読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

民主主義とその周辺

研究者による民主主義についてのエッセー

最大の争点は3分の2――第24回参議院選挙後の最悪のシナリオから考える――

地味で退屈な選挙?

参議院選挙の投票日まで、残すところわずかである。今回の選挙は、選挙権が18歳に引き下げられて初めての国政選挙ということで話題となってはいるものの、それ以外の点では、さほど有権者の関心を惹きつけているわけではないようだ。投票率が過去最低になるだろうという予想も出ている。

 

3年に1度、定期的に実施され、現政権の中間評価的な意味合いの強い参議院選挙。確かに地味である。EU離脱の是非が問われたイギリスでの国民投票と比べるなら――レファレンダムと代表を選出する投票との違いはあるものの――、退屈とさえいえるかもしれない。とはいえ、今回の参議院選挙の最大の争点を正確に見分けるなら、必ずしもそうはいえない。今回の選挙は、結果次第で戦後の日本のあり方を根本的に変えることになる、その始まりの選挙と考えられる。もちろん、その争点とは、すでに衆議院で3分の2の議席を獲得している改憲勢力が参議院でも3分の2の議席を獲得するかどうか。すなわち、安倍内閣の下で、憲法改正の発議が行われ、国民投票が実施されることになるかどうか、である。予断は禁物ではあるが、多くの調査を見る限り、改憲勢力が今回の選挙で3分の2の議席を獲得する可能性が極めて高いようなのだ。

 

各党の公約を読むと、TPPから安保法制、同一労働同一賃金などの労働問題、育児や教育などなど、様々なトピックが掲げられている。マスコミの参議院選挙の報道では、その当初から、アベノミクスの評価と憲法改正とが選挙における2大争点とされている。ただ、後者の争点に関していえば、自民党の公約に憲法改正についての言及があるものの、選挙戦では、憲法改正が正面から取り上げられているとはいえない。そのため、争点隠しという批判がちらほら出てきている。もちろん、このような批判をとおして、政党の側からではなく市民社会の側から、つまり、上からではなく下から選挙の争点形成を試みることは、民主的な政治において望ましいことだ。とはいえ、この試みは今回の選挙ではほとんど効果がないようである。そこで、なぜ自民党憲法改正を争点化しないのか、そのわけを推測するとしよう。そうすることで、選挙後の最悪なシナリオを考えてみたい。おそらく、ここから、この選挙で何が真に賭けられているのか鮮明になるだろう。

 

選挙とその後のシナリオ

自民党憲法改正の争点化を避ける理由は容易に想像できる。それは、自民党の戦略にある。すなわち、現行の憲法の何をどのように改正するのか有権者に問うよりも、現行憲法の改正が可能となる条件を実現するという戦略だ。換言すれば、憲法改正の内容は後回しに、ともかく、憲法改正の発議が可能となる形式の整備を目指す、ということである。かりに、今回の選挙で憲法改正を争点化するなら、特に改憲に積極的な自民党――それに追随することはほぼ間違いない現在の公明党――やおおさか維新の会などは憲法改正の内容に具体的に踏みこまざるを得なくなる。これは憲法改正を実現する上で望ましいこととはいえない。なぜなら、選挙後の改憲勢力間での憲法改正の発議に向けたとりまとめにおいて、要らぬ足枷を設けることになりかねないからでもあるし、何より、選挙において有権者のネガティヴな反応を呼び起こすリスクがあるからだ。だから、選挙戦では憲法改正を正面から訴えることは得策ではないのだ。そう考えないと、参議院選挙後に憲法改正の最初のステップである憲法審査会を再始動させると自民党のトップが言っているのに、選挙戦でそれを争点にしない現状を説明することは難しい。

 

こうした推測から最悪のシナリオは次のように描かれる。選挙戦では、憲法改正に触れず、有権者がネガティヴな反応を示しにくいアベノミクスにもっぱら世論の関心を向けさせておくことで、参議院で3分の2の議席憲法改正勢力で確保する。その上で、短期間のうちに世論の抵抗の少ないトピックで改正の原案が国会で提起される。そして、次の衆議院選挙までに数の力で憲法改正の発議までもっていく。こうした戦略は、政治的な計略としては合理的だ。言い換えれば、目的を達成するためには最適なやり方だ。しかし、民主主義的な手続きの上では瑕疵がないとしても、つまり反則ではないとしても、そこには大きな問題がある。これについては、上記のシナリオが万が一現実になったときに詳細に論じるとして、ここでは、それが「最悪だ」といいうる2つの特徴を指摘しておこう。1つは時間の短さである。もう1つは目的と手段の転倒である。

 

最初の特徴に関してはこういえる。憲法改正が実際に可能となる条件は、いつまでも続くわけではない。すなわち、次の衆議院選挙でこの条件は崩れる可能性がある。そうであるなら、自民党が結党以来、党是としてきた自主憲法の制定の端緒が目の前に開かれているのに、果たしてこの好機をみすみす逃すことがあるだろうか。こうして、2018年までという短期間で、憲法改正の発議がなされることになる。安倍首相は、「憲法改正は、3年から4年でできる話ではない」と発言したようであるが、それはいつでも翻される可能性はあるし、そうしたとしても何ら問題はない。70年近く全く手を付けられてこなかった現行憲法をどのような形であれ変えること、まずはそこから始めて改憲への国民の抵抗感を弱め、たとえば、すでに公表された自民党憲法草案の理念などはその後、繰り返し改憲を行う中で実現していけばよいわけだ。しかし、発議までの時間が短ければ、歴史的に蓄積された憲法論争は顧慮されることがないままに、また、十分な熟議の時間も与えられることもないままに、国民投票が行われてしまうことになる。

 

そして、ここから、憲法改正における目的と手段の転倒という2つ目の特徴が出てくる。先に挙げた憲法改正の条件に縛られることで、現行憲法の改正それ自体が目的となり、何をどう改正するのかはそのための手段となる。これは、真剣に現行憲法の問題点を検討した結果、その改正を望んでいる人たちにとっても、憲法改正に反対する人たちにとっても、不幸な事態である。国会での憲法改正の発議の条件が整っている以上、あとは、最大の難関とはいえ、国民投票をクリアすればよい。そのためには、国民には受け入れやすく見える論点――9条などではなく、たとえば、緊急事態条項のような論点――から憲法の改正を行う。憲法改正自体が当座の目的となれば、こうした形での改憲は合理的で現実的な道筋といえる。現在の自民党を中心とする改憲勢力がこの道筋を選択する可能性はないと断定できる人はいないのではないか。とはいえ、自己目的化した憲法改正など、いったい誰が望んでいるのであろうか。

 

最悪なシナリオを現実のものにしないために

このシナリオは、衆参両院において改憲勢力が3分の2の議席を占めるという条件から導き出される、あくまでも想像上のものだ。とはいえ、このようなシナリオを描くことを可能にするそれなりの理由は、スケジュール上の制約以外にもある。たとえば、それは、安倍内閣におけるこれまでの選挙戦術である。その戦術で印象的なのが、経済を争点化することで論争を呼ぶ問題の争点化を巧みに避けてきた点にある。特定秘密保護法や安全保障関連法がすぐ脳裏に浮かぶだろう。そのような問題に関しては、選挙で争点化せず、選挙後に一気に押し切る、こうした手法だ。シナリオにおいては、この手法が憲法改正においても取られると想定している。さらに、安倍首相のこのところのフレキシブルな政治姿勢もこのシナリオを裏書きするものだ。その姿勢とは、米国上下院での彼の演説、戦後70年談話、何より、慰安婦問題日韓合意に端的に見いだされる。そこで印象的であるのは、復古的な政治信念を持つ安倍首相が、まさにそれを表明する好機において、譲歩的な姿勢を示した点だ。もちろん、そこに安倍首相の現実主義的な側面を見出し、政治家に不可欠な老獪さとして評価することはできる。それはともかく、彼の本来の信念に拘らず妥協を選び取る融通無碍な姿勢で憲法改正にも臨む。この可能性はないとはいえない。

 

