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民主主義とその周辺

研究者による民主主義についてのエッセー

トランプ・ショックと壁に覆われる世界――トランプ大統領の誕生と今後の民主主義の行方――

トランプの勝利はアメリカの民主主義の敗北を意味するのか?

大方の予想を裏切るトランプの衝撃的な勝利は、文字どおり、世界を震撼させることになった。選挙から一週間たった今も、このトランプ・ショックはアメリカの内外を問わず、様々な反応を引き起こしている。そのなかでも、いわば条件反射的に表明されたのが、アメリカの民主主義に対する失望であった。無知蒙昧な大衆による愚かな選択によって、アメリカの民主主義は敗北した、という反応だ。もちろん、そう言いたくなる気持ちは十分わかる。たとえば、トランプが選挙運動の期間中に繰り返した、人種的偏見や女性蔑視にもとづく数々の差別的言動、事実とは異なる発言による中傷と扇動、自分が負けた時には選挙結果を受け入れないなどと仄めかす姿勢。これらはアメリカをはじめとする民主的な社会のルールや価値観と相いれないものであった。また、得票数ではトランプよりもクリントンの方が多かったという事実も、そうした反応に拍車をかける一因だろう。

 

とはいえ、今回のトランプの勝利は、アメリカの民主主義の勝利と考えることもできる。現代の貴族と化した、政治および金融資本のエリートたち――その象徴が、ワシントンD.C.であり、ウォール街である――に対する、普通の市民の反乱としてトランプ現象を捉えるとするなら、反エリート主義というアメリカの民主主義の伝統をこの現象に見ることは難しくない。何より、アメリカの大統領の選出の仕方がかなりユニークであることを差し引いても、自由で公正な選挙を基盤にする民主的な手続きを経てトランプが当選したことは否定しようがない。だから、トランプの勝利を民主主義の敗北として捉えるのではなく、これも一つの民主主義なのだと考えるべきだろう。選挙後、トランプの勝利に異議を唱える若者たちのデモンストレーションがそうであるように、これもまた民主主義のなせる業ということだ。

 

トランプ政治のリスク

しかし、そうはいっても、トランプのようなとりわけポピュリスト色の強い政治家をリーダーにする民主政治には、前回のコラム(http://blogos.com/article/191571/)で論じたようなリスクが少なからずある。トランプは優秀なビジネスマンだから、大統領になれば合理的に判断し、選挙戦での約束はなんのその、現実的な政策を進めていくに違いない。こんな楽観論が広がりつつある今だからこそ、ポピュリズム化した民主主義という理論的な枠組みから見た場合の、次期トランプ政権のリスクについて考えてみる必要があるだろう。

 

一般に、近代民主主義におけるポピュリストの権力の基盤は、既成の代表制度の内部で自分たちの利益を代表してくれる政治家や政党を見出せず、見捨てられたと感じる有権者である。ポピュリストはそうした有権者に対して我こそあなたたちの利益を代表する者だと主張する。代表者を持たなかった有権者はその投票によって、自分たちの利益を実現すべくポピュリストに政治権力を付与する。ところが、そのポピュリストは結局のところ、見捨てられた有権者の利益を実現しない、あるいは、実現できないとしよう。自分たちの利益を代表してくれると考え投票したはずの政治家は、実はそうではなかったという事態だ。ポピュリストは組織された持続的な支持基盤を欠いているため、代表者を持たない有権者に対して受けは良いが、合理的でなく首尾一貫もしていない政策を掲げることがしばしばある。したがって、ポピュリストが政治権力を獲得する場合、そうした事態を招き易い。次期トランプ政権も、彼を大統領に押し上げた原動力といわれる、「見捨てられた」白人労働者層の雇用を取り戻し、生活の安定を確保することで傷つけられた自尊心を回復できるかどうかという問題に直面することになる。

 

この事態が現実のものとなったとき、有権者の側に何が起こるのだろうか。おそらく、ポピュリストを支持した有権者の失望は避けられないだろう。この有権者の多くは、既存の政党や政治家によっては、自分たちの利益や意思が実現されないと考える人びとだ。すなわち、そもそも既存の代表制度に不満を持っている人びとが、ポピュリストを支持するのである。こうした人びとが自分の支持したポピュリストに裏切られ失望した場合、その不信や怒りは、たんに当の政治家に向かうだけでなく、代表制民主主義そのものへ向かう可能性は少なからずある。トランプの失政によって代表制民主主義それ自体に不信や怒りが向けられることになれば、その正統性は低下し、制度として機能不全に陥ることが予測できる。現代の先進諸国の社会の安定が、代表制民主主義の下で正統化された統治によって確保されてきたことは説明するまでもない。だとすれば、こうした事態を招きやすいとも考えらえる次期トランプ政権には、民主的な統治の危機を生み出し、アメリカ社会を不安定化させるリスクが存在すると言える。

 

さらに、支持者との約束を果たせない場合、ポピュリストはマイノリティを攻撃し社会の多様性を敵視する極端に道徳主義的政治、すなわち、不寛容な排外的政治を行うことも考えられる。なぜなら、ポピュリストは、排除すべき敵を名指し、それを徹底的に叩くことで支持を集めるという手法をとるからだ。ここから出てくるのが、少数者集団の抑圧による社会の分断という事態である。トランプの場合、主要な敵は不法移民や宗教上のマイノリティである。彼はすでにこれらの敵を叩くことで、白人の労働者階級の一定の支持を集め、大統領選挙戦を勝ち抜いた。潜在的に存在していた社会の分断を扇動し政治的に利用した結果は、選挙後の抗議デモに端的に表れていると言える。追い込まれたトランプが、こうした扇動によって彼の支持者の不満を和らげようとすると考えることは、ポピュリストとしての彼のこれまでの言動に鑑みれば、けっして突飛なことではない。しかも、そうした扇動は、暴力を封じ込めてきた民主的な統治が危機に直面する中で、白人の差別意識を解き放ち、敵として侮辱された人びとの憎みや恐怖を爆発させるわけだ。こうして、次期トランプ政権は、たんにアメリカ社会を不安定化させるだけでなく、制御されない暴力による社会の分断のリスクとつねに隣り合わせだとさえ言えるのである。

 

確かに、これらは最悪なシナリオにおいて想定されるリスクだ。これに対して、既存の代表制度から見捨てられた人びとの失望は、相変わらずの政治的無関心を助長するだけで終わるという楽観的なシナリオがないわけではない。しかし、イギリスのEU離脱からトランプの勝利へと至るこのところの世界の民主主義の成り行きを見るにつけ、もはや、これまでの常識は通用せず、安易な楽観は許されないようにも思われる。

 

トランプ・ショックが加速させる今後の民主主義の潮流

トランプの勝利に世界が震撼したのは、憎悪を扇動しアメリカ社会を分断させようとした候補者が大統領になったからとか、その結果、今後の世界秩序の激変の可能性が高まったからとかいう理由だけではない。トランプの勝利が、現代の先進諸国の民主主義の潮流に与える影響への懸念もトランプ・ショックの理由の一つだと言える。現在、懸念されているのが、20世紀の民主主義の牽引国であったアメリカにおける典型的なポピュリスト大統領の誕生が、オーストリア自由党オランダ自由党をはじめとする極右ポピュリスト政党の政権掌握を後押することで、ヨーロッパのポピュリズムをますます活気づけ、民主主義のポピュリズム化の潮流を決定づけたのではないか、ということだ。これが意味しているところは、ポピュリズムが代表制度の下での民主主義の病とか例外的事態とかではなく、ノーマルな状態に、したがって、民主主義そのものになることだ。

 

今回のアメリカ大統領選挙が民主主義のポピュリズム化を決定づけたとするなら、そして、民主主義のこうした潮流に危機感を覚えるなら、それを生み出すに至った背景にしっかり目を向けなければならない。確実に指摘できるその背景は、主権国家の衰退の下で、これまでの生活を脅かされ、不安や戸惑いを抱えた人びとが想像以上に増えている現状だ。これまで守られてきた生活の安全や安心、そうした生活への愛着が傷つけられ奪われつつあるのにこの状態を放置する無力で無責任な国家への怒りが爆発しつつある。こうした怒りは、言うまでもなく、冷酷な国家の運営に直接携わったり、影響力を及ぼしたりするエリートたちに向けられる。ポピュリストはこの状況の中から頭を擡げ、人びとの傷ついた心に根を下ろす。ポピュリストは冷酷な国家を厳しく弾劾し、既存の政治家や政党に責任を取らせると公言した上で、強く責任のある国家を復活させることを有権者に約束する。

 

