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民主主義とその周辺

研究者による民主主義についてのエッセー

民主主義を蝕む安倍政治――憲法解釈の変更による集団的自衛権の行使の解禁に反対せねばならないもう一つの理由――

集団的自衛権の行使を解禁した閣議決定とその後

7月1日の閣議決定集団的自衛権に関する憲法解釈の変更が行われた。そして、すでに3週間近くが過ぎた。先日まで衆議院予算員会ではこの閣議決定に関する集中審議が行われていたが、それを見る限り、政府がこの問題に対して真面目に説明責任を果たそうとする気があるのか疑わしくなるばかりである。

 

例えば、こうだ。先の集中審議で安倍首相は集団的自衛権の行使に伴い、徴兵制の導入の可能性について問われた。その可能性を否定した首相および内閣法制局長官の答弁によれば、徴兵制が不可能な理由は、日本国憲法13条および18条に照らして、徴兵制憲法上認められないと政府が解釈しているからだ、というものである。さらに、法制局長官は、政府の憲法の解釈変更には合理性と論理性が必要であるが、徴兵制を容認するべく憲法解釈を変更するには、それが欠けている、だから、徴兵制の可能性は憲法上ありないと答弁した。

 

しかし、安倍首相が行った集団的自衛権に関する憲法解釈の変更の含意は、そうした合理性や論理性が外部環境――例えば、安全保障の環境――に依存するのであって、外部環境の規定の仕方次第ではいかようにも憲法解釈の変更は可能だということを示したことにある。だから、今回の閣議決定のように、今後、政府が「環境が変容した」と宣言すれば、徴兵制に関する憲法解釈の変更は可能であるし、また、新たな解釈にもとづいた関連する法案を政府与党が多数を占める国会で数の力に任せ可決さえすれば、徴兵制は現実のものとなる。合理的、論理的に思考すれば、こうならざるを得ない。

 

あまりにお粗末で無理のある政府の答弁であった。自分で否定した根拠を引き合いにして、それをもとに徴兵制の導入がありえないという説明を行っているわけだから。これで説明責任を果たすと言われては、呆れるしかない。安倍首相および内閣法制局長官の答弁が冗談ではないとすれば、彼らは自分たちが行った今回の閣議決定の重大性をまったく理解していないことになる。こうした事態は、安倍首相および政府への不信を増大させるだけでは済まないであろう。形だけの説明責任が行われ、真摯な議論もなく、内閣の決定を追認するだけの国会の存在意義はいったい何なのか、という代表制(議会制)民主主義への根源的な懐疑と反省を生み出しかねないように思われる。そこで、今回の投稿では、この代表制=議会に着目する。そうすることで、立憲主義とは異なる観点から、なぜ、行政府内での憲法解釈の変更による集団的自衛権の行使の解禁が民主政治の危機を生み出すのか考えてみたい。

 

 

数の力が支配する議会

今回の集中審議で見られたやり取りは、国会のいつもの光景ではないか、という見解もあるだろう。それによれば、「意見の議会」とかいう昔の思想家の言葉は言うに及ばず、最近の「熟議」の国会という言葉も、あまりに理念的で浮世ばなれした政治の理解から出てきたもので、現実の議会は数の力が支配しているのだ。政治が権力を求めての闘争だとすれば、そして、民主主義がそうした政治のあり方の一つだとすれば、多数者の支配を意味する民主主義こそ、数の力の支配を正統なものとする政治なのだ。だから、そうした光景は陳腐ではあるとしても、別段、非難されるようなものではない。それに、代表者たちによる政治(代表制民主主義)への懐疑などは、日本ばかりでなくどの民主国家においても、むしろノーマルな状態なのだ。

 

議会政治についてよく耳にする、それこそ陳腐な説明ではある。しかし、現在の政府も、国会審議における形式上の説明責任さえ済ませてしまい、その後の集団的自衛権の解禁に関する法案の成立は数の力で押し切ろうと考えているようであるから、この説明も確かに実際の議会政治の一面を捉えていると言わざるを得ない。

 

とはいえ、である。現在の情勢において、この陳腐な説明を今までのように、「まぁ仕方ない、《決められる政治》の代償なのだから」と受け入れたり、聞き流したりすることは許されないように思われる。なぜなら、集団的自衛権の行使の解禁に見られる一連の安倍政治は、こうした態度につけ入ることで、日本における民主主義をもはや回復不可能なほど蝕んでいるように見えるからである。

 

 

踏みにじられるのは立憲主義だけではない

では、なぜ、安倍政治が日本の民主主義を蝕んでいると言えるのか。その理由の一つは、前回までの投稿で議論した立憲主義である。立憲主義という考え方は、憲法への執行権力の服従を命じ、その自立化と暴走を防ぐことで、民主的な社会の諸価値、すなわち、個人の尊厳や人権、社会の多様性を守ろうとする。安倍首相の下で進められる、憲法解釈変更による集団的自衛権の行使解禁によって否定されたのがこの立憲主義であった。

 

こうした主張に対して、憲法解釈の変更など過去にもあったことなのに、なぜ今回の安倍首相による憲法解釈の変更だけが立憲主義を否定することになると非難されたり、立憲主義の否定という理由をもって日本の民主主義を蝕むなことになると非難されたりするのか、という反論が出てきているようだ。もちろん、こうした反論には妥当性があるようには思えない。今回の安倍首相による憲法解釈の変更が立憲主義を否定することになるということは、過去に憲法解釈の変更があったかどうかに関係なく論証することは可能だからであり、また、近代の立憲主義の否定が民主的な社会の諸価値を破壊してきたことは、歴史の事実として否定しようがないからだ。