これらの裏付けがあるとはいえ、あくまでも想像上のシナリオを描いてみたのは、今回の参議院選挙の最大の争点が何かをはっきりさせるためである。だからその妥当性についての云々は無用である――つまり、そうなるといっているのではなく、その可能性があるといっているのだ――。ともかく、このシナリオから明確になる選挙の最大の争点は、正確にいえば、憲法をどう改正するか、あるいは、憲法改正に反対するか、ではない。改憲勢力が参議院の3分の2の議席を獲得するかどうか、したがって、憲法改正の発議の条件が整うかどうか、である。確かに、自民党公明党、おおさか維新の会などの間には憲法改正の具体的内容に関して違いはある。しかし、憲法改正の発議のためなら、自民党がその違いを乗り越える可能性も大いにある。残るのは国民投票である。しかし、非常に短い期間において、しかも目的と手段が倒錯した中で、憲法改正の手続きが国会で進められるとすれば、改憲派の人からしても、護憲的な立場の人からしても、あまりに酷い話である。なぜなら、日本の歴史における新たな一歩――それを肯定的に理解しようが、否定的に理解しようがいずれにせよ――が、選挙の争点になることもなく、熟議の十分な時間も機会も与えられることなく、さらに、日本がどうあるべきかについての改憲派および護憲派の双方で蓄積された議論も顧みられることなく、自己目的化した改憲のためにあまりに粗野な形で始められることになるからだ。

 

どのような装飾が施されようが自己目的化した政治は、歴史に汚点を残すことになる。その辛酸をなめることになるのは、むろん、国民である。しかし、自己目的化した政治を批判し、未然に防ぐことができるのも、国民である。これが民主政治なのだ。そのことを忘れずに、私たちは今回の選挙で一票を投じるべきであろう。

国民投票はもうやめた方がよいのだろうか?――イギリスのEU離脱問題から考える民主主義のリスク――

イギリスのEU離脱とレファレンダム

EUからの離脱か残留かをめぐるイギリスのレファレンダム(国民投票)の結果、僅差で離脱派残留派に勝利を収め、イギリスはEUから離脱することになった。今回のイギリスのEU離脱問題で世界中が固唾を飲んでその結果を見守った理由はいくつもある。世界の経済秩序の不安定化に対する懸念だったり、EUの未来に対する危惧であったり、あるいは、ヨーロッパの安全保障体制の変容についての関心であったり、それはひとによって様々であろう。このコラムでは、それらの理由の1つと目される、EU離脱の是非がレファレンダムによって決せられるという、その方法について民主主義理論の観点から考えてみる。

 

レファレンダム(国民投票住民投票)という決定方法に関しては、たとえば、一昨年のスコットランドの独立をめぐるレファレンダム(住民投票)、昨年の大阪市のレファレンダム(住民投票)などが記憶に新しいかもしれない。もちろん、日本でも、国政レベルでのレファレンダムは現行憲法の改正の手続きとして制度化されている。憲法の採択・改正や今回のイギリスのような国政レベルでのレファレンダムにせよ、あるいは、地方政治におけるレファレンダムにせよ、その特徴は、代表者を選出するのではなく、ある争点に関して有権者が直接意思を表明する投票によって決定を行う点にある。

 

この方法を用いた決定は、民主主義の歴史からするなら、珍しいものではない。しかし、今回のイギリスにおけるレファレンダムでは、そこで表明されたイギリス国民の意思が世界秩序の動向を左右することになった。また、国内では、離脱派残留派の勢力が拮抗していたために、イギリス社会を分断してしまう可能性を生んだ。ここから、「果たして、このように重要な争点をレファレンダムによって決定すべきだったのか」というように、レファレンダムが持つリスク、ひいては、民主主義そのものが孕むリスクについて改めて衆目を集めることになるであろう。すなわち、民主主義自体がその決定の仕方によって、社会を不安定化したり、その秩序を破壊したりするリスクだ。

 

民主主義とレファレンダム

元来、レファレンダムは民主主義の理論において、評判の良いものであったとはいえない。古くからある理由の一つは、それが多数者の暴政に帰着しやすいというものだ。それ以外にも、レファレンダムによる決定には、議論や妥協の余地がなく、熟慮された判断が欠如しているという批判もある。要するに、レファレンダムでは、不合理な決定が行われやすい、という批判だ。こうしたレファレンダムに対する批判は、民主主義の下で行われる政治についてのある理解を前提としている。すなわち、有権者によって選ばれた代表者たちが共同の利益が何であるかを熟議し、そこから生まれる道理にかなった理由にもとづいて政治は行われるべきだ、という理解である。

 

これに対して、レファレンダムを擁護する議論も古くから存在する。たとえば、民主主義における決定は、議論をとおして熟慮された判断ではなく、国民が直接表明する意思にもとづくべきである、というものだ。それによれば、過半数によって示されるその意思にこそ、公共の利益が存在し、そのようにして見いだされた公共の利益にこそ、民主的な政治の正統性が存在する。したがって、一部の選良たちの議論ではなく、赤裸々に示された国民の意思に従う政治こそ真の民主政治だ、という理解である。

 

民主主義に対するこうした理解の対立は古典的なものだ。しかし、現在でも、どちらが正しい理解なのか定まった答えがあるわけではない。むしろ、近代の歴史を振り返るなら、それらは相互に補完しあう形で、民主主義を深化させてきたと考えるべきだろう。そうだとすれば、合理的な決定ができないという理由だけで、レファレンダムは民主主義とは相いれないと見なしたり、そこから生まれた結果を不当だとして退けたりすることはできないのである。

 

レファレンダムを求める現代社

おそらく、注目すべきことは、近年の政治状況では、今回のイギリスのケースのように、レファレンダムによって重大な政治的決定を行おうとする傾向が強まる可能性があるということだ。ここでは相互に関連する2つの理由を挙げておこう。

 

1つは、以前のコラムでも繰り返し指摘してきたように、代表制度の問題である。すなわち、エリート層が政策決定を独占しているという感覚の浸透に伴い、代表制度の機能不全という認識や代表制度そのものへの不満が蔓延し、さらに、その一つの帰結としてのポピュリズム的な政治潮流が伸長する。そうした現象は、様々な形で観察できる。たとえば、既成政党や政治家に対する不信の広がり、無党派層の増大、代表制選挙の投票率の低下、強権的な政治手法への支持の高まり――日本でいえば、「決められる政治」というキャッチフレーズがはやったことは周知のとおりだ――など。代表制度ではもはや民意は反映されないという雰囲気の中では、理論面でも、実際の政治でも、直接国民に意思を問う手法が渇望されるようになる。この事態は、ある意味、必然の成り行きといえる。

 

もう1つは、社会の複雑化、これと同時に進行する、個人の利害関心やライフスタイル、価値観の多様化によって生じる現代社会に固有の状況に関係する。こうした状況下では、選良がどれほど議論を重ねたとしても、共同の利害が何であるかを見分けることは容易でない。また、同様に、どれほど慎重な決定をしたとしても、それが最終的に誰の利益になるのかを合理的に判断することはきわめて難しい。合理性そのものが懐疑の対象となる場合さえある。いわば、社会の複雑化や多様化に伴う不確実性の増大が、合理的な政治の可能性を縮減してしまうわけだ。ここから、たんに有権者の側からだけでなく、政治に従事する者の側から、政治的決定において直接国民に意思を問おうとする動きが活発化することになる。さらに、こうした政治と社会の様相は、1980年代以降、もっとも望ましい統治の原理と見なされてきた新自由主義が批判に晒され、政治における合理性を提供することが難しくなりつつある中、混迷の度合いをいっそう強めることは避けられないように思われる。

 

民主主義のリスクにどう向き合うか

こうして、レファレンダムは、国政においても、地方政治においても民主主義の決定の方法として重宝されることになる。しかし、今回のイギリスのレファレンダムの結果を見る限り、そのリスク――社会の分断といった、かりに残留派が勝利したとしても生じであろうリスクを含め――を見過ごすことは難しい。また、レファレンダムが活用されやすい社会に私たちが暮らしているとすれば、「レファレンダムには、レファレンダムを」――レファレンダムで答えの出た争点を、改めてレファレンダムにかける――というように、それが乱発され濫用されることも予想できる。ただ、だからといって、先に指摘したとおり、民主的な形で行われるレファレンダムの正統性を否定することはできない。

 

だとすれば、イギリスの出来事をたんなるアクシデントとか、対岸の火事とか見なしたりするのは賢明ではないだろう。そうではなく、イギリスのケースから何かを学ぼうとするなら、レファレンダムに伴うリスクは、実は、民主主義そのものに内包されていると認識することが重要であろう。民主主義は万能ではなく、民主主義自体が民主的な社会の秩序を混乱させたり、破壊したりする可能性がある――もちろん、この可能性をただ否定的にのみ捉える必要はない、なぜなら、それは新たな秩序を生み出す可能性でもあるからだ――。そのような両義性を認識した上で、このリスクを民主主義の内部でどうコントロールするかを考えることだ。

 

