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民主主義とその周辺

研究者による民主主義についてのエッセー

「国家の存続か、憲法か」という問いかけが意味すること――安全保障関連法案の第3の局面における争点を理解するために――

安全保障関連法案の第3の局面

安全保障関連法案の国会での審議は難航しているようだ。最近の世論調査を見る限り、この法案に対する国民の理解は深まっているとはいえず、その反応は、慎重なままのようだ。安倍政権は、今後、世論の軟化を図ることになるのであろうが、それが思い通りにいくかどうはさておき、法制化の道のりにはまだまだ紆余曲折がありそうだ。

 

5月に安全保障法関連案が国会に上程されて以来の経過を振り返ると、3つの局面に区分できる。第1は、衆議院の特別委員会での法案の審議において、安倍首相、中谷防衛大臣、岸田外務大臣らの答弁における齟齬が顕著になるにつれ、法案の内容への野党の攻勢が勢いづいた局面。第2は、衆議院憲法審査会において召喚された憲法学者全員が安全保障関連法案の違憲性を指摘したことで、法案に対する世論の否定的な反応を助長した局面。先のコラム(http://fujiitatsuo.hatenablog.com/entry/2015/06/08/120503)で指摘したとおり、この時点で、国民が注目する論争の場は議会にとどまらず、法律や安全保障などの専門家を巻き込んだ市民社会へと広がりを見せることになる。そして、第3は、ほとんどすべての憲法学者が今回の法案の違憲性を認めている状況――したがって、政府は法案の合憲性を主張せざるを得ないものの、その根拠には説得力がなくなりつつある状況――で、法制化を目指す勢力が政府の外からその劣勢を挽回しようとする局面である。現在は、この第3の局面にあり、その中心的な役回りは、安全保障や国際政治の専門家によって担われる。ここでは、そうした専門家たちが、何とかして憲法の専門家たちが主張する法案の違憲性に対して反論し、この法案の重要性を世論に対して提示できるかどうかということが問題となる。

 

第3の局面における争点

では、どのようにしてその反論は行われているのだろうか。もちろん、安全保障の専門家が、憲法学者の指摘する法案の違憲性を、法律論によって覆すことは不可能であろう。とすれば、この第3の局面において、安全保障や国際政治の専門家ができる反論は、憲法を踏み越えてでも、この安全保障関連法案によって新たに可能となる集団的自衛権の行使が「必要だ」ということを論証することである。必要性の説明はこんなふうに単純明快だ。国家の存立がなければ、日本国民の生命や財産が損なわれるのであって、憲法立憲主義どころの話ではない。この法案が許容する集団的自衛権によって国家としての日本の存立が保障され、国民の生命や財産が守られ、結果として、憲法の存在や立憲主義の議論が意味を持つ。だから、憲法の制約を踏み越えてでも、この法案を成立させ集団的自衛権の行使を可能にする必要がある、と。安全保障あるいは国際政治学の立場からのよくある主張は、この議論の下に、日米同盟の強化の必要性が理由として主張されていることは周知のとおりだ。

 

こうして、第2の局面の争点が安全保障関連法案と立憲主義の関係性であったとすれば、第3の局面では、国家の存続のための必要(緊急事態)と憲法を頂点にした法秩序との関係性が争点となっていることになる。より正確には、必要は法秩序を踏み越えることが理論上許されるのか、これが争点となっているのだ。

 

必要(緊急事態)と法秩序とのこの関係性は「必要(緊急)は法を持たない(Necessitas non habet legem)」というラテン語の格言によって言い表すことができる。この必要とは緊急事態として理解できるし、それは概念として例外状況の根拠となる。こうして、この格言は、公法および私法、そして近代の民主主義理論にとって主要な議題であり続けることになる。法学や政治学を少しでもかじった人ならばご存知のとおりだ。そこで、この格言を手掛かりにして、現在しばしば耳にする「国家の存立か、憲法か」という問いかけの含意を考えてみよう。

 

現代の民主国家における必要と法秩序の関係性

もともと、「必要は法を持たない」という格言は、次のようなことを意味していた。すなわち、必要は法律の拘束力や強制力が及ばない、したがって、法律の制約から解放されるような特異な状況を規定する、と。このように、法から分離された、法-外的な必要という概念を用いることで、法秩序の限界ないし外部を画定し、法の制約から外れて行いうる具体的な事例を論じることが可能であった。ところが、アガンベンの指摘にあるように、特に近代の公法では、法‐外的なこの必要を法秩序の内部に組み込もうとする傾向が顕著になる。すなわち、法秩序の内部に、その秩序を穿つ法-外的なものが挿入されるというわけだ。実際、20世紀の多くの国家では、この必要は緊急権として憲法の条文に明記されたり、あるいは、関連する法律が制定されたりすることで、法体系に包摂されるようになっている。

 

