺害された。二人の死は政府があらゆる策を講じた上で取引に失敗した結果なのか、それとも発言通りに一切の取引をしなかった結果なのか。実は、人命第一という発言こそ、建前であったのか。今回の事件に対する日本政府の対応を検討するには、これらの点が明らかにされねばならない。

 

しかし、そうした検討の前に、前のめりになりつつある政府に対して向けられる批判的な言説を封じ込めよとする機運が社会に広がりつつある今だからこそ、掘り下げて考えてみるべきことがある。それは、上述の発言の「テロに屈する(あるいは屈しない)」がどういうことか、ということだ。この発言を掘り下げてみることで、民主的な社会にとってテロがもたらす脅威や危険とはいったいどのようなものなのか、テロとの戦いに直面した私たちの社会の行き先に立ちはだかる困難がいかなるものであるのかを見定めることができるはずだ。

 

テロリズム、暴力と民主主義

イスラム国による今回の二人の日本人の殺害を受けて、政府は声明を発表し、テロには屈しないという姿勢を改めて強調した。この「テロには屈しない」ということを検討するには、テロリズムという形で現れる暴力(とその恐怖)による政治と民主主義との関係に目を向ける必要がある。

 

テロリズムは、単純にいえば、暴力の行使とそれが伴う恐怖を利用することで何らかの政治的目的の達成を目指す活動や運動を意味する。これゆえ、「テロに屈しない」と発言することは、そうした暴力や暴力による脅迫に屈しないという態度を表明することである。この態度表明には、いうまでもなく、民主社会の自己理解が存在する。言い換えれば、この発言は、私たちの社会は民主主義を標榜する社会である、ということを表明することに他ならない。すなわち、私たちの社会は議論と多数決によって法律を作り、その法律によって治められた民主的な社会であるからこそ、暴力の行使や暴力による脅迫に屈することは許されないし、かりに屈することがあるとすれば、それは自分たちの社会の根本原理を放棄することになるのだ、ということを意味しているのである。ここから、私たちの社会がテロに屈してはならない理由を説明することができる。

 

このように考えるなら、「テロには屈しない」という発言には、民主主義とテロリズムはまったく相容れない異なる政治についての原理であり、テロリズムは民主的な社会をその外部――これは領域的な区分を意味するだけの外部ではない――から攻撃する敵なのだ、という認識が存在することが分かる。

 

民主主義の起源にある暴力と民主的な法によるその封じ込め

民主主義を外部から襲うテロリズム、民主主義的な価値に絶対的に対立する、民主主義とは無縁の暴力。このような民主主義と暴力との関係の理解は、今では当たり前のように見える。しかし、近代の民主主義の歴史を振り返るなら、必ずしもそうとはいえない。

 

そもそも、近代の民主的な社会の多くは、革命によって生まれた。そして、革命とは、多くの場合、暴力を用いた被支配階級による支配者階級の打破であり、端的に、内戦である。フランスの18世紀末から19世紀における民主化の過程は、その典型であり、それは血で血を洗う暴力とテロルの歴史である。要するに、民主主義の起源には暴力があったわけだ。

 

しかし、もちろん、近代の民主的な政治はその成熟の中で、自由主義と結びきつつ、政治的な闘争をむき出しの暴力によってではなく、選挙で選ばれた代表者の議論と多数決によって制定された法をとおして解決することを目指してきた。言い換えれば、近代の社会は民主主義というルールの確立をとおして、その社会を打ち立てた暴力による秩序の維持も、あるいはその破壊も共に不可能な社会の形成を目指してきたのである。こうして近代の民主的な社会は、その起源にある暴力や革命をその内部に封じ込め、政治的な闘争の手段とならないようにすることで発展してきたのである。

 

民主主義の内部に暴力が存在するのなら、民主主義と暴力の関係について考える際に大切なことは、今回のような誘拐や爆弾テロなどを念頭に置いて、民主主義とは無縁の暴力が外部から民主的な社会を脅威に晒そうとしている、というような理解にとどまっていてはならない、ということだ。というのも、そのような理解にとどまるなら、イスラム国をはじめとするイスラム過激派の存在によって、現在の民主的な社会が直面させられている脅威を正しく見定めることが難しくなるからだ。では、民主主義は内部に暴力を封印しているという理解から見定めることのできる脅威とは、何なのか。それは、イスラム国などによる外部からのテロリズムが、民主的な社会の内部に封じ込められた暴力を解放することによって生じる脅威である。

 

例外状況と民主社会における暴力の解放

先に指摘したとおり、民主主義は、民主的な手続きにもとづいた法によって社会の秩序を統治してきたが、そうすることでその内部の暴力を封じ込めることに曲がりなりにも成功したのであった。とするなら、民主的な社会においてその暴力が解放されるのは、法の通常の機能が停止され、法以外の何かによって社会の秩序が統治されるような状況においてである。