このとき、ポピュリストが提案し、人びとが求めるのが壁である。国境を守るための物理的な壁であり、国内経済を守るための関税としての壁であり、危険な人間から日常生活を守るための差別という壁である。もちろん、主権国家は自らの生存とその下で暮らす国民を守るために、何らかの壁を設けざるを得ない。だから、問題は壁が必要ないということではない。真に問われるべきは、国境に壁を建設し、関税という壁を設けて外国の製品を締め出し、人びとの間に侮蔑と憎しみの壁を作ることで、はたして、国内外の弱肉強食の競争というジャングルの掟によって疲弊し傷つけられた人びとの生活とその尊厳を回復できるのか、ということだ。

 

残念ながら、いくつかの研究が示唆するところでは、そうした壁は実際のところ、有効でないばかりか、新たな問題を生み出してしまうようだ。ウエンディ・ブラウンが論じているように、このことを分かっていながら、壁を建設しようとするなら、その行為は、どうにもならない現実に対する無意識の心理的な防御メカニズムに由来すると考えるべきだ。だとすれば、必要なことは、そのような壁が必要になった、より直接的な原因を直視し、それに手当をすることである。国際資本の論理によって人びとの生活を翻弄する、野放しのグローバリゼーション、それによって脅かされた生活の安全の保障を国家に放棄させる新自由主義。ここにその原因があることは、もはや誰も否定しないだろう。これらを現状のまま放置し続ける限り、現代のポピュリストの跋扈を防ぐことはできないだろうし、ポピュリズム化する民主主義の潮流を変えることもできないだろう。それができなければ、私たちは壁で囲まれたひどく窮屈な世界で生きていくことになるのかもしれない。

ポピュリズムだけがそんなに悪いのか?――ポピュリズム化する民主主義の時代のリスクとエートス――

世界を席巻するポピュリズム

昨今の政治の動向を理解するための鍵の一つはポピュリズムにある。こういっても、異論はおそらくないであろう。トランプやサンダースが主役になったアメリカの大統領選挙もしかり。今後、ヨーロッパ政治の台風の目となるかもしれないイタリアの五つ星運動もしかり。つい先だって、大きな国際問題にもなった、ブレクジット、すなわち、国民投票によるイギリスのEU離脱も、ポピュリズムの観点から説明することができる。例を挙げたら切りがないわけだが、少なくとも制度としての民主主義が成熟しているとされる国々の政治において、ポピュリズムはまさに諸問題の焦点となっている。

 

もちろん、日本の政治状況も例外ではない。国政では、小泉政権の政治手法がポピュリズム的だとして論じられてきたし、地方政治では、議会や様々な利益団体を守旧派として対決的な姿勢を売りにした、田中康夫長野県知事などの改革派知事以後、近年では橋下前大阪市長がポピュリストとして注目を集めたのは記憶に新しい。現在、築地市場の移転問題でマスコミを賑わせている、小池東京都知事も、即断はできないものの、ポピュリズム的な手法をとりつつあるように思われる。少なくとも、都知事選において、自民党都連との対決姿勢を打ち出した選挙戦術とその成功は、ポピュリズムの観点から説明される必要がある。

 

何を今さらという人がほとんどだろう。確かにそうだ。しかしながら、久しぶりのコラムでこんな分かり切った話題をあえて取りあげるのには、ちょっとした理由がある。それは、上で挙げたような事例を論じる際、ポピュリズム大衆迎合的政治として過度に拒絶する反応がエリートたちを中心に未だ顕著であるように思われるからだ。「ポピュリズム?はい、論外です」という風に。すなわち、エリートを敵視するあまり衆愚政治を招いたり、大衆に熱狂的に支持された政治家の独裁を招いたりする危険があるからポピュリズムは駄目だというわけである。しかし、ポピュリズムが現代政治の実相を理解する鍵となっているとすれば、そうした態度で済まされるわけもない。ポピュリズムは常に批判されてきたにもかかわらず、政治の現実はポピュリズム色を強めている。いやむしろ、ポピュリズムを上から目線で叩けば叩くほど、その勢いは増々強くなる。だから、確かにまっとうに聞こえる衆愚政治や独裁への警戒も、ただ政治の現実の否認に終始するなら、それほど意味があるとはいえない。今、必要なことは、ポピュリズムと現代の民主主義との親密な関係についての冷静で行き届いた理解ではないだろうか。では、ポピュリズムとは何であり、それと民主主義との関係をどう理解すべきなのか。

 

鵺(ぬえ)のようなポピュリズム

ポピュリズムを扱う議論では必ず触れられるように、この語彙自体は19世紀末のアメリカで生じたラディカルな農民運動に由来する。この運動が政治化する中で、その担い手たちが自分たちの利益を代表する政党を「ポピュリスト党(人民党)」と名乗ったのが始まりだ。もちろん、それ以前の、フランス第二共和政から第二帝政にかけてのボナパルティズムやロシアのナロードニキ運動などは、現在ではポピュリズムの観点から説明されるが、ポピュリズムといえば、このアメリカのケースから始められるのが一般的だといえる。20世紀になると、アルゼンチンのペロン政権やブラジルのヴァルガス政権などラテンアメリカポピュリズムが多くの関心を集めることになる。これらは、工業化社会へと転換しつつあった社会、しかも、民主主義の諸制度が完備される途上にあった社会におけるポピュリズムといえる。これらの例に対して、ヨーロッパを中心に1990年代以降とりわけ問題化されたのが、排外主義を唱える極右勢力のポピュリズムである。しばしば、この政治潮流は、「ニュー・ポピュリズム」(ポール・タガート)と呼ばれるが、脱工業化社会の成熟した民主主義の制度下で台頭したポピュリズムという点にその特徴がある。そして、私たちの時代のポピュリズムもこの潮流を起点に考える必要がある。

 

政治に関する多くの語彙において、ポピュリズムほど概念上の定義やこの政治現象を説明する際の特徴が曖昧なものはない。ポピュリズムは、時代背景や各社会に固有な文化的・政治的文脈に応じて、その要求や戦術、担い手など様々な形をとる。ポピュリズムが文脈依存的であることを前提とした上で、政治現象としてその特徴を挙げるなら次のようになる。政治家や官僚など権力を行使するエリートに対して私利を貪り腐敗していると批判する点、普通の市民の利益や意見を代表しているのは自分たちだと主張する点(大衆迎合的性格はここから由来する)、既得権益に群がる集団といった敵を作り出し徹底的に叩くといった対決的な政治手法を用いる点、議会などでの熟議や交渉よりもレファレンダムなどの民意を直接表出させる決定方法を好む点などだ。ポピュリズム的と呼ばれる政治が上記の特徴すべてを備えているわけではないものの、そのありようをイメージする際これらの特徴は手助けになるだろう。

 

とはいえ、分かりやすいイメージをなぞるだけでは、ポピュリズムをめぐる現代の問題の核心に触れることはできないだろう。なぜなら、それでは、現在の政治がポピュリズム色を強めつつある事態、換言するなら、現代の民主主義とポピュリズムとの区別がますます難しくなりつつある事態を検討することにはならないからだ。

 

民主主義の病としてのポピュリズム

ポピュリズムと民主主義とが分かち難い関係にあることは、ポピュリストが自らの正統性を普通の市民の代表者であるという自認から引き出している点に見ることができる。すなわち、ポピュリズムの究極の正統性は主権者であるピープル(人民)の存在に依拠している、換言するなら、その正統性は人民主権という概念に依拠している。この概念が近代民主主義の理論的な核であることは周知のとおりだ。ここに、ポピュリズムが民主主義的な性格を持つわけがある。また、ポピュリズムを社会運動として見ても、その民主主義的性格を確認できるだろう。それはこういうことだ。ポピュリズムが批判される場合の多くは、政治家が無党派層の支持を取り付けるべく、対決的であると同時に極端に単純化された争点を掲げて扇動するような「上からの」ポピュリズムである。しかし、その一方で、現在でも「下からの」、すなわち、「草の根的な」ポピュリズムも存在する。その代表例は、もちろん、ティー・パーティー運動だ――この運動と組織化された保守系利益団体などとの根深い繋がりはあるものの、その草の根的側面を否定する研究はほとんどない――。ポピュリズムが社会運動として持ちうる草の根性は、その民主主義的性格の証左であり、それを反民主主義として簡単に退けられない理由の一つともいえる。

 

ここから、ポピュリズムは民主主義のあり方の一つとして理解することができる。しかし、だからといって、それと民主主義とが全く同じというわけではない。たとえば、民主主義の研究者の間では、ポピュリズムを代表制民主主義(自由民主主義)の病(pathology)として理解することがしばしばある。病は健康という規範的な状態から逸脱した状態、あるいは規範的な状態を可能にする機能の不全を意味する。それゆえ、ポピュリズムは民主主義が機能不全ゆえに、そのあるべき状態から逸脱した政治だといえるだろう。

