民主主義とその周辺

研究者による民主主義についてのエッセー

右派二大政党制はなぜまずいのか?――安倍政権の圧勝と今後の野党再編について考える――

与党の圧勝から考える政党の問題

今回の衆議院総選挙での与党の圧勝の原因が民進党の分裂にあることは間違いない。現行の小選挙区制の下で安倍政権への批判票が分散したことが、与党に有利に働いたというわけだ。そこで、手始めに考えてみたいのはこうした野党の分裂の下で、果たして安倍首相が支持されたのか、それとも、自公、特に自民党が支持されたのか、という点である。

 

無党派層が主役となる現代の選挙において、有権者投票行動を左右するのは、各党の政策だけではない。むしろ、誠実さやリーダーシップ、融通性、勇敢さ、若さなどなど、各党のリーダーのキャラクターやイメージこそが重要だというのが、現代の政治学ではしばしば指摘される。その背景にあるのが、政党や利益団体から切り離された無党派層が増大したこと、福祉国家の成熟や冷戦下のイデオロギー対立の消滅によって右派政党と左派政党がともに中道化した結果、政策上の相違が目立たなくなったこと、さらに、未来がますます不確実かつ予測不可能になっている現代では政策を公約通り実現することが困難なため、リーダーには想定外の事態への適切な対応や説明責任が重視されるようになったことなどだ。

 

それでは、今回の選挙はどうであったか。希望の党の躓きが「排除」発言による小池代表のイメージの悪化に一因があったこと、翻って、立憲民主党の枝野代表の親しみのあるキャラクターが同党の躍進に貢献したという話はちらほら耳にする。これらの例から、先に挙げた現代の選挙の傾向は今回の衆院選においてもはっきり確認できるように見える。しかし、その一方で、安倍首相のキャラクターに対する有権者の反応は、各種の世論調査を見る限り、選挙前においても、そして選挙後においても否定的であったようだ。ここから、今回の選挙における勝者は安倍首相というよりは、自民党であったと言えるだろう。

 

こうした事実に、市民連合の支援の下で野党系の候補者が議席を多く獲得した新潟選挙区の結果を併せて考えてみよう。そうすると、日本の代表制度において、政党よりは政治家個人のキャラクターが有権者の選択に大きな影響を及ぼすという現代な傾向は確認できるものの、明確の政策を掲げた政党の存在や、政党と有権者との地域レベルでの結び付きの構築、政党間の連携の重要性は消失したわけではないと解釈できるだろう。

 

右派・右派二大政党制という構想

現代の選挙における政党のあり様の意義を確認した上で、それに関連する少々気になる動向について検討してみよう。それは、右派・右派二大政党制を構築しようとする動きだ。例えば、今回の選挙で希望の党が設立された当初、同党の右派色の強い主要メンバーや政策から、自民党希望の党という右派対右派の二大政党間の政権選択選挙が一時的であれ現実味を帯びた。さらに現在、立憲民主党を軸にした野党再編が予想される中、同党の左傾化に釘を刺すことで、右派・右派二大政党制を作り上げようとする言説がメディア上で散見される。

 

西欧の民主主義諸国でも、近頃こうした事態を伺わせる世論調査や選挙結果がちらほら出てきているようだ。もちろん、右派が何を意味するかは国によって異なる。日本の場合、メディアが喧伝する右派・右派二大政党制の特徴とは何か。それは現在の日本の右派政党のイデオロギーを見てみればすぐわかる。その中心の一つが、日米同盟の際限のない強化とアメリカの世界戦略への追従である。もう一つが、どんな理由でも構わないからともかく憲法を変えたいという「自己目的化」した憲法改正である。後者の狙いは、憲法という戦後民主主義の象徴を破壊することでその歴史を閉じるということにある。ここでは、現在の日本の右派イデオロギーがどうのこうのと言いたいわけではない。そうではなくて、右派二大政党制という構想は、現在の日本の有権者の政治意識や政治行動からしてリアルでないだけでなく、規範的な観点からしても民主主義にとって望ましくない、ということだ(これは、現在では実現の見込みのないものの、左派二大政党制についても当然言える)。

 

代表制度の自由主義的な機能

右派政党間での政権選択、すなわち、社会のクリティカルな争点に関する対抗的な選択肢の不在という事態は、時代の推移に伴う社会構造の変化と有権者の政治意識の変容による必然的な結果だと言う人もいるだろう。もちろんそうだ。しかし、こうした形で行われる選挙が19世紀以来、近代政党の発展の下で形成されてきた代表制度のそもそもの構想と相容れない、ということは注目されてよい。

 

