民主主義とその周辺

研究者による民主主義についてのエッセー

安全保障関連法が成立した夜に、日本の民主主義に起こったこと――冷たい怪物が再び蘇った日――

集団的自衛権の行使を可能にする安全保障関連法が9月19日の未明に成立してから、もう一週間が過ぎようとしている。それを受けて胸をなでおろしている人もいれば、憤り落胆している人もいるだろう。あるいは、たかだか一つの法律にいったい何を大騒ぎしていたのか分からないまま、この出来事を忘れつつある人もいるだろう。いずれにせよ、すでに法案が国会に上程された時点で予想されたこの事態が現実となった今だからこそ、それを冷静に直視し、その意味について考えてみることが必要だろう。そこで、ここでは、安全保障関連法の制定過程において明らかとなった、日本の民主主義の変質について検討したい。この変質とは、その日以来、日本の民主主義が民主主義という装いの下でその内実を骨抜きにされてしまったこと、ようするに、民主主義が倒錯してしまったことを表している。もちろん、それは、日本の社会の不吉な未来を予感させる。というのも、この倒錯した民主主義から、あらゆる冷たい怪物の中でもっとも冷たい怪物が頭をもたげつつあるからだ。国家というこの怪物は、グローバル化と民主主義の勝利によって息の根を止められたとさんざん吹聴さてきたはずだ。しかし、それが再び蘇りつつあるのだ。

 

今回の一連の騒動で見えてくるのは、現代の国家が軛から逃れ、その恐るべき力を露骨に解放しつつあるということではないだろうか。もちろん、こうした事態は、歴史を見れば、別に珍しいことではない。たとえば、20世紀の全体主義国家がそうだ。しかし、重要なことは、国家が明確な意思をもってその軛を捨て去り、赤裸々な姿で現れる舞台は時代によって異なる、ということだ。現代のその舞台が、倒錯した民主主義なのだ。とはいえ、こんな指摘をすると、国家を重要視しすぎであり、国家の過大評価だというフーコーの言葉が脳裏をかすめる。それを重々承知の上で、あえてナイーヴに、冷たい怪物に言及したくなるのが9月19日以降の日本の民主主義の実情であるように思われる。

 

安全保障関連法をめぐる問題の核心

民主主義の理論から見た場合、今回の安全保障関連法をめぐる問題の核心はどこにあったのか。以前のコラムですでに詳細に論じたが、ここで簡単に問題の核心の所在について確認しておこう。

 

政府を中心したこの法律の推進者たちは、集団的自衛権の行使を認める法律が国家の存続のために必要だという立場に立っていた。ここから、日本を取り巻く安全保障環境の変化を指摘しながら、様々な理由を挙げてこの必要性を正当化しようとしてきた。今回成立した法律は、この必要性を根拠にして、それまで認められていなかった権限を政府に付与することになった。

 

他方、この法律に対して反対してきた人びと、その中でも特に、法律の研究者や実務家たちは、国家が必要性を口実に行使しようとする権力は、無際限ではあってはならず、それに対して何らかの形で制約が課せられねばならないという立場にあった。国家権力に制約が現在求められるのは、その自立化やその暴走を防ぐためであり、これによって、市民社会の民主的な秩序を保持し、人びとの自由や権利を守るためである。今回のケースでいえば、そうした立場に立つ専門家たちが問題視したのは、次のようなことだ。政府は必要性の名の下で集団的自衛権の行使を可能にする法律を制定し、その法律によってこれまで許されていなかった権限を手に入れようとしている。しかし、そのような政府の権力行使およびその行使を可能にする法律の制定は現代の立憲主義的な民主主義が求める制約の下にあるのかどうか、ということである。ここに、安全保障関連法をめぐる問題の核心が存在する。政府の主な任務は、国内外の秩序の統治にあるのだから、その権力を統治権力と呼ぶことにするが、ようするに、統治権力の統制というきわめて古典的な問題が、安全保障関連法をめぐる問題の核心だったわけだ。

 

