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民主主義とその周辺

研究者による民主主義についてのエッセー

民主主義が民主主義に敗北した日――安全保障関連法案の衆議院通過の意味について考える――

7月16日以後の日本社会

先日の安全保障関連法案の衆議院での可決は、第二次世界大戦後、民主国家として出発した日本を大きく転換させることになった。2015年7月16日を挟んで、それ以前の日本とそれ以後の日本は、まったく異質な社会となったのだ。なぜなら、この法案の可決によって、戦後の日本社会が民主的な社会として自らを理解してきた根拠、すなわち、憲法で保障された国民主権や基本的な諸人権あるいは平和主義などを国家権力から守るための大原則が失われたからである。立憲主義の否定といわれるこの事態は、現行の日本国憲法下で紆余曲折を経て発展してきた日本の民主主義の破壊を意味する。そもそも、立憲主義とは執行権力を憲法の制約下に置くことで、現代の民主主義の根源的な価値である私的領域における個人の自由、ならびにこの自由の保障に不可欠な政治参加などの公的領域における自由を執行権力から保護するものだ。こうした立憲主義にもとづく民主主義を一般に、立憲民主主義というが、それを国権の最高機関である国会が否定したのである。したがって、7月16日を境に、立憲主義に対して死亡宣告が突き付けられることで、日本国憲法を基調とする我が国の戦後民主主義の命も風前の灯となったといえる。

 

何を大袈裟な、という人もいるだろう。しかし、16日以前も現在も、表面上は何ら変わりのない日常の生活が続いているように見えたとしても、日本社会の変質を誤魔化すわけにはいかない。そして、昨年の7月1日の集団的自衛権の行使を解禁した閣議決定に端を発する現在の事態が、法令審査権を持つ司法府によっても容認されるようなことになるなら、日本社会の変質は常態となる。つまり、例外的状況が日常となるのだ。

 

このことは何を意味するのだろうか。例外状況が日常となるということは、必要の名の下に、法秩序を凌駕する国家権力の行使が可能となるということである。つまり、国家権力が必要と判断すれば何でもアリということだ。歯止めがなくなれば、あとは滑りやすい坂を転がるしかない。その先にあるのは、民主主義の終わりである。歴史が教えてくれる苦い教訓に思いを致す人なら、おそらくそう危惧するだろう。

 

現代の民主主義はどのようにして破壊されうるのか

とはいえ、ペシミズムやシニシズムを弄んでいてもあまり意味がない。そこで、あらためて、安全保障関連法案の衆議院通過の意味について考えてみよう。しばしば耳にするのは、15日の衆議院特別員会での安全保障関連法案の強行採決やそれに続く16日の衆議院本会議での野党欠席の下での採決に関して、それらが民主主義に対する暴挙だという野党側からの主張である。これは、本法案の審議やそれをとおしての国民の理解が不十分であるにもかかわらず、与党が数の力で決定を行ったという批判を表明している。しかし、こうした主張に説得力があるとは必ずしもいえないし、さらに、そのように主張するだけでは、この出来事の問題の核心を見逃してしまう可能性がある。

 

たとえば、政治的決定の民主的な正統性の源泉を民主的な手続きに求める手続主義を形式的に解釈することで、先の主張に対して次のような批判が可能だ。衆議院の特別委員会そして本会議において採決を行った代表者たちは、民主的な選挙を経た正統な代表者であり、その代表者による採決自体も法律に定められた手続きに従って行われた。つまり、一連の採決は、現行の憲法および法律によって定められた代表制度の意思決定の手続きに従い行われたのだから、反民主的であるとは言い難い。これゆえ、そのような主張は的外れだというわけだ。確かに、数の力で強硬に採決が行われたというだけでは、その採決そのものが民主主義を逸脱する暴挙であり、反民主的であるがゆえに無効だとはいえないかもしれない。

 

そうだとすれば、今回の衆議院における一連の採決をとおして確認せねばならないことは、民主主義はそもそも、憲法によって守られた民主的な社会を危機に陥れ、あるいは破壊してしまう可能性があるということではないだろうか。より正確にいえば、憲法により保障された現代の民主主義の諸価値は、代表制民主主義として制度化された意思決定の手続きを踏むことで、否定されてしまう場合があるということだ。今回のケースでいえば、憲法違反の可能性がきわめて高い法案、すなわち、現代の民主主義を保障した最高規範をそのもの否定していると見なしうる法案に対して、民主的な正統性が代表制民主主義の手続きをとおして与えられてしまったわけだ。こうしたことが可能となるのが、民主主義の元来の姿なのである。だから、自公の連立政権が数の力で民主主義に対する暴挙を働いたというのでは正確ではない。代表制民主主義が民主主義に対する暴挙を働いたのである。

 

民主主義が民主主義を破壊することがある。この矛盾した事態を直視しなければならない。何も無知で情緒的な群衆がレファレンダムによって、そうした事態を引き起こすだけではないのだ。それは代表制度においても起こりうる。現在の日本が何よりの証拠だ。

