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民主主義とその周辺

研究者による民主主義についてのエッセー

民主主義がテロに屈しないためにこそ、寛容が必要である――11月14日のパリにおけるテロ事件の衝撃について――

11月14日、イスラム過激派組織によるパリでのテロは、文字どおり世界を震撼させることになった。もちろん、その衝撃はその犠牲者の数やパリを標的にした周到な計画に起因するだろうが、それだけではない。このテロが起こるべくして起きた事件であったこと、おそらく、同じ様なテロが今後も、フランスのみならず他の西側先進諸国において発生するだろうということ。ようするに、私たちはテロが日常の一部になりつつある社会に生きているという、目を背けたくなる現実に否応なしに向き合わざるをえなくなったこと。ここに今回のテロの衝撃の一因があるように思われる。だから、「いったい、私たちの社会はどうなってしまうのか」、パリから遠く離れた場所でこの事件を見たり聞いたり人であっても少なからず、こんな不安を感じたはずだ。

 

この場合、「私たちの社会」という言葉が意味しているのは、端的にいえば、民主的な社会だろう。それは、個人の自由と平等を保障し、多様な価値観やライフスタイルの共存を許容することを社会の根本原則として自認するだけでなく、程度の差はあれ、それらを実際に実現しようとしてきた社会である。そうだとすれば、この不安は、テロリストの暴力に晒された民主的な社会が治安の強化の必要性から、その社会の大切な原則を手放してしまうのではないかという直観に由来すると解釈しても見当違いではあるまい。

 

こうした不安を嘲笑する人もいるだろう。パリで今回起きたような虐殺など、イラクやシリアでは日常茶飯事なのであり、何をそこまで騒ぎ立てたり、不安を感じたりする必要があるのか。これが大部分の世界の現実なのだ、いやそもそも、こうした現実の種を蒔いたのは、19世紀以来の欧米諸国の中東政策ではないか、と。確かに、そうした言い分もあるだろう。しかし、ここではこの不安にフォーカスしよう。それが、民主主義と暴力の抜き差しならぬ関係について再考する機会を与えてくれるように思えるからだ。

 

暴力と民主主義

民主主義とテロリズムとの関係については以前のコラムで論じた(http://fujiitatsuo.hatenablog.com/entry/2015/02/02/213122)。そこでは、民主的な社会は革命や戦争のような暴力から始まったこと、民主的な社会はその始まりの暴力を民主的な立法手続きと法の支配によって内部に封じ込めてきたこと、そしてテロリズムのような物理的な暴力は民主的な社会に封じ込められた暴力を解放する危険があることを指摘した。

 

現代の民主的な社会におけるテロリズムの問題を考える上で重要な点は、テロリズムがこの封じ込められた暴力を解放することで、民主的な社会を自己崩壊させてしまう可能性があるということである。まさにそこに民主主義が暴力に対してきわめて脆弱であるといわれるわけがある。

 

暴力が民主的な社会をいわば自殺に追い込むということを理解するには、民主的な社会と例外状況との関係を考えてみる必要がある。政治理論の常識的な理解では、たとえば、民主主義の基本的な価値である自由――これを広い意味での人権と理解してもよい――は、民主的な諸制度の下で制定された法の支配によって実現され維持される。それは、この民主的な法の支配が秩序を実際に統治する国家の目的や手段を規定することで国家権力をコントロールし、その行使が伴う暴力を制約することで可能となる。そうした制約が解除される例外状況だ。この例外状況は、法の通常の機能が停止され、民主的な規制から解き放たれた国家権力が出現する状況を意味する。それは、法が想定しておらず、したがって法によっては適切に対処できないような非常事態に社会が直面する際に生まれる。このとき、法が秩序の支配から後退する中で、法による縛りから自由になった国家が治安のために何をなすべきかを決定し行動する。ここから、例外状況では国家という「怪物」が行使する超法規的な力によって、民主的な諸価値や諸制度が制限されたり、否定されたりすることが起きうる。この場合、平等な者たちからなる自由な社会、すなわち、民主的な社会はその崩壊の可能性に直面することになる。

 

テロリズムは例外状況を作り出そうとする。その目的は民主的な社会を自壊に追い込むことだといえるだろう。すなわち、テロに見舞われた民主的な社会が自ら例外状況を宣告することで民主的な価値や制度を守る法を停止し、平等な者たちからなる自由な社会であることを放棄すること。これがテロリズムの狙いの一つと考えられるわけだ。少なくとも、現代ヨーロッパの民主的社会における文化的あるいは歴史的な自己理解からすれば、そういえるはずだ。

                      

