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民主主義とその周辺

研究者による民主主義についてのエッセー

安全保障関連法案の前に再び現れた民主主義の亡霊

憲法審査会の参考人質疑が明確化にした安全保障関連法案の問題の焦点

先日行われた、衆議院憲法審査会の参考人質疑が話題を集めているようだ。与党の推薦した憲法学の専門家を含めた出席者全員が、現在国会で審議されている安全保障関連法案が現行憲法に違反する可能性を指摘したからだ。この指摘は、否応なく、安全保障関連法案の前提の違憲性に逢着する。すなわち、昨年7月の閣議によって決定された、集団的自衛権の行使を容認する憲法解釈の違憲性だ。要するに、この法案の内容云々にとどまらず、その根拠の憲法上の疑わしさが今後の法案審議の主題とされることになる。今回の衆議院憲法審査会における参考人質疑の顛末が、野党に追及のための格好の材料を提供することは誰の目にも明らかだ。

 

しかし、この問題の核心は、国会の審議において野党を勢いづかせたという点にあるのではない。それは、専門家による違憲性の指摘が、安全保障関連法案に対する批判的な世論を増長させる可能性があるという点にある。安倍政権は、様々な世論審査において、政権に対する高い支持率を維持している。それにもかかわらず、集団的自衛権の行使のための憲法解釈変更から安全保障関連法案に至る安全保障政策に関しては、世論の理解と支持を得ているとは言い難い状況にある。そもそも、現行の衆参両院において多数派を形成している自公連立政権にとって、この法案を成立させる上での障害は、国会内にはほとんど存在しない。したがって、この法案の成立の唯一の障害は、おそらく、それに批判的な世論ということになるであろう。野党の抵抗も世論頼みであることは明らかだ。そんな状況下で、法案の内容の曖昧さばかりでなく、その根拠自体に対する違憲性を暴露されたわけだ。このことが世論に対してネガティブな影響を及ぼす可能性は非常に高い。

 

こう考えると、今回の憲法審査会での出来事から、次のことが改めて明確になったように思われる。すなわち、集団的自衛権の行使のための法整備を進めようとしている安倍政権にとっての障害は、国会内での対立ではなく世論との対立であること。その対立の争点は、法案の内容の合憲性ばかりでなく、法案の根拠となる内閣の憲法解釈の内容の合憲性にもあるということである。このことが意味しているのは、安全保障関連法案をめぐる対立の核心、あるいは、争点における真の賭け金として、日本における民主主義の危機という問題が再び焦点化されたということなのである。安倍政権にとっては、昨年末の衆議院の総選挙によって封印したはずのこの問題が、いわば亡霊として再び現れた形だ。

 

立憲主義からの逸脱
民主主義の危機が焦点化されたという理由は2つある。1つは立憲主義の問題が再び提起されたことにある。先に触れたように、先日の憲法審査会の参考人質疑では、安全保障関連法案の違憲性が指摘されただけでなく、その法案の根拠となっている昨年の閣議決定への疑義が提示された。これらが孕む問題としてもっとも頻繁にあげられるのが、立憲主義からの逸脱である。

 

立憲主義については別のコラムで詳しく述べた(http://fujiitatsuo.hatenablog.com/entry/2014/06/19/230220)。それを簡単に定義すれば、憲法への統治権力の服従を命じ、その自立化と暴走を防ぐことで、民主的な社会の諸価値、すなわち、個人の尊厳や人権、社会の多様性を守ろうとする考え方である。教科書的にいえば、もともと、立憲主義は、多数者の暴政の危険を孕んだ民主政治から個人の権利や自由を守ろうとする自由主義的な概念であった。ところが、自由主義的な民主主義が定着した現代では、憲法に明記された個人の諸権利および社会の民主的な諸価値を統治権力から保護する民主主義の重要な概念となっている。したがって、ほとんどの憲法学の専門家たちが指摘するように、閣議決定による集団的自衛権の政府解釈の変更とそれもとづいた今回の安全保障関連法案の法制化が立憲主義からの逸脱あるいは否定を意味するとすれば、それらを推し進めてきた安倍政権は日本の民主主義を危機に陥れつつあると考えることができるのである。

 

このことは、昨年以来、しばしば指摘されてきたことである。しかし、現在の日本における民主主義の危機を理解するには、立憲主義だけでは十分だとはいない。立憲主義と併せて論じられるべきなのは、以前のコラムで言及した「議会主義」とそれに由来する、民主的な社会としての日本の自己理解という考え方である(http://fujiitatsuo.hatenablog.com/entry/2014/07/19/010629)。この自己理解は、いわば、議会を基盤にした民主的な手続きをとおして歴史的に構築されてきた、民主的な社会としての日本のアイデンティティのようなものである。実のところ、安全保障関連法案に批判的な世論は、突然最近になってマスメディアで流布されるようになった立憲主義という小難しい言葉よりも、この自己理解に意識的にせよ、無意識的にせよ、依拠しているように思われる。そうだとすれば、安倍政権が対立しているのは、たんなる世論というよりも、世論の基底にあるこの自己理解ないしアイデンティティだと考えられる。ここに、民主主義の危機が焦点化されたといえる第2の理由がある。

