民主主義とその周辺

研究者による民主主義についてのエッセー

民主主義はそんなに「すばらしい政治体制」なのか?――大阪都構想をめぐる住民投票から考える直接民主制の問題――

民主主義はすばらしい?

一昨日、多くの注目を集めた大阪都構想をめぐる住民投票が行われ、即日、開票結果が明らかになった。すでに報道にあるとおり、大阪市民は約1万票の差で、橋下大阪市長が提案した大阪都構想の受け入れを拒否することになった。

 

大阪市に特別な利害関係を持たない人たちの中には、衰退の一途をたどる全国の地方自治体に不可欠な行財政改革の先例として、今回の住民投票の結果に期待した人もいるだろう。あるいは、今後の国政における最大の争点である憲法改正の関連で、維新の党との連携を模索する安倍政権改憲戦略への影響という観点から、今回の投票結果に関心を持った人もいるだろう。ここでは、そうした論点には触れず、「民主主義はすばらしい政治体制」という大阪市長の言葉にフォーカスしたい。そう、橋下劇場を締めくくるに相応しい、開票後の会見で発せられたこの言葉、しかもポピュリストと揶揄されることもしばしばあった政治家の言葉である。だから、なおのこと、皮肉にも聞こえるこの無邪気な言葉が気になる。彼が「すばらしい」とした住民投票、すなわち、代表者ではなく有権者自身による直接的な意思決定とは何なのか。大阪市住民投票をはたから見て、有権者による直接的な意思決定の機会には、代表制度の下では見失われがちな民主主義本来の熱気に満ちた活力と同時に、何かしらの危うさを感じた人がいるとすれば、その理由は何か。

 

地方自治における住民投票の重要性

橋下市長の政治手法あるいは政治基盤からして、住民投票はいわば、好機でもあった。強力なリーダーシップと大胆で攻撃的な言動をとおしてマスコミを巻き込み、さらに全国の関心を集めることで有権者の支持を固める手法。このような手法を取る必要があったのは、彼が既成の政党や様々な利権団体に属さない有権者、そればかりか既成の組織に対して不満を持つ有権者を支持基盤にしていたからにほかならない。住民投票は、彼の支持基盤を形成する有権者が直接かつ効果的に政治決定に影響を及ぼすことのできる機会であった。

 

幸か不幸か、橋下市長はこの「戦に負けた」。これによって、大阪市の改革は彼の掲げた構想とは別の形で進められることになった。しかし、今回の住民投票をはたから見ていると、話はこれで終わらないようにも思われる。というのは、今回の住民投票は、日本の地方自治が陥る可能性のある、二つの民主的代表の対立、すなわち、議会と首長との対立を解決する手段として、あるいは、それらの代表者の決定に住民の直接の意思という正統性を付与する手段として、ますます住民投票が実施される可能性を想像させるからだ。今後、地方自治体のよりいっそうの自律性を求める機運が高まり、その中で、現在の国と地方の制度上そして法律上の関係が変更されることがあるとすれば、その可能性を想定することは必ずしも筋違いとはいえないように思われる。

 

今後、日本の地方自治体は、人口の減少、産業の衰退などにより、その維持が困難になるといわれている。そして、衰退を防ぐためには、住民間に深刻な利害対立を引き起こすような大胆な政策や制度改革が必要になるかもしれない。地方自治体がそうした政策や改革を行おうとすれば、おそらく、議会と首長の対立する機会も増えるであろう。それだけではない。大胆な政策の実施や制度改革には住民の痛みが伴うため、その決定にはより強力な民主的正統性が必要になる。簡単にいえば、住民の納得が必要となる。こうして、地方自治における民主主義の制度上の特徴と地方自治体の先行き、そして地方分権推進をめぐるこれまでの国内の議論を併せて考えるなら、法的拘束力をもたせる住民投票の立法――今回の大阪市のように、特別区の設置という限られたイシューにとどまらない、より広範なイシューに関する――が行われることを予想することもできるのだ。

 

そうだとすれば、日本の地方自治が共に民意を代表する議会(立法機関)と首長(行政)とが対立し、こう着状態に陥ったとき、今回の大阪市のように、住民投票などによる住民の意思表示によって、この機能不全の状態を打開可能であるということは、注目されてよい。ここには、国政における代表制民主主義――憲法改正による国民投票はもちろん例外である――とは決定的に異なる地方政治の民主主義の特徴があるからだ。すなわち、直接表明された有権者の意思が、場合によって、極めて重大な政策を決定することが可能であるという特徴、そして、代表制の行き詰まりを解決しうるという意味での、代表制に対して直接民主制が優位性を保持する場合があるという特徴である。

 (この「地方自治における住民投票の重要性」の部分には、大阪市住民投票が行われた過程に関する事実誤認があるのと指摘を受け、確認の上、該当すると思われる箇所を修正しました。)

 

民主主義における住民投票の特徴とその弱み

そうだとすれば、住民投票という代表者によらない直接的な民主主義のあり方がどんなものなのか、基本的なところから考えてみる必要があるだろう。現代の私たちに馴染みのある選挙を中心にした代表制と住民投票のような直接民主制との違いは、どこにあるのか。