 

しかし、そうだからといって、代表制が現代の民主主義におけるもっとも重要な制度であることに変わりはない。とすれば、先の衆議院での一連の採決に関して検討すべき問題は、この事態をどうしたら止めることができるのか、ということになる。

 

破壊された民主主義を救うには

議会において憲法に違反する可能性の高い法案が可決成立した場合、裁判所がその法律の違憲性を審査することができる。したがって、今回のケースのように、立憲主義にもとづく民主主義を危機に陥れるような立法行為の歯止めとなるのは、法令審査権を持つ司法府である。安全保障関連法案が法制化された後には、この法律の合憲性をめぐる多くの裁判が起こされるであろう。とはえい、たとえ、ほとんどすべての憲法学者違憲性を指摘しているとしても、裁判所がそのように認定するとは限らないし、また、何より裁判所には時間がかかる。

 

そうだとすれば、7月16日以来、変質した日本社会を早急に元に戻したいと考える人びとに手はないのだろうか。手っ取り早い手段はもちろんある。それは、選挙によって問題の法律に対する反対の意思表明をすることである。つまり、代表制民主主義によって危機に陥った現在の日本の民主主義を代表制民主主義によって救い出すという手段だ。来年の参議院選挙が、現政権への批判を突き付ける絶好の機会である。また、時期は明確ではないものの政権選択をする衆議院選挙も行われる。そこで新たな政権に集団的自衛権の行使を認める法律およびその法律の根拠となった昨年7月の閣議決定の破棄を約束させればよいわけだ。

 

しかし、もちろん、その実現可能性についてはいかなる保証もない。いやむしろ、通常の経験則にもとづけば、その可能性は低いといわざるを得ない。すでに、政権内部から、今回の強行採決についても、国民は数日たてば忘れてしまうというような発言が出ているではないか。そうだとすれば、その可能性はこの健忘症との戦い次第ということになるように思われる。

 

議会の外での直接的な行動の機能

議会における代表者たちによって立憲主義的な民主主義が否定されようとしている現状では、そうした代表者たちに異議を申し立てる直接的な行動がこの戦いにおける鍵となるだろう。そうした直接的な行動の中心となるのが、現在も行われている街頭におけるデモだ。

 

もちろん、デモに参加した人びとの直接的な意思表明は、選挙と議会において表明される意思のように、公式の政治的決定過程に組み込まれない。このため、デモにおいて表明された意思は、市民社会に共感と連帯を呼び起こし、マスコミの関心を喚起させることで、世論の形成を可能にする。そうすることで、間接的に、意思決定の公式機関である議会への影響力を行使する。

 

デモが鍵となる理由は、それが、もの忘れの激しい世論やマスコミに対して、そして、国民の健忘症に付けこもうとする代表者たちに対して、集団的自衛権の行使を認める法律およびその根拠となる内閣の憲法解釈の撤回を求める意思を表明し続け、来るべき選挙の争点であることを提示し続けることが可能だからである。しかし、これだけが理由ではない。デモにはこうした機能以外にも、様々なものがあるからだ。たとえば、デモは、デモに参加することはなくても、そこで提示される意思を共有している人たちをエンパワーすることができる。また、デモには、その参加をとおして、政治に対する関心と知識を持ち、政治へのコミットメントに意欲的な人びとを作り出すという、いわゆる、政治主体の産出機能もある。これらの機能を備えたデモや、それ以外の議会の外で行われる直接的な行動が、代表制民主主義によって危機に陥った現在の日本の民主主義を今後の選挙をとおして救い出すための土台となるように思われる。

 

民主主義という不確実な政治制度

繰り返し指摘してきたように、7月16日の出来事は、代表制民主主義によって引き起こされた現在の日本の民主主義の危機として解釈することができる。これは、極めて深刻な事態ではあるが、驚くべきものではない。近代の民主主義の歴史は、この反復の歴史とさえいえるからだ。したがって、現在の日本の状況は、代表制を基盤に整備された政治制度としての民主主義の不確実さないし危うさを改めて私たちに示しているわけだ。しかし、だからといって、この状況を前に悲嘆にくれる必要もない。また、シニカルになる必要もない。

 

その理由は2つある。1つは、民主主義における決定はつねに暫定的なものであり、変更が可能であるということだ。もう1つは、代表制にせよ直接制にせよ、制度化された民主主義とは違った、民主主義を守るための制度化されざる行動が、日本国憲法第21条によって権利として保障されているということだ。もちろん、それがデモなどの直接行動を含めた社会運動である。市民社会におけるそうした行動が代表制度にどのような形であれ影響を及ぼすとき、おそらく、民主的な社会の実現を妨げたり、民主的な社会を脅かしたりする決定を変更できるであろう。確かに、歴史は、そうした試みが幾度となく失敗に終わったことを教える。しかし、そうした歴史の反復に抗うことができなければ、現在の日本の例外状況が日常化してしまうことを食い止めることはまずできないだろう。