この傾向は、近代社会の発展の中で生じた、統治の領域や任務の拡張とそれを司る執行権力の伸長に付随するものと理解できるであろうし、この意味で、統治の合理性や実効性の追求においては肯定すべき必然的な傾向であると考えられる。とはいえ、この傾向に対しては一貫した懸念も存在する。それは、この組み込みが執行権力の権能とその範囲の拡張に帰結し、その結果、現代の自由主義的な民主国家の規範原理が侵犯されることになるのではないかという懸念だ。たとえば、民主的な政治制度を維持するためには不可欠な、三権の分離の下での権力均衡が破られたり、国民主権を事実上保障する立法手続きが蔑にされたりする可能性、あるいは、基本的人権が蹂躙される可能性など、ようするに、それは、民主主義を保障する法秩序を破壊する可能性への懸念だといえるだろう。このことは、19世紀のフランス、20世紀のドイツそして21世紀のアメリカを見るだけでも、理に適った懸念だといわざるを得ない。

 

そうだとすれば、現代における必要と法秩序との関係性についてこう指摘できるだろう。すなわち、民主的な法秩序への必要の組み込みによる生じる内的連関ゆえに、現代の法秩序から必要を切り離すことは不可能であるということ。さらに、必要の法秩序への内部化がかえって法秩序の安定性を損ね、その法秩序に依拠する民主的な政治制度を動揺させる可能性があるということ。だからこそ、必要は、より慎重かつ厳重に法秩序を前提にした民主的なコントロールの下に置かれなければならない、ということだ。

 

「国家の存立か、憲法か」という問いかけが提起していること

以上の議論を念頭に置いて、「国家の存立か憲法か」という問いかけについて検討してみよう。この問いかけについて、こう批判する人がいるはずだ。すなわち、日本という国家の存立とは、民主的な国家の存立であるのだから、民主的な国家の存立のために必要な措置は、憲法を頂点とする法秩序に適合したものでなければならない。法秩序を踏みにじった上で存立が救済される国家は、もはや民主的な国家ではない。ここから、国家の存立と憲法とは二者択一の対象とはなりえない。したがって、この問いかけは、無意味なのだ、と。確かに、こうした批判は、理に適ったものだといえる。しかし、この批判が、先に触れた、必要と法秩序の本来の関係性や、近代以降のその関係性の変容を検討することなく、こうした問いかけを封じ込めた気になっているとすれば、ナイーヴすぎるように思われる。なぜなら、その検討を欠いては、「国家の存立か憲法か」という現在の問いかけの重大さをつかみ損ねる可能性があるからだ。

 

試みに、この批判を「国家の存立か憲法か」と問いかける人に向けてみよう。そうすれば、おそらくこんな返答があるだろう。確かにそうだ、しかし民主的な国家の存立を確保せねばならないという必要(緊急事態)において、民主的な立法手続きも人権を保障する法律もその存立を守ることができないなら、それらは沈黙すべきである。必要が法秩序に関わりなく、何がなされるべきかを決定する、必要は法を知らない、と。この噛み合わない返答が何を意味しているのか。それが意味しているのは、現代における、必要と法秩序の本来的な関係の回復であり、必要の本来的な権能の回帰に他ならない。必要は、現代の民主的な政治体制の下であっても、そして、それを民主的なコントロール下に置こうとする努力にかかわらず、結局は、法の手綱を振りほどき、法秩序とそれに支えられた民主的な政治体制の限界を乗り越える能力と権利を失いはしない、というわけだ。こうしたことを「国家の存立か、憲法か」という問いかけは意味しているのである。

 

もちろん、現在、「国家の存立か、憲法か」と問いかけているのは、政府ではなく、政府の外部で、安全保障関連法案の法制化を望む人たち、特に安全保障や国際政治の専門家たちである。政府は、この問いかけすることは許されないし、実際、今後もそうすることはないだろう。これに対して、安全保障や国際政治の専門家、さらに一部の政治家は、たとえ憲法に違反した法案であったとしても法制化の重要性を世論に訴えるために、「国家の存立か、憲法か」と問いかけることで、いわば、「必要は法を持たない」という古くからの格言を持ち出しているわけだ。だとすれば、それは、この格言を手にワイマールの法秩序を乗り越えようとしたシュミットばりに、こう言っているのとそんなに変わらないはずだ。「現代の安全保障環境の変化の結果、日本は切迫した緊急事態、すなわち例外状況にある、だから、例外状況に関して決定する主権者、すなわち国民よ、今こそ法秩序を乗り越え、国家存立ために決断せよ」と。

 

「国家の存立か、憲法か」と問いかける専門家や政治家たちは、このことを十分に理解しているにちがいない。しかし、こうした問いかけが孕む危険――これについては歴史に学ぶほかはない――について真剣な顧慮がないとすれば、危ういといわざるを得ない。それでも、「必要は法を持たない」として「国家の存立か、憲法か」というのなら、その前に、専門家にはしてもらわなければならないことがある。それは、中国の脅威とか、日米同盟の脆弱化とかいうような曖昧な理由ではなく、法秩序を覆さねばならないほど、日本が危急の事態にあるということの証明、すなわち、日本が例外状況にあるということの客観的で、合理的かつ個別具体的な事例の列挙である。そうでない限り、事の重大性からして無責任の誹りは免れないように思われる。