 

かたくなな世論と民主的な社会の自己理解
「議会主義」という言葉は、「立憲主義」との語呂合わせから、便宜上使用した言葉であるが、それは、次のような民主主義およびその正統性についての理解を表現するものだ。すなわち、議会が生み出す政治的決定の正統性を、たんなる数の力ではなく、民主的な手続きに従った議論の中で積み重ねられる言葉=理由に見出す理解である。別の言い方をすれば、こうなる。民主的な社会における政治的決定の正統性は議論を経た合意に由来するものであり、この合意はその時々の社会に存在する多様な理由を含み込み、さらに時間かけて理由を積み重ねることから形成されねばならない、そして、こうした合意を形成する中心的な場が議会だという理解である。このような議会の役割を重視する立場が「議会主義」の意味するところである。

 

民主的な社会の自己理解が構築されるのは、そのように理解された議会において産出される民主的な合意が社会に共有されることによってである。つまり、こういうことだ。議会で形成された合意――たとえば、法律――は、社会へと送付され現実に適用される。社会の方では、その合意によって多様な反応が引き起こされ、時代の推移の中でその合意の新たな解釈や、それに対する承認あるいは否認の新たな理由が生み出され、それらが議会へと送り返される――たとえば、社会運動や世論形成、そして選挙などをとおして――。そして、議会では新たに見出された理由をさらに積み重ねることで、これまでの合意が再検討され、必要があれば変更され、あるいは破棄される。このプロセスが反復されてもなお存続する民主的な合意は、社会において共有され根を下ろすことで、いわば社会の再帰的な自己理解となる。この社会の再帰的な自己理解こそが、社会を民主的に統合する上での基盤、すなわち、その社会の民主主義の精神となるのである。

 

民主主義の精神の危機
おそらく、集団的自衛権違憲としてきた政府の長年の解釈は、こうした類の合意の一つであったといえるだろう。戦争へのトラウマを抱えた戦後の日本社会では、憲法第9条に掲げられた平和主義の理念をどう理解し、現実のものにしていくのかについて、様々な考えや思惑、それを正当化する様々な理由が存在してきた。9条に記された文言に忠実に従い、自衛権さえも放棄するべきという理由や、自衛権を行使するための組織として自衛隊を合憲とする理由、日米同盟のために憲法を改正し、集団的自衛権の行使を可能にするべきという理由、その他、様々な理由が国会での議論をとおして積み重ねられてきた。その結果が、これまでの集団的自衛権違憲とした政府の解釈であった。もちろん、この解釈は、国会において多数を占めてきた与党の数の力によって、最終的には決定され、また、その解釈にもとづいた法案も、数の力によって可決されてきた。これは否定しようのない事実だ。しかしながら、この解釈は、米ソ冷戦の開始から、朝鮮戦争、安保改定、ベトナム戦争、新冷戦期、そしてポスト・冷戦期にわたり、様々な理由の積み重ねと合意の民主的な再検討を経て、日本の社会に根付くことで、民主的な社会として出発した、戦後日本の再帰的な自己理解となってきた。そして、この自己理解が、現在、安全保障関連法案に対する批判的な世論として顕現しているといえるのだ。

 

そうだとすれば、たんに立憲主義だけでなく、日本の民主主義の精神そのものが、危機に晒されようとしているのだといえそうだ。というのも、安全保障関連法案に批判的な世論と対立する安倍政権は、日本の社会に共有されてきた民主的な自己理解に対して挑戦を突き付けていると考えられるからだ。

 

解散と引き換えに成立を目指すのか?
果たして、安倍政権は、再び現れた亡霊を追いやり、アメリカに約束した法案の成立を今国会中に成し遂げることができるのだろうか。

 

もちろん、唯一の障害となっている世論など法案成立に直接影響を及ぼすことはできないのだから、安倍首相が世論を無視してしまえば済む話だともいえる。しかしその一方で、戦後の安全保障政策を大きく転換させる法案の成立を世論の批判を無視して強行するなら、その後の政権運営はきびしいものになることを容易に予想できる。そればかりか、今後、法案への世論の反対がいっそう高まれば、内閣の辞職と引き換えの法案成立というシナリオさえ現実味を帯びてくる。その場合、安倍首相は、彼の祖父が半世紀以上も前に辿った同じ道を進むことになる。それを許すことになるのか、それとも、今国会での法案の成立を断念させることになるのか。半世紀を経た日本の民主主義の成熟そのものが今、問われているように思われてならない。