民主主義とその周辺

研究者による民主主義についてのエッセー

民主的な社会とその敵――香港の民主化デモから考える、民主主義と不平等の問題――

香港のデモの光景とその目撃者としての私たち

アンブレラ・レボルーションと呼ばれる、香港での民主化デモから1ヶ月以上が過ぎた。市民による金融街の占拠と行政当局によるその暴力的な排除によって世界の注目を集めたこの抗議行動は、中国政府が決定した香港の行政長官の選挙制度に反発し、「真の普通選挙」の実施を求めるものであった。当初、8万に近くに上る人びとを動員した民主化デモも、行政当局の強硬な姿勢によって、その規模も縮小し、出口の目えない状況に陥っている。

 

この出来事は、テレビや新聞、SNS、そしてYouTubeなどで遠く離れた日本の私たちにも伝えられた。民主化のデモに参加した人たちは、民主主義の制度が確立された社会に住む私たちにとってあまりに当然の要求を掲げているだけだった。それなのに、警棒と催涙ガスによって追い立てられ、咽び苦しむ若者たちの姿がテレビやネット上の動画に映し出された。それを傍観した人の中には――アダム・スミスが考えたように私たちが依然として道徳的な存在であるなら――、香港の若者たちの苦難に共感の念を抱いた人も少なくないはずだ。

 

この共感から出発して、中国共産党の統治に動揺が生じるのではないかと期待をした人もいるだろうし、逆に、現在の中国共産党の支配下での民主化の困難さを再認した人もいるだろう。あるいは、共感に触発された思考を自分たちの暮らす日本社会へと向けた人もいるだろう。その場合、こんな比較が脳裏をよぎったかもしれない。自分たちの代表者は自分たちで決めるという、民主主義の最も基本的な原則にもとづいた社会を作ることを渇望する香港の若者たちの熱意や勇気と、現行の憲法によって保障されてきた民主主義に対して日本社会に蔓延する無関心とシニシズム。民主主義を求めて立ち上がる活力ある向こう側の社会と、制度化された民主主義の帰趨に無関心な麻痺状態にあるこちら側の社会。メディアを通して届けられる光景が日本の民主主義の実情に対するこうした認識を導くとすれば、そこから、少なからぬ落胆や失望といった感情が生れてもおかしなことではない。

 

社会の成熟の代償としての民主主義への無関心さ

ところで、こうした反応がナイーヴで表面的だと批判されるようなことは容易に想像できる。外から見れば、真の普通選挙というきわめて分かりやすい要求を掲げた民主化デモも、香港社会への中国大陸の影響力が拡大したことによる、経済的あるいは文化的動揺がその遠因となっていること考えると、それほど単純な出来事でもなさそうだ。何より、民主主義の成熟という観点からして、日本の社会と香港社会の置かれている状況は大きく異なるわけで、その違いを無視して、双方の社会を比較すること自体、ナンセンスなことだとも言いうる。民主主義を制度として獲得しようとする社会の熱さに対して、すでに制度として民主主義が保障され当たり前のものとなった社会の無関心さは、民主的な社会の成熟の帰結ないしは代償なのだ。日本のように成熟した社会において、民主主義の制度が攻撃されたり、民主的な価値や規範が毀損されたりすることがない限り、つまり、民主主義が危機的な状況にない限り、それに無関心なのは当然のことであり、ましてそれを守るために行動する必要性も可能性も存在するはずがないのである。

 

確かに、この批判は理に適ったものだ。しかし、私たちの社会の民主主義は実際に危機的な状況にある、あるいはそうした状況に向かいつつある、としたらどうだろうか。その場合、香港の民主化デモの光景に触発された失望や落胆といった感情がまったく見当違いだと断言するのは難しくなるはずだ。では、私たちの民主主義は実際、危機にあるのだろうか、あるとすれば、それはどのような意味においてなのか。

 

このことを検討するには、民主的な社会とはどのような社会なのか、いま一度、考えてみる必要がある。そうすることで、民主主義に目覚めてまだ日の浅い香港社会の未来を蝕むのとは違った形で、すでに民主的な制度が確立された日本社会の未来を蝕むものが何であるかが見えてくるはずだ。

 

民主的な社会とは何か?――「平等な者たちからなる自由な共同体」――

20世紀の半ば以降、民主主義の理論的な考察は、民主的な社会の政治制度上の特徴やそれが実現される上での具体的な条件が何であるかを明らかにしようとしてきた。著名な政治学者によれば、それらは、例えば、法を制定する議会、それを施行する政府が、自由で公正な選挙によって選出された代表者によって構成されること。その選挙に参加する権利(選挙権と被選挙権)は、実質的にすべての成人に付与されること。この選挙が定期的に行われること。結社を設立する自由、表現の自由をはじめとする政治的権利が保障されていること。情報へアクセスする権利が市民に保障され、政府がそれを独占しないこと。市民による政治的アジェンダの設定が制度上可能であること、などである。これらが制度化されている社会は民主的な社会と呼ぶことができる。ここから、日本を含めた現在の多くの先進諸国は民主的な社会であると言える。

 

しかし、教科書風に定義されたこれらの民主社会の特徴は、実は、17世紀以降のヨーロッパおよびアメリカの歴史の中で実際に獲得されてきた政治制度を記述したものに過ぎない。そうだとしたら、なぜ、それらの制度が備わっているとき、その社会は民主的なのかという疑問が出てくる――それらの制度が現在の民主的な社会に見出せる制度だからだ、という応答はトートロジーであり、答えのようで答えではないから――。この疑問は次のように変換できる。実際の歴史の中で、このような制度によって目指された民主的な社会とは、元来、どんな社会だったのか?と。

 

この疑問への答えは近代の民主主義の理論上の起源として位置づけられるテキスト――例えば、ルソーやシィエスのテキスト――に明確に刻み込まれている。すなわち、民主的な社会とは「平等な者たちからなる自由な共同体」である。これが実際の歴史の中で目指すべき民主的な社会の像とされたのである。

 

民主社会が「平等な者たちから構成される」という理解を意外に思う人もいるだろう。なぜなら、現代の私たちは、自由と平等とは両立し難いと考えがちだからだ。しかし、ロザンヴァロンが指摘しているように、民主的な社会の創設を目指した当時の人びとにとって、自由であるためには、平等が不可欠であることは余りに自明なことであった。ルソーも、「平等――自由はそれを欠いては、存在できない」と言っている。

 

いずれにしても、民主的な社会の元来の姿をこのように理解するなら、私たちの社会が直面している問題が何であるかは判然としている。すなわち、現代の民主的な政治制度を備えた社会において、平等が失われつつあるということである。そして、この平等の喪失が、日本を含めた民主的な社会を危機に晒しつつあるように見える。

 

民主的な社会における二つの平等

しかし、「平等な者たちからなる自由な社会」といった場合の、平等とは何を意味するのか。一般に、それは法によって保障された権利の平等を意味する。とすれば、現在の民主的な社会において憲法を中心にした制度が、これを保障している。したがって、この意味での平等が喪失されつつあるというのは、現状に対する誤認ではないのか。

 