 

とすれば、この逸脱はどのようにして起きるのだろうか。すでに指摘したとおり、その直接の原因は、19世紀から20世紀にかけて、選挙-政党を軸に整備されてきた代表制度の機能不全である。既成の政党や政治家はもはや普通の人びとの利益を代表していない。むしろ、それらは自分たちの利益を追求し、普通の人びとの生活を顧みない利益集団でしかない。「堕落した」既成政党や政治家へのこんな不信は、もはや当たり前のメンタリティといえるかもしれない。投票率の低下、党員の減少、無党派層の増大を代表制度への不信に求めることは常識にさえなりつつある。

 

しかしながら、現代のパワーエリートの堕落だけを代表制度への不信や不満の原因とするのなら、それは妥当ではない。20世紀の中葉以降に先進諸国で進行した、工業化社会から脱工業化社会への転換、あるいは物質主義の時代から脱物質主義の時代への転換――だからといって、経済的不平等を緩和する富の再配分などの物質主義に関わる問題がなくなったわけでは決してない――は、社会そのものの複雑さと再帰性を増大させた。その結果、物質主義的な価値が争点化される工業化社会には適合していた代表制度は、複雑で再帰的な社会の政治的要求を代表することが困難になった。さらに近年では、グローバル化新自由主義的政策の下で、代表される者と代表する者との隔たりはいっそう深まっている。こうした現状の認識から代表制度の機能不全を検討する必要があるだろう。既成の代表制度をどれほど正常に運用しようとも、もはや普通の人びとの期待を満足させることが困難になりつつあるということ。この認識から出発してポピュリズムについても考える必要があるのだ。

 

代表制度への不信の原因をこれ以上掘り下げることは控えよう。ここで重要なことは、政党や政治家に代表されていないというメンタリティが私たちの社会の日常的な雰囲気となっているとするなら、そこからポピュリズムがいつ頭をもたげても不思議ではない、ということだからだ。ようするに、そのような雰囲気の中では、民主主義のポピュリズム化の傾向は強くならざるをえないのである。

 

ポピュリズム化する民主主義の時代にどう向き合うか?

現代の民主主義はポピュリズムとますます分かち難くなっている。しかし、この事態が好ましいかといえば、必ずしも、そうでもない。確かに現代の民主主義もポピュリズムも政治的決定の正統性を民意に求めるものの、双方の間には異なる点も少なくない。中でも近年強調されているのが、熟議をめぐる相違点だ。よく知られているように、現代の民主主義理論では、多数決原理に立脚する利益集計型民主主義論に対する批判として、熟議が重視されている。熟議を組み込んだ民主主義は、十分な情報にもとづいた議論が人びとの選好を変容させるという想定の下で、理に適った理由にもとづく政治的意思決定を理想とする。これに対して、ポピュリズムは熟議よりも、あるいは合理的な判断よりも、「友/敵」という対決的な政治スタイルの下での決断を好む。また、その際、ポピュリズムは価値観の多様性を承認するよりは、不寛容な道徳主義的言説に依拠することがしばしばある。その結果、排外的な政策を生む場合も少なくない。さらに、道徳を基盤にした決断主義を好むポピュリズムは政治争点を単純化する傾向にあり、それによって、政治が取り組むべき本来の問題を隠蔽にしたり、問題解決のための冷静な思考や地道な努力を退けたりする可能性もある。これらはポピュリズム化する民主主義のリスクといえる。

 

民主主義のポピュリズム化する傾向がますます高まる一方で、民主主義とポピュリズムとのこうした相違点から、現在の政治の危うさが生じているとしよう。その場合、私たちはこの現実にどう向き合うべきなのか。

 

おそらく、二つのやり方があるだろう。一つは、代表制度の改革が必須であろう。なぜなら、ポピュリズムは代表制度の機能不全から生じているからだ。事実、多くの国々で、代表制度の機能不全を是正すべく、政治的決定プロセスに市民の参加や熟議を組み込もうとする、様々な民主主義のイノヴェーションが試みられている。もう一つは、政党や政治家に対する再帰的な眼差しによる監視が必要であろう。この監視は以下のことを意味する。すなわち、民主主義がポピュリズム化せざるをえず、また、ポピュリズム化した民主主義にはリスクがあることを十分認識した上で――ここでの「再帰的」とはこうした認識を意味する――、ポピュリストが、普通の人びとの利益を真摯に代表しようとしているのか、それとも、自らの権力の増進や維持のためのパフォーマンスをしているだけなのか、さらに、ポピュリストが代表していると主張する利益が本当に普通の人びとの利益なのか、私たちが醒めた目で監視することだ。そして、この監視を一時的なものでなく「エートス」とすること、すなわち、この語の元来の意味での「習慣」とすることだ。

 

こうした監視は、今の日本の政治にも求められているように思える。たとえば、小池東京都知事が取り組む築地問題がそうだ。小池知事は都民の真の利益を誠実に代表しようとしているのか、それとも、今後の彼女の政治家としてのキャリアの踏み台にしようとしているのか。その二つは不可分なのであろうが、小池知事の言動とその結果をしっかり監視することで、判断する必要がある。むろん、この判断は容易ではない。しかし、これは、ポピュリズム化する民主主義の時代に生きる私たちの責任ではないだろうか。この責任が放棄されるなら、歴史的に反復されてきたポピュリズムの悪夢の再演を許すことになりかねない。少々大げさかもしれないが、この不安を完全に払拭することはなかなか難しいように思われる。

最大の争点は3分の2――第24回参議院選挙後の最悪のシナリオから考える――

地味で退屈な選挙?

参議院選挙の投票日まで、残すところわずかである。今回の選挙は、選挙権が18歳に引き下げられて初めての国政選挙ということで話題となってはいるものの、それ以外の点では、さほど有権者の関心を惹きつけているわけではないようだ。投票率が過去最低になるだろうという予想も出ている。

 

3年に1度、定期的に実施され、現政権の中間評価的な意味合いの強い参議院選挙。確かに地味である。EU離脱の是非が問われたイギリスでの国民投票と比べるなら――レファレンダムと代表を選出する投票との違いはあるものの――、退屈とさえいえるかもしれない。とはいえ、今回の参議院選挙の最大の争点を正確に見分けるなら、必ずしもそうはいえない。今回の選挙は、結果次第で戦後の日本のあり方を根本的に変えることになる、その始まりの選挙と考えられる。もちろん、その争点とは、すでに衆議院で3分の2の議席を獲得している改憲勢力が参議院でも3分の2の議席を獲得するかどうか。すなわち、安倍内閣の下で、憲法改正の発議が行われ、国民投票が実施されることになるかどうか、である。予断は禁物ではあるが、多くの調査を見る限り、改憲勢力が今回の選挙で3分の2の議席を獲得する可能性が極めて高いようなのだ。

 

各党の公約を読むと、TPPから安保法制、同一労働同一賃金などの労働問題、育児や教育などなど、様々なトピックが掲げられている。マスコミの参議院選挙の報道では、その当初から、アベノミクスの評価と憲法改正とが選挙における2大争点とされている。ただ、後者の争点に関していえば、自民党の公約に憲法改正についての言及があるものの、選挙戦では、憲法改正が正面から取り上げられているとはいえない。そのため、争点隠しという批判がちらほら出てきている。もちろん、このような批判をとおして、政党の側からではなく市民社会の側から、つまり、上からではなく下から選挙の争点形成を試みることは、民主的な政治において望ましいことだ。とはいえ、この試みは今回の選挙ではほとんど効果がないようである。そこで、なぜ自民党憲法改正を争点化しないのか、そのわけを推測するとしよう。そうすることで、選挙後の最悪なシナリオを考えてみたい。おそらく、ここから、この選挙で何が真に賭けられているのか鮮明になるだろう。

 

選挙とその後のシナリオ

自民党憲法改正の争点化を避ける理由は容易に想像できる。それは、自民党の戦略にある。すなわち、現行の憲法の何をどのように改正するのか有権者に問うよりも、現行憲法の改正が可能となる条件を実現するという戦略だ。換言すれば、憲法改正の内容は後回しに、ともかく、憲法改正の発議が可能となる形式の整備を目指す、ということである。かりに、今回の選挙で憲法改正を争点化するなら、特に改憲に積極的な自民党――それに追随することはほぼ間違いない現在の公明党――やおおさか維新の会などは憲法改正の内容に具体的に踏みこまざるを得なくなる。これは憲法改正を実現する上で望ましいこととはいえない。なぜなら、選挙後の改憲勢力間での憲法改正の発議に向けたとりまとめにおいて、要らぬ足枷を設けることになりかねないからでもあるし、何より、選挙において有権者のネガティヴな反応を呼び起こすリスクがあるからだ。だから、選挙戦では憲法改正を正面から訴えることは得策ではないのだ。そう考えないと、参議院選挙後に憲法改正の最初のステップである憲法審査会を再始動させると自民党のトップが言っているのに、選挙戦でそれを争点にしない現状を説明することは難しい。

