民主主義とその周辺

研究者による民主主義についてのエッセー

マイルドヤンキーと民主主義――孤独なコミュニティの不安――

《マイルドヤンキーという新保守層》

近頃、マイルドヤンキーという言葉をよく目にする。この言葉は、マイルド、すなわち、尖った部分がそぎ落とされてやさしくなったヤンキーを意味するらしい。ヤンキーといえば、反社会的な行動を取り、ときに恐喝や万引き、あるいは暴走行為といった軽犯罪を犯すような、いわゆる不良というイメージが思い浮かぶ。しかし、そうしたイメージに対して、いま話題になっているヤンキーは自己顕示欲も低く、社会への反抗心も特にない若者であるらしく、それを聞いて少々驚いてしまう。そうした若者が、そもそもヤンキーと呼べるのか、ただ喫煙率や飲酒率が高かったり、EXILE風の格好を真似たりしているだけではないのか、と突っ込みを入れたくなるところだが、それについては後から触れることにしよう。ともかく、このマイルドヤンキーと名指された若者が、注目らしいのである。そして注目すべき理由は、なんと、マイルドヤンキーの消費が今後の日本社会を支えるというものだから、さらに驚いてしまうわけだ。 

 

マイルドヤンキーについてもう少し詳しく見てみよう。原田曜平『ヤンキー経済』によれば、1970年代に社会問題化した校内暴力に端を発するヤンキーの系譜の中で、マイルドヤンキーは2000年代の後半に登場する。この若者たちは、2つのカテゴリーに部類される。1つが見た目は昔のヤンキーのままの「残存ヤンキー」で、もう1つが見た目はまったく普通だが、ヤンキー的なメンタリティーをもつ「地元族」。この2つに共通するマイルドヤンキーの特徴は「上『京』志向がなく、地元で強固な人間関係と生活基盤を構築し、地元から出たがらない若者たち」(前掲書、25)と定義できるそうだ。大学進学や就職しても地元から離れることなく、またその地元での人間関係の維持を最優先にする閉鎖的なメンタリティ―や生活様式から、これらの若者は「新保守層」とも呼ばれる。酒もタバコやらず、クルマにも興味がなく、交際費さえ節約する他の同世代の若者と比べて、このマイルドヤンキーは、この濃厚な地縁を維持するために、気前よく消費する傾向にあるらしい。だから、彼ら彼女らは今後の消費の主役として脚光を浴び始めているわけだ。

 

マイルドヤンキーという言葉がマスコミやネットをとおしてにわかに耳目を集めはじめれば、当然さまざまな反応が出てくる。「マイルドヤンキーなんて階層は昔から存在していた」という指摘がその一例だ。それによれば、この言葉を喜んで使っている人たちには、この階層の人たちが身近にいなかったから、その存在に気付かなかったのではないか。ところが、現在の日本では、いっそう深刻化している社会・経済的な格差が、SNSなどの普及も手伝って、見える形で誰の目にも明らかになった。それがマイルドヤンキーと名付けられた若者たちなのだ(慎泰俊「「マイルドヤンキー」という言葉があぶり出した日本の階層」『日経ビジネスONLINE』)。

 

この指摘には一理あるように思われる。確かに、やさしいヤンキーなどは地方では昔から当たり前に存在したし、現在と同じ形ではないにせよ、地縁を何より大切に思いそこで生活の基盤を築いた若者たちも変わらずいたはずである。こうした批判が出てくるのには、おそらくいくつもの理由があるだろう。

 

マイルドヤンキーなる言葉が、企業向けプレゼンのキャッチコピーの類として使われていて、その言葉の示す階層あるいは集団が統計などの実証的なデータで裏付けされていない、というのもその理由の1つかもしれない。実際、この『ヤンキー経済」を読んでも、マイルドヤンキーなる若者が現代の日本社会に一体どれくらい存在するのか見当がつかないし、それゆえ、本当にこの若者たちが日本の消費を支えるのか判断することもできない。極論すれば、マイルドヤンキーについては、「昔から存在した集団だ」とも、「現代社会の理解する上での鍵となる階層だ」とも、何とでも言えてしまうわけだ。

 

とはいえ、例えば、19世紀の「性的倒錯者」がそうであったように、日常の世界の見慣れた現実は、まず名付けられることで、とりとめのない世界から切断され実在性が付与される、ということもある。そこから始まって、そうした現実は関心を払うべき認識の対象として発見され、科学的考察や社会的な管理・操作の対象として問題化されるようになるわけだ。

 