この指摘は一面で正しい。例えば、ルソーが構想した「平等な者たちからなる自由な共同体」においても、平等とは、第一に、権利主体における形式的な(法的な)平等を意味している。しかし、この意味での平等が制度上保障されさえすれば、即座に「平等な者たちからなる自由な共同体」が実現するというのであれば、それは誤りである。なぜなら、この形式的な平等は、ある程度の実質的な平等――すなわち、経済的あるいは社会的、文化的な平等――を欠いては、空虚なものとなってしまうからである。例えば、貧しさゆえに奴隷的な条件で労働に従事せざるをえない人は、どれほど権利上の平等が保障されていたとしても、自由な存在であるとは言えない。

 

だから、ルソーは、民主的な社会には、極端な経済的不平等が存在してはならないとした。すなわち、自由な社会に生きる平等な市民たちは、「他の市民を買えるほど、豊かではなく、身売りを余儀なくされるほど貧しくはない」状況になければならないのである。また、実際の歴史においても、民主的な社会の実現のためには、ある程度の実質的な平等が不可欠であるという社会的な合意が徐々に形成されてきた。そこで、20世紀の福祉国家は富の再配分を中心にしたさまざまな政策によって、ある程度の実質的な平等の保障――実質的な形での極端な不平等の排除――を目指してきたのである。要するに、私たちの民主的な社会はその存続のために、たんなる法=権利上の平等を制度化するだけでなく、極端な経済的あるいは社会的不平等が容認され放置されるのを拒否し、ある程度の実質的な平等が保障されるよう努力してきたのである。

 

民主的な社会とその敵

もちろん、どの程度の実質的な不平等が容認され、どのようにして実質的な平等が保障されるべきであるかという問題は、つねに論争の対象であり続けており、それに対する満場一致の答えがあるわけではない。しかし、近年の統計調査が示しているとおり、日本の含めた多くの民主的な社会では、現在その内部に、極端な不平等が蔓延することによって、一部の少数の持てる者とその他の大多数の持たざる者との分断が生じつつある。1980年代以降、新自由主義福祉国家の息の根を止めるべく登場して以来、この分断は徐々に進行していった。しかし、それは、もはや新自由主義的な政策をやめればどうにかなるような問題ではなくなってしまった。

 

現在、この分断が民主主義の未来に暗い影をとしている。というのは、この分断が、民主的な社会の構成員すべてにとっての共同利害が存在するという想定を困難にしつつあるからである。ルソーによれば、この利害の共同性こそ民主的な社会の建設を可能にする紐帯であった。だから、共同の利害の想定が難しくなるということは、共に一つの社会を作り上げ守っていく動機も利益も存在しなくなりつつあることを意味する。要するに、シィエスの言葉を拝借すれば、「国家の中のもう一つの国家」が再び生まれつつあるのだ。この「もう一つの国家」は、言うまでもなく、現代に再び現れた「貴族」――フランス革命時にシィエスが厳しく弾劾した、来たるべき社会の敵――という階層によって構成されているのである。

 

日本の民主主義が危機にあるかどうかは、例えば、安倍政権下における、特定秘密保護法の施行や、閣議決定による憲法解釈の変更にもとづく集団的自衛権の行使の容認とその法制化などから議論することが可能であるし、実際に議論されている。しかし、これまでに論じてきたことは、民主主義の危機はそれだけではないということだ。それらの事例のようにそれほどはっきりとはしないものの、民主的な社会の根幹を着実に蝕む極端な不平等の蔓延が、確実に私たちの社会の脅威になりつつあるように思われる。なぜなら、この不平等の蔓延が、憲法によって保障された、法=権利上の平等を形骸化することで、「平等な者たちの自由な社会」を崩壊させてしまう可能性があるからだ。

 

そう考えると、香港のデモの光景によって喚起された落胆や失望をナイーヴすぎると簡単に切り捨てることはもはやできないのではないか。むしろ、その光景を目撃したにもかかわらず、自分たちの民主的な社会の実情に再帰的な眼差しを向けることのない人がいるとすれば、それはそれで、ナイーヴすぎるように思われる。

民主主義の成熟とその危機の再来――スコットランド独立をめぐる住民投票の結果を手掛かりに考える民主主義のアイロニー――

最善の結果?

スコットランドの独立をめぐる住民投票は、独立反対派の勝利で終わった。これを受けて、イギリス国内だけでなく国外でもこの結果を肯定的に評する向きが圧倒的に多いようだ。なぜなら、この結果によって、独立派が勝利した場合の、イギリス国内のみならず他国々が被ったかもしれない経済的・政治的混乱を回避できた一方で、ロンドン、ウエストミンスターからスコットランド自治権の拡大の約束を取り付けることで、投票で敗北した独立賛成派にも少なからず取り分があったと考えることができるからだ。

 

とはいえ、これで選挙前と同じ日常にスコットランドの人びとが立ち返り、平静が取り戻されたというなら、少々気が早すぎる。何より、独立賛成派の勢いを挫くために首相のキャメロンが約束したスコットランド自治権の拡大の問題がある。自治権の拡大が具体的にどの程度実現されるかによって、スコットランドの独立問題は、思いのほか拗れる可能性があるだろう。また、多数決投票という民主主義の審判は、独立賛成派と反対派に分裂したスコットランドの人びとの間に、少なからずわだかまりを残したことは容易に想像できる。このわだかまりをどう解いていくのかという重要な民主的な取り組みも残されている。一連の投稿で指摘したとおり、スコットランドの民主主義の先行きを考える上で、これは切実な課題だ。だから、スコットランドに暮らす人びとにとって、イギリスからの独立の問題は投票結果で終わりになることはないように思われる。

 

では、遠く離れたユーラシアの東端にある島国でスコットランドの独立をめぐる成り行きを傍観していた私たちは、この出来事からどんな思考をめぐらすことができるだろうか。おそらく、すぐに頭をよぎるのは、沖縄の問題だろう。確かに、今回のスコットランドでの出来事をとおして、沖縄の独立の可能性について思いをめぐらした人は少なくないはずだ。実際、そのような日本語のコラムは多い。しかし、スコットランド独立の住民投票によって、沖縄独立の可能性を検討することは、それほど有益ではないように思われる。というのも、今回のスコットランドのケースはかなり特異だからである。

 

スコットランドのケースの特異性

もちろん、いわゆる国民国家という枠組みに強制的に編入されていた地域が独立しようとする運動や気運それ自体が特異な現象だというわけではない。このことは、ローカリズムが沸き立つ現在の世界を見渡せば、自ずと理解できる。では、スコットランドのケースの特異性はどこにあるのか。それは、独立を達成するための方法、すなわち、今回スコットランドで行われた住民投票にある。なぜそれが特異であるかと言えば、スコットランドはイギリス(グレートブリテン及び北アイルランド連合王国)を構成する一地域であることから、その独立によってイングランドウエールズ北アイルランドが影響を受けるのにもかかわらず、その是非をスコットランドの住人の投票だけで決定できるというものであったからだ。

 

この方法は、2012年にイギリス政府とスコットランド自治政府との間で取り決められた。だから、この住民投票には正統性とそれに由来する強制力があると見なすことはできる。しかし、民主的な決定の正統性はその決定に直接影響を受けるすべての人びと――このケースではイギリス国民と考えることが理に適っているだろう――が決定のプロセスに参与することによって生じるという考え方もある。その場合、今回の住民投票とその結果にそのような意味での民主的な正統性があるとは必ずしも言えない。

 