レファレンダムの要求の高まりが、代表制度への不信や不満、あるいはそこから帰結するポピュリズム的潮流の高まりと無関係でないとすれば、差し詰め、取り組むべき課題は明らかだろう。それは、市民からの信頼をさらに高めるべく、代表制度を再建することである。もちろん、不確実な現代の社会において、そうした取り組みが思うような成果を上げるとは限らない。しかし、不透明な時代だからこそ、世界中で試みられている民主主義の様々なイノベーション――熟議型世論調査、コンセンサス会議、「熟議の日」をはじめとする、市民の参加と熟議を組みあせた取り組み――を代表制度と接合するような大胆な試みに真面目に向き合うことも一案に違いない。もちろん、多数決原理の見直しや、熟議の機会の導入など、レファレンダムの実施の仕方にも工夫の余地はある。

 

今回のイギリスのケースのように、レファレンダムでは、合理的だと思われる判断からかけ離れた決定が行われる可能性が少なくない。しかし、それは世界に新たな始まりを挿入する可能性でもある。イギリスの決定によって開始された事態は、確かに世界をこの先しばらく不安定にさせることとなったが、長い目で見た場合、イギリスにとって、あるいはEUにとって、さらに、世界の秩序にとって、吉と出るか凶と出るかは、実は誰にもわからない。だとすればなおさら、レファレンダムをただ批判するよりは、そのリスクをコントロールしようとする地道な取り組みについて検討してみる方が民主主義の成熟に資するように思われる。

日本会議の草の根民主主義と憲法改正 ――参議院選挙に向けて考えておきたい、いくつかの事柄(2)――

 

安倍内閣と日本会議

日本会議の研究』がこのところ話題になっているようだ。これは、現在の安倍内閣と親密な関係にある、日本会議という民間の保守系団体の出自とその歴史を追ったルポだ。そこで詳らかにされているのは、日本会議の実働組織である日本青年協議会が戦前から戦後の一時期にかけて右翼的活動で知られた新宗教生長の家」の元学生活動家らに担われている事実、また、安倍首相のブレインの一人が同様に「生長の家」の元学生活動家であり、さらに、首相の周辺の政治家が「生長の家原理主義」――明治憲法の復元を掲げた生長の家の創始者、谷口雅春の教え――を唱える団体に参加している事実だ。これらの事実を焦点に憲法改正を目指す安倍内閣の政治イデオロギーの由来が解き明かされている。

 

もちろん、たとえ安倍内閣と日本会議とが親密な関係にあるとしても、安倍内閣が推し進める政策のすべてをそこから説明できるわけではないし、経済界をはじめ多くの利益団体が現在の内閣に強い影響力を行使していることはいうまでもない。また、国会議員が様々な団体に所属していることもごく自然である。とはいえ、このルポが繰り返し指摘しているように、現在の内閣が、大日本帝国憲法の復元を目指しているとされる団体――日本会議の別同部隊、美しい日本の憲法をつくる国民の会は1000万人の改憲賛成署名の運動に取り組んでいるようだ――やそれに関係する人びとと秘かに志を共にしつつ歩調を合わせて憲法改正に突き進んでいるとすれば、これは看過すべき事態とはいい難い。いずれにせよ、自由で多元的な社会を目指す民主主義とはまったく相容れない反動的な教説を信仰する現代の宗教右派勢力と安倍内閣との密接な関係が公になるということは、選挙を控えた有権者にとって少なからず有意義な情報となるように思われる。

 

右派勢力と草の根の民主主義

先に挙げたルポでは、日本会議をフロント団体とする右派勢力が現在の影響力を獲得した理由として、その草の根的な政治活動、たとえば、デモや勉強会、地方議会への請願および陳情、署名活動などの市民運動を地道に続けてきたことが挙げられている。その上で、この右派勢力がきわめて民主的な方法をとおして、民主主義を転覆させようとしつつある事態に対して警鐘が鳴らされる。これは傾聴に値する。このコラムでも、たとえば、「民主主義の倒錯」という言葉で、民主主義の諸価値や理念がそれらを実現するべく設立された制度や手続き――すなわち、選挙を中心にした代表制度――の下で否定されるような事態が現代の日本で生じつつある可能性を繰り返し論じてきた。これに対して、そのルポでは、草の根の政治活動によって民主主義が転倒させられる可能性が指摘されているわけだ。この点が興味深い。とはいえ、日本会議における草の根の民主主義の実情については、もう少し掘り下げて考えてみる必要があるように思われる。

 

右派勢力と草の根的な政治活動との結び付きは、現在の日本にのみ見られる特異な現象ではない。これは周知のとおりだ。アメリカがきわめて特異な社会であること(アメリカ例外主義)を認めた上で、特にレーガン政権以後の共和党に強い影響を及ぼしてきたキリスト教右派やこれまた共和党と強く結びついた近年のティー・パーティは、共にその草の根的な活動によって知られている。たとえば、合衆国憲法原理主義を唱え、小さな政府を求めるティー・パーティ――スコッチポルらの研究によれば、この団体には、キリスト教右派と同様、プロテスタント福音派のクリスチャンが多いようだ――は、コミュニティに拠点を置き、集会やデモをとおして組織化を行い、ネットやテレビ、ラジオなどあらゆるメディアをとおして自分たちの組織やその主義主張を公然と宣伝し、選挙においても積極的な動員を行う。そればかりか、より効果的な運動を展開するために、20世紀を代表する左派の草の根民主主義のアイコン、ソウル・アリンスキーのコミュニティ・オーガナイジングの手法までも積極的に取り入れている。

 

日本会議と草の根の活動

普通の市民たちが日常生活の場である教会あるいは各支部のコミュニティに集い、そこでの組織化をとおして蓄積された社会関係資本を元手に、公にされた自分たちの主義主張を実現すべく地道な政治活動を行う。この点で、アメリカにおけるそれらの右派勢力の活動は文字どおり、草の根的である。そして、こうした形での草の根の活動が基盤となり、共和党の大統領候補者指名を左右するまでの影響力を持つにいたる(とはいえ、たとえば、ティー・パーティ運動を〈純粋な〉草の根の反乱と見なすとするなら、正確性を欠くことになる。すでに多くの研究が、この運動へのコーク兄弟による資金援助や、既存の保守系シンクタンクあるいはアドヴォカシー集団、大手メディアとの根深い関係を指摘している。しかし、そうだからといって、この運動の上述した草の根的な性格を否定することは誤りであろう。その点については、このコラムではスコッチポルらの研究に依拠している)。

 

他方、日本会議日本青年協議会は、こうした形での草の根レベルでの組織化に取り組んでいるようであるが、それがうまくいっている、あるいは、そうした形での草の根の活動が勢力拡大の基盤となっている、というようには見えない。『日本会議の研究』にあるエピソードを読む限り、自らの正体をひた隠すカルト集団の洗脳活動を想起させさえする。ここからも、日本会議の草の根の活動がアメリカの右派勢力のように、大規模な大衆運動に発展すると考えるのは非常に難しい。むしろ、この組織の現在の成功は次のように説明できるように思われる。すなわち、生長の家で頭角を現した有能な元青年活動家たちがその正体を偽装しつつ少数精鋭の職業活動家となり、彼らの指導の下で行われる、他の右派組織との連携の形成、宣伝や広報、集会やデモへの動員、地方議会やその政治家から国会議員に及ぶロビー活動などが実を結んだことによる、という説明だ。

 

日本会議の草の根的性格を否定しようというわけではない。それも1つの草の根の政治活動のあり方と考えることはできる。ただ、たとえば、ティー・パーティのような、日常生活を拠点にした普通の市民たちの信頼とネットワークの醸成を基盤にした草の根的な活動と日本会議のそれとがまったく同じかといえば、そうはいいきれないと指摘したいだけだ。とはいえ、この指摘から、日本会議の政治運動の脆弱さと強みを改めて考えてみることもできる。日々の生活の中での普通の市民の協働に根を持たない民主主義の運動はそれが左派の運動であろうが右派の運動であろうが、その指導者を失えば遅かれ早かれ衰退する。とすれば、これが日本会議の脆弱さとなりうる可能性は十分ある。

 

では、その強みとは何か。自民党を中心とする日本のエスタブリッシュメントには、明治憲法を復活させようとする反民主主義的な運動に同調的な価値観と信念を有する人びとが未だに少なからず存在しており、そうした人びとの支えこそが、その強みにほかならない。さらに、私たちの社会が民主主義にとって自己破壊的なそうした人びとの価値観や信念に対して無批判であるだけでなく無関心でさえあるという点もその強みとして勘定することができるかもしれない。たんなる草の根の活動に還元できないこれらの点に日本会議の暗躍の一因があることを低く見積もるべきではないように思われる。

 

