民主主義とその周辺

研究者による民主主義についてのエッセー

なぜ、自民党若手議員の発言を見過ごすことができないのか――極端化する時代の代表制民主主義――

自民党内で一連の動向

安全保障関連法案の今国会での成立や、米軍普天間飛行場名護市辺野古への移設問題、TPPの締結など多くの難題を抱えた安倍政権は、このところ、その身内によって足を引っ張られているようだ。もちろん、念頭にあるのは、6月25日の「文化芸術懇話会」の会合で沖縄の新聞社への過激な批判を展開した安倍首相に近い若手国会議員たち、7月26日の大分市の講演で「法的安定性」を否定する発言した首相補佐官、そして7月30日付けのツイッターの投稿において、安全保障関連法案を批判する学生グループの主張を利己主義と批判した若手国会議員――この議員は、「文化芸術懇話会」に出席していたようだ――などのケースだ。これらのケースで自民党国会議員が行った発言は、現代社会の民主的な価値観や政治文化から逸脱するものであったため、様々な方面からの批判に晒された。その結果、ツイッターのケースを除き、それらの発言の多くは撤回され、発言者は謝罪をすることになったのは、周知のとおりだ。

 

こうした発言は、内容云々の前に、軽率であるばかりか、不合理な発言だと考えられる。不合理だというのは、安全保障関連法案の法制化に対して世論が批判的な反応を示している状況下で、あのような発言をすれば、世論を刺激し、ひいては、政府与党およびその議員にとって今国会での最大の課題である本法案の成立に対する障害を生むことになるということなど子供にでもわかるはずなのに、あえてそうしたからである。

 

一連の発言の不合理さに対する合理的な説明は、こんなものがあるだろう。たとえば、党による若手議員の教育がうまく機能しておらず、このためそれらの議員の言動を党がコントロールできなくなった結果だという説明。あるいは、若手議員が政権の中枢に対して自らの存在をアピールし重用されるべく、功名心に逸った結果だという説明。確かに、これらはそれなりに今回の事態を合理的に説明しているし、まだまだほかの説明もあるだろう。しかし、ここでは、極化という現象から、彼らの発言について考えてみる。その理由は、彼ら発言の特徴の一つが、その過激さ、民主的な価値からの逸脱の極端さにあるからだが、それだけではない。この極化現象への着目によって、現代の代表制民主主義の機能不全への新たな懸念について、さらには、代表制度の主要なアクターであった国民政党の行く末をめぐる不安について考えてみたいからでもある。つまり、それは、日本共産党公明党のような少数政党とは異なり、長らく政権を担い国民政党として自ら標榜するだけでなく(もちろん共産、公明両党も国民政党を標榜してはいるが)、国民もそう認めてきた自由民主党において、このように極端な発言が頻発することの民主主義的な含意について考えるということだ。

 

極化現象とは何か

極化(polarization)、より正確には、集団極化という言葉は一般には耳慣れない言葉かもしれない。それは、似かよった傾向を持つ人びとからなる集団が、閉鎖的な状況下で議論を行うと、その集団の構成員はその傾向を議論の前よりも極端化させるという現象を意味する。たとえば、日々の生活において動物を愛し、動物愛護運動に関心のある人びとだけが集まって議論をすると、そこに参加した人びとは、かなり過激な動物愛護派になっている、というような現象を指す。この現象は多くの実証研究の対象とされてきた。

 

集団極化の現象は民主主義理論の文脈では、キャス・サンスティーンが行った熟議(民主主義)批判として人口に膾炙することになった。そこで彼が指摘するとおり、この現象は民主政治に対して2つの効果を持っている。それらは現代の民主主義の相異なる側面に関連する効果である。

 

1つは、ネガティヴな効果だ。社会における極化の程度が高まれば、当然、その社会は極端化あるいは断片化し、その結果、不安定な状態となる。現代社会は、利害関心や価値観、ライフスタイルの多元化が進んでいるが、その一方で、規範的には、この社会の多元性の事実を前提としつつも、そこから出発して、共有可能な利益や意思を交渉や調整をとおして見出し、法として実現することが民主政治に求められている。だとすると、極化による極端化や断片化という作用は、異なる価値観や利益間の対立を激化し調整や妥協を困難にするわけだから、民主政治にとってネガティヴな効果を持つことになる。いわば、社会をタコツボ化することでマジョリティ集団の形成を困難にするのだ。

 

もう1つの効果は、ポジティヴなものだ。極化は集団内の連帯を強化し、その集団固有の主張を鮮明にしかつその意見を強固なものにする。社会のマイノリティ集団の利益や価値観に配慮し意思決定に反映していくことは現代の民主政治の重要な課題である。この極化の作用は、マイノリティ集団の利益や意思を社会に対して可視化し、その集団が社会のマジョリティ集団や政治に働きかける上で手助けとなる。この点で、極化現象は、民主政治にポジティヴな効果を持つと考えることができる。いわば、マイノリティ集団の可視化と政治化を容易にするのだ。

 

