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民主主義とその周辺

研究者による民主主義についてのエッセー

ポピュリズムだけがそんなに悪いのか?――ポピュリズム化する民主主義の時代のリスクとエートス――

世界を席巻するポピュリズム

昨今の政治の動向を理解するための鍵の一つはポピュリズムにある。こういっても、異論はおそらくないであろう。トランプやサンダースが主役になったアメリカの大統領選挙もしかり。今後、ヨーロッパ政治の台風の目となるかもしれないイタリアの五つ星運動もしかり。つい先だって、大きな国際問題にもなった、ブレクジット、すなわち、国民投票によるイギリスのEU離脱も、ポピュリズムの観点から説明することができる。例を挙げたら切りがないわけだが、少なくとも制度としての民主主義が成熟しているとされる国々の政治において、ポピュリズムはまさに諸問題の焦点となっている。

 

もちろん、日本の政治状況も例外ではない。国政では、小泉政権の政治手法がポピュリズム的だとして論じられてきたし、地方政治では、議会や様々な利益団体を守旧派として対決的な姿勢を売りにした、田中康夫長野県知事などの改革派知事以後、近年では橋下前大阪市長がポピュリストとして注目を集めたのは記憶に新しい。現在、築地市場の移転問題でマスコミを賑わせている、小池東京都知事も、即断はできないものの、ポピュリズム的な手法をとりつつあるように思われる。少なくとも、都知事選において、自民党都連との対決姿勢を打ち出した選挙戦術とその成功は、ポピュリズムの観点から説明される必要がある。

 

何を今さらという人がほとんどだろう。確かにそうだ。しかしながら、久しぶりのコラムでこんな分かり切った話題をあえて取りあげるのには、ちょっとした理由がある。それは、上で挙げたような事例を論じる際、ポピュリズム大衆迎合的政治として過度に拒絶する反応がエリートたちを中心に未だ顕著であるように思われるからだ。「ポピュリズム?はい、論外です」という風に。すなわち、エリートを敵視するあまり衆愚政治を招いたり、大衆に熱狂的に支持された政治家の独裁を招いたりする危険があるからポピュリズムは駄目だというわけである。しかし、ポピュリズムが現代政治の実相を理解する鍵となっているとすれば、そうした態度で済まされるわけもない。ポピュリズムは常に批判されてきたにもかかわらず、政治の現実はポピュリズム色を強めている。いやむしろ、ポピュリズムを上から目線で叩けば叩くほど、その勢いは増々強くなる。だから、確かにまっとうに聞こえる衆愚政治や独裁への警戒も、ただ政治の現実の否認に終始するなら、それほど意味があるとはいえない。今、必要なことは、ポピュリズムと現代の民主主義との親密な関係についての冷静で行き届いた理解ではないだろうか。では、ポピュリズムとは何であり、それと民主主義との関係をどう理解すべきなのか。

 

鵺(ぬえ)のようなポピュリズム

ポピュリズムを扱う議論では必ず触れられるように、この語彙自体は19世紀末のアメリカで生じたラディカルな農民運動に由来する。この運動が政治化する中で、その担い手たちが自分たちの利益を代表する政党を「ポピュリスト党(人民党)」と名乗ったのが始まりだ。もちろん、それ以前の、フランス第二共和政から第二帝政にかけてのボナパルティズムやロシアのナロードニキ運動などは、現在ではポピュリズムの観点から説明されるが、ポピュリズムといえば、このアメリカのケースから始められるのが一般的だといえる。20世紀になると、アルゼンチンのペロン政権やブラジルのヴァルガス政権などラテンアメリカポピュリズムが多くの関心を集めることになる。これらは、工業化社会へと転換しつつあった社会、しかも、民主主義の諸制度が完備される途上にあった社会におけるポピュリズムといえる。これらの例に対して、ヨーロッパを中心に1990年代以降とりわけ問題化されたのが、排外主義を唱える極右勢力のポピュリズムである。しばしば、この政治潮流は、「ニュー・ポピュリズム」(ポール・タガート)と呼ばれるが、脱工業化社会の成熟した民主主義の制度下で台頭したポピュリズムという点にその特徴がある。そして、私たちの時代のポピュリズムもこの潮流を起点に考える必要がある。

 