統治権力に制約を課す民主主義

教科書風に単純化していえば、自由主義の諸理念を取り入れた近代以降の民主主義――一般に、立憲主義的民主主義と呼ばれる――は、自己統治という政治のあり方の下で、個人の諸権利の保護と自由の発展が保証された多元的な社会の実現を目指してきた。その際、この民主主義は、理論的にも、そして歴史の事実としても、自由や平等、多元性といった民主的な諸価値を蹂躙する可能性のある国家権力、特に政府の行使する統治権力に制約を課そうとする。すなわち、統治に必要だという理由であらゆる手段を用いようとする権力、必要性の名の下で民主的な諸価値を蔑にするかもしれない権力を民主的な手続きや制度の下で統制しようとする努力である。この努力は、民主的な国家を維持するための大前提となるものである。たとえば、そのもっとも一般的な例が、自由で平等な選挙による統制である。議院内閣制をとる日本の場合、統治を行う内閣の過半数以上が選挙によって選出された国民の代表でなければならない。また、理論的には、政府の権力行使は、法律にもとづかねばならないが、その法律は、定められた手続きに従い国民の代表者から構成される議会によって作られる。

 

しかし、これら以外にも民主主義には統治権力を制限するための様々なやり方がある。今回の法律に関していえば、政府は、安全保障環境の変化の中、国家の存続の必要性を究極の根拠に集団的自衛権の行使を容認する法案を国会に提出し、定められた手続きに従い法律として成立させた。これによって、政府は集団的自衛権の行使という新たな権限を得たのである。とすれば、確かに、この法律、それを成立させた政府の意思と行動は、申し分なく民主的な統制の下にあったように見える。しかし、この点に関して、この法律に対する反対者たちは、異議を唱える。その反対者たちによれば、集団的自衛権の行使を容認した今回の法制化の過程では、統治権力を民主的な統制下に置くための根本的な約束が反故にされた。その約束が立憲主義である。ようするに、今回の法律は、この根本的な約束を破ったがゆえに、統治権力に課せられた制約を取っ払い、その自立化を促す可能性があるのである。

 

立憲主義について、もはや説明は不要であろう。憲法が課した制約を超えて統治権力の行使を可能にする立法、すなわち、憲法に反した法律の制定は、立憲主義に踏みにじるものである。今回の安全保障関連法が法理からして違憲であることは、専門家たちの共通理解であり、したがって、この立憲主義を否定するものであることは明白である。もちろん、違憲かどうかを判断するのは司法府の役割であり、そうした専門家ではない、という意見がある。しかし、裁判所が法律の専門家たちと異なる見解を打ち出すとすれば、それは、法理上の判断ではなく政治的判断を行った場合に限られることを強調しておこう。もしこのようなことがあるとすれば、それは司法府が、統治権力に制約を課す役割を放棄すること、すなわち、その自立化を容認することを意味する。これは民主主義にとって好ましい事態とはいい難い。

 

倒錯した民主主義の時代

政府の行使する権力、すなわち、統治権力の自立化が民主主義にとって脅威であることは、近代民主主義を理論的に基礎づけたルソーの『社会契約論』ですでに指摘されている。また、近代の民主主義の実際の歴史を回顧しても、統治権力にどう制約を課し統制するのかという問題は、民主国家において切実な課題であった。今回の法律の制定によって、立憲主義的制約が放棄され、統治権力の自立化の道が切り開かれたとするなら、この事態によって現在の日本の民主主義は新たな状況を迎えつつあるといえるかもしれない。それは、民主主義の装いの下で、民主主義の理念が形骸化され無効化されていくような、歪で倒錯した民主主義の時代の到来である。

 