極化の生じやすい現代社

極化現象は、現代社会に固有なものではない。それが、集団内での自己評価を気にし、アイデンティティを維持しようとする個人の欲求と、多様な意見の蓄積が難しい閉鎖された集団において一方的な議論が過剰に行われる状況とが重なることで生じるとすれば、どんな時代でも、どんな場所でも起きる現象だ。とはいえ、しばしば指摘されるように、極化現象が生じやすい特殊現代的な要因があるようだ。それは、SNSなどを含めたインターネットによるコミュニケーション環境である。

 

フェイスブックツイッター、ブログ、BBSなどが、上で説明したような集団極化現象を引き起こしているように思われる。確かに、ツイッターBSSにも、そこで極化しつつある集団の言説を批判する投稿や書き込みはある。しかし、それらはその集団の極化をさらに促進する材料にしかならない場合が多い。だから、そうしたコミュニケーション環境では、自分とは異なる意見に耳を傾け、必要があれば批判的な視点から自分の意見を修正することで、共通の理解の獲得を目指すような議論を期待することはほとんど不可能だというのが実情であろう。

 

大衆という社会的マジョリティの存在を想定していた新聞やテレビといったマスメディアの影響力が低下しているのに対して、インターネットによるコミュニケーション環境の影響力が増大していることが指摘されて久しい。この傾向はますます強まりつつあるように感じる人も少なくないだろう。そうだとすれば、私たちの社会では、極化現象が生じやすい状況にあるといえる。ここから、そのような社会は価値観やライフスタイルが多元化した自由な社会というよりは、極化した集団が乱立する極端な社会という様相を呈しているという見方さえできるように思われる。

 

代表者の極化による代表制度の機能不全

社会が、極化を招きやすいコミュニケーション環境の拡張をとおして極端化しつつあるとすれば、先に言及した政治家たちの言動の極端さも、そうしたコミュニケーション環境やその帰結としての極化現象から説明することが可能であろう。極端化する傾向にある社会から政治家が無縁であるはずはなく、むしろ、そうした傾向に意識的せよ無意識的にせよ、便乗する者も出てきているようだ。しかし、だからといって、政治家個人の主張の極端さだけを批判したとしても、それほど有益なことではないであろう。むしろ考えてみるべきは、かりに、新たなコミュニケーション環境の下での極化現象が民主政治における代表者(政治家や政党)の側に生じつつあるとすれば、このことが代表制民主主義そのものに及ぼす影響についてである。

 

極化現象は先に述べた条件さえ整えば、議会や同じ政党の議員たちの集まりにおいても起きる。しかし、現在の事態は、代表者たちの極化とその帰結としての主張の極端化が、インターネットという新たなコミュニケーション環境をとおして今までにない規模と形で進行しつつあるのではないかという懸念を喚起させる。この事態を代表制民主主義との関連で考えるなら、さらに深刻な懸念が出てくる。それは、代表制度がますます機能不全に陥るのではないかという懸念である。

 

現在の代表制度の機能不全の原因について、理論的な観点から次のように論じられることが多い。そうした機能不全は、代表される側である有権者の利害関心や価値観、ライフスタイルの多様化の伴い、代表する側の政治家や政党が、この多様性を集約し代表することが難しくなったことにその原因があるのだ、と。したがって、代表制度の機能不全の問題の核心は社会の多様化ないし多元化にあるとされてきたわけだ。こうした考えは、代表者(政治家あるいは政党)が、有権者の利益や意思を集約する機能を持っているという前提に立っている。代表制度を擁護する際の伝統的な論拠は、代表者のこの集約機能であり、代表者たちが社会の多様な意思や利益を集約しつつ、妥協や調整をとおして社会全体の意思や利益に鑑みた政治を行うというものだ。ところが、代表者たちの極化は、こうした機能の遂行を困難にすることになる。極化をとおして極端化した代表者たちの間で、多様な意思や利益を集約し、妥協や調整を行うことが困難なのは想像に難くない。ようするに、現在を進行しつつあるのは、代表される有権者の極化ばかりでなく、代表者の極化であり、これが代表制度の機能不全を新たな生じさせる可能性があるということなのだ。これは、いわば、前で論じた極化の民主政治へのネガティヴな効果が、いわば、二重化された事態だといってもいいのかもしれない。

 

極端な社会における国民政党の運命

もちろん、このところの自民党の若手議員の発言から、現在の自民党全体に極化現象を見るのには、かなりの無理がある。そもそも、昔からそうした議員は少なからず存在していたという指摘ももっともだろう。とはいえ、現代社会が極化現象を生み出しやすい環境にあるとすれば、そのような社会の政治家そして政党が極化傾向にあるかどうかには注意を払う必要があるだろう。

 

かりに、今後、代表者の極化が進行することになるなら、その際生じるのは、社会の多様な利益や意思を代表することを標榜する国民政党の消滅の可能性であろう。いや、国民政党などイデオロギー的幻想であり、そうした政党も国民という名を騙ってある特定の社会階層の利益を代表しているに過ぎないという見方も確かにある。しかし、問題は、極化した代表者は、自らその幻想を捨て去り、その幻想を維持するための必要な言動を放棄するということである。そんな事態は果たして来るのだろうか。国民政党の代表である自由民主党憲法草案や若手議員の発言を見るにつけ、この懸念を完全に払拭できないのがもどかしい。