民主主義とその周辺

研究者による民主主義についてのエッセー

民主主義の祝祭としての選挙――沖縄県知事選挙の意味――

今日、安倍首相によって衆議院が解散され、衆議院の総選挙が来月に行われることになった。これは問題のある選挙となるだろう。問題があるというのは、なにも、何百億円という無駄な税金が使われるからだけではない。どう考えても、今回の衆議院解散総選挙には、道理にかなった理由がまったく見当たらないからだ。さらに、現在の国会が違憲状態にあることにも鑑みれば、この選挙の正統性には大きな疑念がある。また、それとは別に、民主主義理論から見れば、今回の安倍首相の行動は、形式的には民主的な手続きを取りながらも、実際は、行政権力の恣意的な維持のために選挙を濫用する、いわば、人民投票型民主主義を連想させる(これについては、当ブログのhttp://fujiitatsuo.hatenablog.com/entry/2014/03/25/173636を参照して欲しい)。これが、近代の代表制度を基盤にした民主主義にとっての悪夢であることはいうまでもない。

 

したがって、今回の衆議院解散総選挙は、大いに論争を巻き起こし、厳しい批判と糾弾の対象となるだろう。しかし、ここでは、衆議院選挙ではなく、突然降って湧いたこの大騒動の影で、ほとんどの人たちが忘れつつある沖縄県知事選挙の意味について考えようと思う。なぜなら、この知事選挙の結果は、今後の日本の政治に少なからぬ影響を及ぼすことになるであろうし、何より、民主主義にとっての選挙の意味の多様さを考えさせてくれるからである。

 

沖縄県知事選挙の結果の注目点

先日の沖縄県知事選挙の結果は報道のとおりである。無所属の新人で米軍普天間飛行場名護市辺野古への移設に反対する新人の翁長前那覇市長が、自民党と次世代の党の推薦を受けた現職の仲井間知事などの対立候補を破り初当選した。翁長氏は、仲井間氏に対して10万票近く上回り、さらに、得票率でも50%を超えて当選したことを考えると、今回の選挙で圧勝したと見なしてよいであろう。

 

今回の知事選挙において注目すべき点を二つ挙げておこう。一つは、普天間基地辺野古への移設の是非が最大の争点となることで、いわば、住民投票型の選挙の様相を呈したという点。もう一つは、翁長氏側を勝利へと導いた支持基盤に見て取れる。すなわち、翁長氏が保守勢力と革新勢力という垣根を超え、「イデオロギーではなく(沖縄の)アイデンティティ」というスローガンの下で結集した人たちに支持されたという点である。

 

さて、この圧勝という選挙結果から、翁長氏の掲げた辺野古への移設反対という公約は実現されるのであろうか。すでに多くの指摘があるように、その実現にはどうやら多くの困難があるようだ。例えば、政府のこの問題に対する態度である。政府は、普天間基地辺野古への移設はすでに決定済みの過去の問題であるとしている。その上で、昨年の12月に当時の仲井間沖縄県知事によって承認された辺野古沿岸部の埋め立ては、手続き上の瑕疵がない限り、取り消すことはできないとしている。また、安全保障問題に直結するこの基地移設の問題は、他の国内問題とは異なり政府と沖縄県との間だけで決定するわけにはいかない、というあまりに当たり前の現実がある――基地の県外移設は理論上可能であるが、実際はそうはいかないということは、民主党鳩山政権下で思い知らされたわけだ――。つまり、この問題は日本の安全保障の一端を担うアメリカの意向や事情によって大きく左右されるということである。

 

とすれば、この選挙とその結果は無意味なものであったのだろうか。おそらくそうではないだろう、というのがその問いに対する答えである。では、なぜ、無意味ではなかったといえるのか。この点を検討するには、民主主義における選挙を政党の勝ち負けを決するイベントだとする理解では、しばしば見逃されがちな二つの機能を理解しておく必要がある。

 

近代民主主義における選挙とその機能

近代の民主主義、すなわち、代表制民主主義における選挙は、現在の支配的な民主主義の理解によれば、市民が政府を形成するべく政治権力を求めて競争する政党(政治家)を多数決の原理にもとづいて選択することを意味する。これによって多数者の支配という民主政治の理念が実現されるわけだ。

 

しかし、このように理解される選挙が可能となるためには、ある条件が必要だ。それは、社会が競合し対立する利害や意思を持った諸集団によって構成されているという条件である。これがなければ、政党間の競争など起こりえない。

 

実はここに、近代の民主主義における選挙の独特な機能の一つを見て取れる。それは、普段、曖昧にされている社会の党派的な対立を表面化し、社会が分断されている事態を可視化する機能である。こうして、この意味での選挙は、ある思想家が言ったような、友・敵という政治の本質を顕現化させるイベントであると同時に、この友・敵という究極の対立が、殺し合い――すなわち、内戦――に帰着することないよう、多数決原理や定期的な選挙の実施、その結果に応じた政治的権力の移行(政権交代)といったルールにもとづいて平和的にコントロールされるイベントとして見なすことができる(社会の分断を可視化する選挙の機能を考察した議論としては、当ブログのhttp://fujiitatsuo.hatenablog.com/entry/2014/09/12/165921を参照して欲しい)。

 

選挙における多数決原理の問題

これらは余りに常識的な指摘かも知れない。しかし、そこにはめったに問われることがないものの、民主主義の根幹に関わる問題がある。それは、なぜ、多数者による政治的権力の掌握が民主的に正統な行為として認められるのか、というものだ。これは、以前の投稿でも言及した、民主的な決定における多数決原理の問題だ。

 