確かに、民主主義には、自己決定あるいは自己統治という理念がその根幹に存在する。したがって、その理念からすれば、スコットランドの運命はスコットランドの住民が決定するべきだということになる。しかし、その一方で、自己決定や自己統治という理念の「自己」の意味するところを「直接影響を受ける人びと」として広く捉えるなら、スコットランドの運命の決定には、それまでスコットランドと共にイギリスという国家を構成してきた他の地域の住民たちも参与するべきだということになる。要するに、今回のスコットランドのケースのように、ある地域の国家からの独立をその地域の住民投票だけにもとづいて決定する場合、その手続きに十全な民主的正統性が備わっていたかどうかには、疑問の余地があるということである。このようにスコットランドのケースの特異性は、民主的な正統性という点で脆弱な手続きにもとづいて、独立の是非を問う決定が行われた点にあると考えられるのである。

 

成熟した民主主義の閉塞性

この特異性に鑑みると、スコットランドと同様な手続きで沖縄の独立が達成されることはまずありえない。そもそも現行の日本国憲法では、このような事態が想定されていないし、それゆえ、そのための手続きも規定されていない。また、かりに中央政府沖縄県との間でスコットランドと同様の住民投票の合意が結ばれ、それに基づき投票が行われたとしても、その合意の法的な有効性が司法の場で争われる可能性がある。すなわち、中央と地方の行政府間のそうした行為に合憲性という意味での民主的な正統性があるかどうかが問われるわけである。もちろん立法をとおして、新たな規定を設けることも可能であろう。その場合には、立法過程において沖縄以外の他の地域の利害や意思が反映されることになり、投票そして独立までの道のりはきわめて厳しいものになるに違いない。

 

このことは何を意味しているのであろうか。それは、国民国家からの離脱のような、現行の民主政治やそれを基礎づける憲法の前提となっている枠組みの変更、あるいは、18世紀の終わりから20世紀における体制変革としての革命を成熟した民主社会の民主的な手続きにもとづいて達成することがほとんど不可能だということである(近年では、1993年のチェコスロバキア連邦共和国の連邦制解消、いわゆる「ビロード離婚」がその例外として挙げられるかもしれない)。

 

確かに選挙による平和的な政権の交代は可能であり、また、憲法に規定された手続きに従った憲法それ自体の改定も可能だ。しかし、これを翻って言えば、いかなる社会の改革も、憲法によって規定された民主的な手続きに従わねばならず、その手続きが憲法によって規定されていない場合には、社会の改革は憲法の根本原理に従うものでなければならないということだ。したがって、民主的な手続きや民主的な憲法の原理を超越する政治的な出来事はもはや不可能であり、かりに可能であったとしてもいかなる正統性を有することはない。そうした政治的出来事を革命と呼ぶならば、民主的な社会の民主的な手続きにもとづいた革命などは、望ましいか望ましくないかは別として、まずありえないのである(もちろん、この議論は憲法制定権力の問題に行き着くが、それについては別の機会に扱う)。

 

人権を保障し社会問題の解決することを国家の責務とする民主社会の成熟によって革命の不在の時代が到来したという指摘は、昔から繰り返されてきた。例えば、ポスト産業社会の深まりがマルクス主義的に理解され革命の条件――敵対する階級の闘争――を消失させたというような社会学的な視点からの指摘がこれに当たる。

 

しかし、革命が不在の時代の民主社会が直面する問題は、そのような指摘だけでは十分に理解できない。なぜなら、民主主義が成熟する過程で民主政治を支える制度自体が社会の大規模な変革の可能性を阻むと同時に、変革への願望や期待を抑圧しているように見えるからだ。そうだとすれば、この逆説的な事態は、民主的な社会に特有の閉塞感を生み出すことになる。さらに、この閉塞感は、成熟した民主主義の制度が、自由で公正な社会の実現という民主主義の約束を妨げる障害になっているのではないかという、民主主義への疑念を広めることになる。

 

民主主義へのいら立ちと繰り返される民主主義の危機

現在の私たちの社会が抱えている様々な社会問題、例えば、少子高齢化や貧困の拡大、あるいは社会保障制度の行き詰まりといった自由で公正な社会の実現の障害となっている問題を、民主的な手続きに従った選挙や政権交代によって解決できると考えている人はどれほどいるのだろうか。どの政党が政権を担ってもそんなに違いはなく、これらの問題はこれまで解決できなかったように、これからも解決できるはずはないと考える人は少なくないはずだ。

 

現状を変えねばならないが、現在の民主的と呼ばれる政治によっては変えることができないという行き詰まり感は、フラストレーションを生む。フラストレーションが蓄積されればされるほど、その解消への欲求は極端な形をとる。漸進的な改革ではなく、大規模で即座の変革、すなわち、民主的な理念に基礎づけられている政治制度やその制度によって規定された手続きを無視してでも実施される変革を求める機運が高まることになる。実際、集団的自衛権を容認した安倍政権を支持する(あるいは黙認する)世論が根強い理由の一つは、こうした背景に由来するように思われる。

 

こう考えると、現在の民主主義は二つの異なる陣営からの攻撃によって苦境におかれているように見える。一つは、自律や自由といった民主主義の理念に対してもともと批判的な陣営である。もう一つは、ここで指摘してきた、現在の民主的政治に対していら立ち、失望しつつある陣営である。後者の陣営が社会において拡大する状況が出来するとき、民主主義は危機に陥ることになる。このことは、民主主義の危機が盛んに唱えられた19世紀末から20世紀初頭の欧米の歴史から明らかであろう。私たちの社会は、民主主義の危機の時代を再び迎えつつあるのかもしれない。

多数決投票ですべてが解決するわけではない(2)――スコットランドの独立問題から考える、社会の分断を乗り越えるために民主主義に必要なこと――

世論調査から見る現状

前回の投稿で取り上げたスコットランドの独立問題は、一段と多くの注目を集めているようだ。というのは、AFPによれば(http://www.afpbb.com/articles/-/3025218)、最新の世論調査で、はじめて、独立賛成派が反対派を上回ったからだ。つまり、スコットランドの独立の可能性が現実味を帯びてきたわけだ。

 

独立賛成派にとって、間もなくやってくる9月18日は千載一遇の機会だと言える。それは、スコットランドの独立が、スコットランドの住民のみの単純多数決にもとづく投票というただそれだけで決まるからである。ロンドン、ウエストミンスターでの国会審議をパスする必要もないのだから、民主的に独立を達成するにはおそらく最も低いハードルだと言えるだろう。この機会を逃したら、今後、スコットランドの独立の可能性は相当先へ遠のく、あるいは、ほとんどゼロになるであろうということは容易に推測できる。とすれば、独立を切に願う人びとは、住民投票に敗北した場合、独立をしないという多数者の意思をすんなりと受け入れることができるのだろうか。翻って、独立に反対している人たちは、どうであろうか。反対派の人たちの多くは、スコットランドがイギリスの一部であることによって何らかの利益――個人的、あるいは社会的利益を問わず――を得ていると考えているか、イギリスから独立することで何らかの損失を被ると考えているはずである。そうであるなら、独立賛成派以上に、投票による敗北を受け入れるのは難しいことかもしれない。

 

