民主主義とその周辺

研究者による民主主義についてのエッセー

サイレント・プアともう一つの民主主義(2) サイレント・プアを解決するために必要なもう一つの取り組み

先の投稿「サイレント・プアともう一つの民主主義(1)」では、サイレント・プアの問題を現在の日本の社会のあり方から理解する必要性を論じた。このあり方を大きな影響を及ぼしているのが、グローバリゼイションの圧力の下で弛まず進められている新自由主義的な政策――その帰結の一つが雇用の非正規化に他ならない――である。さらに、この問題に向けられた自己責任論が的外れな批判であることを指摘した。自己責任論の多くが、この新自由主義的政策を意識的であれ、無意識的であれ擁護することになることは今では誰もが知っている事実である。今回の投稿では、前稿で触れた社会関係資本の概念からドラマ「サイレント・プア」でのコミュニティ・ソーシャル・ワーク(CSW)の取り組みが貧困や社会的孤立の状態にある人たちのエンパワーメントであることを指摘する。その上で、CSWの取り組みからさらに一歩進んだサイレント・プア問題の取り組みが、選挙‐代表制とは異なる、日常生活の中の民主主義にあることを論じる。

 

 

社会関係資本の欠如としてのサイレント・プア

資本は、経済的、社会的、文化的といった形態を問わず、それが活用できる状態で手元になければ意味がない。したがって、そのためには、資本はまず獲得され蓄積される必要がある。社会関係資本に関しても他の資本と同様に、それを獲得し蓄積するには投資や相続による充当がなければならず、さらに、獲得され蓄積された社会関係資本を活用し管理する能力やノウハウも必要となるはずだ。

 

こう考えると、サイレント・プアと呼ばれる状態に陥る人たちの事情がよく理解できるであろう。現在、家族や近隣地域社会における社会関係が脆弱化していることは誰の目にも明らかである。そのような中、社会関係資本――社会関係に埋め込まれたネットワークや信用――は、人びとがことさら意識的に獲得し、蓄積し、慎重に管理せねばならないものとなりつつある。そのためには時間とお金、社交性やコミットメントといった能力が不可欠だ。

 

しかし、その一方で、現代の日本社会に暮らす人たちは、労働をとおして、経済資本、すなわち、お金を獲得し蓄積することに日々の生活のほとんどのエネルギーと時間、能力を費やさざるを得ない。もちろん、その労働によって十分な経済資本を獲得でき、それを文化資本そして社会関係資本に転化させることで、文化的にも社会関係的にも豊かで充実した生活を送ることのできる人びとは少なからずいる。しかし、実情といえば、少なくとも一人暮らしの女性の3割や母子家庭の母親の半数以上がそうではない。不安定で不確実な労働に頼らざるを得ない彼女らは生活を維持するのに十分な経済資本さえ獲得することが困難な状況に置かれている。既存の社会関係の脆弱化の中、相続された社会関係資本がなければ、それを経済資本の獲得や蓄積のために活用できる可能性も低い。その結果、彼女たちは、経済的貧困――すなわち、経済資本の不足――に陥れば、容易に社会関係からの孤立――すなわち、社会関係資本の不足――に直面することになるのである。

 

では、経済的貧困に起因する社会関係資本の不足としての社会的孤立に対してどう対処すればよいのだろうか。そもそも、あらゆる資本の原初的な獲得のほとんどが親からの相続や投資である。このことを考慮すれば、答えは簡単であろう。資本の不足を当事者自身で補うことができなければ、当事者以外が、その不足した資本を充当するための支援をすればよい。そのやり方の一つが、CWSの取り組みである。この取り組みは個別のケースに応じて様々な形をとるであろうが、その核心は、経済資本の獲得と蓄積のために公的扶助の給付や新しい仕事口への就職の手助けをするのと同時に、社会関係からの隔絶された人たちが社会関係資本を再獲得できるよう支援することに他ならない。

 

 