歴史的に見れば、統治権力がその自立化をとおして民主主義を破壊したもっとも有名なケースが、20世紀にドイツのナチズムやイタリアのファシズムとして展開された政治運動であろう。周知のとおり、それは当時の代表制民主主義の下での選挙をとおして、政治権力を掌握することになるが、全体主義と呼ばれるその後の思想と行動を見るなら、それらは明確な反民主主義、より正確には、自由主義的(議会主義的)な民主主義を否定するイデオロギーに依拠していた――だからといって、シュミットの民主主義論を忘れているわけではないが――。すなわち、全体主義という政治運動は、公にされた反民主主義的なヴィジョンの下に、統治権力が政党を解散させ、言論や思想の自由を取り締まり、様々な権利を制約することで民主主義を破壊したケースだといえるだろう。これに対して、現在の倒錯した民主主義では、表向きはけっして民主的な諸価値や民主的な立法手続きが否定されることはない。むしろ、自由で平等な選挙やその下での政党間の競争、マスメディアの報道の自由言論の自由は基本的に保障されている。しかし、そうであるにもかかわらず、統治権力の自立化を防ぐための諸制度やその前提となる約束が骨抜きにされ、その結果、民主的な諸価値が有名無実化される危険性が生じる。だから、この倒錯した民主主義を安易に全体主義などと呼んだりすることは正確ではないし、適切でもない。なぜなら、それでは、現在の私たちの社会に生じつつある事態を見過ごしてしまうことになりかねないからだ。重要なことは、それが民主主義の可能な一つのあり方だと理解することだ。その上で、この倒錯した民主主義が私たちの社会に根を下ろしつつあるのではないかと警戒することである。

 

倒錯した民主主義の典型的な事例は、ウォリンが指摘しているように――この転倒した民主主義という言葉は、彼の「倒錯した全体主義(inverted totalitarianism)」の捩りである――、9.11以後のアメリカに見出すことができる。そして、日本でも、安倍政権が安全保障関連法を成立させた過程をとおして、この倒錯した民主主義が姿を現しつつある。しかし、このタイプの民主主義が出現する背景は何か。それについては、アメリカそして日本の現在を見てみればよい。現在の統治権力は激変する国内外の情勢に対応するべく、必要性という論理と不安という心理を国民に押し付け、可能な限り自由に思考し行動すること――日本の場合、それがアメリカの要請であるかどうかは、ともかくとして――を意思しつつある。この意思を背景にして、倒錯した民主主義が出現したように思われる。いわば、統治権力は、倒錯した民主主義をとおして、したがって、選挙や政党、マスメディアなど活用することで、民主主義を標榜しつつその制約を振りほどき、自らの意思を貫徹しようとしているのである。いずれにせよ、政府は、法理上、まったく根拠を欠いた憲法解釈を持ち出すことで憲法を超えた立法を行い、自らを立憲主義的制約から解放し、これまでに許されなかった権限を手に入れた。もはや現実となったこの事態は、倒錯した民主主義の時代の到来であるように思われる。

 

これからの民主主義

倒錯した民主主義は、不健全であるだけでなく、危険であることは指摘するまでもない。また、見分けにくい分、性質も悪い。この変質が見過ごされ放置されるなら、倒錯した民主主義が定着し、常態となるだろう。その場合、私たちの社会の未来はきわめて暗い。この民主主義の変質に対して抗うには、何が必要なのか。

 

倒錯した民主主義は代表制度の土壌に繁茂する。選挙で勝ち、議会で多数派を形成できさえすれば、そこでの決定はすべて民主的な正統性を持つものとされる。これこそ民主主義だ、といわんばかりに。だから、このタイプの民主主義は、政治は政治家に任せ、静かにしていないさい、悪いようにはしないから、と人びとに語りかける。この語りかけに対して、民主的な正統性はそれだけでは不十分であると異議を唱える人たちが必要なのだ。議会での意思決定では道理に適った理由――たとえ、その決定に反対する人であっても認めざるを得ない理由――を提示せよと声を上げ、権力を縛る立憲主義の約束を守れと声を上げる人びとが必要なのだ。もちろん、この不吉な事態を覆す好機は選挙だという人もいるだろう。確かにそのとおりだ。しかし、選挙の日まで、そうした声が社会に響き渡り続けることがなければ、その好機をものにすることなどできはしまい。