多数決投票以外の何が必要なのか

普通、私たちはこう考えるのではないか。独立賛成派にせよ、反対派にせよ、19日の投票の結果がどうであろうと、それが公正な選挙であれば、そこで示された多数者の意思にスコットランドの人たちは従うにきまっている。それに、そもそも個人が納得するかどうかなどは問題ではなく、多数者の意思が表明されたのなら、ただそれに従うべきなのだ。なぜなら、それが民主主義なのだから、と。確かに、スコットランドが民主主義の成熟した社会であることを考えれば、万が一独立賛成派が投票で勝利したとしても、この決定を反対派が拒否し、大きな混乱が生じる可能性は限りなく低い。とはいえ、その可能性がまったくないと断言するなら、それはそれで、民主主義に対して盲信的に過ぎる気もしなくはない。

 

もちろん、実際のところは投票後にならなければ、誰にも分からない。だから、現時点で考えるべきことがあるとすれば、それは、多数者の決定への服従を少数者が拒否する可能性をなぜ排除できないのかということである。では、なぜ、排除できないのか。その理由は、投票によって示された多数者の意思に少数者は服従すべきという民主的な規範がかなり脆弱な根拠に依拠している、というものだ。この民主的規範は、多数者の意思が社会全体の共通の意思であるという想定に依拠してきた。しかし、その想定は、現代の私たちの社会のように価値観や利害関心が細分化され多様化した状況において、もはや説得力を失いつつある。なぜなら、多数者の意思は社会を構成するある一部の人たちの意思に過ぎないと多くの人たちが考えるようになっているからである。このような脆弱な想定に依拠しているので、多数決投票によって出現する多数者が支配すべきという規範は、社会を二分するような政治的争点が争われる場合、その強制力を失うことがあるかもしれない。これが前回の投稿で論じたことだ。

 

とすれば、民主的な社会が民主的なやり方で統治されるためには、多数決原理にもとづいた投票以外の何が必要なのか。もちろん、現代社会に見合った、民主主義の新たな正統性が何であるかを明らかにすることも大切だ。ロザンヴァロンをはじめとする現在の多くの理論家たちがそうした研究を行っている。しかし、ここでは、そうした理論家たちの取り組みとは異なる形でこの問いについて考える。すなわち、民主的な社会において、自分の意思とは異なる他者の意思を受け入れるのに何が必要か、という問いである。

 

そのために、スコットランド独立の住民投票をめぐる市民たちの草の根の活動に焦点を当てよう。その際、参照したいのは、NHKで8月23日に放映されたドキュメンタリー『激動スコットランド ~イギリスからの独立 投票の行方~』(http://www.nhk.or.jp/documentary/aired/140823.html)である。この映像から読み解くことのできる次の2の点からこの問いについて考えてみたいと思う。その1つが、市民の間の信頼関係である。もう1つが、共同のものへの市民として配慮である。これらは、自分の意思とは異なる他者の意思を受け入れる上で、なぜ必要になるのだろうか。

 

スコットランドの市民の草の根の活動

上記のドキュメンタリーでは、様々な思惑や利害関心からスコットランドの独立を支持したり、それに反対したりする人びとが取り上げられている。その中に登場する2つのケースを見てみよう。

 

まずは、スコットランド独立を支持するパブのオーナーとそれに反対するデリカテッセンのオーナーのケースである。彼らは古くからの友人ではあるが、スコットランドの独立に関しては対立する立場にある。一方で彼らは、意見を同じくする人びとと集まり、そこでの会話をとおして、情報を交換し理論を武装し、自らの意思を強化する。他方で、二人はお互いの店を行き来し、スコットランド独立に関して議論を交わす。もちろん、その議論は平行線を辿り、相手の意見に耳を傾けることで自らの意見が変容するわけではない。しかし、自分たちの社会のあり方について対立する立場にありながらも、しかも、それが間近に迫った投票でいずれかの立場が現実のものになることが分かっていても、彼らの対立関係が敵対的――シュミット的に言えば、政治的――になることはない。むしろ、デリカテッセンのオーナーの言葉から伺えるように、投票結果にかかわらず、これまでの友好的な関係を持続させることが重要であるという共有された理解が彼らには存在している。

 

こうした理解は、日常生活の持続した相互活動の中で培われた信頼関係に由来すると考えてよいであろう。社会を結びつけるこの信頼関係こそ、いわゆる社会関係資本(social capital)に他ならい。民主政治が機能する条件として社会関係資本の存在が論じられるようになって久しい。このケースでは、人びとの間に存在する信頼関係が、独立をめぐる対立を敵対関係へと政治化する動きを抑止する歯止めになると予測できる。

 

もう一つのケースは、シングルマザーである若い女性のケースである。彼女は、スコットランド独立に賛成の立場から、積極的に政治活動を行っている。例えば、他の活動家と共に、賛成派の会合を運営し、支持の拡大のためのコンサートを開催する。さらに、戸別訪問をして独立反対の市民と向き合い、自らの意見を主張し、相手の意見に耳を傾ける。しかし、彼女は熱心な活動家であるにもかからず、今回の住民投票が自分の願望が実現する機会としてだけでなく、彼女の暮らすコミュニティを一つにする機会としても捉えている。こうした彼女の態度から、投票によって示される多数者の意思の支配が民主主義なのだと理解するだけでは把握できない、民主主義の一面が見えてくる。それは、共同のものへの配慮という態度である。この態度は現代の社会において民主政治が機能するためには欠かすことのできないものである。

 

古代ギリシア以来、民主的な政治は、共同のものをその基盤に据えてきた。それが平等な存在としての市民を結びつけるものだったからだ。かつてこの共同のものは、共通の祖国であったり、共同の利害関心や価値観であったりした。もちろん、近代以降の社会は、高度に個人化された社会である。だから、そのような共通のものや共同のものがあらかじめ存在すると想定するのには無理がある。また、現在、異なる人びとの間に、何かしらの共通・共同のもの――例えば、20世紀のはじめに社会学が発見した、人びとの相互依存関係としての社会連帯――を見出すことは、ますます困難になっている。しかし、そのような個人化された多元的社会であっても、民主主義は、共同のものへの関係を断ち切ってしまい、それらと無縁になってしまったわけではない。共同のものは選挙などの共同の決定行為のように手続き的=形式的な形に矮小化される一方で、それは、異なる人びととの間で構築されるべきものとして生き残ってきたのである。

 

異なる人びとからなる社会に共有可能な共同性が存在すると想定できるなら、それは、投票で示された結果が自分の意思に反するものであったとしても、それを受け入れる理由や動機となるのではないか。このことは、近年ではコミュニタリアンと呼ばれたリベラリズムへの批判者たちによって繰り返し主張されてきた。とはいえ、たとえそうだとしても、問題は、先に指摘したとおり、現代の個人化された社会において、異なる人びとを結びつける共同のものは、所与のものではなく、作り出されるものだということであり、さらに、強制されるものではなく、市民が自らの意思で配慮し尊重すべきものであるということだ。では、異なる人びとの関係性によって媒介されたこの共同のものはどのようにして作り出され配慮されるようになるのか。この問いについては、参加民主主義の理論や熟議民主主義の理論がその答えを模索してきた。これらの理論によれば、異なる人びととの交流をとおして、とりわけ、真摯な対話をとおして共同のものは作り出され、市民はそれを尊重する態度を手に入れるのである。先に挙げたシングルマザーにとって、それがコミュテニィであるように思われる。すなわち、彼女は政治活動をとおして、コミュニティという共同のものを発見し、それに配慮する態度を獲得したのである。