 

しかし、それでもなお、そうした反論に固執する人がいるかもしれない。そうだとすれば、今回の安倍首相による憲法解釈の変更が集団的自衛権の行使の解禁のために行われたものだからこそ、日本の民主主義を蝕むものであることを提示することがよいだろう。このためには、立憲主義に訴えるだけでなく、別の民主主義の考え方に訴える必要がある。言い換えれば、今回の安倍内閣の閣議決定立憲主義だけでなく、それとは別の民主主義の基盤を踏みにじることを示す必要がある。そこで、そのような基盤をここでは、立憲主義との語呂を合わせるべく、「議会主義」と呼んでおこう。では、「議会主義」とは何を意味しているのか。

 

 

民主政治の正統性と民主的な社会の自己理解

先にふれたとおり、近代の民主政治、すなわち代表制民主主義について、こんな理解が存在する。その中心となる議会では多数決ですべてが決定されるのであるから、それは数の力が支配する場であるのだ。数の力こそ、代表制民主主議の正統性を生み出すものなのだ、というわけだ。しかし、議会が生み出す民主的な正統性についてのこうした理解とは異なる理解が存在する。

 

それは、議会が生み出す政治的決定の正統性を、単なる数の力ではなく、民主的な手続きに従った議論の中で積み重ねられる言葉=理由に見出す理解である。別の言い方をすれば、こうなる。民主的な社会における政治的決定の正統性は議論を経た合意に由来するものであり、この合意はその時々の社会に存在する多様な理由を含み込み、さらに時間かけて理由を積み重ねることから形成されねばならない、そして、こうした合意を形成する場が議会だという理解である。このような議会の役割を重視する立場が先に言及した「議会主義」の意味するところである。

 

しかし、「議会主義」という言葉が切り開く理解は、議会が生み出す民主的正統性が投票数の積み重ねではなく理由の積み重ねにあるのだ、ということだけではない。さらに重要なことがある。

 

それは、議会で生み出された民主的な合意は、社会に共有されることで、その社会の民主的なアイデンティティを作り出す、ということである。つまり、こういうことだ。議会で形成された合意――例えば、法律――は、社会へと送付され現実に適用される。そうすることで、多様な反応を引き起こしつつ、時代の推移の中でその合意の新たな解釈やそれに対する承認あるいは否認の新たな理由を生み出し、また議会へと再度送り返される――例えば、選挙や社会運動などをとおして――。そして、議会では新たに見出された理由をさらに積み重ねることで、これまでの合意が再検討され、必要があれば変更され、あるいは破棄される。このプロセスが反復されてもなお存続する民主的な合意は、社会において共有され根を下ろすことで、いわば社会の再帰的な自己理解となる。この社会の再帰的な自己理解こそが、社会を民主的に統合する上での基盤、すなわち、民主主義の精神を生み出す、というわけだ。

 

 

危機に晒される民主主義の精神

おそらく、集団的自衛権違憲としてきた政府の長年の解釈は、こうした類の合意であった。戦争へのトラウマ抱えた戦後の日本社会では、憲法第9条に掲げられた平和主義の理念をどう理解し、現実のものにしていくのかについて、様々な考えや思惑、それを正当化する様々な理由が存在してきた。9条に記された文言に忠実に従い、自衛権さえも放棄するべきという理由や、日米同盟のために憲法を改正し、集団的自衛権の行使を可能にするべきという理由、その他様々な理由が国会での議論をとおして積み重ねられてきた。その結果が、これまでの集団的自衛権に関する政府の解釈であった。もちろん、この解釈は、国会において多数を占めてきた与党の数の力によって、最終的には決定され、また、その解釈にもとづいた法案も、数の力によって可決されてきた。これは否定しようのない事実だ。しかしながら、この解釈は、米ソ冷戦の開始から、朝鮮戦争、安保改定、ベトナム戦争、新冷戦期、そしてポスト・冷戦期にわたり、様々な理由の積み重ねと合意の民主的な再検討を経て、日本の社会に根付くことで、民主的な社会として出発した、戦後日本の再帰的な自己理解となってきたと言える。

 

そうだとすれば、今回の閣議決定による集団的自衛権についての憲法解釈の変更は、「議会主義」において重視される議会の機能、それが生み出す理由の積み重ねとしての民主的正統性、そして、日本の社会に共有されてきた民主的な自己理解に対して挑戦を突き付けていると言える。したがって、安倍政治によって危機に晒されているのは、そうした自己理解に根差した日本の民主主義の精神であるように思われる。

 

今後、集団的自衛権についての新たな政府解釈にもとづいた法案が国会で可決されることを止めるのはほとんど不可能であろう。そう考えると、閣議決定をした時点ですでに、安倍首相によるこの挑戦が、成功を収めたように見えるかもしれない。しかし、そうではない。国会で新たに作り直された合意は、今度は社会に投げ返される。私たちの役割は、この合意に対して反対するのであれば、その理由を提起し、国会における再検討を促す努力を怠らないことである。安倍首相の挑戦が成功を収めたと言えるのは、集団的自衛権に関する新た解釈が多様な理由を積み重ね、繰り返しの検討を経て、社会に根差したときである。しかし、そのためには、少なくとも、国会における真摯な説明責任と議論がなされる必要があろう。それが見受けられない時点ですでに、彼の挑戦を拒絶する十分な理由が私たちにはあるのではないか。