権力の空白を埋めつつある民主主義の破壊者

かつてフランスの政治理論家が論じたように、民主主義という政治の在り方の特異性は、権力の座が空位な状態にある点に見ることができる。近代の民主主義が打倒した君主政では、その座は神とその被造物とを媒介する王という受肉された具体的な存在によって占められていた。王という存在の神性――もちろん、それは主権の絶対性という形で世俗化されていくことになるが――は、彼の統治やそのための法の正統性を供給する一方で、王の生身の身体は彼の統治する王国の統合を表していたわけだ。これに対して、民主主義という政治の在り方において、かつて権力の座を占拠した王は追放され、代わりに、国民と呼ばれる抽象的で匿名的な存在がその場を埋めることになる。しかし、そのような存在としての国民とは誰なのか。それは誰もが国民となりうるがゆえに――たとえば、それはブルジョワジーであり、労働者であり、あるいは民族であり‥‥――、誰でもない。まさにこの意味において、すなわち、権力の座を最終的に占拠する具体的な存在を決定できないという意味において、民主主義の権力の座は決して埋められることのない空白の場といえるのだ。ただ、社会における諸勢力の抗争を制度化した民主主義の手続き――その中心は無論、選挙である――の内部で勝利を収めた者たちが一時的にその場に留まることができるだけなのである。

 

民主主義のこうした特異性から、それがつねに開かれた未完のプロジェクトであることの一端を理解できるわけであるが、その一方で、民主主義が伴う危うさもそこから説明することができる。その危うさとは、民主主義の手続きさえパスしてしまえば、どのような主義主張、価値観を持った勢力であろうと、したがって、巧みな装いの下に反民主主義的な主義主張や価値観を隠し持った勢力であろうと、権力を手に入れることができるということにある。要するに、民主主義という政治の在り方には、その内部に自らを蝕む可能性があるわけだ。

 

おそらく、日本会議の暗躍から垣間見られるのは、こうした可能性が現実のものとなりつつあるということなのかもしれない。とすれば、それに対してどのような抵抗が可能なのだろうか。世論の覚醒だろうか。日本会議を中心とする勢力に対抗する左派勢力の草の根的な活動だろうか。もしかしたら、たとえば、戦後のドイツのように、民主主義の自己崩壊を防ぐための別の方法が新たに必要なのだろうか。いずれにせよ、安倍内閣と日本会議の関係が多くの人びとの知るところになりつつある今、間近に控えた国政選挙の紛れもない争点の核心を次のように規定してもよいだろう。すなわち、きわめて反動的な形で憲法改正を目論む、反民主主義的な勢力が民主主義の権力の空位を埋めることを私たちの社会が黙認し続けるかどうか。これこそ、憲法改正という争点に秘匿された真の問題なのではないだろうか。

「パナマ文書」、そして新自由主義という夢の果て――参議院選挙に向けて考えておきたい、いくつかの事柄――

地震と緊急事態条項

熊本・大分を震源とする大規模な地震は深い爪痕を残したまま、未だ予断を許さない状態が続いている。被災者やその関係者のみならず、今回の震災がもたらした苦しみの光景を様々なメディアをとおして目撃した人びとの中には、そうした苦境にある被災者への共感によって、自分にできる支援を検討し、すでに行動に移している人も少なくないはずだ。その一方で、この地震に関連して緊急事態条項の新設のための憲法改正の話題が最初の地震の翌日にはすでに、菅官房長官の会見における記者との質疑応答で取り沙汰されたということだ。これを聞くにつけ、来る7月の選挙に向けて政治は着実に動いていることを否応なく再認識させられる。そこで、この政治日程に鑑みつつ、今後の政治争点を考える際の視点について、数回にわたり検討しようと思う。今回は、世界を激震させたとして日本でも報道されている「パナマ文書」を手かがりする。そこから、新自由主義の功罪は、それが民主主義に与える影響から検討されねばならないことを指摘する。

 

「パナマ文書」の何が問題か

「パナマ文書」が暴露した、政治家や富裕層の課税逃れや資金洗浄の疑惑は少々スキャンダラスだとはいえ、日常茶飯事の見慣れた光景に過ぎないようにも思える。しかし、すでに、こうした現実が格差の拡大を助長しているとか、納税に対する不公平感を生んだりするといった批判が数多く指摘されている。これらの指摘はそのとおりなのだが、ことの深刻さを理解するにはもう少し説明を重ねる必要があるように思われる。というのも、この出来事に民主主義を支えてきた制度が形骸化されていくやり方を見てとるができるからだ。確かに、ヨーロッパでの一連のテロ事件や難民問題を取り上げるなら、それらがヨーロッパに深く根付いているとされる民主主義を大きく動揺させつつあるということなど誰にでもわかる。しかし、「パナマ文書」が暴露した現実も、民主主義の理念――それをここではとりあえず、平等な者たちからなる自由で多元的な社会の実現としておこう――を支える制度上の基盤を確実に掘り崩しつつあるといえるのだ。ここに、この問題の深刻さの本質がある。

 

「パナマ文書」に関連して、こんな擁護を耳にした人もいるだろう。課税逃れがその目的であったとしても、企業やそれを経営する個人あるいは公的組織が最大限、自己の利益を追求すること自体、当然のことであるから、違法行為でなければ、何ら問題はないという擁護だ。新自由主義の論理からすれば、確かにそうかもしれない。しかし、「パナマ文書」によって暴露された問題の核心が現在の民主主義の形骸化と無関係でないとすれば、はたしてそんな擁護は通用するのだろうか。

 

近代の民主主義は国家の枠組みの下、表現の自由、団体・結社の自由をはじめとする諸権利の保障、公正な選挙や三権分立法治主義の制度化などをとおして、その理念の具体化に取り組んできた。しかし、それだけではない。民主的な社会の実現には、機会の平等といった形式的な平等とあわせて、社会生活でのある程度の実質的な平等が不可欠であるという、19世紀以来積み重ねられてきたコンセンサスが存在する。それにもとづいて、実質的な平等のための制度、すなわち、富を再配分するための広い意味での社会保障制度が国家の枠組みの下で整備されてきた。貧困ゆえに教育や医療を十分受けられず、日々の食費もままならない人にとって、機会の平等を効果的に活用すること、さらには、政治に参加し主権者としての権限を行使することが非常に難しいことなど誰の目にも明らかであろう。日本の場合、社会保障制度が社会保険料と税金によって賄われていることは指摘するまでもない。そうだとすれば、重要なことは、社会保障制度が機能し、ある程度の実質的平等が保障されることによって民主的な社会が維持されるには、国家による確実な税の徴収が不可欠である、ということだ。つまり、「パナマ文書」が示しているのは、民主的な社会を維持するための国家の基本的な役割を妨げるグローバルな仕組み、しかも、国家が厳密に取り締まることがきわめて困難な仕組みが存在しており、これゆえ、国家はその役割を十分に果たすことが難しくなっている、ということではないだろうか。

 

新自由主義と苦境に立つ民主主義

しかし、事態はより複雑である。たんに民主的な社会を維持するために不可欠な国家の任務を妨害するグローバルな仕組みが存在するだけではない。たとえば、日本のように、経済における低成長と社会の超高齢化によって財政が悪化し続ける中、国家は民主的な社会の維持に不可欠な平等を保障する責務や役割から自らを可能な限り解除しよう(せざるを得ない)とする傾向にある。さらに、こうした傾向を許容することになる実質的な平等への無関心やその貶価――それが「競争」や「自己責任」という言葉で正当化されてきたことは周知のとおりだ――が社会の内部で蔓延している。こうした状況では、民主主義のための制度上の基盤の浸食が放置されることで、社会生活の中のある程度の平等の破壊が促される。そして、その結果、民主主義は苦境に置かれることになる。この20年来、民主主義のこうした苦境の背景はしばしば新自由主義との関連から説明されてきた。「パナマ文書」が暴露した現実、それに無関心な世論、はたまた企業や個人の経済活動の自由を根拠にした課税逃れの擁護などに鑑みると、私たちの社会は未だ新自由主義の夢を見る微睡の中にいるのかもしれない。

 

もちろん、課税逃れもタックスヘイヴンも今に始まったことではない。いわば、歴史的に反復される出来事だ。だから、「パナマ文書」が示唆する民主主義の有名無実化を掘り下げて把握するには、それを現代に固有の文脈の中で検討する必要がある。その文脈が新自由主義なのである。

 

新自由主義が何を意味するのかについては、未だに論争を呼び起こす厄介な問題だ。一般に、それは、福祉国家の解体と小さな政府による統治として論じられるが、具体的には、産業とキャピタルフローの規制を緩和することで市場経済を活性化させようとする一方で、課税における累進性を緩和し社会保障費を削減する――これによって、政治による富の再配分機能はかなり弱められることになる――と同時に、公共機関の民営化とアウトソーシングによって公共財を提供するといった形をとって現われる。