 

 投票とは別の民主主義

民主政治は、政治である以上、決定を行わなければならない。そして、その決定は、多数決原理にもとづく投票によって行われる。ロザンヴァロンが議論しているように、近代以前、喝采による投票は、社会(共同体)の結び付きを確認する行為であった。それに対して、近代以降、多数決原理にもとづいた匿名の投票は、社会における対立をあからさまにする行為となった。確かに、通常の政治的争点において、しかも多数者の意思への服従という規範が強固である場合、社会の対立関係は多数決投票によって一瞬、表出されるだけで、日常生活の反復の中に埋もれていく。しかし、今回のスコットランド住民投票のように、国家の独立や憲法の改正などの社会を二分するような政治争点が争われる場合、投票によって表出された社会の対立関係は、解消されることなく社会を分断し無秩序を生み出すことになるかもしれないのである。

 

そうした事態を避けるべきであるとするなら――もちろん、避ける必要はないという考えに道理がないわけではない――、多数決原理やそれにもとづいた投票を民主政治のすべてだとする考えを捨て去らねばならない。そして、投票で示された多数者の意思を少数者が受け入れる条件が何であるかを民主主義の問題として考えてみる必要がある。そのとき、多数決にもとづく投票という私たちが普通イメージする民主主義とはまた別の民主主義が見えてくるはずだ。

 

ここでは、日常の生活で培われる信頼関係と共同性への配慮という2つ条件について検討した。これらは、民主主義の理論においても論じられてきたものであり、現在に至っては、信頼関係の醸成や熟議の機会をどう制度化するかが問われ始めている。とはいえ、これらの条件をスコットランドの社会がどの程度備えているのか、上のケースだけではまったく定かではないし、実際、そこに登場した人たちが投票の結果を受けどう行動するかもわからない。だからこそ、スコットランドの独立をめぐる投票結果だけではなく、その後の動向を注意深く見守っていく必要があるように思われる。

多数決投票ですべてが解決するわけではない(1)――スコットランドの独立問題から考える、社会の分断を乗り越えるために民主主義に必要なこと――

 間近に迫った住民投票

今月の18日に、スコットランドでは、独立の是非をめぐる住民投票が実施される。現在のスコットランドは、イギリス、すなわち、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国を構成しているが、1707年以前は、独立した王国であった。イングランドとの統合後も、スコットランドは独自の文化や産業を発展させることで、その名を歴史に刻んできた。例えば、18世紀には当時のヨーロッパを席巻した啓蒙主義運動の一大拠点――デイヴィッド・ヒュームやアダム・スミス、アダム・ファーガスンらを輩出した、いわゆるスコットランド啓蒙の地――であったし、また、続く産業革命以降、スコットランドグラスゴーは、ヨーロッパの産業の中心地の一つであった。そのスコットランドが、その住民の意思次第で、300年以上の時を経て主権国家として独立するかもしれないというわけだ。かりに、スコットランドの独立が実現するなら、おそらく、それは、20世紀後半のソ連の崩壊とロシアの誕生や南アフリカでのアパルトヘイトの廃止に並ぶ歴史的出来事になるように思われる。

 

間近に迫ったスコットランド独立をめぐる住民投票は、イギリス国内だけでなく、国外の多くの人びとの関心も集めているようだ。今年に入り、オバマ大統領はスコットランドの独立をけん制する発言をしているし、日本でも、新聞の記事やネット上のコラムでしばしばこの話題を見かけるようになった。しかし、スコットランドの独立に直接的な利害を持っているであろうイギリス国内に住む人たちならいざ知らず、ユーラシア大陸を挟み遠く離れた日本の私たちがこの問題に注目するなら、その理由はどこにあるのだろうか。もちろん、その理由は様々なはずだ。世界経済に対する影響に関心を持つ人もいるだろう。例えば、北海油田は独立後のスコットランドに帰属する可能性があり、そうなればイギリス経済に少なからぬ打撃を与えるに違いない。また、通貨ポンドの不安定化を引き起こすことも考えられる。安全保障に対する影響に関心を持つ人もいるはずだ。というのも、イギリスの核兵器を配備する軍事施設は、スコットランドのファスレーンにあるからだ。さらに、国際政治上の関心からすれば、スコットランドの独立は、例えば、北アイルランド問題やバスク問題などヨーロッパにおいてくすぶり続けている民族問題に油を注ぐ可能性もあり、現行の国民国家を中心に組織されているEUを内側から動揺させることになるだろう。

 

スコットランドの独立問題を民主主義の問題として考える

上で述べた関心は、どれも真剣な議論に値するだろう。しかし、ここでは、それらとは異なる関心から、スコットランドの独立問題について考えてみようと思う。すなわち、成熟した社会の民主政治が、独立か否かという社会を二分する政治的争点を、社会の分断という危機に陥ることなく解決するには、何が必要なのかという関心である。この関心からスコットランドの独立問題を考えことによって、民主主義が多数決を原則とする選挙や投票にはとどまらない政治的な思考であり実践であることが自ずと明らかになるはずである。

 

私たちは、通常、民主政治における決定は投票によって確定される多数者の意思にもとづくべきであり、さらに、投票で敗北した少数者は勝利した多数者の意思を受け入れるべきだという考えを共有している。しかし、なぜそうであるべきなのか。この問いに対する答えの一つは、多数者の意思こそ社会全体の共通の意思であるというものだ。したがって、民主主義に関して共有されてきたその考えは、多数者の意思と社会全体の意思を同一視できるという想定に裏付けられてきたのである。

 

しかし、これはあくまでも想定である。したがって、現実の事態を指示しているわけではない。さらに、想定としても、説得的な根拠を欠いた、かなり脆弱な類の想定だ。なぜなら、多数(majority)と全員一致(unanimity)とが異なること、ルソー風に言えば、全体意思と一般意思とが異なることは誰の目にも明らかだからだ。それに少数者によって社会一般の利害が代表される可能性がないとは言えない。そもそも、多数者の意思と社会全体の共通の意思との同一視は、一般意思という概念を代表制民主主義に移植する際に便宜上、必要とされた想定なのだと指摘する人たちもいる。

 

それにもかかわらず、この想定は未だに通用しているようで、それに裏付けられた、多数者の意思に従うべきという考えも相変わらず自明視され現代の民主主義の常識になっている。選挙や法制定における多数決投票によって政治的決定は民主的な正統性を獲得するという考えが、比較的抵抗なく受け入れられていることをみれば、このことは否定しようもない。

 

しかし、今回のスコットランドの独立問題のように、社会を分断するような政治的争点が争われる場合、投票で勝利した多数者の意思に少数者は従わねばならないというこの常識が通用しないことがありうるし、また実際にある。もちろん、政権の選択や法律の制定(その改廃を含む)のような定期的に繰り返される政治的争点においては、投票による勝者の決定という考えは支持され、効力を持っている。それは、いわば、政権選択という競争ゲームにおいて勝者と敗者を決するルールを遵守するのと同じようなことだ。なぜ、ルールが遵守されるかと言えば、このゲームが続く限り、今回は敗者であっても、次のラウンドでは自分が勝者になれるかもしれないからだ。これに対して、国家の独立や憲法の改正などの政治的争点は、ゲームが行われる土台や枠組み自体を変えてしまう可能性を意味するわけで、それまで行われていたゲームのルールをそのまま適応できるとは限らない。だから、そのような争点が争われる場合、少数者が投票によって正統化された多数者の意思への服従を拒絶したり、民主的な決定の手続きとは異なるやり方で、例えば、物理的な暴力に訴えるというやり方で、自分たちの意思を貫徹しようしたりとすることが実際に起きうるのである。その中で、少数者は、多数者の意思が社会の共通の意思であるという想定が虚構であることを暴露し、この偽りの想定にもとづいた投票の結果の正統性を剥奪することで、自分たちの思想と行動を擁護することになる。

