民主主義とその周辺

研究者による民主主義についてのエッセー

21世紀の自由からの逃走?――共謀罪の法制化を目前にして考える、この国の民主主義に起きていること――

 

陳腐な光景と滑りやすい坂

森友学園問題に対する官僚の不誠実な対応や、共謀罪の法制化をめぐる担当大臣のいい加減な国会答弁をはじめ、驕り高ぶる政治家や官僚たちの言動が甚だしい。民主主義の悲劇か喜劇かは別にして、こうした言動は日本の政治の見慣れた光景になりつつある。しかし、果たしてそれは日常茶飯事として済まされる問題なのだろうか。表沙汰となる陳腐な光景の背後で、この国の民主主義に何が起きているのか考えてみたい。

 

例えば、現在国会で審議されている、いわゆる共謀罪。これは、多くの法律の専門家たちが警告しているように、現行の民主的憲法下での刑法体系を大幅に変更することで、それが課してきた統治権力――一般にこれは執行権力、立法権力、司法権力に分類される――に対する統制を緩め、取り締まりの権限を個人の内面にまで拡大させる可能性がある。あるいは、まだ記憶に新しい安保法制。これも、法律の専門家たちのほとんどが指摘したように、統治権力を憲法によって統制する立憲主義という民主的原則を破るものであった。これらの二つの事例が示唆しているのは、端的に次の事態ではないだろうか。すなわち、統治権力、その中でも執行権力が立憲主義三権分立といった、自由主義の伝統に依拠する統制から徐々に自らを解放しようとしている事態、そして同時に、自らの目的と利益のため望むままに行動する自由を手に入れつつある事態だ。

 

ことの深刻さを理解するには、次のような理論的かつ歴史的な事実、しかもきわめてシンプルな事実を思い出す必要がある。すなわち、統治権力はその本質として、そうした自由を常に求めるものであり、さらにそれが統制から自由になればなるほど、私たちの社会の自由は失われ個人の尊厳は奪われていく、という事実だ。さらに不吉なのが、民主的統制という箍がいったん外れ、人びとの自由を制約する執行権力の自立化が始まるなら、この事態は滑りやすい坂をひたすら転がり落ちるように悪化する可能性があるということだ。

 

歴史を振り返ってみる

統治権力の民主的統制からの現在の自立化はどのように始まったのだろうか。まず確認しておくべきことは、この事態は統治権力、その中でも執行権力の強大化を前提にしているということだ。例えば、近年の日本の民主主義の制度面にフォーカスするなら、1994年の小選挙区制導入とそれによって促進された幹事長および党執行部への権力の集中や、阪神淡路大震災後を契機とする首相官邸機能の強化などによって内閣および首相の権力の拡充が進められることになった。これらの改革が間接的にせよ直接的にせよ、現在の日本の執行権力の肥大化の近景と考えられるだろう。しかし、その点については立ち入らず、ここではより広範な視点から近代の民主主義における統治権力、その中でも執行権力の肥大化の背景を簡単に指摘しておこう。

 

遠景とも言うべきその要因は、巨大化し複雑化してきた社会を統治する近代国家の発展にある。周知のとおり、近代国家の統治機構の発展は、絶対王政の下での軍隊を賄うための徴税の制度化とそれに伴う官僚制の組織化を中心にして進められたが、これを機に三権のうち、特に執行権力は強大化することになる。さらに、18世紀以降、国力の問題が人口との関係で論じられるようになると、近代国家の統治を司る執行権力は人口の管理のためにいっそう肥大化し始める。この傾向は紆余曲折があったとはいえ、最終的には19世紀後半から20世紀の二つの世界大戦を経て完成される福祉国家化によって絶頂を極めることになる。その後、肥大化した統治権力はグローバリゼーションの進展と新自由主義による批判に晒されながらも、治安や防衛面において依然として強大なままであると言えよう。

 