 

この新自由主義の問題は、論者によって様々な視点から説明することが可能であろう。しかし、政治思想の観点からすれば、その最大の問題は民主主義の理念の実現に不可欠な諸制度を無効化してしまう点にあるといえよう。別の言い方をすれば、政治の領域の内部で、それに固有な論理と言語によって発展し維持されてきた自由やそのための平等を市場のモデルに従って経済化し、自由を競争に、そして平等を格差に置き換える。フーコーの指摘によれば、新自由主義は、伝統的な自由主義がそうであったように、国家が体現する政治の領域からの経済の領域の自立や政治の介入からの経済活動の放任を求めるのではない。それは政治を含めた社会のあらゆる領域に市場のモデルを適用することで経済化しコントロールすることを目指している。

 

こうして、政治の領域で育まれてきた民主主義の理念、その理念の実現のために設けられた制度は、形骸化され変質してしまうことになる。新自由主義は、人間の多様な生のあり方を経済化する。ウェンディ・ブラウンの言葉を用いれば、その多様なあり方の主要な1つであったホモ・ポリティコスとしての人間のあり方――平等な他者と協働して自分たちを統治する民主主義の主体――は、新自由主義的に定義されたホモ・オイコノミコスとしての人間のあり方――自己責任の下での自己資本の最大化とリスクヘッジにひたすら勤しむ主体――によって駆逐されつつある。福祉国家の行き詰まりの打開策として期待された新自由主義は、民主主義を形骸化させるというまさにこの点において、私たちの(社会の)脅威となっているといえよう。

 

来るべき選挙に向けて忘れてはならないこと

「パナマ文書」で暴露された現実、それを擁護する言説、この現実を変えるための有効な手立ての欠如、これらは新自由主義という文脈で捉えられる必要がある。そのとき、いつの時代でも見受けられた課税逃れの現代的な意味が見えてくる。もちろん、それが民主主義の苦境だ。

 

しかし、それは、何も、「パナマ文書」に限ったことではない。ここしばらくの国内政治に目をやるなら、民主主義を苦境に立たせる出来事はいくつもある。育児や教育、介護などは近年、市場をモデルとする政策によって運営されてきた。しかし、これらはある程度の平等の下で、人びとに提供されるべきものだ。それは民主的な社会が自らを維持するために要請されるところのものなのである。

 

参議院選挙まであと3ヶ月ほどである。消費税の引き上げから安全保障関連法や憲法改正、TPPやアベノミクスまで選挙の争点は多々あるだろう。しかし、どのような争点を重視して投票するにしても、苦境にある民主主義をどうするか、このことがあらゆる争点の裏側で賭けられていることを忘れてはならない。

 

***

宣伝になりますが、5月の終わりからPARC自由学校で「名著で学ぶ『民主主義ってなんだ?』」ゼミをやることになりました。丸山眞男やルソー、シュミットなどを読みます。ご関心のある方は、https://ssl.parc-jp.org/e/html/products/detail.php?product_id=24をご覧いただければと思います。よろしくお願いします。

民主主義がテロに屈しないためにこそ、寛容が必要である――11月14日のパリにおけるテロ事件の衝撃について――

11月14日、イスラム過激派組織によるパリでのテロは、文字どおり世界を震撼させることになった。もちろん、その衝撃はその犠牲者の数やパリを標的にした周到な計画に起因するだろうが、それだけではない。このテロが起こるべくして起きた事件であったこと、おそらく、同じ様なテロが今後も、フランスのみならず他の西側先進諸国において発生するだろうということ。ようするに、私たちはテロが日常の一部になりつつある社会に生きているという、目を背けたくなる現実に否応なしに向き合わざるをえなくなったこと。ここに今回のテロの衝撃の一因があるように思われる。だから、「いったい、私たちの社会はどうなってしまうのか」、パリから遠く離れた場所でこの事件を見たり聞いたり人であっても少なからず、こんな不安を感じたはずだ。

 

この場合、「私たちの社会」という言葉が意味しているのは、端的にいえば、民主的な社会だろう。それは、個人の自由と平等を保障し、多様な価値観やライフスタイルの共存を許容することを社会の根本原則として自認するだけでなく、程度の差はあれ、それらを実際に実現しようとしてきた社会である。そうだとすれば、この不安は、テロリストの暴力に晒された民主的な社会が治安の強化の必要性から、その社会の大切な原則を手放してしまうのではないかという直観に由来すると解釈しても見当違いではあるまい。

 

こうした不安を嘲笑する人もいるだろう。パリで今回起きたような虐殺など、イラクやシリアでは日常茶飯事なのであり、何をそこまで騒ぎ立てたり、不安を感じたりする必要があるのか。これが大部分の世界の現実なのだ、いやそもそも、こうした現実の種を蒔いたのは、19世紀以来の欧米諸国の中東政策ではないか、と。確かに、そうした言い分もあるだろう。しかし、ここではこの不安にフォーカスしよう。それが、民主主義と暴力の抜き差しならぬ関係について再考する機会を与えてくれるように思えるからだ。

 

暴力と民主主義

民主主義とテロリズムとの関係については以前のコラムで論じた(http://fujiitatsuo.hatenablog.com/entry/2015/02/02/213122)。そこでは、民主的な社会は革命や戦争のような暴力から始まったこと、民主的な社会はその始まりの暴力を民主的な立法手続きと法の支配によって内部に封じ込めてきたこと、そしてテロリズムのような物理的な暴力は民主的な社会に封じ込められた暴力を解放する危険があることを指摘した。

 

現代の民主的な社会におけるテロリズムの問題を考える上で重要な点は、テロリズムがこの封じ込められた暴力を解放することで、民主的な社会を自己崩壊させてしまう可能性があるということである。まさにそこに民主主義が暴力に対してきわめて脆弱であるといわれるわけがある。

 

暴力が民主的な社会をいわば自殺に追い込むということを理解するには、民主的な社会と例外状況との関係を考えてみる必要がある。政治理論の常識的な理解では、たとえば、民主主義の基本的な価値である自由――これを広い意味での人権と理解してもよい――は、民主的な諸制度の下で制定された法の支配によって実現され維持される。それは、この民主的な法の支配が秩序を実際に統治する国家の目的や手段を規定することで国家権力をコントロールし、その行使が伴う暴力を制約することで可能となる。そうした制約が解除される例外状況だ。この例外状況は、法の通常の機能が停止され、民主的な規制から解き放たれた国家権力が出現する状況を意味する。それは、法が想定しておらず、したがって法によっては適切に対処できないような非常事態に社会が直面する際に生まれる。このとき、法が秩序の支配から後退する中で、法による縛りから自由になった国家が治安のために何をなすべきかを決定し行動する。ここから、例外状況では国家という「怪物」が行使する超法規的な力によって、民主的な諸価値や諸制度が制限されたり、否定されたりすることが起きうる。この場合、平等な者たちからなる自由な社会、すなわち、民主的な社会はその崩壊の可能性に直面することになる。

 

テロリズムは例外状況を作り出そうとする。その目的は民主的な社会を自壊に追い込むことだといえるだろう。すなわち、テロに見舞われた民主的な社会が自ら例外状況を宣告することで民主的な価値や制度を守る法を停止し、平等な者たちからなる自由な社会であることを放棄すること。これがテロリズムの狙いの一つと考えられるわけだ。少なくとも、現代ヨーロッパの民主的社会における文化的あるいは歴史的な自己理解からすれば、そういえるはずだ。

                      

安全と民主主義

今回のテロ事件を受けて、オランド大統領はISとの戦争状態にあるとして即座に非常事態宣言を発令し、さらに、治安維持の強化のための憲法改正も視野に入れていると報道されている。また、空爆などによるISへのフランスの軍事行動も強化され始めた。こうした一連の動向は、先の議論からすれば、自由やそれを守る制度を制約することになるのだから、テロリズムの謀略に嵌められたことになるようにも見える。テロリストからすれば、戦線をシリアやイラクからヨーロッパの心臓部へ拡大することに成功したし、さらに、それによって、アガンベンらが指摘するような、民主的な社会における例外状況の日常化――これが民主主義の自壊が起こりうる環境だ――にも成功したともいえる。とすれば、世界史において燦然たる歴史を誇るフランスの民主主義はすでに、ISによるテロリズムに屈してしまったのだろうか。

 