 

とすると、社会を分断する可能性のある重大な選択を迫る政治的争点を民主的に解決しようとする上で、それが招きうる危機を避けるためには、多数者の意思=社会全体の意思という想定に依拠する投票以上の何かが必要となってくるはずである。すなわち、この想定が虚構であったとしても、それにもとづいた決定を受け入れるために必要となる何かだ。いったいそれは何か。実は、この問いの答えの一つが、スコットランド市民の草根の根の運動から見えてくる。したがって、以下では、この運動に焦点を当てることで、その何かついて考えようと思う。このことについて考えることは、何より、憲法の改正という、社会を二分する政治的争点に遠からず向き合わねばならない私たちにとって、切迫した課題であるはずだ。

(後編に続く)

民主主義を蝕む安倍政治――憲法解釈の変更による集団的自衛権の行使の解禁に反対せねばならないもう一つの理由――

集団的自衛権の行使を解禁した閣議決定とその後

7月1日の閣議決定集団的自衛権に関する憲法解釈の変更が行われた。そして、すでに3週間近くが過ぎた。先日まで衆議院予算員会ではこの閣議決定に関する集中審議が行われていたが、それを見る限り、政府がこの問題に対して真面目に説明責任を果たそうとする気があるのか疑わしくなるばかりである。

 

例えば、こうだ。先の集中審議で安倍首相は集団的自衛権の行使に伴い、徴兵制の導入の可能性について問われた。その可能性を否定した首相および内閣法制局長官の答弁によれば、徴兵制が不可能な理由は、日本国憲法13条および18条に照らして、徴兵制憲法上認められないと政府が解釈しているからだ、というものである。さらに、法制局長官は、政府の憲法の解釈変更には合理性と論理性が必要であるが、徴兵制を容認するべく憲法解釈を変更するには、それが欠けている、だから、徴兵制の可能性は憲法上ありないと答弁した。

 

しかし、安倍首相が行った集団的自衛権に関する憲法解釈の変更の含意は、そうした合理性や論理性が外部環境――例えば、安全保障の環境――に依存するのであって、外部環境の規定の仕方次第ではいかようにも憲法解釈の変更は可能だということを示したことにある。だから、今回の閣議決定のように、今後、政府が「環境が変容した」と宣言すれば、徴兵制に関する憲法解釈の変更は可能であるし、また、新たな解釈にもとづいた関連する法案を政府与党が多数を占める国会で数の力に任せ可決さえすれば、徴兵制は現実のものとなる。合理的、論理的に思考すれば、こうならざるを得ない。

 

あまりにお粗末で無理のある政府の答弁であった。自分で否定した根拠を引き合いにして、それをもとに徴兵制の導入がありえないという説明を行っているわけだから。これで説明責任を果たすと言われては、呆れるしかない。安倍首相および内閣法制局長官の答弁が冗談ではないとすれば、彼らは自分たちが行った今回の閣議決定の重大性をまったく理解していないことになる。こうした事態は、安倍首相および政府への不信を増大させるだけでは済まないであろう。形だけの説明責任が行われ、真摯な議論もなく、内閣の決定を追認するだけの国会の存在意義はいったい何なのか、という代表制(議会制)民主主義への根源的な懐疑と反省を生み出しかねないように思われる。そこで、今回の投稿では、この代表制=議会に着目する。そうすることで、立憲主義とは異なる観点から、なぜ、行政府内での憲法解釈の変更による集団的自衛権の行使の解禁が民主政治の危機を生み出すのか考えてみたい。

 

 

数の力が支配する議会

今回の集中審議で見られたやり取りは、国会のいつもの光景ではないか、という見解もあるだろう。それによれば、「意見の議会」とかいう昔の思想家の言葉は言うに及ばず、最近の「熟議」の国会という言葉も、あまりに理念的で浮世ばなれした政治の理解から出てきたもので、現実の議会は数の力が支配しているのだ。政治が権力を求めての闘争だとすれば、そして、民主主義がそうした政治のあり方の一つだとすれば、多数者の支配を意味する民主主義こそ、数の力の支配を正統なものとする政治なのだ。だから、そうした光景は陳腐ではあるとしても、別段、非難されるようなものではない。それに、代表者たちによる政治(代表制民主主義)への懐疑などは、日本ばかりでなくどの民主国家においても、むしろノーマルな状態なのだ。

 

議会政治についてよく耳にする、それこそ陳腐な説明ではある。しかし、現在の政府も、国会審議における形式上の説明責任さえ済ませてしまい、その後の集団的自衛権の解禁に関する法案の成立は数の力で押し切ろうと考えているようであるから、この説明も確かに実際の議会政治の一面を捉えていると言わざるを得ない。

 

とはいえ、である。現在の情勢において、この陳腐な説明を今までのように、「まぁ仕方ない、《決められる政治》の代償なのだから」と受け入れたり、聞き流したりすることは許されないように思われる。なぜなら、集団的自衛権の行使の解禁に見られる一連の安倍政治は、こうした態度につけ入ることで、日本における民主主義をもはや回復不可能なほど蝕んでいるように見えるからである。

 

 

踏みにじられるのは立憲主義だけではない

では、なぜ、安倍政治が日本の民主主義を蝕んでいると言えるのか。その理由の一つは、前回までの投稿で議論した立憲主義である。立憲主義という考え方は、憲法への執行権力の服従を命じ、その自立化と暴走を防ぐことで、民主的な社会の諸価値、すなわち、個人の尊厳や人権、社会の多様性を守ろうとする。安倍首相の下で進められる、憲法解釈変更による集団的自衛権の行使解禁によって否定されたのがこの立憲主義であった。

 

こうした主張に対して、憲法解釈の変更など過去にもあったことなのに、なぜ今回の安倍首相による憲法解釈の変更だけが立憲主義を否定することになると非難されたり、立憲主義の否定という理由をもって日本の民主主義を蝕むなことになると非難されたりするのか、という反論が出てきているようだ。もちろん、こうした反論には妥当性があるようには思えない。今回の安倍首相による憲法解釈の変更が立憲主義を否定することになるということは、過去に憲法解釈の変更があったかどうかに関係なく論証することは可能だからであり、また、近代の立憲主義の否定が民主的な社会の諸価値を破壊してきたことは、歴史の事実として否定しようがないからだ。

 

しかし、それでもなお、そうした反論に固執する人がいるかもしれない。そうだとすれば、今回の安倍首相による憲法解釈の変更が集団的自衛権の行使の解禁のために行われたものだからこそ、日本の民主主義を蝕むものであることを提示することがよいだろう。このためには、立憲主義に訴えるだけでなく、別の民主主義の考え方に訴える必要がある。言い換えれば、今回の安倍内閣の閣議決定立憲主義だけでなく、それとは別の民主主義の基盤を踏みにじることを示す必要がある。そこで、そのような基盤をここでは、立憲主義との語呂を合わせるべく、「議会主義」と呼んでおこう。では、「議会主義」とは何を意味しているのか。