エンパワーメントしてのCSWの取り組み

サイレント・プア問題の対策として、社会関係資本を再獲得し蓄積するための支援は、一種のエンパワーメント(empowerment)の試みとして理解できる。エンパワーメントとは、貧困や人種、民族、性などの差別によって、自分のあり方を自分で決定しそれを実現する力を奪われた人びとを支援し、そうした力を回復する取組みである。この「力」を社会関係資本と考えるならば、今回のドラマで描かれているCSWの活動は、貧困や社会的孤立に苦しむ人たちのエンパワーメントだと言えるだろう。

 

社会福祉協議会の職員であるCSWのエンパワーメントの特徴は、社会福祉協議会が民間団体とはいえ、法律(社会福祉)によって定められていること、運営資金も多くが行政によっていること――例えば、このドラマのモデルともなった大阪、豊中市で活動するCSWの予算は大阪府から出ている――から、行政の一部として組織されコントロールされた団体によるエンパワーメントだという点にある。もちろん、だからといって、この取り組みがダメだというわけではまったくない。CWSによるエンパワーメントは、ドラマにおいても、現実においても、見えない貧困に苦しむ人びとを発見し可視化することで、そうした苦境から脱出させることに貢献している。サイレント・プアが社会問題化している現代の日本社会において、この取り組みの重要性は、繰り返し強調されるべきだ。とはいえ、このエンパワーメントにもできることとできないことがあるということ、さらに言えば、これとは異なるエンパワーメントが存在することを指摘することは、サイレント・プア問題への取り組をさらに進める上で無意味なことではない。

 

CSWの取り組みの中心は、何より、様々な原因で貧困と社会的孤立という苦境にある個人を発見し、エンパワーすることで、社会の一員として健康で文化的な自立した生活を送られるよう支援することにある。したがって、このタイプのエンパワーメントの目標は、当事者がそうした生活に不可欠な資本の獲得を支援することで、彼女彼らの抱えた個人的な苦境を解決することにある。

 

これに対して、サイレント・プアの問題に対する取り組みには、別の狙いを持ったエンパワーメントもある。それは、サイレント・プアの問題を個人の抱える私的な問題ではなく、公共の問題として社会に認知させ、その結果、政治による取り組みが積極的に行われるようになることを目標にする。このためには、貧困や社会的孤立状態にある当事者が自分たちの苦境を社会が共有すべき公共の問題として見なし、それを広く世論に訴えかけ、政治の領域――議会や行政――へ送り届けるべく行動するようエンパワーされなければならない。こうした、CSWとは異なるエンパワーメントの取り組みこそ、サイレント・プア問題の解決に向けてさらに前進するために必要となる一歩だと考えられる。

 

 

もう一つのエンパワーメントともう一つの民主主義

今指摘した二つのエンパワーメントについては、それぞれがどのような力を付与するのかという点に着目することで、その違いがより明確になるだろう。前者のCSWにおけるエンパワーメントが付与しようとする力は、ここでは、経済資本に加え、何よりも社会関係資本であることを指摘してきた。これに対して、後者のエンパワーメントが付与しようとする力は何か。それは、個人を政治的な主体へと変容させるような力である。政治的な主体とは、ごく単純化して言えば、日々の生活で経験される苦難や不正を社会・経済上の構造から生じる公共的な問題として捉えることができ、さらに、民主的な政治によるそれらの解決を求めて連帯し行動する意欲や能力を持った主体――こうした主体は、しばしば市民と呼ばれる――のことである。

 

この力を、ブルデューが論じた三つの資本にもう一つの資本を加える形で、「民主主義的資本」と呼ぼうと思う。この民主主義的資本とは、人が政治的主体として考え行動するために必要となる意欲である。さらに、この意欲に加えて、政治的に考え行動するには、有益な情報を収集したり、他の仲間と議論したり協働したりする能力やテクニックが必要だ。民主主義的資本にはこうした能力やテクニックも含まれる。

 

