民主主義とその周辺

研究者による民主主義についてのエッセー

国民投票はもうやめた方がよいのだろうか?――イギリスのEU離脱問題から考える民主主義のリスク――

イギリスのEU離脱とレファレンダム

EUからの離脱か残留かをめぐるイギリスのレファレンダム(国民投票)の結果、僅差で離脱派残留派に勝利を収め、イギリスはEUから離脱することになった。今回のイギリスのEU離脱問題で世界中が固唾を飲んでその結果を見守った理由はいくつもある。世界の経済秩序の不安定化に対する懸念だったり、EUの未来に対する危惧であったり、あるいは、ヨーロッパの安全保障体制の変容についての関心であったり、それはひとによって様々であろう。このコラムでは、それらの理由の1つと目される、EU離脱の是非がレファレンダムによって決せられるという、その方法について民主主義理論の観点から考えてみる。

 

レファレンダム(国民投票住民投票)という決定方法に関しては、たとえば、一昨年のスコットランドの独立をめぐるレファレンダム(住民投票)、昨年の大阪市のレファレンダム(住民投票)などが記憶に新しいかもしれない。もちろん、日本でも、国政レベルでのレファレンダムは現行憲法の改正の手続きとして制度化されている。憲法の採択・改正や今回のイギリスのような国政レベルでのレファレンダムにせよ、あるいは、地方政治におけるレファレンダムにせよ、その特徴は、代表者を選出するのではなく、ある争点に関して有権者が直接意思を表明する投票によって決定を行う点にある。

 

この方法を用いた決定は、民主主義の歴史からするなら、珍しいものではない。しかし、今回のイギリスにおけるレファレンダムでは、そこで表明されたイギリス国民の意思が世界秩序の動向を左右することになった。また、国内では、離脱派残留派の勢力が拮抗していたために、イギリス社会を分断してしまう可能性を生んだ。ここから、「果たして、このように重要な争点をレファレンダムによって決定すべきだったのか」というように、レファレンダムが持つリスク、ひいては、民主主義そのものが孕むリスクについて改めて衆目を集めることになるであろう。すなわち、民主主義自体がその決定の仕方によって、社会を不安定化したり、その秩序を破壊したりするリスクだ。

 

民主主義とレファレンダム

元来、レファレンダムは民主主義の理論において、評判の良いものであったとはいえない。古くからある理由の一つは、それが多数者の暴政に帰着しやすいというものだ。それ以外にも、レファレンダムによる決定には、議論や妥協の余地がなく、熟慮された判断が欠如しているという批判もある。要するに、レファレンダムでは、不合理な決定が行われやすい、という批判だ。こうしたレファレンダムに対する批判は、民主主義の下で行われる政治についてのある理解を前提としている。すなわち、有権者によって選ばれた代表者たちが共同の利益が何であるかを熟議し、そこから生まれる道理にかなった理由にもとづいて政治は行われるべきだ、という理解である。

 

これに対して、レファレンダムを擁護する議論も古くから存在する。たとえば、民主主義における決定は、議論をとおして熟慮された判断ではなく、国民が直接表明する意思にもとづくべきである、というものだ。それによれば、過半数によって示されるその意思にこそ、公共の利益が存在し、そのようにして見いだされた公共の利益にこそ、民主的な政治の正統性が存在する。したがって、一部の選良たちの議論ではなく、赤裸々に示された国民の意思に従う政治こそ真の民主政治だ、という理解である。

 

民主主義に対するこうした理解の対立は古典的なものだ。しかし、現在でも、どちらが正しい理解なのか定まった答えがあるわけではない。むしろ、近代の歴史を振り返るなら、それらは相互に補完しあう形で、民主主義を深化させてきたと考えるべきだろう。そうだとすれば、合理的な決定ができないという理由だけで、レファレンダムは民主主義とは相いれないと見なしたり、そこから生まれた結果を不当だとして退けたりすることはできないのである。

 

レファレンダムを求める現代社

おそらく、注目すべきことは、近年の政治状況では、今回のイギリスのケースのように、レファレンダムによって重大な政治的決定を行おうとする傾向が強まる可能性があるということだ。ここでは相互に関連する2つの理由を挙げておこう。

 