こうした背景の下で、絶対王政統治権力に関しては、三権分立立憲主義の原則によって統制がなされてきた。また、民主的な国家の統治権力に関しては、それらの原則に加え、国民の代表者からなる立法権力の執行権力に対する優越という原則の確立によって、強大化する統治権力、その中でも、執行権力に対する統制が試みられてきた。これは現行の日本国憲法にはっきり見て取れる。もちろん、こうした取り組みが易々となされたわけではない。なぜなら、統治権力は統制から逃れ、自由になろうとする本来的な欲望を持っているからである。

 

統治権力の欲望がなぜ黙認されるのか

すでに指摘したとおり、まさに今、この欲望に促された統治権力が執行権力に先導される形で、様々な統制から自らを解放し始めている。おそらくもっとも注目すべき点は、この事態が多くの人びとによって黙認されている、いやむしろ、望まれてさえいる、という日本の現状だろう。皮肉交じりにこう言ってもよい。民主主義が保障する自由を享受している当の人びとが統治権力の統制を解除しようとしている現状だと。これこそ、私たちが目の当たりにしている、安倍政権の大胆不敵な言動を生み出しているように思われる。

 

この現状を多数者の暴政という伝統的な民主主義批判によって片付けてしまうことは容易い。しかし、そのようなシニカルな批判は、その現状を生み出す要因の分析を欠いていたり、それに対する処方箋にまで踏み込むことがなかったりするなら、民主主義に代わる政治の選択肢がない以上、それほど意味があるものとは思えない。だからここでは、その現状が生じる二つの一般的な要因について簡単な説明を挙げておく。

 

それらの要因の一つは、2001年のアメリカ同時多発テロ以降の、テロリズムグローバル化の中で顕著になった「例外状況の日常化」である。もう一つは議会に対する人びとの不信である。これらが組み合わさることで、民主的統制から自由になろうとしている統治権力が黙認される環境が整えられると言えよう(前者についての詳細は、http://fujiitatsuo.hatenablog.com/entry/2015/06/23/223037、後者についての詳細は、http://fujiitatsuo.hatenablog.com/entry/2017/02/02/140050を参照して欲しい)。

 

まず、「例外状況の日常化」について。この例外状況は、法が想定しておらず、したがって法によっては適切に対処できないような非常事態が常態化することを指す。例えば、2001年のアメリカ同時多発テロ事件によって始まった対テロ戦争は、21世紀の「例外状況の日常化」を作り出したと言える。これ以後、アメリカ――並びに多くの先進諸国――では国内外のテロリスト集団との戦争が「いつでもどこでも」起こりうる危険が高まり、その結果、日常生活が永遠と続く戦争状態と隣り合わせとなった。このような「例外状況の日常化」に直面した際、統治権力が持ち出す常套句がある。それが「必要は法を持たない」というものだ。これまでの議論の流れとの関連で、この格言が意味するところをごくごくシンプルに述べるなら、統治権力は、国民の生命や財産を守るべく、現在の非常事態に対応する「必要」があるのだから、「法」の統制からそれを自由にすべきだということである。この考えにもとづく典型的な例が「アメリカ愛国者法」の制定であることはよく知られている。ここで重要なことは、日本でも「例外状況の日常化」をとおして、統治権力が統制からの自由を要求しているということだ。テロリズムグローバル化する中、オリンピックを控えた日本は、建前上、テロ対策として「共謀罪」を導入しようとしているのは先に触れた。さらに、中国の脅威や朝鮮半島の有事という例外状況の想定を根拠にして、集団的自衛権の行使が安保法制によって解禁されたことを忘れてはならない。

 