 

こうした推測から最悪のシナリオは次のように描かれる。選挙戦では、憲法改正に触れず、有権者がネガティヴな反応を示しにくいアベノミクスにもっぱら世論の関心を向けさせておくことで、参議院で3分の2の議席憲法改正勢力で確保する。その上で、短期間のうちに世論の抵抗の少ないトピックで改正の原案が国会で提起される。そして、次の衆議院選挙までに数の力で憲法改正の発議までもっていく。こうした戦略は、政治的な計略としては合理的だ。言い換えれば、目的を達成するためには最適なやり方だ。しかし、民主主義的な手続きの上では瑕疵がないとしても、つまり反則ではないとしても、そこには大きな問題がある。これについては、上記のシナリオが万が一現実になったときに詳細に論じるとして、ここでは、それが「最悪だ」といいうる2つの特徴を指摘しておこう。1つは時間の短さである。もう1つは目的と手段の転倒である。

 

最初の特徴に関してはこういえる。憲法改正が実際に可能となる条件は、いつまでも続くわけではない。すなわち、次の衆議院選挙でこの条件は崩れる可能性がある。そうであるなら、自民党が結党以来、党是としてきた自主憲法の制定の端緒が目の前に開かれているのに、果たしてこの好機をみすみす逃すことがあるだろうか。こうして、2018年までという短期間で、憲法改正の発議がなされることになる。安倍首相は、「憲法改正は、3年から4年でできる話ではない」と発言したようであるが、それはいつでも翻される可能性はあるし、そうしたとしても何ら問題はない。70年近く全く手を付けられてこなかった現行憲法をどのような形であれ変えること、まずはそこから始めて改憲への国民の抵抗感を弱め、たとえば、すでに公表された自民党憲法草案の理念などはその後、繰り返し改憲を行う中で実現していけばよいわけだ。しかし、発議までの時間が短ければ、歴史的に蓄積された憲法論争は顧慮されることがないままに、また、十分な熟議の時間も与えられることもないままに、国民投票が行われてしまうことになる。

 

そして、ここから、憲法改正における目的と手段の転倒という2つ目の特徴が出てくる。先に挙げた憲法改正の条件に縛られることで、現行憲法の改正それ自体が目的となり、何をどう改正するのかはそのための手段となる。これは、真剣に現行憲法の問題点を検討した結果、その改正を望んでいる人たちにとっても、憲法改正に反対する人たちにとっても、不幸な事態である。国会での憲法改正の発議の条件が整っている以上、あとは、最大の難関とはいえ、国民投票をクリアすればよい。そのためには、国民には受け入れやすく見える論点――9条などではなく、たとえば、緊急事態条項のような論点――から憲法の改正を行う。憲法改正自体が当座の目的となれば、こうした形での改憲は合理的で現実的な道筋といえる。現在の自民党を中心とする改憲勢力がこの道筋を選択する可能性はないと断定できる人はいないのではないか。とはいえ、自己目的化した憲法改正など、いったい誰が望んでいるのであろうか。

 

最悪なシナリオを現実のものにしないために

このシナリオは、衆参両院において改憲勢力が3分の2の議席を占めるという条件から導き出される、あくまでも想像上のものだ。とはいえ、このようなシナリオを描くことを可能にするそれなりの理由は、スケジュール上の制約以外にもある。たとえば、それは、安倍内閣におけるこれまでの選挙戦術である。その戦術で印象的なのが、経済を争点化することで論争を呼ぶ問題の争点化を巧みに避けてきた点にある。特定秘密保護法や安全保障関連法がすぐ脳裏に浮かぶだろう。そのような問題に関しては、選挙で争点化せず、選挙後に一気に押し切る、こうした手法だ。シナリオにおいては、この手法が憲法改正においても取られると想定している。さらに、安倍首相のこのところのフレキシブルな政治姿勢もこのシナリオを裏書きするものだ。その姿勢とは、米国上下院での彼の演説、戦後70年談話、何より、慰安婦問題日韓合意に端的に見いだされる。そこで印象的であるのは、復古的な政治信念を持つ安倍首相が、まさにそれを表明する好機において、譲歩的な姿勢を示した点だ。もちろん、そこに安倍首相の現実主義的な側面を見出し、政治家に不可欠な老獪さとして評価することはできる。それはともかく、彼の本来の信念に拘らず妥協を選び取る融通無碍な姿勢で憲法改正にも臨む。この可能性はないとはいえない。

 

これらの裏付けがあるとはいえ、あくまでも想像上のシナリオを描いてみたのは、今回の参議院選挙の最大の争点が何かをはっきりさせるためである。だからその妥当性についての云々は無用である――つまり、そうなるといっているのではなく、その可能性があるといっているのだ――。ともかく、このシナリオから明確になる選挙の最大の争点は、正確にいえば、憲法をどう改正するか、あるいは、憲法改正に反対するか、ではない。改憲勢力が参議院の3分の2の議席を獲得するかどうか、したがって、憲法改正の発議の条件が整うかどうか、である。確かに、自民党公明党、おおさか維新の会などの間には憲法改正の具体的内容に関して違いはある。しかし、憲法改正の発議のためなら、自民党がその違いを乗り越える可能性も大いにある。残るのは国民投票である。しかし、非常に短い期間において、しかも目的と手段が倒錯した中で、憲法改正の手続きが国会で進められるとすれば、改憲派の人からしても、護憲的な立場の人からしても、あまりに酷い話である。なぜなら、日本の歴史における新たな一歩――それを肯定的に理解しようが、否定的に理解しようがいずれにせよ――が、選挙の争点になることもなく、熟議の十分な時間も機会も与えられることなく、さらに、日本がどうあるべきかについての改憲派および護憲派の双方で蓄積された議論も顧みられることなく、自己目的化した改憲のためにあまりに粗野な形で始められることになるからだ。

 

どのような装飾が施されようが自己目的化した政治は、歴史に汚点を残すことになる。その辛酸をなめることになるのは、むろん、国民である。しかし、自己目的化した政治を批判し、未然に防ぐことができるのも、国民である。これが民主政治なのだ。そのことを忘れずに、私たちは今回の選挙で一票を投じるべきであろう。

国民投票はもうやめた方がよいのだろうか?――イギリスのEU離脱問題から考える民主主義のリスク――

イギリスのEU離脱とレファレンダム

EUからの離脱か残留かをめぐるイギリスのレファレンダム(国民投票)の結果、僅差で離脱派残留派に勝利を収め、イギリスはEUから離脱することになった。今回のイギリスのEU離脱問題で世界中が固唾を飲んでその結果を見守った理由はいくつもある。世界の経済秩序の不安定化に対する懸念だったり、EUの未来に対する危惧であったり、あるいは、ヨーロッパの安全保障体制の変容についての関心であったり、それはひとによって様々であろう。このコラムでは、それらの理由の1つと目される、EU離脱の是非がレファレンダムによって決せられるという、その方法について民主主義理論の観点から考えてみる。

 

レファレンダム(国民投票住民投票)という決定方法に関しては、たとえば、一昨年のスコットランドの独立をめぐるレファレンダム(住民投票)、昨年の大阪市のレファレンダム(住民投票)などが記憶に新しいかもしれない。もちろん、日本でも、国政レベルでのレファレンダムは現行憲法の改正の手続きとして制度化されている。憲法の採択・改正や今回のイギリスのような国政レベルでのレファレンダムにせよ、あるいは、地方政治におけるレファレンダムにせよ、その特徴は、代表者を選出するのではなく、ある争点に関して有権者が直接意思を表明する投票によって決定を行う点にある。

 

この方法を用いた決定は、民主主義の歴史からするなら、珍しいものではない。しかし、今回のイギリスにおけるレファレンダムでは、そこで表明されたイギリス国民の意思が世界秩序の動向を左右することになった。また、国内では、離脱派残留派の勢力が拮抗していたために、イギリス社会を分断してしまう可能性を生んだ。ここから、「果たして、このように重要な争点をレファレンダムによって決定すべきだったのか」というように、レファレンダムが持つリスク、ひいては、民主主義そのものが孕むリスクについて改めて衆目を集めることになるであろう。すなわち、民主主義自体がその決定の仕方によって、社会を不安定化したり、その秩序を破壊したりするリスクだ。

 