1つは、以前のコラムでも繰り返し指摘してきたように、代表制度の問題である。すなわち、エリート層が政策決定を独占しているという感覚の浸透に伴い、代表制度の機能不全という認識や代表制度そのものへの不満が蔓延し、さらに、その一つの帰結としてのポピュリズム的な政治潮流が伸長する。そうした現象は、様々な形で観察できる。たとえば、既成政党や政治家に対する不信の広がり、無党派層の増大、代表制選挙の投票率の低下、強権的な政治手法への支持の高まり――日本でいえば、「決められる政治」というキャッチフレーズがはやったことは周知のとおりだ――など。代表制度ではもはや民意は反映されないという雰囲気の中では、理論面でも、実際の政治でも、直接国民に意思を問う手法が渇望されるようになる。この事態は、ある意味、必然の成り行きといえる。

 

もう1つは、社会の複雑化、これと同時に進行する、個人の利害関心やライフスタイル、価値観の多様化によって生じる現代社会に固有の状況に関係する。こうした状況下では、選良がどれほど議論を重ねたとしても、共同の利害が何であるかを見分けることは容易でない。また、同様に、どれほど慎重な決定をしたとしても、それが最終的に誰の利益になるのかを合理的に判断することはきわめて難しい。合理性そのものが懐疑の対象となる場合さえある。いわば、社会の複雑化や多様化に伴う不確実性の増大が、合理的な政治の可能性を縮減してしまうわけだ。ここから、たんに有権者の側からだけでなく、政治に従事する者の側から、政治的決定において直接国民に意思を問おうとする動きが活発化することになる。さらに、こうした政治と社会の様相は、1980年代以降、もっとも望ましい統治の原理と見なされてきた新自由主義が批判に晒され、政治における合理性を提供することが難しくなりつつある中、混迷の度合いをいっそう強めることは避けられないように思われる。

 

民主主義のリスクにどう向き合うか

こうして、レファレンダムは、国政においても、地方政治においても民主主義の決定の方法として重宝されることになる。しかし、今回のイギリスのレファレンダムの結果を見る限り、そのリスク――社会の分断といった、かりに残留派が勝利したとしても生じであろうリスクを含め――を見過ごすことは難しい。また、レファレンダムが活用されやすい社会に私たちが暮らしているとすれば、「レファレンダムには、レファレンダムを」――レファレンダムで答えの出た争点を、改めてレファレンダムにかける――というように、それが乱発され濫用されることも予想できる。ただ、だからといって、先に指摘したとおり、民主的な形で行われるレファレンダムの正統性を否定することはできない。

 

だとすれば、イギリスの出来事をたんなるアクシデントとか、対岸の火事とか見なしたりするのは賢明ではないだろう。そうではなく、イギリスのケースから何かを学ぼうとするなら、レファレンダムに伴うリスクは、実は、民主主義そのものに内包されていると認識することが重要であろう。民主主義は万能ではなく、民主主義自体が民主的な社会の秩序を混乱させたり、破壊したりする可能性がある――もちろん、この可能性をただ否定的にのみ捉える必要はない、なぜなら、それは新たな秩序を生み出す可能性でもあるからだ――。そのような両義性を認識した上で、このリスクを民主主義の内部でどうコントロールするかを考えることだ。

 

レファレンダムの要求の高まりが、代表制度への不信や不満、あるいはそこから帰結するポピュリズム的潮流の高まりと無関係でないとすれば、差し詰め、取り組むべき課題は明らかだろう。それは、市民からの信頼をさらに高めるべく、代表制度を再建することである。もちろん、不確実な現代の社会において、そうした取り組みが思うような成果を上げるとは限らない。しかし、不透明な時代だからこそ、世界中で試みられている民主主義の様々なイノベーション――熟議型世論調査、コンセンサス会議、「熟議の日」をはじめとする、市民の参加と熟議を組みあせた取り組み――を代表制度と接合するような大胆な試みに真面目に向き合うことも一案に違いない。もちろん、多数決原理の見直しや、熟議の機会の導入など、レファレンダムの実施の仕方にも工夫の余地はある。

 

今回のイギリスのケースのように、レファレンダムでは、合理的だと思われる判断からかけ離れた決定が行われる可能性が少なくない。しかし、それは世界に新たな始まりを挿入する可能性でもある。イギリスの決定によって開始された事態は、確かに世界をこの先しばらく不安定にさせることとなったが、長い目で見た場合、イギリスにとって、あるいはEUにとって、さらに、世界の秩序にとって、吉と出るか凶と出るかは、実は誰にもわからない。だとすればなおさら、レファレンダムをただ批判するよりは、そのリスクをコントロールしようとする地道な取り組みについて検討してみる方が民主主義の成熟に資するように思われる。