選挙を基幹とする代表制度が近代社会の政治制度として望ましいと考えられてきた主な理由は、それが次のような二つの機能を持っているからだ。一つは、巨大化した社会において人民の自己統治という理念を間接的に実現する民主主義的な機能である。もう一つが今回問題にしたい、その自由主義的な機能だ。それは政党間の競争をとおして政治権力の一元化=集中を防ぎ、さらに、社会を分断する紛争を平和的に解決するというものだ。この自由主義的機能が作動するには、当然、重大な政治争点において対抗的な関係にある二つ以上の政党が不可欠となる。有力な政党間にこうした対抗的な関係が存在しないのなら、競争的な選挙も、有権者にとって意味のある選択肢も存在しない。そうなれば、代表制度がその自由主義的な機能を喪失したということになる(二大政党制で顕著であるが、多党制の下でも少なからず、そう言える)。

 

もちろんすでに1970年代には、代表制度の自由主義的な側面は次第に機能不全となってゆく。なぜかと言えば、選挙をとおした代表制度のこの働きは、ある社会的条件を前提としていたからだ。単純化して言えば、それは次のような条件だ。資本主義社会は二つの陣営、すなわち、より自由な利益追求と富の専有を望む集団(右派)と、社会全体への富の再分配による平等を求める集団(左派)とに分割されており、その結果、社会を分断するようなクリティカルな政治争点は、究極的にはその社会の富の配分の問題へと収斂する。この条件の下で、それぞれの集団を代表し、その集団の下位組織と結びついた政党が、選挙を中心にした制度をとおしてこの社会内部の紛争を平和裏に解決する。言い換えれば、その条件の下で、選挙によって議会の多数を構成する与党に対して、批判的に対峙する強力な野党が存在し、その野党が次の選挙で政権を取り得る可能性があることによって、権力を持つ多数派の監視と暴走の抑止が暴力なしに可能となる、というわけだ。

 

こうした条件は、福祉国家的な統治が行き詰まり、豊かになった社会で脱物質主義が普及し、さらに社会主義イデオロギーが敗北する中で、多くの民主主義国において徐々に消失していく。その結果、左右両派は中道化し、たとえ経済問題が争点となったとしても、相争う政党間の経済政策の相違は限りなく似かよったものになっていった。

 

しかし、だからといって、右派左派政党間の対抗的な関係がすぐに解消されたわけではない。伝統的な右派左派政党は、党組織の改革や経済的争点以外の対抗軸を政策に掲げることで、あるいは、政治のアリーナに新たな参入してきた政党――たとえば、緑の党――との連携をとおして、そうした社会の変化に対応しつつ、それなりの努力を重ねてきたと言えるだろう。そうだからこそ、左派・右派という対抗的な政党の関係とその下での競争的な選挙という構図は曲がりなりにも維持されてきた。ところが、西欧の多くの民主主義国を席巻する近年の右派ポピュリズム政党の躍進などもあり、この「曲がりなりに」さえ消滅し、対抗や競争という構図は一時的であれ、崩壊し始めたかのように見える。そして日本では、様々な思惑の下でこれに追従する動きが今回の選挙前後をとおして目立ち始めている。

 

代表制度が民主的な社会の防御壁であるためには

もともと、代表制度は民主主義に固有の制度ではなかった。それにもかかわらず、民主的に社会を統治するための制度としてそれが未だに用いられているのには、それなりの理由がある。その一つは、代表制度が先に挙げたその自由主義的機能によって対等な者たちからなる自由な社会を守ることができるという理由だ。だから、代表制度をこのまま用い続けるのなら、この自由主義的な機能を失効させてしまうわけにはいかない。また、それゆえ、右派・右派二大政党制は、時代の推移がどうあれ、望ましいものではない。

 

こうした観点からすれば、今後、野党の再編が予測される中で注目すべきは、右派勢力に対抗しうるイデオロギーと政策を掲げる政党の形成と、左派政党間の連携の構築がなされるかどうかである。その際、現在の日本の右派勢力のイデオロギーが、日米同盟の強化によるアメリカの世界戦略への追従と、「自己目的化」した憲法改正にあるとするなら、右派政党に対抗するポジションニングは明確である。しかし、それだけでなく、経済や労働、エネルギー問題をはじめ、現在の日本社会の内部で潜在的な軋轢を生み出している争点を掘り出し、右派に対抗する軸を明確に打ち出していく必要があるだろう。

 

大切なことは、これが、代表制度の下で民主的な社会を守るための「規範的な」要求だということだ。思い出して欲しい。安全保障関連法によって、立憲主義という民主的な社会の防御壁は易々と乗り越えられた。さらに、右派・右派二大政党制などという妄想――妄想というのは、この構想が有権者投票行動の実際からしてリアルはないという論考がすでにあるからだ――に踊らされることによって、代表制度の自由主義的機能という民主的な社会の防御壁まで手放すわけにいかないのである。