そうだとしたら、マイルドヤンキーという言葉も、たんなるキャッチコピーで終わってしまうとは言い切れないはずだ。それに、これが、社会科学的意味でどれほど不確かであっても、少なからぬ人たちの興味をかきたてる現象にアプローチしていることは間違いない。そうでなければ、この言葉をめぐって議論が生じるはずがない。

 

そこで、以下では、マイルドヤンキーという言葉が焦点を当てた「新保守層」と呼ばれる若者たちについて、マーケティングの視点ではなく、民主主義の視点から考えてみたいと思う。それは、不安定な社会に生きる若者たちの「孤独なコミュニティ」が、日本の民主主義の不安な先行きを想像させるからである。

 

 《コミュニティと民主主義》

これまでの投稿では、選挙を中心にした代表制度に期待をかけるだけが、民主的な政治のあり方ではないことを繰り返し指摘してきた。しかし、そんな分かり切ったことをなぜ繰り返すのか。それは、現在の代表制にもとづいた政治では、現在の私たちの社会が抱えている様々な問題を正統な形で――したがって、十分民主的なやり方で――解決できなくなってきており、このために社会の統合を今後維持することが困難になるのではないか、こうした不安を覚えている人が日本の社会にも少なくないように思われたからだ。

 

これは何も、日本に限ったことではない。つまり代表制度そのものの問題なのだ。19世紀から20世紀にかけて構築されてきた代表制度は、同時代の社会のあり方に条件付けられていた。このことを考えれば、その当時の社会のあり方から大きく変容した現代において、代表制度が上手く機能しなくなることなど、ある意味で当然のことなのだ。

 

実際、民主主義の研究者たちの報告によれば、日本以外の他の民主国家の多くでも代表制度への不満や不信が噴出する一方で――スペインのインディグナドスやウォール街でのオキュパイ運動などはよく知られた例であろう――、代表制度を補完するような民主政治の取組みの模索や、その制度化も地道に続けられている。その一例が、ミニ・パブリックスや参加型予算、直接立法などであって、市民が直接参加し、熟議を行う民主的な政治制度である。

 

ところで、代表制度を越えて民主主義を活性化しようとする取り組みの拠点としてフォーカスされてきたのがコミュニティであった。このコミュニティとは、基本的には、近隣居住地域という物理的な空間を意味する(「基本的には」というのは、その言葉は、例えばゲイやレズビアンの団体や環境保護団体あるいは宗教的な組織、極右団体など、共通の情緒や価値観あるいは問題意識を持った人たちの繋がりから形成された集団や組織も意味するからである)。日本においても特に近年、行き詰まりつつある民主政治を再興させる可能性とそのための手掛かりがこのコミュニティ、そしてそこでの市民の自治的な活動にあるのではないかという期待が寄せられているのである。

 

例えば、コミュニティ・デザインやコミュニティ・オーガナイジングと言葉を耳にしたと人も少なくないだろう。過疎と高齢化によって疲弊したコミュニティを復興させようとするこうした取り組みは、たんなる若者を呼び戻したり、観光客を呼び込んだり、あるいは、新しい産業を興したりするような、いわゆる「町おこし」以上の意味を与えられるようになっている。それは、コミュニティに暮らす人たちが繋がり再建し、協働することで、身近な自分たちの生活を自分たちで決定することを目指した市民の自治の取り組みである。

 

あるいは、2011.3.11以降の反原発運動をとおして、自然環境、科学と自然との関係性、ライフスタイルなどに関して、共通の価値観を持った人たちが繋がることでさまざまなコミュニティが形成された。そうしたコミュニティでも、自分たちにとって望ましい社会のあり方を議論し、身近なところから生活の質をあり方を変えていこうとする、これまた市民の自治的な取り組みが数多く出てきている。

 

市民による自治こそ、民主主義の礎だと考える人たちがいる。なぜなら、自治の取り組みをとおして人は、自分のことだけでなく、仲間の市民への配慮と共同(公共)のものへの関心を育み、仲間の市民たちと共に決定したり行動する能力を身に着けたりすることができるからである。つまり、自治は民主的な政治には絶対不可欠な、市民の態度と能力を陶冶するからである。そう考える人たちからすれば、コミュニティにおける民主的な取り組みは、エリートたちに支配された代表制度の土台として、民主政治を活性化するためにどうしても必要なものなのである。

 

民主主義の学校としてのコミュニティ。こうした考えは、19世紀以来、ことあるごとに繰り返されてきた。しかし、20世紀の後半以降、それはいつになく強調されるようになっている。そのように強調されるのには、それなりの理由がある。すなわち、現代社会に固有な理由があるのだ。その理由については論旨がずれるので別の投稿で詳細に論じようと思う。ただ、ここで、それを大雑把に述べるとすれば、以下のようになる。