次に、代表制度、すなわち、有権者の代表である政治家や政党、そしてそれらが構成する議会への不信や不満について。これに関してもはやとやかく述べるまでもないであろう。ただ一つだけ、指摘しておくとすれば、それらの不信や不満が人びとのわがままというのではなく、代表制度そのものの機能不全――この状況は、端的に、支持政党が存在しないという多くの有権者の意識に見て取れる――に由来しているということだ。現在の政党を中心に制度化された代表制度がもっともうまく機能した20世紀半ばの社会的条件の多くが、もはや現代の社会には当てはまらくなったことを考えるだけでも、この機能不全は明らかである。それが一因となって昨今のポピュリズムの潮流を生み出していることも、以前のコラムで指摘したとおりだ。それはともかく、海外ばかりでなく日本でも代表制度の機能不全に起因する、議会への不信や不満の蔓延が指摘されて久しいが、その改革は手つかずのままである。そして、放置された不信や不満が、いわゆる「決められる政治」を標榜する政治家や政府の支持へと結び付いていることは容易に推測できる。

 

これらの二つの要因が重なり合うとき、人びとは「必要は法を持たない」という論理で行動しようとする統治権力を黙認ないし支持する可能性が高まることになる。

 

自由に倦む民主主義

確かに、現在の日本において、民主的統制から自由になろうとする統治権力を黙認したり、支持したりさえする人びとが増える条件は整っているように見える。しかし、果たしてそれだけなのだろうか。民主主義の下で享受してきた自由を犠牲することが明らかであっても、人びとが統治権力の欲望を黙認するとするなら、この事態はたんにそうした条件だけでは十分に説明しきれるものではない。そうだとするなら、こう考える必要があるだろう。すなわち、人びとたちは自由に倦んでいるのだ、と。もはや、人びとは自由にそれほどの価値を見出していないのだ、と。

 

そもそも、近代の民主主義は歴史的には、自由を求める闘争――それがどれほどイデオロギー的な神話性を帯びたものであろうが――から生まれ、その規範的な価値は、自由主義的に定義されようが、共和主義的に定義されようが、いずれにせよ、自由にあった。だとすれば、自由に倦んだ人びとからなる民主主義とはいったいどのような民主主義なのだろうか、という疑問が自然と浮かぶ。もはや人びとは自由に倦み、民主主義に倦んでいるということなのだろうか。

 

いや、それは仕方のないことだ、いまの社会には自由が過剰すぎる、それがいけないのだ、と言う人がいるかもしれない。しかし、それは現状に対する明らかな誤認である。私たちの社会には、偏見や差別からの自由を求める人びと、ただ生きるためだけに費やされる生活からの自由を求める人びとが多く存在するからだ。だとしたら、私たちの社会には自由を謳歌する人や自由を獲得しようと努力をする人びとへの羨望や苛立ちが渦巻いていて、そんな感情が「自由の過剰」という言葉の裏に見え隠れているのかもしれない。あるいはこう言う人もいるだろう。人びとは自由に倦んでいるから自由を手放そうとしているのではない、安全や安心という必要に迫られてそうするのだ、と。確かに、生活の安全や安心は非常に重要だ。しかし、そのように言う前に、その安全と安心を確保するためには、例えば、共謀罪の法制化が必要かどうか、それ以外の方法が他にないかどうか徹底した議論が必要だろう。個人の内面にまで捜査が及ぶかもしれない危険を冒さない限り、そうした安全と安心は得られないかどうか真剣に検討することがぜひとも必要だ。

 

いずれにせよ、共謀罪の法制化へと突き進む現在の日本では、人びとが自由の喪失を黙認あるいは支持しようとしている。いわば、21世紀の自由からの逃走である。そしてそれは、民主主義からの逃走でもあるのだ。これが今の日本に起きていることであるように思われる。もちろん、統治権力の自立化に起因するのではない、自由に対する民主的制約は可能であり、必要な場合さえある。だとすればなおのこと、自由に倦んだ人も、自由にそれほど関心のない人も、あるいはそれ以外の人も、民主的な統制から自由となった統治権力の眼差しの下で、自分たちの行為や思考を自己検閲しながら委縮して生きざるを得ない社会が望ましいのかどうかもう一度、じっくり考えてみたらどうか。そうしたとき初めて、生活の安全と自由との民主的なバランスについて真剣に検討することができるはずだ。