民主主義とレファレンダム

元来、レファレンダムは民主主義の理論において、評判の良いものであったとはいえない。古くからある理由の一つは、それが多数者の暴政に帰着しやすいというものだ。それ以外にも、レファレンダムによる決定には、議論や妥協の余地がなく、熟慮された判断が欠如しているという批判もある。要するに、レファレンダムでは、不合理な決定が行われやすい、という批判だ。こうしたレファレンダムに対する批判は、民主主義の下で行われる政治についてのある理解を前提としている。すなわち、有権者によって選ばれた代表者たちが共同の利益が何であるかを熟議し、そこから生まれる道理にかなった理由にもとづいて政治は行われるべきだ、という理解である。

 

これに対して、レファレンダムを擁護する議論も古くから存在する。たとえば、民主主義における決定は、議論をとおして熟慮された判断ではなく、国民が直接表明する意思にもとづくべきである、というものだ。それによれば、過半数によって示されるその意思にこそ、公共の利益が存在し、そのようにして見いだされた公共の利益にこそ、民主的な政治の正統性が存在する。したがって、一部の選良たちの議論ではなく、赤裸々に示された国民の意思に従う政治こそ真の民主政治だ、という理解である。

 

民主主義に対するこうした理解の対立は古典的なものだ。しかし、現在でも、どちらが正しい理解なのか定まった答えがあるわけではない。むしろ、近代の歴史を振り返るなら、それらは相互に補完しあう形で、民主主義を深化させてきたと考えるべきだろう。そうだとすれば、合理的な決定ができないという理由だけで、レファレンダムは民主主義とは相いれないと見なしたり、そこから生まれた結果を不当だとして退けたりすることはできないのである。

 

レファレンダムを求める現代社

おそらく、注目すべきことは、近年の政治状況では、今回のイギリスのケースのように、レファレンダムによって重大な政治的決定を行おうとする傾向が強まる可能性があるということだ。ここでは相互に関連する2つの理由を挙げておこう。

 

1つは、以前のコラムでも繰り返し指摘してきたように、代表制度の問題である。すなわち、エリート層が政策決定を独占しているという感覚の浸透に伴い、代表制度の機能不全という認識や代表制度そのものへの不満が蔓延し、さらに、その一つの帰結としてのポピュリズム的な政治潮流が伸長する。そうした現象は、様々な形で観察できる。たとえば、既成政党や政治家に対する不信の広がり、無党派層の増大、代表制選挙の投票率の低下、強権的な政治手法への支持の高まり――日本でいえば、「決められる政治」というキャッチフレーズがはやったことは周知のとおりだ――など。代表制度ではもはや民意は反映されないという雰囲気の中では、理論面でも、実際の政治でも、直接国民に意思を問う手法が渇望されるようになる。この事態は、ある意味、必然の成り行きといえる。

 

もう1つは、社会の複雑化、これと同時に進行する、個人の利害関心やライフスタイル、価値観の多様化によって生じる現代社会に固有の状況に関係する。こうした状況下では、選良がどれほど議論を重ねたとしても、共同の利害が何であるかを見分けることは容易でない。また、同様に、どれほど慎重な決定をしたとしても、それが最終的に誰の利益になるのかを合理的に判断することはきわめて難しい。合理性そのものが懐疑の対象となる場合さえある。いわば、社会の複雑化や多様化に伴う不確実性の増大が、合理的な政治の可能性を縮減してしまうわけだ。ここから、たんに有権者の側からだけでなく、政治に従事する者の側から、政治的決定において直接国民に意思を問おうとする動きが活発化することになる。さらに、こうした政治と社会の様相は、1980年代以降、もっとも望ましい統治の原理と見なされてきた新自由主義が批判に晒され、政治における合理性を提供することが難しくなりつつある中、混迷の度合いをいっそう強めることは避けられないように思われる。

 

民主主義のリスクにどう向き合うか

こうして、レファレンダムは、国政においても、地方政治においても民主主義の決定の方法として重宝されることになる。しかし、今回のイギリスのレファレンダムの結果を見る限り、そのリスク――社会の分断といった、かりに残留派が勝利したとしても生じであろうリスクを含め――を見過ごすことは難しい。また、レファレンダムが活用されやすい社会に私たちが暮らしているとすれば、「レファレンダムには、レファレンダムを」――レファレンダムで答えの出た争点を、改めてレファレンダムにかける――というように、それが乱発され濫用されることも予想できる。ただ、だからといって、先に指摘したとおり、民主的な形で行われるレファレンダムの正統性を否定することはできない。

 

だとすれば、イギリスの出来事をたんなるアクシデントとか、対岸の火事とか見なしたりするのは賢明ではないだろう。そうではなく、イギリスのケースから何かを学ぼうとするなら、レファレンダムに伴うリスクは、実は、民主主義そのものに内包されていると認識することが重要であろう。民主主義は万能ではなく、民主主義自体が民主的な社会の秩序を混乱させたり、破壊したりする可能性がある――もちろん、この可能性をただ否定的にのみ捉える必要はない、なぜなら、それは新たな秩序を生み出す可能性でもあるからだ――。そのような両義性を認識した上で、このリスクを民主主義の内部でどうコントロールするかを考えることだ。

 

レファレンダムの要求の高まりが、代表制度への不信や不満、あるいはそこから帰結するポピュリズム的潮流の高まりと無関係でないとすれば、差し詰め、取り組むべき課題は明らかだろう。それは、市民からの信頼をさらに高めるべく、代表制度を再建することである。もちろん、不確実な現代の社会において、そうした取り組みが思うような成果を上げるとは限らない。しかし、不透明な時代だからこそ、世界中で試みられている民主主義の様々なイノベーション――熟議型世論調査、コンセンサス会議、「熟議の日」をはじめとする、市民の参加と熟議を組みあせた取り組み――を代表制度と接合するような大胆な試みに真面目に向き合うことも一案に違いない。もちろん、多数決原理の見直しや、熟議の機会の導入など、レファレンダムの実施の仕方にも工夫の余地はある。

 

今回のイギリスのケースのように、レファレンダムでは、合理的だと思われる判断からかけ離れた決定が行われる可能性が少なくない。しかし、それは世界に新たな始まりを挿入する可能性でもある。イギリスの決定によって開始された事態は、確かに世界をこの先しばらく不安定にさせることとなったが、長い目で見た場合、イギリスにとって、あるいはEUにとって、さらに、世界の秩序にとって、吉と出るか凶と出るかは、実は誰にもわからない。だとすればなおさら、レファレンダムをただ批判するよりは、そのリスクをコントロールしようとする地道な取り組みについて検討してみる方が民主主義の成熟に資するように思われる。

日本会議の草の根民主主義と憲法改正 ――参議院選挙に向けて考えておきたい、いくつかの事柄(2)――

 

安倍内閣と日本会議

日本会議の研究』がこのところ話題になっているようだ。これは、現在の安倍内閣と親密な関係にある、日本会議という民間の保守系団体の出自とその歴史を追ったルポだ。そこで詳らかにされているのは、日本会議の実働組織である日本青年協議会が戦前から戦後の一時期にかけて右翼的活動で知られた新宗教生長の家」の元学生活動家らに担われている事実、また、安倍首相のブレインの一人が同様に「生長の家」の元学生活動家であり、さらに、首相の周辺の政治家が「生長の家原理主義」――明治憲法の復元を掲げた生長の家の創始者、谷口雅春の教え――を唱える団体に参加している事実だ。これらの事実を焦点に憲法改正を目指す安倍内閣の政治イデオロギーの由来が解き明かされている。

 

もちろん、たとえ安倍内閣と日本会議とが親密な関係にあるとしても、安倍内閣が推し進める政策のすべてをそこから説明できるわけではないし、経済界をはじめ多くの利益団体が現在の内閣に強い影響力を行使していることはいうまでもない。また、国会議員が様々な団体に所属していることもごく自然である。とはいえ、このルポが繰り返し指摘しているように、現在の内閣が、大日本帝国憲法の復元を目指しているとされる団体――日本会議の別同部隊、美しい日本の憲法をつくる国民の会は1000万人の改憲賛成署名の運動に取り組んでいるようだ――やそれに関係する人びとと秘かに志を共にしつつ歩調を合わせて憲法改正に突き進んでいるとすれば、これは看過すべき事態とはいい難い。いずれにせよ、自由で多元的な社会を目指す民主主義とはまったく相容れない反動的な教説を信仰する現代の宗教右派勢力と安倍内閣との密接な関係が公になるということは、選挙を控えた有権者にとって少なからず有意義な情報となるように思われる。

 