民主主義の思想と実践の歴史を振り返るとき、そこから見えてくる説得力のある説明は、社会の多数者の意思こそ、社会の構成員全員が共有する満場一致の意思、すなわち一般意思そのものではないにせよ、それに一番似通った意思だというものである。一般意思とは、社会を構成する人たちすべてに共有された共同の利害を目指す意思であり、この意思こそ人とびとが共に暮らす社会の建設と維持を可能する。だから、この一般意思は、多数決原理にもとづく決定に民主的正統性を付与する根拠になる(もちろん、現在の多元的な社会に、一般意思なるものが所与のものとして、客観的に実在するとは考え難い。むしろ、現在の社会に一般意思の存在を仮定するのであれば――あらゆる現代の民主国家の政治は、形式上、この仮定の下で行われているのは紛れもない事実である――、それは熟議のプロセスをとおして構築されるものでしかない)。

 

とはいえ、一般意思と多数者の意思が常に一致するとは限らないし、それらが対立することがないとも限らない。ここから、多数決原理にもとづいた決定が民主的に正統であるという想定には、多数決原理を一般意思と同一視するという一種のフィクションが存在していることが分かる。そして、このフィクションという性格に由来する民主的正統性の理論上の脆弱さをついた、さまざまな民主主義批判が19世紀以降、生み出されることにもなった。それはともかく、ここで注目したいのは、この一般意思と多数者の意思との疑似的な同一性から生じる選挙のもう一つの機能である。

 

選挙のもう一つの機能

選挙のもう一つの機能は、先に触れた一般意思を表明するという機能である。したがって、選挙には、社会全体の共通の利害が何であるかを提示する機能があると考えられる。このことは、上で論じた多数決原理から容易に引き出すことができる。というのも、多数決原理が、多数者の意思に一般意思が存在するという想定に依拠しているとすれば、この想定から、選挙において示された多数者の意思は、その社会において共有された共同の利害を示すものだと見なしうるからだ。

 

もちろん、選挙が共同の利害の存在を顕現化させる機会となるためには、いくつかの条件が必要だろう。なぜなら、選挙には、社会の分断を可視化する機能もあるからだ。それら条件が、多数者の意思が一般意思であるかのように見えさせ、あるいは、そのように見なすことを説得的にする。例えば、投票率が比較的高いこと、その社会にとって最大の政治課題が明確な形で争点化されていること、そして、全有権者数に対して多数者を構成する有権者の数の割合が大きいこと、といった条件である。

 

これらの条件が、ある程度そろった場合――ある程度というのは、多数者の意思と一般意思とが似通っているように見えるかどうか問題であり、そのように見なす主張に説得力を付与できるかどうかが問題だからだ――、選挙は、社会の共通の意思や共同の利害を提示する機会と見なすことできる。そしてこのとき、選挙をとおして、社会の対立や分断ではなく、社会の調和と連帯が可視化されることになるのである。

 

祝祭としての選挙

ルソーは、彼の理想とする社会には、人びとの間に連帯感を芽生えさせ、さらに強化することで、いわば共通の自我を作り出す「祝祭」が必要だと説いている。選挙が社会の共通の意思や共同の利害の存在を明示することで、社会の結び付きを可視化する場合、その選挙はこうした祝祭となることがある。すなわち、民主主義の祝祭としての選挙である。投票結果によって可視化された社会の結束が、その社会に暮らす人びとの内面に刻み込まれ、再帰的な形で連帯感を醸成するのだ。望ましいか望ましくないかに関わらず、元来、選挙にはそうした機能があることは紛れもない事実のように思われる(ただし、自由で多元的な社会にとって、この祝祭が危険をはらむ可能性があることは指摘しておく必要がある。それは、社会の多様性や少数者の自由を抑圧する危険だ)。

 

今回の沖縄県知事選挙には、沖縄の共通の意思を表明するという機能が確かに存在した。すなわち、普天間基地辺野古への移設反対が沖縄の人たちの共通の意思であり、米軍基地への反対が沖縄の人たちの共同の利害であることを提示する機能を果たしたのである。このことは、選挙で勝利した翁長氏の「イデオロギーではなくアイデンティティ」というスローガン、これまでの保守革新勢力の対立を越えた彼の支持層、基地という沖縄にとって核心的な問題の争点化、さらに、投票率の高さや多数派の得票率に鑑みると、ある程度の説得力を持っているように思われる。

 

こうして、祝祭としての選挙という観点から見たとき、沖縄県知事選の意味がはっきりと理解できる。それは、選挙で示された共通の意思が、今後も沖縄の人たちの記憶と歴史に深く刻み込まれ、共有されたアイデンティティとして受肉化されて行く中で、沖縄の社会の連帯をより強固にしていくことになるという点にある。

 

もちろん、だからといって、基地の移設が今回の選挙で示されたような形で思惑通りに進むわけではない。また、その連帯感は、多数者の意思を一般意思と同一視するというフィクションに依拠したものであることも確かである。しかし、たとえそうであっても、今回の選挙で提示された沖縄の共通の意思、そしてその下で醸成される連帯意識が、日本政府が基地の移設を進める上で、もっとも大きな障害となることは間違いないであろう。もしかしたら、それはたんに中央の政府に対する抵抗の拠点になるだけでなく、将来の沖縄のあり方を沖縄の人たち自らで決定しようとする際の基盤になるかもしれない。こう考えるなら、今回の沖縄県知事選挙は、無意味であったとは言えないように思われる。

 

それでは、安倍首相が決断した衆議院の総選挙にいったいどんな意味があるのか。政党間の競争という、ある意味で近視眼的な選挙の理解から離れて、この問いをいま一度、民主主義の根幹に関わる問題として考えてみる必要がありそうだ。