民主主義とその周辺

研究者による民主主義についてのエッセー

サイレント・プアともう一つの民主主義(1) サイレント・プアとは何か?

サイレント・プアが提起する民主主義の問題

NHKの「サイレント・プア」というドラマがなかなか面白いという噂を耳にしたので、これまでに放映された第1話から第3話を観てみた。弟の死の責任を背負い苦悩している若き女性が、社会福祉協議会のコミュニティ・ソーシャル・ワーカー(CSW)として、近隣地域から孤立し様々な問題を抱えた人びと――例えば、ごみ屋敷に暮らす女性、引きこもりの青年、ホームレスの老人――に寄り添い、多くの障害を乗り越えて支援を行う、というのがこのドラマのプロットである。

 

1話でも観れば分かることだが、このドラマは、フィクションとはいえ、制作側のしっかりとした取材にもとづいているようで、その分、見応えがある。また、制度的には機能不全に陥りつつあるとも言われる日本の社会福祉行政を現場で地道に支えている人たちに光を当てている点、さらに、現代の日本社会における社会問題の悲劇的な実情を正面から描いている点で、一見に値するドラマだと言えるであろう。この後者の点とは、もちろん、ドラマのタイトルにあるサイレント・プア、すなわち、「見えない貧しさ」である。それは、職を失うこと、病を患うこと、老人になることが経済的な貧困を招くだけでなく、社会からの孤立という貧困とは異なる貧しさを招く可能性が高く、その結果、誰の目にも止まらず必要な支援が届かなくなるという事態だ。

 

もちろん、俳優がどうとか、あるいは、テーマの重さに比べて描かれ方が軽いのではとか、実際の現場もそうだとか、あるいはそうではないとか、このドラマに対する様々な意見があるのだろう。この投稿では、そうしたドラマ自体の内容についてではなく、サイレント・プアという問題に焦点を絞って、この問題と民主主義の関係について考えてみたいと思う。結論を先回りして言えば、サイレント・プアをめぐる取り組み、そしてその中で行われるエンパワーメントという実践が、民主主義を選挙‐代表制として理解するだけではけっして見えてこない、民主主義のもう一つの側面について示唆を与えてくれる、ということである。

 

サイレント・プアの原因と、的外れな自己責任論

サイレント・プアという言葉が、近ごろ、人口に膾炙するようになったそもそものきっかけは、NHKの朝の情報番組で昨年の11月に放映された女性の貧困に関する特集にあるようだ。その特集では、経済的な困窮が社会的な孤立へと直結する現代の女性の実情が、この言葉をとおして描かれている。

 

少々古いデータではあるが、ひとり暮らしの女性(勤労世代)32%、母子世帯の57%が貧困状態にあるとされる(http://www.asahi.com/special/08016/TKY201112080764.html)。この事態は次のように説明できるであろう。非正規雇用の広がりという雇用環境を背景に、未だに女性に厳しい労働市場で、とりわけ、家事と育児に追われる母親が安定した仕事を見つけることはきわめて難しい。通常、労働によってしか生活を維持するための経済的資源を得られないのが資本主義社会の掟である。資産がない限り、たとえどのような理由であろうと労働することができなければ所得は得られず、したがって、生活を維持することはできない(もちろん、このため、日本では所得補償としての社会保障制度が完備されている)。こうして、先のデータに示されたきわめて多くの女性が貧困状態に陥ることになる。さらに、たとえ、女性が短期的な契約社員やパートタイム労働に従事していたとしても、それでは十分な所得を得られないのが実情であり、社会関係を維持するための交際費をねん出する経済的余裕がないために、また、育児や家事を一手に担う母親に至っては多忙のために、社会から孤立することになる。

 

社会からの孤立、すなわち、社会関係からの切断が、多くの場合、女性をたんなる経済的貧困以上の厳しい状況に追い込むことは、日常の経験を参照するだけで容易に想像できる。なぜなら、社会関係は、労働の対価として賃金を得るという経済的関係によっては供給されない、物質的な支え――例えば、「お裾分け」――や、精神的な支え――例えば、困りごとの相談、苦難の共有――、さらに、社会関係の内部に流通する有益な情報――例えば、近所の働き口や、公的な支援の受け方――を提供してくれるからである。したがって、社会関係からの切断は、完全な独力によってだれにも頼らず生活を維持せざるを得ない状態へと女性を追いやることになる。そして、重要なことは、この社会関係からの切断が、貧困に苦しむ女性の存在を社会の眼差しから遠ざけ、不可視の状態へと追いやってしまうことである。こうして、サイレント・プアという現象が生まれる。

 

もちろん、見えない貧困に陥るのは何も女性だけではない。男性も、そうなる可能性は十分にある。それは、サイレント・プアが、現在の社会‐経済のあり方に起因する、構造的な現象だからである。そのあり方は、生活を保障するにはあまりに不十分な労働条件、家族や近隣地域をはじめとする社会的な結び付きの綻びとして理解できるであろう。これがグロバーリゼイションの圧力の下で進められた新自由主義的な政策の帰結であることは周知のとおりである。