分かりやすい例で考えてみよう。非正規雇用の増大に反対するデモがあったとする。それに参加するには、まず民主政治におけるデモの意義についての理解が不可欠だ。また、それが行われる場所や日時、それを主催する団体などの情報も必要だろう。さらに、たとえ情報を得たとしても、参加するには時間やお金がかかる場合もあり、それなりの意欲が必要だ。もしかしたら、友人を誘う場合もあるだろう。その際には、デモに参加する意味や効果について、その友人と議論し説得することが必要になるかもしれない。この例から、デモに参加するだけでも、どれほど民主主義的な資本が必要となるかが分かる。さらに、どうして多くの人びとがデモなどの政治活動に参加しないのかについても、この例から説明できるだろう。絵画を鑑賞することを好み、楽しむことができるには、ある程度の文化資本が必要だが、これと同じように、民主社会における政治参加には、民主主義的資本が不可欠なのである。

 

要するに、社会関係資本を付与しようとするエンパワーメントが社会関係に足場を持った自立した一員を作り出そうとする試みだとすれば、民主主義的資本を付与しようとするエンパワーメントは、民主政治の担い手として思考し行動する市民を作り出そうとする試みだと言えるだろう(後者のエンパワーメントの代表的なケースが、フェミニストの草の根運動で行われた意識変革、すなわち、コンシャスネス・レイジングである)

 

サイレント・プアの問題を公共の問題としてとして世論に訴えたり、不安定な雇用の改善や福祉予算の増大などより包括的な対策を政府や自治体に対して求めたりすることを目的にしたエンパワーメントは、少なくともCSWの主要な役割ではない。そうだとすれば、このタイプのエンパワーメントを誰が行うのか。それは、主として、CSWと協働しているであろうNPOなどの様々な団体であり、マスメディアなどの組織であり、この問題に関心を持つ普通の市民である。サイレント・プアの問題の解決には、現場でのCSWによる個別の取り組みと並行して、不安定な雇用の改善や福祉施設の整備など政治による取り組みが必要だ。そうだとすれば、政治の取り組みを促すためのアドヴォカシーや世論形成も重要になる。それだから、当事者を民主的な政治の主体へと力づけるエンパワーメントがまず求められるのである。

 

こうしたエンパワーメントは、日常生活の中の民主主義だと考えることができるように思われる。なぜなら、それは、エンパワーされる人たち、エンパワーしようとする人たち、さらにそうした活動を遠くから関心をもって見つめ可能な関与を模索する人たちが、社会に蔓延する悲惨や不正を自分たちの問題と見なし、政治的に解決しようとする市民参加の取り組みだからである。この日常の生活の中の民主主義は、選挙で投票し、後は政治家にお任せというような、現在の代表制民主主義の実情とは異なる参加民主主義のあり方を示唆している。そして、このタイプの民主主義における取り組みから、民主的な政治の担い手が生まれてくるのである。

 

さて、投票率の落ち込み、政治的関心や知識の低下、無党派層の増大などに示される代表制民主主義の機能不全が指摘されるようになって久しい。こうした現状に対して、町おこしなどの近隣地域への参加による自治活動が民主主義を立て直す試みだと評価する議論が見受けられる。これは、先に言及した、パットナムの社会関係資本論を下敷きにした議論である。それは、地域社会のネットワークを再構築し、その住人たちの間に信頼と協働の習慣を取り戻そうとするエンパワーメントだとも言える。もちろん、町おこしやそこでのエンパワーメントが悪いわけではまったくない。しかし、それが、易々と民主政治の活性化に繋がると言うならあまりに楽観的だ。

 

 今回の議論で示した通り、民主政治の活性化のためには、社会関係資本だけでなく、民主主義的資本が獲得され、蓄積されるよう働きかけるエンパワーメントが求められる。より正確に言えば、社会関係資本を民主主議的資本へと転化させるような働きかけが必要である。こうした働きかけが社会の自治的な活動に見出される場合にこそ、選挙とは異なる日常生活の中の民主主義の可能性――民主的な政治の担い手を生み出す可能性でもある――を期待できるのではないだろうか。