おそらく、そうとはいえないだろう。フランス政府の一連の行動は、社会の安全を守るための措置だと考えられる。民主的な社会の可能性そのものが、その社会の安全に依拠していることは事実だ。だとすれば、民主的な社会はたとえ自壊の可能性を伴ったとしても、その社会を実際に破壊しようとする明確的で具体的な敵対者(テロリスト)を力ずくで排除することで、自らを守らねばらない。これは確かに矛盾に満ちた事態だ。しかし、そこに民主的な社会と暴力との抜き差しならぬ関係を見て取ることができる。すなわち、民主的な社会は国家権力の暴力によって、自壊の危険を冒しつつも、社会の敵対者からその安全を確保せねばならない場合があるのだ。翻っていえば、例外状況での安全の確保という必要の下で、民主的な社会の原則は簡単に形骸化されてしまうことだってありうるということだ。

 

ここから、フランスの民主主義が敗北したかどうかは、非常事態を宣言したり、治安維持の強化をはかったりしたかどうかでは判断できないことがわかる。その勝敗は、眼前のテロリストの暴力を排除し治安上の安全を確保した上で速やかに例外状況から脱することができるかどうか、換言するなら、法が通常に機能することで人権が保障された民主的な秩序を復元できるかどうかにかかってくるといえる。

 

それでも寛容が必要なわけ

テロリズムとの戦いが厄介なのは、それが例外状況を日常化し永続化させる点にある。だから、例外状況からの民主的な社会の復帰がそう簡単ではないこともまた確かだ。しかし、どれほど困難があろうと、例外状況から復帰を果たそうとするなら、そのための出発点となるのは寛容だろう。この期に及んで寛容とは何事かという人もいるかもしれない。とはいえ、寛容は傷つけられた民主的な社会がその健康を回復するために必要なのだ。具体的には、今回のテロによってこれまで以上に排斥され迫害されるかもしれない、フランス社会に暮らすムスリムへの寛容である。

 

多くの指摘があるように、今回の事件に限らず、ヨーロッパのムスリムの若者たちがテロリズムに手を染める一つの要因が、社会からの経済的あるいは社会的な排除や疎外にあるとするなら、民主的な社会の課題は、そうした若者たちを社会に包摂していくことである。この課題への取り組みが失敗し続けるようであるなら、その社会はテロリズムの脅威に繰り返し晒されることで、恒常的な例外状況に置かれるようになると思われる。しかし、イスラムの過激派によるテロによって傷つけられた現在のフランス社会では、この包摂を進めて行くことはこれまで以上に難しくなるだろう。この状況を乗り越えるために求められるのが寛容なのだ。ここに、寛容が必要だという現実的な理由がある。

 

さらに、この寛容は、自由・平等・友愛という共和国フランスの精神が現代社会に命じるものでもある。現代の社会は、民族や宗教、セクシャリティ、価値観やライフスタイルなどにおいて多元化した社会である。つまり、そのような社会は多様なマイノリティからなる社会であり、そこに暮らす私たち一人ひとりもマイノリティなのだ。この多元性の事実に鑑みたとき、民主的な価値としての自由は、特異であること――他と異なってあること――の自由として再解釈する必要がある。だとすれば、平等は、特異であることへの承認と尊重というアイデンティティの平等を意味するはずだ。そして、このように理解された平等の下で、異なる者たちの間に相互性を作り出し、社会の凝縮力を創出するのが友愛だといえるだろう。ここで重要なことは、友愛という民主的な価値は寛容という徳によって支えられなければならないということだ。だから、テロリストの攻撃に晒されたフランス社会がその傷を癒し、民主的な社会として自由・平等・友愛という民主主義の価値を高らかに掲げるには、この寛容から出発する必要があるといえるのだ。

 

テロリズムが人びとに恐怖と復讐心を掻き立てる中、治安への関心が高まるのは当然だ。しかし、それと共に寛容が社会から消え去ってしまうなら、民主主義がテロリズムに打ち勝つことは甚だ困難になるように思われる。

安全保障関連法が成立した夜に、日本の民主主義に起こったこと――冷たい怪物が再び蘇った日――

集団的自衛権の行使を可能にする安全保障関連法が9月19日の未明に成立してから、もう一週間が過ぎようとしている。それを受けて胸をなでおろしている人もいれば、憤り落胆している人もいるだろう。あるいは、たかだか一つの法律にいったい何を大騒ぎしていたのか分からないまま、この出来事を忘れつつある人もいるだろう。いずれにせよ、すでに法案が国会に上程された時点で予想されたこの事態が現実となった今だからこそ、それを冷静に直視し、その意味について考えてみることが必要だろう。そこで、ここでは、安全保障関連法の制定過程において明らかとなった、日本の民主主義の変質について検討したい。この変質とは、その日以来、日本の民主主義が民主主義という装いの下でその内実を骨抜きにされてしまったこと、ようするに、民主主義が倒錯してしまったことを表している。もちろん、それは、日本の社会の不吉な未来を予感させる。というのも、この倒錯した民主主義から、あらゆる冷たい怪物の中でもっとも冷たい怪物が頭をもたげつつあるからだ。国家というこの怪物は、グローバル化と民主主義の勝利によって息の根を止められたとさんざん吹聴さてきたはずだ。しかし、それが再び蘇りつつあるのだ。

 

今回の一連の騒動で見えてくるのは、現代の国家が軛から逃れ、その恐るべき力を露骨に解放しつつあるということではないだろうか。もちろん、こうした事態は、歴史を見れば、別に珍しいことではない。たとえば、20世紀の全体主義国家がそうだ。しかし、重要なことは、国家が明確な意思をもってその軛を捨て去り、赤裸々な姿で現れる舞台は時代によって異なる、ということだ。現代のその舞台が、倒錯した民主主義なのだ。とはいえ、こんな指摘をすると、国家を重要視しすぎであり、国家の過大評価だというフーコーの言葉が脳裏をかすめる。それを重々承知の上で、あえてナイーヴに、冷たい怪物に言及したくなるのが9月19日以降の日本の民主主義の実情であるように思われる。

 

安全保障関連法をめぐる問題の核心

民主主義の理論から見た場合、今回の安全保障関連法をめぐる問題の核心はどこにあったのか。以前のコラムですでに詳細に論じたが、ここで簡単に問題の核心の所在について確認しておこう。

 

政府を中心したこの法律の推進者たちは、集団的自衛権の行使を認める法律が国家の存続のために必要だという立場に立っていた。ここから、日本を取り巻く安全保障環境の変化を指摘しながら、様々な理由を挙げてこの必要性を正当化しようとしてきた。今回成立した法律は、この必要性を根拠にして、それまで認められていなかった権限を政府に付与することになった。

 

他方、この法律に対して反対してきた人びと、その中でも特に、法律の研究者や実務家たちは、国家が必要性を口実に行使しようとする権力は、無際限ではあってはならず、それに対して何らかの形で制約が課せられねばならないという立場にあった。国家権力に制約が現在求められるのは、その自立化やその暴走を防ぐためであり、これによって、市民社会の民主的な秩序を保持し、人びとの自由や権利を守るためである。今回のケースでいえば、そうした立場に立つ専門家たちが問題視したのは、次のようなことだ。政府は必要性の名の下で集団的自衛権の行使を可能にする法律を制定し、その法律によってこれまで許されていなかった権限を手に入れようとしている。しかし、そのような政府の権力行使およびその行使を可能にする法律の制定は現代の立憲主義的な民主主義が求める制約の下にあるのかどうか、ということである。ここに、安全保障関連法をめぐる問題の核心が存在する。政府の主な任務は、国内外の秩序の統治にあるのだから、その権力を統治権力と呼ぶことにするが、ようするに、統治権力の統制というきわめて古典的な問題が、安全保障関連法をめぐる問題の核心だったわけだ。

 

統治権力に制約を課す民主主義

教科書風に単純化していえば、自由主義の諸理念を取り入れた近代以降の民主主義――一般に、立憲主義的民主主義と呼ばれる――は、自己統治という政治のあり方の下で、個人の諸権利の保護と自由の発展が保証された多元的な社会の実現を目指してきた。その際、この民主主義は、理論的にも、そして歴史の事実としても、自由や平等、多元性といった民主的な諸価値を蹂躙する可能性のある国家権力、特に政府の行使する統治権力に制約を課そうとする。すなわち、統治に必要だという理由であらゆる手段を用いようとする権力、必要性の名の下で民主的な諸価値を蔑にするかもしれない権力を民主的な手続きや制度の下で統制しようとする努力である。この努力は、民主的な国家を維持するための大前提となるものである。たとえば、そのもっとも一般的な例が、自由で平等な選挙による統制である。議院内閣制をとる日本の場合、統治を行う内閣の過半数以上が選挙によって選出された国民の代表でなければならない。また、理論的には、政府の権力行使は、法律にもとづかねばならないが、その法律は、定められた手続きに従い国民の代表者から構成される議会によって作られる。