政治に関する多くの語彙において、ポピュリズムほど概念上の定義やこの政治現象を説明する際の特徴が曖昧なものはない。ポピュリズムは、時代背景や各社会に固有な文化的・政治的文脈に応じて、その要求や戦術、担い手など様々な形をとる。ポピュリズムが文脈依存的であることを前提とした上で、政治現象としてその特徴を挙げるなら次のようになる。政治家や官僚など権力を行使するエリートに対して私利を貪り腐敗していると批判する点、普通の市民の利益や意見を代表しているのは自分たちだと主張する点(大衆迎合的性格はここから由来する)、既得権益に群がる集団といった敵を作り出し徹底的に叩くといった対決的な政治手法を用いる点、議会などでの熟議や交渉よりもレファレンダムなどの民意を直接表出させる決定方法を好む点などだ。ポピュリズム的と呼ばれる政治が上記の特徴すべてを備えているわけではないものの、そのありようをイメージする際これらの特徴は手助けになるだろう。

 

とはいえ、分かりやすいイメージをなぞるだけでは、ポピュリズムをめぐる現代の問題の核心に触れることはできないだろう。なぜなら、それでは、現在の政治がポピュリズム色を強めつつある事態、換言するなら、現代の民主主義とポピュリズムとの区別がますます難しくなりつつある事態を検討することにはならないからだ。

 

民主主義の病としてのポピュリズム

ポピュリズムと民主主義とが分かち難い関係にあることは、ポピュリストが自らの正統性を普通の市民の代表者であるという自認から引き出している点に見ることができる。すなわち、ポピュリズムの究極の正統性は主権者であるピープル(人民)の存在に依拠している、換言するなら、その正統性は人民主権という概念に依拠している。この概念が近代民主主義の理論的な核であることは周知のとおりだ。ここに、ポピュリズムが民主主義的な性格を持つわけがある。また、ポピュリズムを社会運動として見ても、その民主主義的性格を確認できるだろう。それはこういうことだ。ポピュリズムが批判される場合の多くは、政治家が無党派層の支持を取り付けるべく、対決的であると同時に極端に単純化された争点を掲げて扇動するような「上からの」ポピュリズムである。しかし、その一方で、現在でも「下からの」、すなわち、「草の根的な」ポピュリズムも存在する。その代表例は、もちろん、ティー・パーティー運動だ――この運動と組織化された保守系利益団体などとの根深い繋がりはあるものの、その草の根的側面を否定する研究はほとんどない――。ポピュリズムが社会運動として持ちうる草の根性は、その民主主義的性格の証左であり、それを反民主主義として簡単に退けられない理由の一つともいえる。

 

ここから、ポピュリズムは民主主義のあり方の一つとして理解することができる。しかし、だからといって、それと民主主義とが全く同じというわけではない。たとえば、民主主義の研究者の間では、ポピュリズムを代表制民主主義(自由民主主義)の病(pathology)として理解することがしばしばある。病は健康という規範的な状態から逸脱した状態、あるいは規範的な状態を可能にする機能の不全を意味する。それゆえ、ポピュリズムは民主主義が機能不全ゆえに、そのあるべき状態から逸脱した政治だといえるだろう。

 

とすれば、この逸脱はどのようにして起きるのだろうか。すでに指摘したとおり、その直接の原因は、19世紀から20世紀にかけて、選挙-政党を軸に整備されてきた代表制度の機能不全である。既成の政党や政治家はもはや普通の人びとの利益を代表していない。むしろ、それらは自分たちの利益を追求し、普通の人びとの生活を顧みない利益集団でしかない。「堕落した」既成政党や政治家へのこんな不信は、もはや当たり前のメンタリティといえるかもしれない。投票率の低下、党員の減少、無党派層の増大を代表制度への不信に求めることは常識にさえなりつつある。

 

しかしながら、現代のパワーエリートの堕落だけを代表制度への不信や不満の原因とするのなら、それは妥当ではない。20世紀の中葉以降に先進諸国で進行した、工業化社会から脱工業化社会への転換、あるいは物質主義の時代から脱物質主義の時代への転換――だからといって、経済的不平等を緩和する富の再配分などの物質主義に関わる問題がなくなったわけでは決してない――は、社会そのものの複雑さと再帰性を増大させた。その結果、物質主義的な価値が争点化される工業化社会には適合していた代表制度は、複雑で再帰的な社会の政治的要求を代表することが困難になった。さらに近年では、グローバル化新自由主義的政策の下で、代表される者と代表する者との隔たりはいっそう深まっている。こうした現状の認識から代表制度の機能不全を検討する必要があるだろう。既成の代表制度をどれほど正常に運用しようとも、もはや普通の人びとの期待を満足させることが困難になりつつあるということ。この認識から出発してポピュリズムについても考える必要があるのだ。