 

ここで、カール・シュミットの議論――憲法問題の関連で、国家制度を対象とした議論ではあるが――を参照してみよう。それによれば、代表制では、公開の場(議会)での理性にもとづく議論によって決定が行われる。ここから、代表制における政策などの意思決定の特徴は、理性や議論あるいは節度によって媒介されている点にあるといえる。これに対して、人民投票型の直接民主制では、投票をとおして直接表現される市民の意思によって決定が行われる。このため、このタイプの直接民主制の特徴は、有権者の感情や思考などが無媒介な形で、したがって、反省の機会なしに意思決定に対して直接反映されることになる。シュミットはこの区別から、一般に同じ民主主義の制度として見なされる代表制と直接制が理論的にも組織的にも独立したものであることを指摘している。

 

シュミットのこの議論はきわめて古典的なものであり、これはこれで、それなりの説得力がある。彼の議論をさらに敷衍するなら、代表制と直接制それぞれの意思決定における強みが分かる。代表制の強みに関しては、理性的な議論を経ているわけであるから、より理に適った決定、あるいは、より合理的な決定が可能であるということであり、直接制に関しては、主権者が自分たちで直接決定を行うわけであるから、国民主権という点においてより民主的に正統な決定が可能だというところに強みがある。

 

これらの直接民主制の特徴や強みは、地方自治における住民投票に当てはまる。とすれば、住民投票は、代表制に比べ、より民主的な正統性を意思決定に付与することができるという利点がある一方で、弱みがあることも歴然としている。それは、住民投票が十分な情報や議論や熟慮にもとづく理に適った決定を生み出すのが難しいという、弱みである。

 

このとこは、今回の大阪市住民投票においても見受けられたように思われる。たとえば、住民投票の争点が、大阪都構想の内容の是非よりも、橋下市長の信任投票的な傾向を帯びたこと。あるいは、都構想の賛成派および反対派の双方が、それぞれその利点や欠点のみを指摘しあう、宣伝合戦の様相を呈し、中立的な立場から構想の利点や欠点を比較考量する冷静な議論が十分に有権者に届かなかったことなど。ただでさえ複雑で専門的な都構想の内実に対して合理的な判断をするのに、このような状況が理想的でないことなど誰の目にも明らかである。これらの点に、住民投票の危うさを感じた人がいるのかもしれない。

 

必要なことは何か

このコラムで繰り返し指摘したように、現代の民主主義の基盤である代表制度には多くの問題が存在する。しかし、代表制だけに問題があるわけではない。直接民主制としての住民投票にも弱みが存在する。そしてその弱みは、19世紀以来、衆愚政治の危うさとして論じられてきたし、そう論じる人も未だにいる。もちろん、この危うさに対する伝統的な議論を真に受けるわけにはいかない。なぜなら、こうした議論に見られる、民主的な正統性を軽視し、意思決定における合理性をあまりに重視する立場は、結果として、反民主主義的傾向を持つことが多いからだ。とはいえ、住民投票にも弱みがある以上、放置しておけば済む話でもない。したがって、その弱みを改善する試みが必要になるはずだ。すなわち、民主的により正統性のある決定を合理的で理に適ったものにするような試みである。先にも指摘したとおり、国民投票ばかりでなく、地方自治において、政策決定における民主的な正統性を住民投票によって補おうとする傾向を想定できるとすれば、なおのことそうだ。

 

そうした改善の試みは、世界を見渡せば、すでに多く行われている。その一つが、別のコラムで言及した、熟議のフォーラムを住民投票のプロセスに組み込む試みである。これは、投票に先立ち、中立的な形で知識や情報を市民に提供し、専門のファシリテーターの下、公的な空間での他の市民たちとの議論をとおして、より熟慮された判断を形成することを目的とする制度的工夫である。確かに、それはコストのかかる制度的な工夫であり、これが大阪市のような大規模な自治体で実現可能かどうかに議論の余地がある。それが困難であるとすれば、改善のための別の工夫を考案していく必要があるだろう。

 

橋本市長は、民主主義を「すばらしい政治体制」と呼んだ。確かに彼のような人物を政治の檜舞台に引き上げたのも、あるいは、そこから引きずりおろしたのも、民主主義という政治体制だからできた話なのかも知れない。しかし、彼に素晴らしいと発する機会を提供した今回の住民投票について簡単に見るだけでも、そこには、制度上の弱みやそれに由来する危うさがあることが分かる。歴史を見れば、このことは否定しようがない。近代以降の民主主義は、こうした弱みや危うさをコストのかかる制度上の工夫でもって修正しながら、なんとか平等な市民からなる自由な社会という理念を実現しようとしてきた。ようするに、民主主義のそうした理念は決して譲ることのできるものではないが、それを実現するための制度は、代表制にせよ、直接制にせよ、万全どころではない。だから、彼のこの言葉を聞いて素直にうなずくことのできない人がいても、少しもおかしなことではないのだ。