 

しかし、これら以外にも民主主義には統治権力を制限するための様々なやり方がある。今回の法律に関していえば、政府は、安全保障環境の変化の中、国家の存続の必要性を究極の根拠に集団的自衛権の行使を容認する法案を国会に提出し、定められた手続きに従い法律として成立させた。これによって、政府は集団的自衛権の行使という新たな権限を得たのである。とすれば、確かに、この法律、それを成立させた政府の意思と行動は、申し分なく民主的な統制の下にあったように見える。しかし、この点に関して、この法律に対する反対者たちは、異議を唱える。その反対者たちによれば、集団的自衛権の行使を容認した今回の法制化の過程では、統治権力を民主的な統制下に置くための根本的な約束が反故にされた。その約束が立憲主義である。ようするに、今回の法律は、この根本的な約束を破ったがゆえに、統治権力に課せられた制約を取っ払い、その自立化を促す可能性があるのである。

 

立憲主義について、もはや説明は不要であろう。憲法が課した制約を超えて統治権力の行使を可能にする立法、すなわち、憲法に反した法律の制定は、立憲主義に踏みにじるものである。今回の安全保障関連法が法理からして違憲であることは、専門家たちの共通理解であり、したがって、この立憲主義を否定するものであることは明白である。もちろん、違憲かどうかを判断するのは司法府の役割であり、そうした専門家ではない、という意見がある。しかし、裁判所が法律の専門家たちと異なる見解を打ち出すとすれば、それは、法理上の判断ではなく政治的判断を行った場合に限られることを強調しておこう。もしこのようなことがあるとすれば、それは司法府が、統治権力に制約を課す役割を放棄すること、すなわち、その自立化を容認することを意味する。これは民主主義にとって好ましい事態とはいい難い。

 

倒錯した民主主義の時代

政府の行使する権力、すなわち、統治権力の自立化が民主主義にとって脅威であることは、近代民主主義を理論的に基礎づけたルソーの『社会契約論』ですでに指摘されている。また、近代の民主主義の実際の歴史を回顧しても、統治権力にどう制約を課し統制するのかという問題は、民主国家において切実な課題であった。今回の法律の制定によって、立憲主義的制約が放棄され、統治権力の自立化の道が切り開かれたとするなら、この事態によって現在の日本の民主主義は新たな状況を迎えつつあるといえるかもしれない。それは、民主主義の装いの下で、民主主義の理念が形骸化され無効化されていくような、歪で倒錯した民主主義の時代の到来である。

 

歴史的に見れば、統治権力がその自立化をとおして民主主義を破壊したもっとも有名なケースが、20世紀にドイツのナチズムやイタリアのファシズムとして展開された政治運動であろう。周知のとおり、それは当時の代表制民主主義の下での選挙をとおして、政治権力を掌握することになるが、全体主義と呼ばれるその後の思想と行動を見るなら、それらは明確な反民主主義、より正確には、自由主義的(議会主義的)な民主主義を否定するイデオロギーに依拠していた――だからといって、シュミットの民主主義論を忘れているわけではないが――。すなわち、全体主義という政治運動は、公にされた反民主主義的なヴィジョンの下に、統治権力が政党を解散させ、言論や思想の自由を取り締まり、様々な権利を制約することで民主主義を破壊したケースだといえるだろう。これに対して、現在の倒錯した民主主義では、表向きはけっして民主的な諸価値や民主的な立法手続きが否定されることはない。むしろ、自由で平等な選挙やその下での政党間の競争、マスメディアの報道の自由言論の自由は基本的に保障されている。しかし、そうであるにもかかわらず、統治権力の自立化を防ぐための諸制度やその前提となる約束が骨抜きにされ、その結果、民主的な諸価値が有名無実化される危険性が生じる。だから、この倒錯した民主主義を安易に全体主義などと呼んだりすることは正確ではないし、適切でもない。なぜなら、それでは、現在の私たちの社会に生じつつある事態を見過ごしてしまうことになりかねないからだ。重要なことは、それが民主主義の可能な一つのあり方だと理解することだ。その上で、この倒錯した民主主義が私たちの社会に根を下ろしつつあるのではないかと警戒することである。

 

倒錯した民主主義の典型的な事例は、ウォリンが指摘しているように――この転倒した民主主義という言葉は、彼の「倒錯した全体主義(inverted totalitarianism)」の捩りである――、9.11以後のアメリカに見出すことができる。そして、日本でも、安倍政権が安全保障関連法を成立させた過程をとおして、この倒錯した民主主義が姿を現しつつある。しかし、このタイプの民主主義が出現する背景は何か。それについては、アメリカそして日本の現在を見てみればよい。現在の統治権力は激変する国内外の情勢に対応するべく、必要性という論理と不安という心理を国民に押し付け、可能な限り自由に思考し行動すること――日本の場合、それがアメリカの要請であるかどうかは、ともかくとして――を意思しつつある。この意思を背景にして、倒錯した民主主義が出現したように思われる。いわば、統治権力は、倒錯した民主主義をとおして、したがって、選挙や政党、マスメディアなど活用することで、民主主義を標榜しつつその制約を振りほどき、自らの意思を貫徹しようとしているのである。いずれにせよ、政府は、法理上、まったく根拠を欠いた憲法解釈を持ち出すことで憲法を超えた立法を行い、自らを立憲主義的制約から解放し、これまでに許されなかった権限を手に入れた。もはや現実となったこの事態は、倒錯した民主主義の時代の到来であるように思われる。

 

これからの民主主義

倒錯した民主主義は、不健全であるだけでなく、危険であることは指摘するまでもない。また、見分けにくい分、性質も悪い。この変質が見過ごされ放置されるなら、倒錯した民主主義が定着し、常態となるだろう。その場合、私たちの社会の未来はきわめて暗い。この民主主義の変質に対して抗うには、何が必要なのか。

 

倒錯した民主主義は代表制度の土壌に繁茂する。選挙で勝ち、議会で多数派を形成できさえすれば、そこでの決定はすべて民主的な正統性を持つものとされる。これこそ民主主義だ、といわんばかりに。だから、このタイプの民主主義は、政治は政治家に任せ、静かにしていないさい、悪いようにはしないから、と人びとに語りかける。この語りかけに対して、民主的な正統性はそれだけでは不十分であると異議を唱える人たちが必要なのだ。議会での意思決定では道理に適った理由――たとえ、その決定に反対する人であっても認めざるを得ない理由――を提示せよと声を上げ、権力を縛る立憲主義の約束を守れと声を上げる人びとが必要なのだ。もちろん、この不吉な事態を覆す好機は選挙だという人もいるだろう。確かにそのとおりだ。しかし、選挙の日まで、そうした声が社会に響き渡り続けることがなければ、その好機をものにすることなどできはしまい。

いま、デモを擁護しなければならない、いくつかの理由について

この期に及んでも頻発するデモ

現在、参議院では、9月中の安全保障関連法案の成立に向けて、審議が進んでいる。衆議院ですでに可決された本法案は参議院での賛成多数で成立するので、与党議員が過半数を占める以上、採決にこぎつきさえすれば、この法案は正式に成立する。たとえ参議院で採決ができなくとも、憲法59条4項の規定にもとづき衆議院で再議決が行われるなら本法案を成立することになる。だから、安全保障関連法案の成立は、憲法に規定された立法手続きからして、もはや既定路線なのである。それも関わらず、安全保障関連法案に反対する人たちは、その意思を表明するためのデモを懲りもせず計画しているようだ。

 

その一方で、特にネット上では、安全保障関連法案に反対するデモへの批判、たとえば、学生を主体とするSEALDsのデモに対する批判――誹謗中傷やデマから、まともな批判まで――が垂れ流されている。その多くは、党派的な立場からの言説、すなわち、自公の連立政権を擁護する立場からの言説だと考えてよいであろう。もちろん、一種のネガティヴ・キャンペーンとして、デモに対する党派的な批判はよくある。しかし、たんなる党派的意図からだけでなく、選挙以外の直接的な政治行動への嫌悪感から、民主社会におけるデモの機能や重要性を否認する批判も少なからず見受けられる。このタイプの批判は、人びとが自らの政治上の意思表明や政治へのコミットメントを選挙に限定すべきだ想定している点、このため、選挙によって選出された代表者による意思決定こそ、民主主義なのだという単純化された理解へと行き着いてしまう点に問題がある。そんな理解では、政治学においてもはや定説となっている、現在の民主主義の制度が直面する行き詰まりに対処できない。すなわち、有権者の期待や要求と代表制度のパフォーマンスとの間のギャップが生み出す「民主主義の赤字」(ピッパ・ノリス)という事態を正面から受け止めることを妨げ、それを解決しようとする試みを困難にしてしまう。ここに、単純化された民主主義理解の真の問題が存在する。

