民主主義とその周辺

研究者による民主主義についてのエッセー

多数決投票ですべてが解決するわけではない(2)――スコットランドの独立問題から考える、社会の分断を乗り越えるために民主主義に必要なこと――

世論調査から見る現状

前回の投稿で取り上げたスコットランドの独立問題は、一段と多くの注目を集めているようだ。というのは、AFPによれば(http://www.afpbb.com/articles/-/3025218)、最新の世論調査で、はじめて、独立賛成派が反対派を上回ったからだ。つまり、スコットランドの独立の可能性が現実味を帯びてきたわけだ。

 

独立賛成派にとって、間もなくやってくる9月18日は千載一遇の機会だと言える。それは、スコットランドの独立が、スコットランドの住民のみの単純多数決にもとづく投票というただそれだけで決まるからである。ロンドン、ウエストミンスターでの国会審議をパスする必要もないのだから、民主的に独立を達成するにはおそらく最も低いハードルだと言えるだろう。この機会を逃したら、今後、スコットランドの独立の可能性は相当先へ遠のく、あるいは、ほとんどゼロになるであろうということは容易に推測できる。とすれば、独立を切に願う人びとは、住民投票に敗北した場合、独立をしないという多数者の意思をすんなりと受け入れることができるのだろうか。翻って、独立に反対している人たちは、どうであろうか。反対派の人たちの多くは、スコットランドがイギリスの一部であることによって何らかの利益――個人的、あるいは社会的利益を問わず――を得ていると考えているか、イギリスから独立することで何らかの損失を被ると考えているはずである。そうであるなら、独立賛成派以上に、投票による敗北を受け入れるのは難しいことかもしれない。

 

多数決投票以外の何が必要なのか

普通、私たちはこう考えるのではないか。独立賛成派にせよ、反対派にせよ、19日の投票の結果がどうであろうと、それが公正な選挙であれば、そこで示された多数者の意思にスコットランドの人たちは従うにきまっている。それに、そもそも個人が納得するかどうかなどは問題ではなく、多数者の意思が表明されたのなら、ただそれに従うべきなのだ。なぜなら、それが民主主義なのだから、と。確かに、スコットランドが民主主義の成熟した社会であることを考えれば、万が一独立賛成派が投票で勝利したとしても、この決定を反対派が拒否し、大きな混乱が生じる可能性は限りなく低い。とはいえ、その可能性がまったくないと断言するなら、それはそれで、民主主義に対して盲信的に過ぎる気もしなくはない。

 

もちろん、実際のところは投票後にならなければ、誰にも分からない。だから、現時点で考えるべきことがあるとすれば、それは、多数者の決定への服従を少数者が拒否する可能性をなぜ排除できないのかということである。では、なぜ、排除できないのか。その理由は、投票によって示された多数者の意思に少数者は服従すべきという民主的な規範がかなり脆弱な根拠に依拠している、というものだ。この民主的規範は、多数者の意思が社会全体の共通の意思であるという想定に依拠してきた。しかし、その想定は、現代の私たちの社会のように価値観や利害関心が細分化され多様化した状況において、もはや説得力を失いつつある。なぜなら、多数者の意思は社会を構成するある一部の人たちの意思に過ぎないと多くの人たちが考えるようになっているからである。このような脆弱な想定に依拠しているので、多数決投票によって出現する多数者が支配すべきという規範は、社会を二分するような政治的争点が争われる場合、その強制力を失うことがあるかもしれない。これが前回の投稿で論じたことだ。

 

とすれば、民主的な社会が民主的なやり方で統治されるためには、多数決原理にもとづいた投票以外の何が必要なのか。もちろん、現代社会に見合った、民主主義の新たな正統性が何であるかを明らかにすることも大切だ。ロザンヴァロンをはじめとする現在の多くの理論家たちがそうした研究を行っている。しかし、ここでは、そうした理論家たちの取り組みとは異なる形でこの問いについて考える。すなわち、民主的な社会において、自分の意思とは異なる他者の意思を受け入れるのに何が必要か、という問いである。

 

そのために、スコットランド独立の住民投票をめぐる市民たちの草の根の活動に焦点を当てよう。その際、参照したいのは、NHKで8月23日に放映されたドキュメンタリー『激動スコットランド ~イギリスからの独立 投票の行方~』(http://www.nhk.or.jp/documentary/aired/140823.html)である。この映像から読み解くことのできる次の2の点からこの問いについて考えてみたいと思う。その1つが、市民の間の信頼関係である。もう1つが、共同のものへの市民として配慮である。これらは、自分の意思とは異なる他者の意思を受け入れる上で、なぜ必要になるのだろうか。

 

スコットランドの市民の草の根の活動

上記のドキュメンタリーでは、様々な思惑や利害関心からスコットランドの独立を支持したり、それに反対したりする人びとが取り上げられている。その中に登場する2つのケースを見てみよう。

 

まずは、スコットランド独立を支持するパブのオーナーとそれに反対するデリカテッセンのオーナーのケースである。彼らは古くからの友人ではあるが、スコットランドの独立に関しては対立する立場にある。一方で彼らは、意見を同じくする人びとと集まり、そこでの会話をとおして、情報を交換し理論を武装し、自らの意思を強化する。他方で、二人はお互いの店を行き来し、スコットランド独立に関して議論を交わす。もちろん、その議論は平行線を辿り、相手の意見に耳を傾けることで自らの意見が変容するわけではない。しかし、自分たちの社会のあり方について対立する立場にありながらも、しかも、それが間近に迫った投票でいずれかの立場が現実のものになることが分かっていても、彼らの対立関係が敵対的――シュミット的に言えば、政治的――になることはない。むしろ、デリカテッセンのオーナーの言葉から伺えるように、投票結果にかかわらず、これまでの友好的な関係を持続させることが重要であるという共有された理解が彼らには存在している。