 

このような状況をカール・シュミットに倣い「例外状況」としよう。この例外状況は、法が想定しておらず、したがって法によっては適切に対処できないような非常事態に社会が直面するとき生まれる。それは、法による封印を解かれた暴力が社会の秩序を脅かすような状況だといえる。このとき、法が秩序の統治において後退する中で、法による縛りから自由になった国家(より正確には、行政府)が何をなすべきかを決定し行動することになる。

 

だとしたら、国家は、法以外の何によって例外状況下における秩序を統治するのか。その答えは単純だ。超法規的な措置を含むあらゆる手段によってである。要するに、民主的な社会が例外状況に陥ったとき、法の封印を解かれた暴力によって脅威に晒された秩序を維持するのは、法に規制されない国家の暴力――法に規制されない剝き出しの権力という意味での暴力――なのだ。

 

しかし、たとえそうだとしても、そんなことはワイマール期のドイツがしばしば引き合いに出されるように、過去の話ではないのか。現代の民主的な社会が例外状況、すなわち、通常の法の機能が停止され、国家による超法規的な決断と行動が許されるような状況に陥ることなどあるのか。

 

確かに、シュミットが論じたような独裁がそのまま現代の民主的な社会において敷かれるとは考えにくい。しかし、たとえば、ジョルジョ・アガンベンの議論を参照するなら、その徴候はもちろんあるといえる。それは、対テロ戦争の先陣を切ったブッシュ政権下のアメリカに見えることができる――その典型的な例として挙げられるのが、グアンタナモ収容所だ――。しかも、対テロ戦争は、対国家ではなく国内外のテロリスト集団との「いつでもどこでも」起こりうる戦争であるため、終わりのない永遠と続く日常化された戦争と考えられる。ここから、テロリストの攻撃やそれに対する対テロ戦争は、日常化された例外状況を作り出したといえる。

 

実はここに、見逃されがちなテロリズムがもたらす民主社会への脅威がある。それは、いうまでもなく、目前の状態を例外状況と認定し、法による拘束から解放された剝き出しの統治権力を行使する国家=政府の出現の可能性であり、危険性なのである。しかも、例外状況が日常化し、常態化している以上、その国家=政府が例外状況を先取りしつつ、予防的に決断し行動する可能性が出てくるのである。

 

日常化した例外状況と今後の日本の社会

テロリズムは、民主的な社会を例外状況に置くことを可能にし、部分的であろうが全面的であろうが民主的な法の機能を停止させることで、抑え込まれてきた暴力を解放する。そのとき、政府は、社会の秩序を回復するべく、超法規の統治権力を行使することになる。さらに、いわゆる現代のテロとの戦争は、このような例外状況を日常化する危険がある。

 

このような理解に立つとき、今回の人質事件後の日本社会の行き先をどう見通すことができるだろうか。もちろん、今回の事件をとおして、日本がテロとの戦争の当事者になったことを否認できなくなったとはいえ、直接テロの攻撃を受けたわけではない。しかも、現行の日本憲法下には、政府が例外状況と判断した上で、憲法の一部を停止し超法規手措置をとる「国家緊急権」はないとされている。だから、法によらずに、執行権を政府が行使することは、まず考えられない。しかし、テロリズムが日常化した例外状況を作り出す以上、政府はそうした状況を先取りしつつ予防的に決断し行動する可能性が出てくるだろう。そして、例外状況下の最大の特徴であるが、行政府の権力が例外的に拡大されたり、立法府や司法府の権力に対して不均衡な形で優越したりする傾向が生じる可能性も、それに合わせて出てくるかもしれないのである。

 

もちろん、日本政府には、日本政府自ら主張するように、国内外の日本人の生命をテロから守る義務がある。この点は繰り返し強調されるべきだ。しかし、そうだからこそ、日本政府がその義務の遂行において、どのような決断し行動をするのかを批判的に見守っていく必要がある。なぜなら、例外状況の議論が教えてくれるように、政府にはそのような義務があるからこそ、可能な限りのあらゆる手段、現行の法を超えるような手段でさえ取ろうとする――現行の憲法や法律の改正をとおして――傾向があるからである。

 

こうして、テロリズムの脅威は、政府にその義務の確実な遂行を要求しつつ、その遂行に際して行き過ぎが無いよう厳しく監視するという難しい役回りを私たちに押し付けることになったといえるであろう。とはいえ、この役回りは、私たちの社会の自由・平等といった民主的な価値を死守しようとした結果、民主的社会そのものを破壊してしまったというような事態を避けるためにも、どうしても必要な役回りなのだ。