右派勢力と草の根の民主主義

先に挙げたルポでは、日本会議をフロント団体とする右派勢力が現在の影響力を獲得した理由として、その草の根的な政治活動、たとえば、デモや勉強会、地方議会への請願および陳情、署名活動などの市民運動を地道に続けてきたことが挙げられている。その上で、この右派勢力がきわめて民主的な方法をとおして、民主主義を転覆させようとしつつある事態に対して警鐘が鳴らされる。これは傾聴に値する。このコラムでも、たとえば、「民主主義の倒錯」という言葉で、民主主義の諸価値や理念がそれらを実現するべく設立された制度や手続き――すなわち、選挙を中心にした代表制度――の下で否定されるような事態が現代の日本で生じつつある可能性を繰り返し論じてきた。これに対して、そのルポでは、草の根の政治活動によって民主主義が転倒させられる可能性が指摘されているわけだ。この点が興味深い。とはいえ、日本会議における草の根の民主主義の実情については、もう少し掘り下げて考えてみる必要があるように思われる。

 

右派勢力と草の根的な政治活動との結び付きは、現在の日本にのみ見られる特異な現象ではない。これは周知のとおりだ。アメリカがきわめて特異な社会であること(アメリカ例外主義)を認めた上で、特にレーガン政権以後の共和党に強い影響を及ぼしてきたキリスト教右派やこれまた共和党と強く結びついた近年のティー・パーティは、共にその草の根的な活動によって知られている。たとえば、合衆国憲法原理主義を唱え、小さな政府を求めるティー・パーティ――スコッチポルらの研究によれば、この団体には、キリスト教右派と同様、プロテスタント福音派のクリスチャンが多いようだ――は、コミュニティに拠点を置き、集会やデモをとおして組織化を行い、ネットやテレビ、ラジオなどあらゆるメディアをとおして自分たちの組織やその主義主張を公然と宣伝し、選挙においても積極的な動員を行う。そればかりか、より効果的な運動を展開するために、20世紀を代表する左派の草の根民主主義のアイコン、ソウル・アリンスキーのコミュニティ・オーガナイジングの手法までも積極的に取り入れている。

 

日本会議と草の根の活動

普通の市民たちが日常生活の場である教会あるいは各支部のコミュニティに集い、そこでの組織化をとおして蓄積された社会関係資本を元手に、公にされた自分たちの主義主張を実現すべく地道な政治活動を行う。この点で、アメリカにおけるそれらの右派勢力の活動は文字どおり、草の根的である。そして、こうした形での草の根の活動が基盤となり、共和党の大統領候補者指名を左右するまでの影響力を持つにいたる(とはいえ、たとえば、ティー・パーティ運動を〈純粋な〉草の根の反乱と見なすとするなら、正確性を欠くことになる。すでに多くの研究が、この運動へのコーク兄弟による資金援助や、既存の保守系シンクタンクあるいはアドヴォカシー集団、大手メディアとの根深い関係を指摘している。しかし、そうだからといって、この運動の上述した草の根的な性格を否定することは誤りであろう。その点については、このコラムではスコッチポルらの研究に依拠している)。

 

他方、日本会議日本青年協議会は、こうした形での草の根レベルでの組織化に取り組んでいるようであるが、それがうまくいっている、あるいは、そうした形での草の根の活動が勢力拡大の基盤となっている、というようには見えない。『日本会議の研究』にあるエピソードを読む限り、自らの正体をひた隠すカルト集団の洗脳活動を想起させさえする。ここからも、日本会議の草の根の活動がアメリカの右派勢力のように、大規模な大衆運動に発展すると考えるのは非常に難しい。むしろ、この組織の現在の成功は次のように説明できるように思われる。すなわち、生長の家で頭角を現した有能な元青年活動家たちがその正体を偽装しつつ少数精鋭の職業活動家となり、彼らの指導の下で行われる、他の右派組織との連携の形成、宣伝や広報、集会やデモへの動員、地方議会やその政治家から国会議員に及ぶロビー活動などが実を結んだことによる、という説明だ。

 

日本会議の草の根的性格を否定しようというわけではない。それも1つの草の根の政治活動のあり方と考えることはできる。ただ、たとえば、ティー・パーティのような、日常生活を拠点にした普通の市民たちの信頼とネットワークの醸成を基盤にした草の根的な活動と日本会議のそれとがまったく同じかといえば、そうはいいきれないと指摘したいだけだ。とはいえ、この指摘から、日本会議の政治運動の脆弱さと強みを改めて考えてみることもできる。日々の生活の中での普通の市民の協働に根を持たない民主主義の運動はそれが左派の運動であろうが右派の運動であろうが、その指導者を失えば遅かれ早かれ衰退する。とすれば、これが日本会議の脆弱さとなりうる可能性は十分ある。

 

では、その強みとは何か。自民党を中心とする日本のエスタブリッシュメントには、明治憲法を復活させようとする反民主主義的な運動に同調的な価値観と信念を有する人びとが未だに少なからず存在しており、そうした人びとの支えこそが、その強みにほかならない。さらに、私たちの社会が民主主義にとって自己破壊的なそうした人びとの価値観や信念に対して無批判であるだけでなく無関心でさえあるという点もその強みとして勘定することができるかもしれない。たんなる草の根の活動に還元できないこれらの点に日本会議の暗躍の一因があることを低く見積もるべきではないように思われる。

 

権力の空白を埋めつつある民主主義の破壊者

かつてフランスの政治理論家が論じたように、民主主義という政治の在り方の特異性は、権力の座が空位な状態にある点に見ることができる。近代の民主主義が打倒した君主政では、その座は神とその被造物とを媒介する王という受肉された具体的な存在によって占められていた。王という存在の神性――もちろん、それは主権の絶対性という形で世俗化されていくことになるが――は、彼の統治やそのための法の正統性を供給する一方で、王の生身の身体は彼の統治する王国の統合を表していたわけだ。これに対して、民主主義という政治の在り方において、かつて権力の座を占拠した王は追放され、代わりに、国民と呼ばれる抽象的で匿名的な存在がその場を埋めることになる。しかし、そのような存在としての国民とは誰なのか。それは誰もが国民となりうるがゆえに――たとえば、それはブルジョワジーであり、労働者であり、あるいは民族であり‥‥――、誰でもない。まさにこの意味において、すなわち、権力の座を最終的に占拠する具体的な存在を決定できないという意味において、民主主義の権力の座は決して埋められることのない空白の場といえるのだ。ただ、社会における諸勢力の抗争を制度化した民主主義の手続き――その中心は無論、選挙である――の内部で勝利を収めた者たちが一時的にその場に留まることができるだけなのである。

 

民主主義のこうした特異性から、それがつねに開かれた未完のプロジェクトであることの一端を理解できるわけであるが、その一方で、民主主義が伴う危うさもそこから説明することができる。その危うさとは、民主主義の手続きさえパスしてしまえば、どのような主義主張、価値観を持った勢力であろうと、したがって、巧みな装いの下に反民主主義的な主義主張や価値観を隠し持った勢力であろうと、権力を手に入れることができるということにある。要するに、民主主義という政治の在り方には、その内部に自らを蝕む可能性があるわけだ。

 

おそらく、日本会議の暗躍から垣間見られるのは、こうした可能性が現実のものとなりつつあるということなのかもしれない。とすれば、それに対してどのような抵抗が可能なのだろうか。世論の覚醒だろうか。日本会議を中心とする勢力に対抗する左派勢力の草の根的な活動だろうか。もしかしたら、たとえば、戦後のドイツのように、民主主義の自己崩壊を防ぐための別の方法が新たに必要なのだろうか。いずれにせよ、安倍内閣と日本会議の関係が多くの人びとの知るところになりつつある今、間近に控えた国政選挙の紛れもない争点の核心を次のように規定してもよいだろう。すなわち、きわめて反動的な形で憲法改正を目論む、反民主主義的な勢力が民主主義の権力の空位を埋めることを私たちの社会が黙認し続けるかどうか。これこそ、憲法改正という争点に秘匿された真の問題なのではないだろうか。

「パナマ文書」、そして新自由主義という夢の果て――参議院選挙に向けて考えておきたい、いくつかの事柄――

地震と緊急事態条項

熊本・大分を震源とする大規模な地震は深い爪痕を残したまま、未だ予断を許さない状態が続いている。被災者やその関係者のみならず、今回の震災がもたらした苦しみの光景を様々なメディアをとおして目撃した人びとの中には、そうした苦境にある被災者への共感によって、自分にできる支援を検討し、すでに行動に移している人も少なくないはずだ。その一方で、この地震に関連して緊急事態条項の新設のための憲法改正の話題が最初の地震の翌日にはすでに、菅官房長官の会見における記者との質疑応答で取り沙汰されたということだ。これを聞くにつけ、来る7月の選挙に向けて政治は着実に動いていることを否応なく再認識させられる。そこで、この政治日程に鑑みつつ、今後の政治争点を考える際の視点について、数回にわたり検討しようと思う。今回は、世界を激震させたとして日本でも報道されている「パナマ文書」を手かがりする。そこから、新自由主義の功罪は、それが民主主義に与える影響から検討されねばならないことを指摘する。

