民主主義とその周辺

研究者による民主主義についてのエッセー

大阪市長選挙と民主主義の隘路――代表制民主主義における選挙の形骸化――

《選挙結果の評価》

2014年3月23日の出直し大阪市長選は、事前の予想通り、低い投票率(23.59%)と橋下氏の圧倒的な得票(87.5%)による再選で終わった。この結果で注目された点は、極端に低い投票率だけでなく、13.53%という異常な数の無効票(6万7506票、そのうち白票は4万5098票)であろう。マスコミの論調――例えば、3月24日の朝日新聞の社説――によれば、これらの点が意味するところは、橋本氏が市長として公約に掲げた大阪都構想の是非ではなかった。むしろ、その政策を実現するための彼の政治手法に対する市民の反対の意思の表明だったのである。大阪市民によって否定された橋下氏の政治手法とは、議会の抵抗によって思うように進まない都構想を、粘り強い調整と幅広い合意形成によるのではなく、選挙に訴え「民意」を盾にして対抗勢力を押し切ることで実現しようとしたやり方である。こうして、今回の出直し市長選挙の結果は、彼の求心力が急速に低下しつつあること、それに伴い維新の会の政党としての基盤がいっそう脆弱化しつつあることを示しているというわけだ。

 

今回の大阪市長選の結果は、出直し選挙に打って出た当の橋下氏が墓穴を掘ったようにも見える。しかし、この低投票率を招いたのは、橋下氏と対立関係にあった市議会の既成政党が、出直し選挙には「大義」がないとして、あえて対抗馬を立てなかったことによる。これによって、大阪市民は、都構想推進の是非を問う選挙で明確な選択肢を持たなかったことになる。つまり、極端に低い投票率と異常なまでの無効票の多さは、橋下氏の政治手法の限界だけでなく、選択肢の提示を拒否し選挙自体を無視するという既成政党の選挙戦術の帰結でもあったのだ。

 

ここから、大阪市政における行政と議会との闘争は議会側の勝利に終わったのであり、その結果、橋下市長は、今後しばらく、市政のイニシアティヴを握った議会と妥協を重ねつつ市政を運営していかざるを得なくなったのではないか、という当たり障りのない総括を引き出すこともできるであろう。すなわち、確かに、タレント弁護士時代から炎上商法を特技とする市長のから騒ぎ――こう言っては少々失礼かもしれないが、選挙結果からそう見なされても仕方あるまい――のつけとして、選挙費6億円の支出は大きな無駄だったが、結局、大阪市も日本の地方自治体における政治の日常のあり方に戻ることになったのだ。こんな風に「やはり大したことなかったな」とかすかな失望感と安堵感を感じた人は、大阪市民だけでなく、この選挙に注目をしていたそれ以外の人たちにも少なからずいたのではないだろうか。

 

とはいえ、橋下氏の政治手法と既成政党の対立候補の見送りという選挙戦術、これらの結果としての低投票率と異常な数の無効票の発生という事態を、一地方地自体の特異なケースとしてではなく、日本の代表制民主主義において反復可能なケースとして見なすならば、この事態をちょっとした失望感あるは安堵感で終わりにすることはできない。なぜなら、こうした事態が繰り返されるとすれば、代表制民主主義の制度上の根幹である選挙が形骸化してしまうからである。さらに、この形骸化をとおして代表制民主主義自体が制度上の機能不全に陥る可能性があるからである。

 

《選挙の形骸化》 

今回の選挙で橋下氏が用いた手法は、すでに指摘したように、政治的リーダーが自ら政治基盤を強化するために、あるいは政策課題の遂行を妨げるような対抗勢力を排除するために、選挙をとおして示された民意を利用するような政治手法である。この手法は決して目新しいものではない。それは、「郵政選挙」とも呼ばれた、当時の小泉首相による第44回衆議院議員総選挙で用いられ、人口に膾炙するようになった。したがって今回の大阪市長選挙は、もちろんまったく同じやり方ではないにせよ――国会議員の選挙と地方自体の首長選挙とは当然同一視はできない――、繰り返された出来事だと言えよう。そして、小泉・橋下の両政治が用いた政治手法は、さらに今後も繰り返される可能性がある。その理由は、シンプルである。それが民主政治に、またとりわけ現在の民主政治にしっくりくる政治手法だからである。

 

彼らの政治手法が「ポピュリズム」あるいは「劇場型政治」と形容されることを考えれば、現在の民主政治に適合的であることは納得がいく。とすれば、今後の日本においてそれを用いる政治家が繰り返し登場する事態が予想できる。特に、政治的リーダーを直接選挙する、比較的大規模な地方自治体の首長選挙では、その事態は生じやすいであろう。また、それに伴い、首長と対立関係にある議会が、今回の大阪市長選のように議会側の候補者を擁立せず、選挙自体の無視を決め込むような事態の増加を予想することも難しいことではあるまい。

 

この事態が繰り返された場合、今回の大阪市長選の投票率や白票数に示されたような有権者シニシズムと無関心がさらに広がることになるだろう。というのも、もはや選挙が市民にとってどんな意味があるのか分からなくなるからである。ここに、橋下流の政治手法とそれに対抗する議会の戦術の問題が存在する。

 