 

代表制度への不信の原因をこれ以上掘り下げることは控えよう。ここで重要なことは、政党や政治家に代表されていないというメンタリティが私たちの社会の日常的な雰囲気となっているとするなら、そこからポピュリズムがいつ頭をもたげても不思議ではない、ということだからだ。ようするに、そのような雰囲気の中では、民主主義のポピュリズム化の傾向は強くならざるをえないのである。

 

ポピュリズム化する民主主義の時代にどう向き合うか?

現代の民主主義はポピュリズムとますます分かち難くなっている。しかし、この事態が好ましいかといえば、必ずしも、そうでもない。確かに現代の民主主義もポピュリズムも政治的決定の正統性を民意に求めるものの、双方の間には異なる点も少なくない。中でも近年強調されているのが、熟議をめぐる相違点だ。よく知られているように、現代の民主主義理論では、多数決原理に立脚する利益集計型民主主義論に対する批判として、熟議が重視されている。熟議を組み込んだ民主主義は、十分な情報にもとづいた議論が人びとの選好を変容させるという想定の下で、理に適った理由にもとづく政治的意思決定を理想とする。これに対して、ポピュリズムは熟議よりも、あるいは合理的な判断よりも、「友/敵」という対決的な政治スタイルの下での決断を好む。また、その際、ポピュリズムは価値観の多様性を承認するよりは、不寛容な道徳主義的言説に依拠することがしばしばある。その結果、排外的な政策を生む場合も少なくない。さらに、道徳を基盤にした決断主義を好むポピュリズムは政治争点を単純化する傾向にあり、それによって、政治が取り組むべき本来の問題を隠蔽にしたり、問題解決のための冷静な思考や地道な努力を退けたりする可能性もある。これらはポピュリズム化する民主主義のリスクといえる。

 

民主主義のポピュリズム化する傾向がますます高まる一方で、民主主義とポピュリズムとのこうした相違点から、現在の政治の危うさが生じているとしよう。その場合、私たちはこの現実にどう向き合うべきなのか。

 

おそらく、二つのやり方があるだろう。一つは、代表制度の改革が必須であろう。なぜなら、ポピュリズムは代表制度の機能不全から生じているからだ。事実、多くの国々で、代表制度の機能不全を是正すべく、政治的決定プロセスに市民の参加や熟議を組み込もうとする、様々な民主主義のイノヴェーションが試みられている。もう一つは、政党や政治家に対する再帰的な眼差しによる監視が必要であろう。この監視は以下のことを意味する。すなわち、民主主義がポピュリズム化せざるをえず、また、ポピュリズム化した民主主義にはリスクがあることを十分認識した上で――ここでの「再帰的」とはこうした認識を意味する――、ポピュリストが、普通の人びとの利益を真摯に代表しようとしているのか、それとも、自らの権力の増進や維持のためのパフォーマンスをしているだけなのか、さらに、ポピュリストが代表していると主張する利益が本当に普通の人びとの利益なのか、私たちが醒めた目で監視することだ。そして、この監視を一時的なものでなく「エートス」とすること、すなわち、この語の元来の意味での「習慣」とすることだ。

 

こうした監視は、今の日本の政治にも求められているように思える。たとえば、小池東京都知事が取り組む築地問題がそうだ。小池知事は都民の真の利益を誠実に代表しようとしているのか、それとも、今後の彼女の政治家としてのキャリアの踏み台にしようとしているのか。その二つは不可分なのであろうが、小池知事の言動とその結果をしっかり監視することで、判断する必要がある。むろん、この判断は容易ではない。しかし、これは、ポピュリズム化する民主主義の時代に生きる私たちの責任ではないだろうか。この責任が放棄されるなら、歴史的に反復されてきたポピュリズムの悪夢の再演を許すことになりかねない。少々大げさかもしれないが、この不安を完全に払拭することはなかなか難しいように思われる。