 

 

民主政治の正統性と民主的な社会の自己理解

先にふれたとおり、近代の民主政治、すなわち代表制民主主義について、こんな理解が存在する。その中心となる議会では多数決ですべてが決定されるのであるから、それは数の力が支配する場であるのだ。数の力こそ、代表制民主主議の正統性を生み出すものなのだ、というわけだ。しかし、議会が生み出す民主的な正統性についてのこうした理解とは異なる理解が存在する。

 

それは、議会が生み出す政治的決定の正統性を、単なる数の力ではなく、民主的な手続きに従った議論の中で積み重ねられる言葉=理由に見出す理解である。別の言い方をすれば、こうなる。民主的な社会における政治的決定の正統性は議論を経た合意に由来するものであり、この合意はその時々の社会に存在する多様な理由を含み込み、さらに時間かけて理由を積み重ねることから形成されねばならない、そして、こうした合意を形成する場が議会だという理解である。このような議会の役割を重視する立場が先に言及した「議会主義」の意味するところである。

 

しかし、「議会主義」という言葉が切り開く理解は、議会が生み出す民主的正統性が投票数の積み重ねではなく理由の積み重ねにあるのだ、ということだけではない。さらに重要なことがある。

 

それは、議会で生み出された民主的な合意は、社会に共有されることで、その社会の民主的なアイデンティティを作り出す、ということである。つまり、こういうことだ。議会で形成された合意――例えば、法律――は、社会へと送付され現実に適用される。そうすることで、多様な反応を引き起こしつつ、時代の推移の中でその合意の新たな解釈やそれに対する承認あるいは否認の新たな理由を生み出し、また議会へと再度送り返される――例えば、選挙や社会運動などをとおして――。そして、議会では新たに見出された理由をさらに積み重ねることで、これまでの合意が再検討され、必要があれば変更され、あるいは破棄される。このプロセスが反復されてもなお存続する民主的な合意は、社会において共有され根を下ろすことで、いわば社会の再帰的な自己理解となる。この社会の再帰的な自己理解こそが、社会を民主的に統合する上での基盤、すなわち、民主主義の精神を生み出す、というわけだ。

 

 

危機に晒される民主主義の精神

おそらく、集団的自衛権違憲としてきた政府の長年の解釈は、こうした類の合意であった。戦争へのトラウマ抱えた戦後の日本社会では、憲法第9条に掲げられた平和主義の理念をどう理解し、現実のものにしていくのかについて、様々な考えや思惑、それを正当化する様々な理由が存在してきた。9条に記された文言に忠実に従い、自衛権さえも放棄するべきという理由や、日米同盟のために憲法を改正し、集団的自衛権の行使を可能にするべきという理由、その他様々な理由が国会での議論をとおして積み重ねられてきた。その結果が、これまでの集団的自衛権に関する政府の解釈であった。もちろん、この解釈は、国会において多数を占めてきた与党の数の力によって、最終的には決定され、また、その解釈にもとづいた法案も、数の力によって可決されてきた。これは否定しようのない事実だ。しかしながら、この解釈は、米ソ冷戦の開始から、朝鮮戦争、安保改定、ベトナム戦争、新冷戦期、そしてポスト・冷戦期にわたり、様々な理由の積み重ねと合意の民主的な再検討を経て、日本の社会に根付くことで、民主的な社会として出発した、戦後日本の再帰的な自己理解となってきたと言える。

 

そうだとすれば、今回の閣議決定による集団的自衛権についての憲法解釈の変更は、「議会主義」において重視される議会の機能、それが生み出す理由の積み重ねとしての民主的正統性、そして、日本の社会に共有されてきた民主的な自己理解に対して挑戦を突き付けていると言える。したがって、安倍政治によって危機に晒されているのは、そうした自己理解に根差した日本の民主主義の精神であるように思われる。

 

今後、集団的自衛権についての新たな政府解釈にもとづいた法案が国会で可決されることを止めるのはほとんど不可能であろう。そう考えると、閣議決定をした時点ですでに、安倍首相によるこの挑戦が、成功を収めたように見えるかもしれない。しかし、そうではない。国会で新たに作り直された合意は、今度は社会に投げ返される。私たちの役割は、この合意に対して反対するのであれば、その理由を提起し、国会における再検討を促す努力を怠らないことである。安倍首相の挑戦が成功を収めたと言えるのは、集団的自衛権に関する新た解釈が多様な理由を積み重ね、繰り返しの検討を経て、社会に根差したときである。しかし、そのためには、少なくとも、国会における真摯な説明責任と議論がなされる必要があろう。それが見受けられない時点ですでに、彼の挑戦を拒絶する十分な理由が私たちにはあるのではないか。

集団的自衛権の解釈改憲はなぜ問題か?(2)――立憲主義から国民主権へ――

どうやら、解釈改憲による集団的自衛権行使の解禁は、もはや時間の問題でしかないような状況のようだ。大方の予想通り、公明党は連立を離脱するほどの覚悟もなく、結局、自民党集団的自衛権行使の解禁案に対して多少の制約を課す程度で、妥協することになりそうだ。また、相変わらず世論の反応も鈍く、どこか他人事のような雰囲気が支配的である。ここから、集団的自衛権解釈改憲に反対の立場の人びとは、勝敗の決したゲームを続けることになると言えそうだ。

 

このような事態は予期できたことなので、悲嘆する人は少ないだろう。なにより、このゲームが終わった後にも新たなラウンドが始まるわけで、それを考えれば、ここで悲嘆するより、現在懸案となっている集団的自衛権問題の成り行きを改めて検討してみることが賢明だろう。そこで、以下では、集団的自衛権の行使解禁を憲法解釈の変更によって実現するという、いわば掟破りの手法を許容するような近年の日本政治の状況を指摘しようと思う。そのあと、解釈改憲に対する理論的な批判がどのように展開されているのかを確認した上で、最後に、集団的自衛権の行使の解禁が実現した場合、日本の民主主義を守るために何ができるのか考えてみよう。

 

民主的な社会に内在する脅威

前回の投稿では、安倍政治のボナパルティズム的性格を指摘した。ただ、注意を促したいのは、このボナパルティズムという言葉は学問的な意味において厳密に使われていたわけではない、ということである。19世紀の終わりから20世紀にかけてしばしば使用されたシーザリズム(caesarism)という言葉でも安倍政治の性格を指摘できたであろう。これらの言葉によって表象される安倍政治の特徴は、安倍首相をトップに据える行政府の権力がその自立化とその暴走を防ぐためのさまざまな歯止めから逃れ、制約のより少ない形で行使されるようになる点にある。

 

こうした行政府の権力の自立化やその暴走の可能性は、近代以降の民主主義をめぐる議論においてつねに懸念された問題であった。ジャン=ジャック・ルソーは『社会契約論』において、行政府の逸脱を民主的な国家を崩壊させる原因として指摘している。また、19世紀後半以降、経済的領域への積極的な介入と社会福祉制度の拡充を目指した社会国家の発展に伴い、複雑化し巨大化した行政府とそれが行使する権力を民主的なコントロールの下に置くことが、民主主義の理論家にとって切実な課題であり続けた。一般に、この課題に対する取組みは、三権分立人民主権という理論を素地にして、司法府や立法府によって行政府をコントロールするための具体的な制度として結実していく。