 

「パナマ文書」の何が問題か

「パナマ文書」が暴露した、政治家や富裕層の課税逃れや資金洗浄の疑惑は少々スキャンダラスだとはいえ、日常茶飯事の見慣れた光景に過ぎないようにも思える。しかし、すでに、こうした現実が格差の拡大を助長しているとか、納税に対する不公平感を生んだりするといった批判が数多く指摘されている。これらの指摘はそのとおりなのだが、ことの深刻さを理解するにはもう少し説明を重ねる必要があるように思われる。というのも、この出来事に民主主義を支えてきた制度が形骸化されていくやり方を見てとるができるからだ。確かに、ヨーロッパでの一連のテロ事件や難民問題を取り上げるなら、それらがヨーロッパに深く根付いているとされる民主主義を大きく動揺させつつあるということなど誰にでもわかる。しかし、「パナマ文書」が暴露した現実も、民主主義の理念――それをここではとりあえず、平等な者たちからなる自由で多元的な社会の実現としておこう――を支える制度上の基盤を確実に掘り崩しつつあるといえるのだ。ここに、この問題の深刻さの本質がある。

 

「パナマ文書」に関連して、こんな擁護を耳にした人もいるだろう。課税逃れがその目的であったとしても、企業やそれを経営する個人あるいは公的組織が最大限、自己の利益を追求すること自体、当然のことであるから、違法行為でなければ、何ら問題はないという擁護だ。新自由主義の論理からすれば、確かにそうかもしれない。しかし、「パナマ文書」によって暴露された問題の核心が現在の民主主義の形骸化と無関係でないとすれば、はたしてそんな擁護は通用するのだろうか。

 

近代の民主主義は国家の枠組みの下、表現の自由、団体・結社の自由をはじめとする諸権利の保障、公正な選挙や三権分立法治主義の制度化などをとおして、その理念の具体化に取り組んできた。しかし、それだけではない。民主的な社会の実現には、機会の平等といった形式的な平等とあわせて、社会生活でのある程度の実質的な平等が不可欠であるという、19世紀以来積み重ねられてきたコンセンサスが存在する。それにもとづいて、実質的な平等のための制度、すなわち、富を再配分するための広い意味での社会保障制度が国家の枠組みの下で整備されてきた。貧困ゆえに教育や医療を十分受けられず、日々の食費もままならない人にとって、機会の平等を効果的に活用すること、さらには、政治に参加し主権者としての権限を行使することが非常に難しいことなど誰の目にも明らかであろう。日本の場合、社会保障制度が社会保険料と税金によって賄われていることは指摘するまでもない。そうだとすれば、重要なことは、社会保障制度が機能し、ある程度の実質的平等が保障されることによって民主的な社会が維持されるには、国家による確実な税の徴収が不可欠である、ということだ。つまり、「パナマ文書」が示しているのは、民主的な社会を維持するための国家の基本的な役割を妨げるグローバルな仕組み、しかも、国家が厳密に取り締まることがきわめて困難な仕組みが存在しており、これゆえ、国家はその役割を十分に果たすことが難しくなっている、ということではないだろうか。

 

新自由主義と苦境に立つ民主主義

しかし、事態はより複雑である。たんに民主的な社会を維持するために不可欠な国家の任務を妨害するグローバルな仕組みが存在するだけではない。たとえば、日本のように、経済における低成長と社会の超高齢化によって財政が悪化し続ける中、国家は民主的な社会の維持に不可欠な平等を保障する責務や役割から自らを可能な限り解除しよう(せざるを得ない)とする傾向にある。さらに、こうした傾向を許容することになる実質的な平等への無関心やその貶価――それが「競争」や「自己責任」という言葉で正当化されてきたことは周知のとおりだ――が社会の内部で蔓延している。こうした状況では、民主主義のための制度上の基盤の浸食が放置されることで、社会生活の中のある程度の平等の破壊が促される。そして、その結果、民主主義は苦境に置かれることになる。この20年来、民主主義のこうした苦境の背景はしばしば新自由主義との関連から説明されてきた。「パナマ文書」が暴露した現実、それに無関心な世論、はたまた企業や個人の経済活動の自由を根拠にした課税逃れの擁護などに鑑みると、私たちの社会は未だ新自由主義の夢を見る微睡の中にいるのかもしれない。

 

もちろん、課税逃れもタックスヘイヴンも今に始まったことではない。いわば、歴史的に反復される出来事だ。だから、「パナマ文書」が示唆する民主主義の有名無実化を掘り下げて把握するには、それを現代に固有の文脈の中で検討する必要がある。その文脈が新自由主義なのである。

 

新自由主義が何を意味するのかについては、未だに論争を呼び起こす厄介な問題だ。一般に、それは、福祉国家の解体と小さな政府による統治として論じられるが、具体的には、産業とキャピタルフローの規制を緩和することで市場経済を活性化させようとする一方で、課税における累進性を緩和し社会保障費を削減する――これによって、政治による富の再配分機能はかなり弱められることになる――と同時に、公共機関の民営化とアウトソーシングによって公共財を提供するといった形をとって現われる。

 

この新自由主義の問題は、論者によって様々な視点から説明することが可能であろう。しかし、政治思想の観点からすれば、その最大の問題は民主主義の理念の実現に不可欠な諸制度を無効化してしまう点にあるといえよう。別の言い方をすれば、政治の領域の内部で、それに固有な論理と言語によって発展し維持されてきた自由やそのための平等を市場のモデルに従って経済化し、自由を競争に、そして平等を格差に置き換える。フーコーの指摘によれば、新自由主義は、伝統的な自由主義がそうであったように、国家が体現する政治の領域からの経済の領域の自立や政治の介入からの経済活動の放任を求めるのではない。それは政治を含めた社会のあらゆる領域に市場のモデルを適用することで経済化しコントロールすることを目指している。

 

こうして、政治の領域で育まれてきた民主主義の理念、その理念の実現のために設けられた制度は、形骸化され変質してしまうことになる。新自由主義は、人間の多様な生のあり方を経済化する。ウェンディ・ブラウンの言葉を用いれば、その多様なあり方の主要な1つであったホモ・ポリティコスとしての人間のあり方――平等な他者と協働して自分たちを統治する民主主義の主体――は、新自由主義的に定義されたホモ・オイコノミコスとしての人間のあり方――自己責任の下での自己資本の最大化とリスクヘッジにひたすら勤しむ主体――によって駆逐されつつある。福祉国家の行き詰まりの打開策として期待された新自由主義は、民主主義を形骸化させるというまさにこの点において、私たちの(社会の)脅威となっているといえよう。

 

来るべき選挙に向けて忘れてはならないこと

「パナマ文書」で暴露された現実、それを擁護する言説、この現実を変えるための有効な手立ての欠如、これらは新自由主義という文脈で捉えられる必要がある。そのとき、いつの時代でも見受けられた課税逃れの現代的な意味が見えてくる。もちろん、それが民主主義の苦境だ。

 

しかし、それは、何も、「パナマ文書」に限ったことではない。ここしばらくの国内政治に目をやるなら、民主主義を苦境に立たせる出来事はいくつもある。育児や教育、介護などは近年、市場をモデルとする政策によって運営されてきた。しかし、これらはある程度の平等の下で、人びとに提供されるべきものだ。それは民主的な社会が自らを維持するために要請されるところのものなのである。

 

参議院選挙まであと3ヶ月ほどである。消費税の引き上げから安全保障関連法や憲法改正、TPPやアベノミクスまで選挙の争点は多々あるだろう。しかし、どのような争点を重視して投票するにしても、苦境にある民主主義をどうするか、このことがあらゆる争点の裏側で賭けられていることを忘れてはならない。

 

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宣伝になりますが、5月の終わりからPARC自由学校で「名著で学ぶ『民主主義ってなんだ?』」ゼミをやることになりました。丸山眞男やルソー、シュミットなどを読みます。ご関心のある方は、https://ssl.parc-jp.org/e/html/products/detail.php?product_id=24をご覧いただければと思います。よろしくお願いします。

民主主義がテロに屈しないためにこそ、寛容が必要である――11月14日のパリにおけるテロ事件の衝撃について――

11月14日、イスラム過激派組織によるパリでのテロは、文字どおり世界を震撼させることになった。もちろん、その衝撃はその犠牲者の数やパリを標的にした周到な計画に起因するだろうが、それだけではない。このテロが起こるべくして起きた事件であったこと、おそらく、同じ様なテロが今後も、フランスのみならず他の西側先進諸国において発生するだろうということ。ようするに、私たちはテロが日常の一部になりつつある社会に生きているという、目を背けたくなる現実に否応なしに向き合わざるをえなくなったこと。ここに今回のテロの衝撃の一因があるように思われる。だから、「いったい、私たちの社会はどうなってしまうのか」、パリから遠く離れた場所でこの事件を見たり聞いたり人であっても少なからず、こんな不安を感じたはずだ。

