民主主義とその周辺

研究者による民主主義についてのエッセー

シャルリ―・エブド社銃撃事件と、自由(liberté)、平等(égalité)、博愛(fraternité)――“Je suis Charlie”への違和感から考える民主主義の危機――

“Je suis Charlie”への違和感

イスラム原理主義者による、フランスの出版社シャルリ―・エブド銃撃事件の戦慄が冷めやらぬ先の日曜日(1月11日)、このテロリズムに抗議するデモがフランス全土で行われた。報道によれば、その数は、370万人にも及び、デモ大国フランスの歴史の上でも、最大規模であったようだ。

 

さて、一昨日のデモに先立ち、SNSを中心にして言論の自由を擁護する動きが、世界中で活発化した。その際のスローガンが、“Je suis Charlie”(私はシャルリ―)である。この言葉をtwitterFacebookにポストすることで、今回のテロを非難し、表現の自由を支持する意思表示をするわけだ。

 

このスローガンを目にして違和感を覚えた人は少なからずいるようだ。フランスに詳しい人ならば、そこにフランス特有のナショナリズムや文化帝国主義の臭いを嗅ぎ分ける人もいるかもしれない。しかし、特にフランスの歴史を精通しているわけではないものの、今回のテロリズムを断固拒否し、かつ表現の自由を支持している人がこのスローガンに違和感を覚えるとすれば、その理由は簡単である。すなわち、「私はシャルリ―」だというスローガンは、この事件の何かを曖昧してしまう、あるいは、このスローガンを掲げることで、この事件が提起している何かを見逃してしまう、そんな気がするからだ。

 

表現の自由はフランスを含め、私たちの民主的な社会を構成する基本的な権利である。これは当たり前の話だ。しかし、これもまた当たり前の話だが、表現の自由は現代の民主主義の諸価値のうちの一つを体現する権利だということである。ここから、次のような考えが頭に浮かぶ。確かに、今回のテロによって直接、攻撃されたものは表現の自由に他ならない。だから、まず今、表現の自由の支持を断固表明することは当然だ。しかし、それ以外の民主主義の価値もこのテロによって危機に晒されつつあるのではないか、と。こう考えると、“Je suis Charlie”というスローガンを掲げることで曖昧になる何かが見えてくる。その何かとは、表現の自由によって体現される価値以外の民主主義の価値である。

 

民主主義の価値としての表現の自由

そうした民主主義の価値が何であるかを知るには、ここで、フランス共和国の標語、「自由、平等、博愛」を参照するのが適切であるかもしれない。

 

共和国フランスを打ち立てた革命家ロベスピエールが用い、19世紀から20世紀にかけてフランスのみならず世界に広く知れ渡ったこの標語は、民主社会が根差す価値を表していると見なせるだろう。言い換えれば、これらの価値にもとづいた社会、すなわち、「相互の友愛によって連帯した平等な者たちからなる自由な社会」こそ、民主主義の理想とする社会だといえるであろう。

 

「自由、平等、博愛」という民主主義の根本価値に照らすなら、表現の自由は、自由という価値を体現している。これは言うまでもない。したがって、表現の自由の支持を意図した“Je suis Charlie”というスローガンを掲げることで見えなくなる民主主義の価値とは、平等であり、博愛ということなる。そうだとすれば、先に指摘したとおり、今回のテロによって危機に晒されつつある平等や博愛とは具体的に何のか。翻って言えば、現代社会において擁護されるべき自由、平等、博愛とは具体的に何を意味するのか。

 

現代の民主社会における自由、平等、博愛

現代社会の特徴は、その規模と複雑さとにある。そのような大規模で複雑化した現在の社会は、19世紀のように、持てる者と持たざる者とに二極化した社会であるだけでなく、人種や宗教、セクシャリティ、価値観やライフスタイルなど、アイデンティティにおいて多元化した社会、したがって、多様なマイノリティからなる社会だといえる。こうした社会における民主的な価値としての自由は、特異であること――他と異なってあること――の自由として理解することができる。そして、表現の自由には、そうした特異性を表明する機会を確保することで、社会の多元性を維持することを可能にする機能がある。だから表現の自由現代社会において極めて大きな重要性が付与されているのである。

 

現代の自由が特異であることの自由であるとすれば、現代の民主的な社会における平等とは、特異であること、他と異なってあることへの承認と尊重における平等として理解される必要がある。もちろん、現代においても、法の下の抽象的平等や所得などにおけるある程度の実質的平等も民主主義の不可欠な価値である。しかし、多様なマイノリティから構成される現代社会の実情に鑑みれば、特異であることへの承認と尊重における平等は、よりいっそう重要な価値であるといえる。というのも、この平等がなければ、アイデンティティにおいて特異であることの自由を許容する多元的な社会の内部に共同性を作り出すことは困難だと考えられるからだ。そして、この共同性が自由の力によって分解してしまう危険を孕んだ社会の内部に、異なる人びとを結びつける凝縮力を生み出す。この凝縮力、あるいは異なる人びとの間の相互性が現代の連帯の精神、すなわち、博愛だといえるであろう。

 

重要なことは、このように理解された民主主義の根本価値は、相互に深く結びついているということだ。それゆえ、これらの価値の一つでも欠いてしまえば、民主的な社会は、その存立が危機に直結するような脆弱さを孕むことになるのである。

 

テロが引き起した民主主義の危機

現代の民主的な社会の基本的な価値をこのように理解するなら、今回のテロによって危機に晒されようとしているのが、表現の自由だけでないことは明らかである。確かに、直接攻撃を受けたのは、表現の自由である。しかし、この攻撃は、相異なる宗教や文化、人種の間での相互の承認と尊重を拒否する態度をフランス社会に蔓延させる可能性がある。すなわち、平等という価値の拒否である。そのとき、社会の凝縮力としての博愛や異なる人びとの間の相互性は失われ、民主的な社会としてのフランスは、深刻な危機に直面することが予測できるのである。

 

この予測は、突拍子もない的外れなものだろうか。机上の空論だろうか。そうであるかないかは、イスラム教徒の差別や排斥を目指した活動が今後活発化するかどうか、移民排斥を掲げる極右政党の支持が急速に拡大するかどうかを見ることで判断できるであろう。はたして、このような困難な状況においても、「相互の友愛によって連帯した平等な者たちからなる自由な社会」という、フランスの普遍的な理想をフランスの人びとは守ろうとするのだろか。これこそ、テロによって危機にある民主社会に問われている本当の問題なのだ。

 

残念なことに、今回のテロ以前のフランス、そしてヨーロッパ社会に移民排斥運動が浸透している事態を目にしている以上、いま楽観的でいられる人はほとんどいないように思われる。それはともかく、“Je suis Charlie”というスローガンでは、フランス社会の直面しつつある危機を十分に表現しえていないという点だけは確かなように思われる。