 

こうした理解は、日常生活の持続した相互活動の中で培われた信頼関係に由来すると考えてよいであろう。社会を結びつけるこの信頼関係こそ、いわゆる社会関係資本(social capital)に他ならい。民主政治が機能する条件として社会関係資本の存在が論じられるようになって久しい。このケースでは、人びとの間に存在する信頼関係が、独立をめぐる対立を敵対関係へと政治化する動きを抑止する歯止めになると予測できる。

 

もう一つのケースは、シングルマザーである若い女性のケースである。彼女は、スコットランド独立に賛成の立場から、積極的に政治活動を行っている。例えば、他の活動家と共に、賛成派の会合を運営し、支持の拡大のためのコンサートを開催する。さらに、戸別訪問をして独立反対の市民と向き合い、自らの意見を主張し、相手の意見に耳を傾ける。しかし、彼女は熱心な活動家であるにもかからず、今回の住民投票が自分の願望が実現する機会としてだけでなく、彼女の暮らすコミュニティを一つにする機会としても捉えている。こうした彼女の態度から、投票によって示される多数者の意思の支配が民主主義なのだと理解するだけでは把握できない、民主主義の一面が見えてくる。それは、共同のものへの配慮という態度である。この態度は現代の社会において民主政治が機能するためには欠かすことのできないものである。

 

古代ギリシア以来、民主的な政治は、共同のものをその基盤に据えてきた。それが平等な存在としての市民を結びつけるものだったからだ。かつてこの共同のものは、共通の祖国であったり、共同の利害関心や価値観であったりした。もちろん、近代以降の社会は、高度に個人化された社会である。だから、そのような共通のものや共同のものがあらかじめ存在すると想定するのには無理がある。また、現在、異なる人びとの間に、何かしらの共通・共同のもの――例えば、20世紀のはじめに社会学が発見した、人びとの相互依存関係としての社会連帯――を見出すことは、ますます困難になっている。しかし、そのような個人化された多元的社会であっても、民主主義は、共同のものへの関係を断ち切ってしまい、それらと無縁になってしまったわけではない。共同のものは選挙などの共同の決定行為のように手続き的=形式的な形に矮小化される一方で、それは、異なる人びととの間で構築されるべきものとして生き残ってきたのである。

 

異なる人びとからなる社会に共有可能な共同性が存在すると想定できるなら、それは、投票で示された結果が自分の意思に反するものであったとしても、それを受け入れる理由や動機となるのではないか。このことは、近年ではコミュニタリアンと呼ばれたリベラリズムへの批判者たちによって繰り返し主張されてきた。とはいえ、たとえそうだとしても、問題は、先に指摘したとおり、現代の個人化された社会において、異なる人びとを結びつける共同のものは、所与のものではなく、作り出されるものだということであり、さらに、強制されるものではなく、市民が自らの意思で配慮し尊重すべきものであるということだ。では、異なる人びとの関係性によって媒介されたこの共同のものはどのようにして作り出され配慮されるようになるのか。この問いについては、参加民主主義の理論や熟議民主主義の理論がその答えを模索してきた。これらの理論によれば、異なる人びととの交流をとおして、とりわけ、真摯な対話をとおして共同のものは作り出され、市民はそれを尊重する態度を手に入れるのである。先に挙げたシングルマザーにとって、それがコミュテニィであるように思われる。すなわち、彼女は政治活動をとおして、コミュニティという共同のものを発見し、それに配慮する態度を獲得したのである。

 

 投票とは別の民主主義

民主政治は、政治である以上、決定を行わなければならない。そして、その決定は、多数決原理にもとづく投票によって行われる。ロザンヴァロンが議論しているように、近代以前、喝采による投票は、社会(共同体)の結び付きを確認する行為であった。それに対して、近代以降、多数決原理にもとづいた匿名の投票は、社会における対立をあからさまにする行為となった。確かに、通常の政治的争点において、しかも多数者の意思への服従という規範が強固である場合、社会の対立関係は多数決投票によって一瞬、表出されるだけで、日常生活の反復の中に埋もれていく。しかし、今回のスコットランド住民投票のように、国家の独立や憲法の改正などの社会を二分するような政治争点が争われる場合、投票によって表出された社会の対立関係は、解消されることなく社会を分断し無秩序を生み出すことになるかもしれないのである。

 

そうした事態を避けるべきであるとするなら――もちろん、避ける必要はないという考えに道理がないわけではない――、多数決原理やそれにもとづいた投票を民主政治のすべてだとする考えを捨て去らねばならない。そして、投票で示された多数者の意思を少数者が受け入れる条件が何であるかを民主主義の問題として考えてみる必要がある。そのとき、多数決にもとづく投票という私たちが普通イメージする民主主義とはまた別の民主主義が見えてくるはずだ。

 

ここでは、日常の生活で培われる信頼関係と共同性への配慮という2つ条件について検討した。これらは、民主主義の理論においても論じられてきたものであり、現在に至っては、信頼関係の醸成や熟議の機会をどう制度化するかが問われ始めている。とはいえ、これらの条件をスコットランドの社会がどの程度備えているのか、上のケースだけではまったく定かではないし、実際、そこに登場した人たちが投票の結果を受けどう行動するかもわからない。だからこそ、スコットランドの独立をめぐる投票結果だけではなく、その後の動向を注意深く見守っていく必要があるように思われる。