 

こうした現状だから、党派的な視点からSEALDsのデモを支持するかしないかではなく、日本の民主主義の先行きという視点からデモについて考える必要があるのではないか。そして、後者の視点に立つならば、その主張や要求のいかんに関わらず、デモを擁護する必要があるように思われる。このとこは、もちろん、安全保障関連法案に反対する人たちが、その成立の阻止がほとんどの不可能な状況にあっても、デモに行く理由について考えることでもある。

 

デモへのありふれた批判

いつ時代でも、デモに対する批判は、おおよそ2つの種類に分けられる。1つが、デモは代表制民主主義を破壊するという批判。もう1つが、デモには何らの効果がないという批判だ。

 

デモが代表制民主主義を破壊するという場合、2つの事態が想定されているようだ。1つは、街頭に立つ一部の市民が、公式の決定権力、すなわち、選挙で選ばれた代表者からなる議会の法制定権やそうした代表者を中心に構成される政府の政策決定権を簒奪し、意思決定を行うという事態だ。もう1つは、街頭で表明された一部の市民の主張や要求が公式の決定権力に影響を及ぼすという事態である。前者に関して、そのような事態は革命と呼んでよい事態であり、現在の日本で行われるデモで革命が可能になるとはほとんど考えられない。したがって、問題となるのは後者の事態である。

 

現代の政治理論において、市民が投票以外で議会や政府に影響を及ぼす事態は、必ずしもネガティブに捉えられているわけではない。むしろ、選挙を基盤にした代表制度の欠陥が露呈している状況では、民主社会の健全性の証左として、ポジティヴに捉えられることが多い。ここでは2つの説明を挙げておく。1つは、現代の民主社会に固有な事態――多元性の事実――に関わる。現代の多元的な社会には多様な利害関心や価値観が存在するが、そこから出てくる要求や争点を選挙だけで集約することは不可能であり、また、それらは選挙後に変化することが大いにある。ここから、選挙以外で表出された要求に議会や政府が敏感に反応し対応することは、代表制度全般がうまく機能するには必要であると同時に、その民主的正統性にとっても望ましいということになる。実際の政治的意思決定が市民社会の多様な団体の要求の影響下でなされるという事実からすれば、デモで表明される要求だけを排除する理由はない。もう1つは、デモが選挙では代表されないような社会の少数派の主張や要求を表明する機会だという点に関わる。現代の民主主義にとって主要な課題の一つは、代表制度の多数決ルール=多数者支配(majority rule)から少数派の権利や利益を擁護するだけでなく、積極的に政治的決定に反映させていくことにある。ここから、少数派の意思表明を可能にするデモは、代表制度を基盤とする民主主義にとって必要不可欠な政治上の機会だといえる。たとえば、日本国憲法が、このような機会を表現の自由などの政治的権利として保障し、民主的な社会の礎としていることはあえて指摘するまでもない。ようするに、これらの説明から、現代の代表制民主主義では――しばしば誤解されているのとは違って――、デモのような選挙以外の政治活動が代表制度の性質ゆえに、必要になることが分かる。

 

それでは、デモには効果がないという批判はどうであろうか。確かに、先に述べたとおり、今回の安全保障関連法案に反対するデモの目的が法案成立の阻止にあるわけだから、その阻止がほぼ不可能であることが分かった時点で、デモには効果がないといってもよさそうだ。しかし、これは、デモで掲げられた主張や要求が受け入れられ、即座に法律や政策として結実するかどうかという、限定された視点から見た場合、そういえるに過ぎない。何らかの政治的行為の影響力を、限定された視点や短期的なスパンで測ることはもちろん重要だが、多角的な視点から測っていてみることもまた必要だ。そうした場合、デモには効果がないと即座に断定することの難しさが分かる。

 

民主的な社会におけるデモの機能

デモには、その効果の有無を即断することが困難な機能がいくつかある。そこで、過去、現在、未来という多角的な視点からそうしたデモの機能を整理してみよう。

 

現在との関係で見た場合、ほとんどのデモは、現在の政治状況や社会状況に対して異議を申立てる政治行為だ。デモを行う当事者からすれば、この異議申し立ての狙いは、そこで表明した自分たちの要求がメディアの関心を喚起し、新たな世論を形成し、その結果、公式の決定プロセスに影響を及ぼすことにある。それに対して、代表制度全体という客観的な視点から解釈するなら、これは、新たな社会問題の発見や政治争点の提起、あるいは、顕在化している争点への解決策の提示として理解できる。さらに、デモにおける異議申し立ては、別の客観的な機能がある。それは選挙の狭間において代表者のパフォーマンスをチェックし、監視する機能だ。選挙時に約束した政治課題への取り組みはどうか、ある一部の人びとの利益や代表者自身の利益を優先した独善的な政治を行っていないか、世論の動向や新たに提起された争点に敏感に応答しようとしているのか。それらについて代表者をチェックし、そのパフォーマンスが不十分な場合には、代表者たちに警告する機能がそれだ。代表者を監視する「番犬」として異議申し立てが機能するには、代表者たちの政治が人びとの期待や信用を裏切るような場合は必ず、デモが一定の規模で起きることが必要だ。すなわち、街頭での異議申し立てが反復されることで、制度化されざる制度となることが必要なのだ。

 

過去との関係から見たデモの機能は、その社会の民主主義の記憶や歴史を継承することにある。ほとんどの民主的な社会には、デモをはじめとする普通の市民の直接的な政治行為が、政治を動かし、民主的な社会の発展に寄与した歴史がある。それは、定期的に行われる選挙と代表者による政治とは異なる、市民社会に根差した政治文化としての民主主義の歴史である。戦後の日本からその一例を挙げるとするなら、公害に対する住民運動がある。公害に苦しむ住民たちの地道な異議申し立てが、マスコミを動かし、世論の関心を喚起し、ひいては、環境政策を進展させたことは、周知のとおりだ。デモは、その参加者が意識しているかどうかは別にして、現在の民主的な社会に対して、その礎を築いてきた市民の直接的な政治行為の記憶を蘇らせる。こうして、代表制では語り尽くせない民主主義のもう一つの歴史の持続が可能になるわけだ。

 

最後に、未来との関係から見るなら、デモには、今後の民主主義の担い手を作り出す機能もある。家庭や学校あるいは職場での日常生活を切り裂いて出現するデモは、選挙とは異なる、民主主義を直に体験する場となる。こうした体験が、いわゆる学校教育では教わることのない、政治教育の機会となるのだ。デモの参加者は、選挙以外の方法で、自らの政治的な意思を公的に表明することが可能なこと、それが必要なことを学ぶだろう。また日常生活に戻っても、その経験は、公共的な問題へコミットしようとする態度を培い、政治的なリテラシーを高めようとする動機づけとなるように思われる。街頭という民主主義の学校でその担い手としての自覚を喚起された人たちの中から、現在の代表制度の下で求められている、「番犬」が出てくると推測することは難しくないだろう。

 

デモとどう向き合うか

こうしたデモの機能は、その効果を即座に判断することが難しい。なぜなら、それらは、定期的な選挙への参加だけでは育むことのできない、民主的な社会の政治文化に関係するからだ。そして、このような政治文化の成熟こそ、現在の代表制度の下で蓄積した「民主主義の赤字」を清算していくために必要とされていると考えられるのだ。

 

それでも、デモなどくだらないと考える人もいるだろう。そう考えることは、もちろん自由だ。しかし、もしかしたら、そんな人も、今後、デモに参加せざるを得ないような状況に置かれることがあるかもしれない。これは誰にでもある可能性だ。そうだとすれば、デモで掲げられている主張や要求が気に入らないからといって、デモそのものを否定したり、冷笑したりすることは民主的な社会のメンバーとして、フェアではない。あるいは、デモで重要なのは、議会や政府に影響力を行使し、自分たちの主張や要求を即座に実現することだという人もいるだろう。確かにそのとおりだ。しかし、民主主義の歴史を見るなら、そうした期待のほとんどは裏切られてきたといってよい。この点については、現実的であるべきだ。とはいえ、現実的であるためには、民主政治における決定は、つねに暫定的であり、変更が可能だということを思い出す必要もある。これが意味しているのは、異議申し立てを、一過性のお祭り騒ぎに終わらすことなく、持続させねばならない、ということだ。これは容易なことではないだろう。そんなとき、自分が従事している行為の意味や機能を多角的に検討してみるのも、無駄ではないように思われる。