 

ところで、貧困問題や生活保護の問題がマス・メディアで取り上げられるようになると、必ず出くるありきたりで的外れな批判がある。それは、ゼロ年代に一世を風靡した「自己責任論」である。少なくともネット上での言説には、未だにこの言葉が散見されるし、サイレント・プアの問題に対しても例外ではないようだ。この言説においては、経済的な貧困も社会的な孤立も、当然のことながら、当事者の自己責任だということになる。

 

貧困などの社会問題を自己責任論で片づけようとする議論が、どれほど的外れかを今さら議論する必要はないであろう。未だにそうした議論を弄する人がいるとすれば、それは社会学の初歩的な知識がまったくない無知な人か――無知を責めても仕方ないので、そうした人には学んでもらうしかない――、自らのルサンチマンを弱者へのサディスティックな攻撃によって紛らわせようとする倒錯した性癖を内在化させた人か――いわゆる「逆向きのルサンチマン」であり、よくあるケースと思われる――、このような言説を流布することによって実利を得るような立場にある人――例えば、新自由主義的な政策を推し進める政治家や企業家――かのいずれかであろう。それはともかく、自己責任論が根強くあることを考えても、サイレント・プアの問題、そして特に社会的孤立の問題をいわゆる「社会関係資本」(ソーシャル・キャピタル)という社会学の概念から、理論的に検討してみることが有益かもしれない。とはいえ、この概念を導入するそもそもの狙いは、ドラマにおけるCSWの取り組みを出発点に代表制とは異なる民主主義のあり方について考えることにある。

 

社会関係資本とは何か

社会関係資本は、一般に、次のように説明できる。それは、人びとが暮らす近隣地域や人びとが結成するスポーツクラブ、ヴォランティア組織などの様々な団体において醸成される信頼やネットワーク、協働の習慣を意味し、この信頼や習慣が民主的な社会や政治がうまく機能するための土台となる、というものだ。

 

こうした説明は、ロバート・パットナムというアメリカの政治学者の議論をとおして普及した。しかし、以下の議論では、パットナムよりも以前に社会関係資本について論じたピエール・ブルデューというフランスの社会学者の説明に依拠しながら、社会関係資本サイレント・プアの関係について見てみる。

 

ブルデューによる社会関係資本の議論(1986)の特徴は、家族やそれ以外の集団内部の社会関係について、それが持つ資本(キャピタル)としての側面を強調する点にある。彼によれば、社会関係資本、すなわち、社会関係が醸成するネットワークや信頼は、資本の派生物の一つである。その他の派生物は二つあり、一つは、多くの人たちが即座に思い浮かべる経済的な形態での資本であり、もう一つは彼が『再生産』というテキストなどで詳細な研究を行った文化的な形態での資本である。

 

そもそも資本そのものは、マルクス主義的に言えば、蓄積された労働であるが、それは、自立した社会生活を送る際に必要なエネルギーや能力、資源を人びとに提供する。その特徴は、資本が多様な形態を取るという点にある。貨幣や所有権という形態をとる場合、それは経済資本であり、学歴や資格、文化的素養などの形態をとる場合、文化資本と呼ばれる。社会関係資本は、資本が人びとの間のネットワーク、そこにおける信用という形態をとる場合である。したがって、資本は分節化された形態で分析可能であるが、同時に相互に関連もしている。例えば、文化的な資本を獲得し蓄積するには、経済的な資本の投下は不可欠である。これは、高学歴の学生が経済的に豊かな家庭の出身であることから、容易に理解できる。

 

さて、社会関係とそこにおけるネットワークや信用を社会関係資本として、より正確には、資本の一形態として理解することの利点は、それらが、あらかじめ人びとに付与されているものではないということを改めて確認させてくれることにある。こうした理解によれば、上述の3つの資本は、一般に、家族における相続や投資をとおして付与され、持続的で慎重な管理をとおして蓄積され、活用され、あるいは喪失される。投資には元手が必要であり、蓄積には時間がかかる。ここから、自己責任論の裏側にある「他者に依存せず自立せよ」という命令を発しても、教育的な叱咤激励でない限り、むなしく響くだけで終わってしまうことが分かる。なぜなら、自立するには、資本が必要であるからであり、しかも、資本は偶然的かつ選別的に配分されるがゆえに、誰もが所有しているものではないからである。資本を欠いた人に、遠くから「自己責任だ」とか「自立せよ」と叫んだところで、その人が自立できるわけではない。だから、自己責任論を唱えてもそれほど意味がないのは分かり切ったことである。

 

それでは、この社会関係資本論からすると、サイレント・プアの問題やその取り組みはどう説明されるのだろうか。そして、サイレント・プアの問題への取り組みから見えてくる、民主主義のもう一つの側面とは何なのか。これらの点については、少々長くなったので、次の投稿で論じることにする。