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民主主義とその周辺

研究者による民主主義についてのエッセー

代表制民主主義は生き残ることができるのか?――2015年統一地方選挙から再考する代表制と民主主義の関係――

先日の憲法記念日には、現行の日本国憲法に対して、改憲派護憲派双方による活発な発言が相次いだ。そのうち最も注目すべきは憲法改正の中心的勢力である自民党の動きである。自民党船田元憲法改正推進本部長によれば、自民党はまず「緊急事態条項」を憲法に規定するべく、現行憲法の改正を目指すという。この是非はともかく、先日の憲法記念日は、来年の参議院選挙後の憲法改正の発議、および、国民投票という戦後最大の政治的イベントに向けて、着実に政治日程が進んでいることを実感させる日であった。

 

そんな中、もはや先月の統一地方選挙の結果を総括するような議論がほとんど見受けられないのも致し方ないのかもしれない。確かに、先の地方選挙では政権選択をにらんだ争点がなかったため、人びとの関心は薄く、また、その結果も取り立てて論ずるまでのものではなかった。そもそも統一地方選挙などそうしたものだという意見もあるだろう。とはいえ、各地での最低投票率の更新、89の市長選のうち3割の無投票といった事例に示されるこの度の選挙の実情は、有権者の政治的関心の低さでは片付けられない深刻な問題を提起している。その問題とは、代表制にもとづいた民主政治の危機、すなわち、代表制民主主義の危機である。

 

代表制民主主義の危機

代表制民主主義の危機。確かに、選挙のたびに様々なメディアで耳にするものの、実際は、何の危機意識も喚起しない陳腐な空語だ。こんなふうに思う人も少なくないだろう。それは、しばしば、有権者政治的無関心や受動性を問題視するために使われる。

 

しかし、今回の統一地方選挙を思い出して欲しい。対抗馬が不在のため、無投票となったいくつもの首長選挙。あるいは、東京都の区議会議員選挙。掲示板に張られたポスターの写真と自宅に配布される選挙公報というほとんど無いに等しい情報にもとづいて、あれほど多くの立候補者の中から、自分の利害や意思の代表者を選択することが求められる。選択肢の不在、逆に、ほとんど違いのない選択肢の過剰さ、選択する上での情報や議論の欠如など。こうした状況において、低投票率を嘆いたり、有権者の政治的受動性や無関心さだけを責めたりするだけでは、少々短絡にすぎるし、今後何も改善されることはないであろう。

 

そうだとすれば、今回の統一地方選挙で改めて示された選挙の形骸化が、なぜ、地方政治における代表制民主主義の危機といえるのか、ちゃんと考えることから始めたい。

 

次のような指摘があることば承知の上だ。法律的にも財政的にも地方議会や地方行政の首長の政治的な権限は極めて限定的であり――したがって、実行可能な政策など限られている――、また、地方議会の議員の主な機能は居住地域の日常生活のありふれた要望や苦情を収集し解決を図る点にある。だから、そうした首長や議員を選出する選挙と国政レベルの選挙とを同一視して、ああだこうだいっても仕方ないではないか、と。

 

しかし、そうではない。地方、国を問わず、選挙の形骸化は、理論上、代表制の下での民主政治を劣化させ機能不全に陥らせる可能性がある。だから、シニカルに現状を追認したり、あるいは、取ってつけたように有権者に投票を呼び掛けたりするだけ済ますわけにはいかないのである。

 

選挙と代表制民主主義

では、選挙の形骸化がなぜ代表制民主主義を行き詰まらせるのか。その理由を理解するには、選挙とそれによる代表者の選出と民主政治とを混同するという、よくある間違いを退ける必要がある。つまり、代表制が民主主義なのだという誤解を捨てる必要があるのだ。

 

代表制民主主義とは、代表制という制度のもとでの実行される民主主義、あるいは民主的な政治である。代表制とは、何らかの方法で選出された代表者たちが政治的決定を行う制度である。この制度の根本原理は代理である。これに対して、統治者と被統治者が同一な政体として定義される民主主義は、元来、社会における共通の(=一般的な)利益ないし、社会における多数派の利益にもとづいた政治のあり方を意味する。そして、このような政治のあり方から、政治的決定に対する政治体の構成員全員の関与が求められることになる。ここで重要なのは、代表制と民主主義が、歴史的にも、理論的にも、異なるものだということだ。異なるものであるにもかかわらず、これらが18世紀末19世紀にかけて、理論的にも実際にも接合され、近代の民主主義の基礎が出来上がることになった。

 

19世紀以来の代表制民主主義の発展の歴史を振り返るなら、相異なる民主主義と代表制との結び付きを強固なものにし、代表制を民主的な政治の実現に不可欠なものにしていったのが、選挙、より正確には、民主的な選挙である。社会を構成するすべての成人に参政権を付与するこの選挙は、むろん、民主的な政治を求める闘争の中で徐々に獲得されたものであるが、これこそ異なる二つのものを接合する蝶番だと見なすことができる。

 

繰り返しになるが、現在の民主政治を機能させる代表制は、それ自体、民主主義と関係のないものである。したがって、代表者が代理として決定を行う政治が民主政治であるための条件――すなわち、代表制民主主義が機能するための条件――が、現行の選挙なのだ。このことは、代表制こそ民主主義の理念の実現に欠くことのできないものだという立場に立つ、どのような代表制民主主義のモデルであろうと、変わらない。それが、シュンペーターの競争-利益集約型民主主義のモデルであろうと、あるいは、多様な特殊な利害によって分裂している社会では、代表者が社会の共同=一般的な利害を見出し、それにもとづいて政治を行うべしとする代表制民主主義のモデルであろうと。