安全と民主主義

今回のテロ事件を受けて、オランド大統領はISとの戦争状態にあるとして即座に非常事態宣言を発令し、さらに、治安維持の強化のための憲法改正も視野に入れていると報道されている。また、空爆などによるISへのフランスの軍事行動も強化され始めた。こうした一連の動向は、先の議論からすれば、自由やそれを守る制度を制約することになるのだから、テロリズムの謀略に嵌められたことになるようにも見える。テロリストからすれば、戦線をシリアやイラクからヨーロッパの心臓部へ拡大することに成功したし、さらに、それによって、アガンベンらが指摘するような、民主的な社会における例外状況の日常化――これが民主主義の自壊が起こりうる環境だ――にも成功したともいえる。とすれば、世界史において燦然たる歴史を誇るフランスの民主主義はすでに、ISによるテロリズムに屈してしまったのだろうか。

 

おそらく、そうとはいえないだろう。フランス政府の一連の行動は、社会の安全を守るための措置だと考えられる。民主的な社会の可能性そのものが、その社会の安全に依拠していることは事実だ。だとすれば、民主的な社会はたとえ自壊の可能性を伴ったとしても、その社会を実際に破壊しようとする明確的で具体的な敵対者(テロリスト)を力ずくで排除することで、自らを守らねばらない。これは確かに矛盾に満ちた事態だ。しかし、そこに民主的な社会と暴力との抜き差しならぬ関係を見て取ることができる。すなわち、民主的な社会は国家権力の暴力によって、自壊の危険を冒しつつも、社会の敵対者からその安全を確保せねばならない場合があるのだ。翻っていえば、例外状況での安全の確保という必要の下で、民主的な社会の原則は簡単に形骸化されてしまうことだってありうるということだ。

 

ここから、フランスの民主主義が敗北したかどうかは、非常事態を宣言したり、治安維持の強化をはかったりしたかどうかでは判断できないことがわかる。その勝敗は、眼前のテロリストの暴力を排除し治安上の安全を確保した上で速やかに例外状況から脱することができるかどうか、換言するなら、法が通常に機能することで人権が保障された民主的な秩序を復元できるかどうかにかかってくるといえる。

 

それでも寛容が必要なわけ

テロリズムとの戦いが厄介なのは、それが例外状況を日常化し永続化させる点にある。だから、例外状況からの民主的な社会の復帰がそう簡単ではないこともまた確かだ。しかし、どれほど困難があろうと、例外状況から復帰を果たそうとするなら、そのための出発点となるのは寛容だろう。この期に及んで寛容とは何事かという人もいるかもしれない。とはいえ、寛容は傷つけられた民主的な社会がその健康を回復するために必要なのだ。具体的には、今回のテロによってこれまで以上に排斥され迫害されるかもしれない、フランス社会に暮らすムスリムへの寛容である。

 

多くの指摘があるように、今回の事件に限らず、ヨーロッパのムスリムの若者たちがテロリズムに手を染める一つの要因が、社会からの経済的あるいは社会的な排除や疎外にあるとするなら、民主的な社会の課題は、そうした若者たちを社会に包摂していくことである。この課題への取り組みが失敗し続けるようであるなら、その社会はテロリズムの脅威に繰り返し晒されることで、恒常的な例外状況に置かれるようになると思われる。しかし、イスラムの過激派によるテロによって傷つけられた現在のフランス社会では、この包摂を進めて行くことはこれまで以上に難しくなるだろう。この状況を乗り越えるために求められるのが寛容なのだ。ここに、寛容が必要だという現実的な理由がある。

 

さらに、この寛容は、自由・平等・友愛という共和国フランスの精神が現代社会に命じるものでもある。現代の社会は、民族や宗教、セクシャリティ、価値観やライフスタイルなどにおいて多元化した社会である。つまり、そのような社会は多様なマイノリティからなる社会であり、そこに暮らす私たち一人ひとりもマイノリティなのだ。この多元性の事実に鑑みたとき、民主的な価値としての自由は、特異であること――他と異なってあること――の自由として再解釈する必要がある。だとすれば、平等は、特異であることへの承認と尊重というアイデンティティの平等を意味するはずだ。そして、このように理解された平等の下で、異なる者たちの間に相互性を作り出し、社会の凝縮力を創出するのが友愛だといえるだろう。ここで重要なことは、友愛という民主的な価値は寛容という徳によって支えられなければならないということだ。だから、テロリストの攻撃に晒されたフランス社会がその傷を癒し、民主的な社会として自由・平等・友愛という民主主義の価値を高らかに掲げるには、この寛容から出発する必要があるといえるのだ。

 

テロリズムが人びとに恐怖と復讐心を掻き立てる中、治安への関心が高まるのは当然だ。しかし、それと共に寛容が社会から消え去ってしまうなら、民主主義がテロリズムに打ち勝つことは甚だ困難になるように思われる。