この問題は、今回の選挙が政治(家)による選挙の恣意的な利用だったのではないかという疑念として現れる。それは、市民による政治(家)のコントロールを行おうとする民主政治における選挙の「本来の」機能――したがって、これは規範的な意味に捉えられるべきだ――からの逸脱を意味する。もちろん、選挙が政治(家)による恣意的な利用かそうでないかを区別する客観的な基準があるわけではない。だからといって、例えば、今回の大阪市長選がどちらの性格を持つもかについて理に適った判断ができないわけではない。それはともかく、選挙が政治(家)によって恣意的に利用されうるということ、またその場合、選挙が本来の機能から逸脱してしまうということを確認することが重要だ。そしてこの逸脱は、代表制民主主義をその隘路へと導くような逸脱なのである。

 

 《代表制民主主義における選挙》

日本を含めた多くの民主国家において、民主主義は代表制民主主義として制度化され運用されている。この制度は、市民が有する政治的な意思決定の権力を代表者へ委任するという原理と、その代表者が最終的な意思決定する際、多数決投票を用いるという原理に基づいて運用されてきた。こうして、代表制民主主義における制度上の基盤が選挙にあることがわかる。なぜなら、前者の原理を実現するのが選挙だからである。

 

しかし、この委任を代表者の選択という意味だけで捉えるなら、選挙の本来の機能が何であるかを正確に言い当てることはできない。そのためには、この委任を市民とその代表者との間の一種の契約として捉える必要がある。そうした場合、代表者には委任された行為に対する責任が生じることになる。そうだとすれば、選挙は、たんに市民の権力を代理的行使する代表者(政治家)を選択するだけでなく、かつて市民によって委任された代表者がその責任を果たしたかどうか、市民が判断する行為でもある。ここから、選挙の本来の機能が出てくる。それは、ポピュラー・コントロール(popular control)、すなわち、政治的意思決定の元来の主体である市民による政治(家)のコントロールという機能である。選挙を政治家や政党の説明責任の機会とする理解も、選挙の本来の機能をポピュラー・コントロールに見る立場から出てくると言ってよいだろう。

 

ポピュラー・コントロールは、政治が民主的であると判断するための第一の基準である。それは、市民の自治という古くからある民主主義の理念に由来し、それを近代以降の社会で実現するべく設けられた基準だと言える。したがって、現在の政治が民主政治であるためには、選挙によってこのポピュラー・コントロールが行われている必要がある。もちろん、これは現実の政治に対する民主主義の規範的な要請である。この規範的な要請から、実際の選挙がポピュラー・コントロールとしての機能を果たすための要件が提起されることになる。

 

その要件には――例えば、ロバート・ダールが指摘するように――、普通選挙制度が存在していること、公正で公平な選挙が定期的に行われること、表現の自由などの政治的自由が保障されていること、マスメディアが発達していることなどがある。しかし、それだけではない。さらに、多くの代表制民主主義の擁護者が重視したのは、市民の代表者――それは政治家であり、政党である――の競争が選挙において行われるという要件であった。競争をとおして市民に選択肢が提示されるというこの要件が満たされることがなければ、選挙によるポピュラー・コントロールなどそもそも不可能である。このことは、子供でも分かることであろう。

 

そうだとすれば、今回の大阪市長選は、ポピュラー・コントロールとしての選挙の機能から大きく逸脱していることが分かる。それは、橋下市の政治手法と対抗する議会の既成政党の選挙戦術の双方に原因がある。この逸脱が繰り返されることになれば、選挙は確実に形骸化される。そうなれば、政治の民主的な正統化を選挙に依拠する代表制では、民主政治は行えないことになることになる。これが代表制民主議の隘路なのである。

 

《代表制民主主義の隘路からどう抜け出すか?》

以上の議論は、あまりにナイーヴだと思われるかもしれない。現在の選挙において、有権者は巨大な利益団体や政党によるメディア操作に晒され、選挙活動もマーケティングを用いて巧みに演出される。それなのに、規範的な観点からポピュラー・コントロールの機能を選挙に求めることは、机上の空論に過ぎず、無意味ではないか。確かにそのとおりだと言える。しかしその一方で、こうした現状だからこそ、代表制-選挙にも質があることを認識した上で、その質を高め、ひいては、民主主義の質を高めることが求められる、とも言えるのだ。民主政治の基盤として代表制を正当化し維持しようとするなら、これを避けることはできないであろう。

 

とはいえ、やはり、現在の選挙の実情を考えると、選挙にポピュラー・コントロールの機能を求めることは容易ではない。とすれば、どうすれば代表制民主主義が陥るかもしれない隘路から抜け出すことができるのか。

 

幸い、選挙だけがポピュラー・コントロールを可能にするわけではない。確かに、選挙の本来の機能を維持する努力をする必要はあろう。しかし、もはやそれだけでは上手くいかないことは目に見えている。だから、選挙以外の制度でポピュラー・コントロールを行う工夫をする必要がある。選挙が委任よるポピュラー・コントロールであったことを考えれば、その工夫は、市民の直接参加をとおして行われる。具体的には、市民の集会(popular assembly)やミニ・パブリックス(mini-publics)、直接立法やイニシアティヴなどがある。これらは民主主義のイノベーションと呼ばれ、注目を集めている(これらの可能性や問題点については、別の投稿で論じようと思う)。

 

これらの民主主義のイノベーションによって代表制を補完し、ポピュラー・コントロールをはじめとした民主主義の質を高めること。これが民主主義の隘路を抜け出すために必要になってくる課題であるように思われる。今回の大阪市長選など取り上げるまでもなく、随分以前から代表という制度に頼るだけでは民主主義の質を維持できないことなど、分かりきったことなのだから。