 

この場合、「私たちの社会」という言葉が意味しているのは、端的にいえば、民主的な社会だろう。それは、個人の自由と平等を保障し、多様な価値観やライフスタイルの共存を許容することを社会の根本原則として自認するだけでなく、程度の差はあれ、それらを実際に実現しようとしてきた社会である。そうだとすれば、この不安は、テロリストの暴力に晒された民主的な社会が治安の強化の必要性から、その社会の大切な原則を手放してしまうのではないかという直観に由来すると解釈しても見当違いではあるまい。

 

こうした不安を嘲笑する人もいるだろう。パリで今回起きたような虐殺など、イラクやシリアでは日常茶飯事なのであり、何をそこまで騒ぎ立てたり、不安を感じたりする必要があるのか。これが大部分の世界の現実なのだ、いやそもそも、こうした現実の種を蒔いたのは、19世紀以来の欧米諸国の中東政策ではないか、と。確かに、そうした言い分もあるだろう。しかし、ここではこの不安にフォーカスしよう。それが、民主主義と暴力の抜き差しならぬ関係について再考する機会を与えてくれるように思えるからだ。

 

暴力と民主主義

民主主義とテロリズムとの関係については以前のコラムで論じた(http://fujiitatsuo.hatenablog.com/entry/2015/02/02/213122)。そこでは、民主的な社会は革命や戦争のような暴力から始まったこと、民主的な社会はその始まりの暴力を民主的な立法手続きと法の支配によって内部に封じ込めてきたこと、そしてテロリズムのような物理的な暴力は民主的な社会に封じ込められた暴力を解放する危険があることを指摘した。

 

現代の民主的な社会におけるテロリズムの問題を考える上で重要な点は、テロリズムがこの封じ込められた暴力を解放することで、民主的な社会を自己崩壊させてしまう可能性があるということである。まさにそこに民主主義が暴力に対してきわめて脆弱であるといわれるわけがある。

 

暴力が民主的な社会をいわば自殺に追い込むということを理解するには、民主的な社会と例外状況との関係を考えてみる必要がある。政治理論の常識的な理解では、たとえば、民主主義の基本的な価値である自由――これを広い意味での人権と理解してもよい――は、民主的な諸制度の下で制定された法の支配によって実現され維持される。それは、この民主的な法の支配が秩序を実際に統治する国家の目的や手段を規定することで国家権力をコントロールし、その行使が伴う暴力を制約することで可能となる。そうした制約が解除される例外状況だ。この例外状況は、法の通常の機能が停止され、民主的な規制から解き放たれた国家権力が出現する状況を意味する。それは、法が想定しておらず、したがって法によっては適切に対処できないような非常事態に社会が直面する際に生まれる。このとき、法が秩序の支配から後退する中で、法による縛りから自由になった国家が治安のために何をなすべきかを決定し行動する。ここから、例外状況では国家という「怪物」が行使する超法規的な力によって、民主的な諸価値や諸制度が制限されたり、否定されたりすることが起きうる。この場合、平等な者たちからなる自由な社会、すなわち、民主的な社会はその崩壊の可能性に直面することになる。

 

テロリズムは例外状況を作り出そうとする。その目的は民主的な社会を自壊に追い込むことだといえるだろう。すなわち、テロに見舞われた民主的な社会が自ら例外状況を宣告することで民主的な価値や制度を守る法を停止し、平等な者たちからなる自由な社会であることを放棄すること。これがテロリズムの狙いの一つと考えられるわけだ。少なくとも、現代ヨーロッパの民主的社会における文化的あるいは歴史的な自己理解からすれば、そういえるはずだ。

                      

安全と民主主義

今回のテロ事件を受けて、オランド大統領はISとの戦争状態にあるとして即座に非常事態宣言を発令し、さらに、治安維持の強化のための憲法改正も視野に入れていると報道されている。また、空爆などによるISへのフランスの軍事行動も強化され始めた。こうした一連の動向は、先の議論からすれば、自由やそれを守る制度を制約することになるのだから、テロリズムの謀略に嵌められたことになるようにも見える。テロリストからすれば、戦線をシリアやイラクからヨーロッパの心臓部へ拡大することに成功したし、さらに、それによって、アガンベンらが指摘するような、民主的な社会における例外状況の日常化――これが民主主義の自壊が起こりうる環境だ――にも成功したともいえる。とすれば、世界史において燦然たる歴史を誇るフランスの民主主義はすでに、ISによるテロリズムに屈してしまったのだろうか。

 

おそらく、そうとはいえないだろう。フランス政府の一連の行動は、社会の安全を守るための措置だと考えられる。民主的な社会の可能性そのものが、その社会の安全に依拠していることは事実だ。だとすれば、民主的な社会はたとえ自壊の可能性を伴ったとしても、その社会を実際に破壊しようとする明確的で具体的な敵対者(テロリスト)を力ずくで排除することで、自らを守らねばらない。これは確かに矛盾に満ちた事態だ。しかし、そこに民主的な社会と暴力との抜き差しならぬ関係を見て取ることができる。すなわち、民主的な社会は国家権力の暴力によって、自壊の危険を冒しつつも、社会の敵対者からその安全を確保せねばならない場合があるのだ。翻っていえば、例外状況での安全の確保という必要の下で、民主的な社会の原則は簡単に形骸化されてしまうことだってありうるということだ。

 

ここから、フランスの民主主義が敗北したかどうかは、非常事態を宣言したり、治安維持の強化をはかったりしたかどうかでは判断できないことがわかる。その勝敗は、眼前のテロリストの暴力を排除し治安上の安全を確保した上で速やかに例外状況から脱することができるかどうか、換言するなら、法が通常に機能することで人権が保障された民主的な秩序を復元できるかどうかにかかってくるといえる。

 

それでも寛容が必要なわけ

テロリズムとの戦いが厄介なのは、それが例外状況を日常化し永続化させる点にある。だから、例外状況からの民主的な社会の復帰がそう簡単ではないこともまた確かだ。しかし、どれほど困難があろうと、例外状況から復帰を果たそうとするなら、そのための出発点となるのは寛容だろう。この期に及んで寛容とは何事かという人もいるかもしれない。とはいえ、寛容は傷つけられた民主的な社会がその健康を回復するために必要なのだ。具体的には、今回のテロによってこれまで以上に排斥され迫害されるかもしれない、フランス社会に暮らすムスリムへの寛容である。

 

多くの指摘があるように、今回の事件に限らず、ヨーロッパのムスリムの若者たちがテロリズムに手を染める一つの要因が、社会からの経済的あるいは社会的な排除や疎外にあるとするなら、民主的な社会の課題は、そうした若者たちを社会に包摂していくことである。この課題への取り組みが失敗し続けるようであるなら、その社会はテロリズムの脅威に繰り返し晒されることで、恒常的な例外状況に置かれるようになると思われる。しかし、イスラムの過激派によるテロによって傷つけられた現在のフランス社会では、この包摂を進めて行くことはこれまで以上に難しくなるだろう。この状況を乗り越えるために求められるのが寛容なのだ。ここに、寛容が必要だという現実的な理由がある。

 

さらに、この寛容は、自由・平等・友愛という共和国フランスの精神が現代社会に命じるものでもある。現代の社会は、民族や宗教、セクシャリティ、価値観やライフスタイルなどにおいて多元化した社会である。つまり、そのような社会は多様なマイノリティからなる社会であり、そこに暮らす私たち一人ひとりもマイノリティなのだ。この多元性の事実に鑑みたとき、民主的な価値としての自由は、特異であること――他と異なってあること――の自由として再解釈する必要がある。だとすれば、平等は、特異であることへの承認と尊重というアイデンティティの平等を意味するはずだ。そして、このように理解された平等の下で、異なる者たちの間に相互性を作り出し、社会の凝縮力を創出するのが友愛だといえるだろう。ここで重要なことは、友愛という民主的な価値は寛容という徳によって支えられなければならないということだ。だから、テロリストの攻撃に晒されたフランス社会がその傷を癒し、民主的な社会として自由・平等・友愛という民主主義の価値を高らかに掲げるには、この寛容から出発する必要があるといえるのだ。

 

テロリズムが人びとに恐怖と復讐心を掻き立てる中、治安への関心が高まるのは当然だ。しかし、それと共に寛容が社会から消え去ってしまうなら、民主主義がテロリズムに打ち勝つことは甚だ困難になるように思われる。