 

新自由主義とグローバリゼーションが既存の社会・経済制度――これは福祉国家と呼ばれてきた――を破壊していく中で、その制度をとおして作り上げられた《社会的な結び付き》から人びとは切り離され孤立していった。それに伴い、以前はその結び付きの中で獲得されてきた、民主政治に必要な知識や態度そして能力も失われ始めた。これがその理由だ。

 

だからこそ、現在の民主政治を立て直すには、コミュニティとそこで育まれる価値観や信頼関係を守り、必要があれば、再構築せねばならない。もちろん、これは、コミュニタリアニズムソーシャル・キャピタル論に肩入れした少々保守的なメンタリティーを持つ人たちが、20世紀の終わり以来主張したことに他ならない。いずれにせよ、そうした人たちからすれば、現代の民主主義にとって、コミュニティが少なからぬ期待の場であることに間違いはない。

 

そうだとすると、マイルドヤンキーとして()発見された若者たちの存在は、この期待に反して、一抹の不安を民主主義に差し込むことになるのではないだろうか。なぜなら、この若者たちはきわめて親密な人間関係からなるコミュニティを作り上げているが、彼ら彼女らのコミュニティは、仲間内だけに閉じられ、自分たちが働いたり学んだりする世界、つまり現実の世界から孤立したコミュニティのように見えるからだ。マイルドヤンキーたちのこの「孤独なコミュニティ」は、不確実で不安定な現実の世界から切り離されているからこそ、その若者たちにとって、取り代えのきかない場となっているのであろう。

 

しかし、現実の世界から孤立したコミュニティにおいて、民主政治の土台となるような取り組みが生まれてくると想像するのはなかなか困難だ。ましてや、そのコミュニティがどうにも生き難い現実の世界をそこから変えていこうとする取り組みの出発点となるだろうと想像することはますます難しい。むしろ、その閉鎖性や孤立性がそうした取り組みを阻害する要因になるのではないかという危惧さえ感じられる。

 

もちろん、そもそもマイルドヤンキーがどれほど現代の日本に存在するかは定かではないし、この若者たちが年を重ねる中で、いつまでも現在のコミュニティを維持し続けるかどうかも分からない。したがって、あくまでも仮定の話だ。しかし、たとえそうだとしても、マイルドヤンキーたちのコミュニティの存在は、先に述べたコミュニティ待望論を再考するきっかけを与えてくれているように思われる。


  《孤独なコミュニティと民主主義の不安》

生活を保障してくれない雇用と、いつ破綻するか分からない社会保障。そんな中、不安定な現在を生きざるをえず、不確実な未来しか描けない人たちを支配するのは、もちろん、不安である。不安に怯える自分を慰めるのに必要なのは、安定的で確実なものだ。例えば、寛ぎや安心といった情緒を変わらず抱き続けることのできる仲間との関係、あるいは、信念や価値観を強固に共有した仲間との関係。不安定で不確実な現在の世界を何とか生き抜くのに、そうした関係を求める人は多いはずだ。だとすれば、こうした関係を基盤にしたコミュニティが、増大することを予測できる。もちろん、それは、SNSの普及もあるが、何よりも、現代が不安な時代だからだろう。

 

不安な時代の「孤独なコミュニティ」。これはただ増大するだけでなく、おそらく私たちの社会にとって問題を孕んだものになるかもしない。例えば、マイルドヤンキーのコミュニティとは異なると思われるかも知れないが、以前の投稿で言及したネット右翼のコミュニティもこの不安な時代と無関係であるまい。

 

現代のコミュニティが不安定で不確実な時代の産物であるからこそ、ますます、それぞれのコミュニティはその結び付きを強めねばない。また、それゆえ、コミュニティの外部に対して排他的あるいは閉鎖的にならざるをえない。こうして、現代のコミュニティが排他的ないし閉鎖的な傾向を持たざるをえないとすれば、どう考えても、それは民主政治の土台にはなりえないだろう。ネット右翼の存在を考えると、民主政治の土台をむしろ切り崩す可能性さえあると言える。

 

もちろん、積極的に民主的な取組みをしているコミュニティも多く存在する。しかし、排他的で閉鎖的な性格を持つ「孤独なコミュニティ」もますます増えていく可能性もある。そうだとすれば、民主主義の希望となるようなコミュニティの可能性を模索していく一方で、民主主義の不安となるような、「孤独なコミュニティ」の動向を注視する必要があるのではないだろうか。