民主主義とその周辺

研究者による民主主義についてのエッセー

「ネット右翼と民主主義」(1) ――ネット右翼と「反知性主義」――

おそらく、ネット右翼、あるいはネトウヨという言葉を一度は耳にしたことがあるだろう。それは、在日朝鮮人を主要な標的として極端な排外主義的ナショナリズムを主張する極右集団である。ネット右翼という言葉から分かるように、その特徴は、ネットと中心とするメディアで形成されたイデオロギーや言説を用いる点にあると言える。この集団の言説は、その一部が街頭でのデモで行った、在朝鮮人へのヘイト・スピーチで広く知られることになった。しかし、今では、一部の著名人や国会議員までもがネット右翼に共有された差別的言説や、ネット右翼に特徴的な修正主義的歴史観――例えば、「南京事件は存在しなかった」など――を公然と弄する事態となり、国内の社会問題というよりは、国際問題となっている。さらに、先月の東京都知事選における田母神氏の得票数から、ネット右翼の言説がたんにファナティックな一部の人たちの戯言ではなく、無党派層の一部に確実に浸透し、代表制民主主義における新たな政治勢力を生み出しつつあると推測することが可能となった。こうして、ネット右翼の思想と行動は、それがどれほど幼稚で醜悪なものであるとしても、日本の民主主義を考える上で無視できない問題となったわけである。

そこで、近頃、ネット右翼的言説への批判が高まりつつある。その一つが、「反知性主義」という言葉を用いた批判である。それを通俗的に解釈すれば、こうなる。ネット右翼の言説は歴史的な出来事の客観的な検証や科学的な推論を欠いているが、これは自分が好きなように世界を理解しようとする幼児的な態度に起因する。ネット右翼的言説を信奉するような人間がいるとすれば、それは教養がなく知性に欠けているのであり、さらに、こうした言説が広く社会に受容されはじめているとすれば、社会が反知性主義的な状態に陥っているからだ、という批判である。

この批判は確かに正しい。ネット右翼的な言説にはあまりに稚拙で突飛なものがある。しかし、かりに「反知性主義」という言葉でネット右翼の無知や幼児性を指摘するだけで終わってしまうとすれば、それは有益な批判ではありえない。「反知性主義」がネット右翼的な言説の広がりとその帰結について有益な分析を可能にする視座であるのは、それが大衆化された社会における民主主義に固有な問題であることを教えてくれるからである。事実、歴史を振り返るならば、「反知性主義」は、「理性の時代」に産声を上げた近代の民主主義の影のようなものであった。例えば、民主主義が大きく発展する19世以降、「反知性主義」は、エリート主義的な民主主義に対するポピュリズム的な運動の出現や、民主主義から全体主義の衰退を考察する際に問題化されてきた。したがって、「反知性主義」という言葉が提起する課題は、なにより、現在の民主主義との関連でネット右翼的なものを理解し検討することなのである。

そうだとすれば、なぜ、ネット右翼の思想と行動が日本の民主主義にとって無視できない問題であるのか、改めて考える必要であるように思われる。誤解されがちであるが、ネット右翼が、自由主義的価値を含み込んだ現代の民主主義の基本理念、たとえば、マイノリティの権利の保障や政治的決定過程へのマイノリティの包摂という民主主義の理念を攻撃し、毀損しようとしているという理由だけで、この集団の思想と行動が問題視されているわけではない。そこには、ネット右翼的な極右集団が民主主義とは相容れないまったく異質の集団であって、民主主義の破壊者という想定があるよう見える。しかし、そうではない。この集団の思想と行動を無視してはならない理由は、それが民主主義を破壊する可能性があるからだけではなく、民主主義という政治のあり方から生まれた、民主政治においてつねに反復されうる現象だからでもある。つまり、それが民主主義の落とし子だからなのだ。

このことは、この集団が、代表制民主主義の行き詰まりから出現したと考えてみるとよく分かる。ネット右翼は、利益団体や政党が決定的な影響力を及ぼすエリート主義的な代表制民主主義に対して、これまで代表されて来なかった普通の市民の声として自分たちの主張を掲げる。選挙に市民の政治参加を限定してきた代表制民主主義に対して、その主張をデモなどの直接的な政治参加をとおして表明することで世論を喚起しようとする。さらに、物質的な豊かさの追求とその配分を主要な政治争点としてきた代表制民主主義に対して、「日本人」というアイデンティティの確立や自尊心の回復といった非物質主義的な価値に関わる問題を政治争点化しようとする。要するに、ネット右翼の思想と行動は、内実がどうあれ、日本という脱産業化した民主的な社会における社会運動の一つとして位置づけることができる。

もちろん、その一方で、ネット右翼の思想と行動の際立った特徴は、その排外主義的な主張に見られるような、反民主的な価値観に立っていることにある。このことは、へイト・スピーチによって端的に示されている。とはいえ、ネット右翼の反民主的価値観をでたらめなものとしてうっちゃっておくことはできない。なぜなら、その反民主的価値観は、日本の民主主義の歴史やその中で蓄積されてきたものに対する反動として形成された情念、すなわち、ルサンチマン――現在の苦しみから発現するこの情念は、現在の事態を生み出した歴史そのものを怨念の対象とする――に根をもっているからである。ここにおいても、ネット右翼の思想と行動を民主主義の他者として捉えるのではなく、民主主義の落とし子として捉えるよう促されるのである。

だから、ネット右翼の存在は民主主義を外から攻撃する敵なのだと捉えるだけでは不十分なのである。そうではなくて、日本の民主政治の内部で生まれ、その歴史の中で積み上げてきた民主主義的な規範や磨き上げてきた民主主義の質に対する挑戦者として、しかも様々な姿で現れる挑戦者の一人として考える必要がある。「反知性主義」という言葉が喚起するのは、民主主義とネット右翼とのこうした内在的な関係であるように思われる。

次回の投稿では、ネット右翼的な存在がどのような意味で民主主義の挑戦者であるのかについて、アイデンティティの政治の観点からより詳しく論じる。