 

代表制の民主的な正統性の欠如が代表制民主主義の危機を生む

こんなことは知っている。選挙が形骸化した結果、代表制と民主主義の結び付きが弱まったとして、だからどうなんだ、法律で定められた手続き上の瑕疵がなければ、代表制にもとづく民主政治は、それはそれでまわっていくのだ。こんなふうに考える人もいるだろう。しかしながら、日常を貫く慣性の力を見くびるわけではないが、それではあまりに民主主義に対して楽観的すぎる。

 

選挙の形骸化が生み出す代表制と民主主義との接合の緩みが問題なのは、それによって、代表制民主主義の正統性が脆弱になる点にある。別の言い方をすれば、代表制にもとづく政治が民主的だとする根拠が薄弱になる点だ。そもそも、代表制それ自体では、民主的な正統性を主張できないことはすでに指摘した。このため、代表制と民主主義との結び付きが弱まると、代表者たちによる決定になぜ従わなければならないか、特に、その決定に不満を抱く人びとに疑念を生じさせる。

 

代表制民主主義の正統性へのこうした疑念をあまり安く見積もらない方がよい。もちろん、現代の政治は、どのようなあり方であろうが、法律に従って行われる必要がある。しかし、それで十分というわけではない。政治が円滑に機能するには、それらに対する人びとの信頼や納得といった内面的な基盤が不可欠である。特に、現行の政治に不満を持つ人びとに対して、不満があるにもかかわらず、それに従う理由や根拠、すなわち、政治の正統性が必要なのだ。この正統性を欠いては、政治が秩序を維持することは結果的に困難になる。このことは、もちろん、民主的な政治においても同様だ。選挙の形骸化が進み、ある程度の数の人びとが代表制の民主的な正統性に猜疑心を向け始めるとき、現行の代表制民主主義は危機的な事態に陥る可能性がある。

 

代表制を補完する市民の直接参加と熟議

今後の日本の政治には、国、地方を問わず、増々限られた社会的資源を有効に配分することが求められる。このことは、端的に、政治に不満を抱く人びとがより増えることを意味する。したがって、そのような決定を行う代表制にはいっそうの民主的な正統性が必要になる。とすれば、代表制の下での民主政治の先行きを不安に思う人も少ないはずだ。

 

しかし、だからといって、代表制をやめるというのは、現実的でもないし、望ましくもない。代表制には、市民が直接参加し決定を行う直接制と比較したとき、理論的には、多くの利点がある。たとえば、利害や意思の集約化や、政治的争点の明確化、代表者による取引や熟議を経た合意調達(の可能性)などである。しかし、こうした強みがある一方、とりわけ地方自治体での選挙の形骸化が明らかな今、代表制民主主義の正統性の脆弱化の可能性という弱みから目を背けることはできない。ならば、地方の代表制民主主義は、この事態にどう対処するか。ここで検討したいのは、国政に比較して、規模も小さく、政治的権限も限定的で、それゆえ、政治的争点も限定されざるを得ない地方自治体だからこそ可能な、代表制を補完する方法である。

 

その一例は、代表制における政策決定過程に、熟議をとおして市民の意思形成が行われる機会を組み込み、それを政策に反映させる制度上の工夫である。これは、ある政治的争点をめぐり、集まった市民が専門家のレクチャーを受け、ファシリテーターの下で様々な立場の人びとの意見に耳を傾け、その中で自らの政治的意思を形成することを可能にする。海外ではこうした工夫は、ミニ・パブリックス(mini-publics)や市民集会(citizen assembly)などとして知られ、実際に制度として活用されている。

 

こうした試みは、代表制の下での地方政治の決定過程に、熟議された市民の声を直接反映させる――その程度は、様々であるが――ことで、そこに欠落しがちな民主的な正統性を補い、さらに、この正統性の補充によって、政策の実行性や効率性を高めることを狙いとしている。そして、近年の研究を見る限り、こうした試みは、念入りに設計され、慎重に実行されるなら、この目的に対して効果的であると考えられる。

 

おそらく、代表制を補完する制度的工夫はまだあるだろう。また、代表制を補完しようとする試みには多くの障害が待ち受けているだろう。しかし、いずれにせよ、今回の統一地方選挙の実情を目にしてもなお、今までどおり、紋切り型の代表制民主主義の擁護をするとすれば、あまりにナイーヴすぎる。中国の軍事的台頭の中、日本の安全保障の環境が変化したから、集団的自衛権に関する憲法解釈を変更し、さらに、現行の日本国憲法を改正しなければならないというのなら、代表制のあり方の改革も検討したらどうであろうか。この代表制が民主主義の制度として整備された、19世紀から20世紀にかけての比較的同質性の高い社会環境と、現代の再帰的で多元的な社会環境とはあまりに異なっているのだから。ただ、その場合、民主主義を深めるという目的から離れてはならないことは、言うまでもない。そうだ、先日のアメリカ議会での演説で安倍首相の述べたではないか、民主主義こそ、世界の希望の同盟たる日米が共有する価値だと。まあ、彼がどれほど真剣に民主主義について考えているかは知らないけれど。