 

いずれにせよ、重要なことは、現代の多くの国々の憲法に表明された近代民主主義の理念――それは個人の自由と社会の多様性の最大限の尊重、それを実現する条件としての社会生活(経済・文化・政治)への参加の同等性――に立脚する社会にとって、その脅威は社会秩序の統治を任務とする権力、すなわち行政権力だ、という認識が持続して存在してきたということである。すなわち、行政の行使する権力は、民主的なコントロールに服することなく自立化してしまうことで、民主主義の理念を踏みにじり、この結果、民主的な社会を破壊する可能性があるという認識である。この認識が、たんなる理論からの抽象的な帰結というよりは、多くの社会が記憶する歴史上の経験に根差したものであることは言うまでもない。

 

安倍政治を生み出した背景

しかし、その一方で、行政府が社会秩序の統治に必要な政策を効果的にかつ円滑に実施することを求める要求もつねに存在した。特に1970年代以降、社会の民主化が進んだ福祉国家において、行政府が対応すべき国民のニーズの増大と多様化という事態が生じたが、この事態は行政府の統治能力を超過する深刻な負荷になると理解されていく。ここから、サミュエル・ハンチントンらが論じたような行政府の「統治能力の危機」という言説が福祉国家批判を伴い、広く社会に浸透することになる。こうした中、社会における民主化の流れを抑制する一方で、行政府の権限の強化とその組織のリーダーのリーダーシップによる政治の停滞の打破を求める声が高まることになる。そして冷戦の終結後、新自由主義と結びついたグローバリゼイションの進展による国内外の秩序の再編は、この声をいっそう強くし、また拡散させる結果となった。

 

こうした傾向は、それぞれの社会において多様な形で現実の政治に反映されてきた。最近の日本の政治に目を向けた場合、衆参のねじれ現象が話題とされたゼロ年代後半以降、政党やマスコミによって盛んに吹聴された「決断する政治」や「決められる政治」はその一例と言える。そして、この流れの中から安倍政治が出現したわけだ。ただ、安倍政治に特徴的なのは、この政治家特有の高揚感に任せて「決められる政治」を手段を選ばず推し進めることで、上で述べた民主主義と行政府の権力との緊張関係を一気に露呈させた点にある。それが掟破りの憲法解釈の変更による集団的自衛権の行使の解禁である。手段を選ばないというのは、安倍首相が慣行に反して、集団的自衛権行使の解禁に積極的な外交官を内閣法制局長官に任命したことに見て取れるだろう。こうして安倍政治は、多くの人びとに、歯止めを失った行政権力の暴走という民主国家に内在する悪夢を思い出させたわけだ。

 

立憲主義からの批判

さて、安倍首相が推し進める解釈改憲への批判はどのようなものがあるのだろうか。一般には、立憲主義的な立場からの批判と、議会主義的な立場からの批判がある。このうち主流は、前者からなされるものである。そこで立憲主義から批判について簡単に見てみよう。

 

立憲主義は、法律の専門家の多くが安倍首相の解釈改憲を批判する際のより所となっている。それによれば、憲法は統治権力に対してすべきこととしてはならないことを規定し、行政・立法・司法各府の権力の自立化と暴走を抑制することで、国民の自由と権利を守る機能を持つ。民主的な社会を維持するには、統治権力がこの憲法の地位と機能を尊重しその命令を遵守して法を制定・執行・適用せねばならない。これを近代立憲主義と言う(ただ、立憲主義と民主主義との間に親和的な関係が確立されるのは、近代に至ってのことでしかない)。この立憲主義を擁護しようとする人たちは次のような批判を展開する。すなわち、安倍首相の解釈改憲は、コントロールされるもの(行政府)がコントロールするもの(憲法)を自らの都合に合わせて変えることを意味するのであって、それゆえ、立憲主義という民主的な社会の根本原則を侵し、行政権力の暴走を許す危険性がある、と。では、立憲主義からの批判は、安倍首相が進める解釈改憲の現実的な歯止めをどう想定しているのであろうか。

 

立憲主義を守ることは可能か?

立憲主義からの批判はあくまでも規範的な立場からの批判である。したがって、この批判の狙いは、何よりも、解釈改憲による集団的自衛権行使の解禁に反対する世論の喚起にある。ここから、それが想定する第一の歯止めは世論であり、その世論に影響されざるをえない政党や政治家であろう。しかし、世論という歯止めは、あまりに不確かなものであり、現在の世論がそうした機能を果たしうることは想像すら難しい。すでに指摘した通り、実際の政治日程では、この解禁は憲法解釈変更の閣議決定を経て、今年中には関連する法案が可決されることで現実のものとなるであろう。では、その期に及んでも、解釈改憲による集団的自衛権の行使に対して、何らかの歯止めを想定できるであろうか。

 

もちろんそれは可能だ。歯止めとなるのは、憲法を守るための権能を備えた組織、すなわち、違憲立法審査権を有した司法府である。この司法府が立憲主義を唱える人たちの最後の砦である。集団的自衛権を行使可能にするための法案が成立し施行された後には、日本国内でその法律をめぐる法的紛争が起きるに違いない。そして、その法律の合憲性が訴訟の中で争われることになるだろう。このとき、最高裁判所を頂点とする司法府は、法律に対する違憲判決を出すことで、安倍首相の解釈改憲による集団的自衛権の行使を無効にする最後の防波堤となる、こんな想定が可能なのだ。

 

とはいえ、これはあくまでの想定である。はたして、最高裁違憲判決を出すことで、憲法に対する守護者となるのだろうか。現時点で、この問いに対して答えられる人は誰もいない。そもそも、最高裁憲法判断を回避することができる(例えば、「統治行為論」)。それだけでない。三権分立論から憲法上許された、内閣による最高裁判事の任命権を利用することで、行政府が司法府を支配下に治めることは不可能ではない。つまり、行政府が自らの傀儡によって最高裁の判事を構成することが考えられるのだ(もちろん、最高裁判事の任期という制約はあるが)。そうなれば、行政府の恣意的な解釈から憲法を守ることを司法府に期待することはできない。

 

究極の歯止め――国民という主権者の顕現――

では、こうした悪夢が現実のものとなり、立憲主義は踏みにじられ、そして行政府はその権力を思うままに行使するという事態がすんなりやってくることになるのだろうか。現行憲法の民主的な制度設計においては、そうならない可能性もある。すなわち、民主的な社会を守るために必要な行政権力をコントロールするための手段は、まだ残されている。

 

よく知られたいくつかの例を挙げよう。その中心となる手段は、もちろん、選挙である。選挙によって行政府を交代させることが可能となる。さらに、先に述べた行政府による司法府の支配に関して言えば、衆議院総選挙と同時に実施される最高裁判所判事に対する国民審査もその手段に数えることができる。理論上は――したがって、実際にはまだ実現してはいないが――、国民はこの手続きをとおして、最高裁判事を罷免することが可能となる。

 

もう一つは、デモなどの直接行動である。デモには執行権力に対して直接の強制力はないものの、街頭に立つ市民が、民主的な社会を守るという理由の正統性によって主権者としての国民を代表することになる。これらは、国民が主権者として顕現し、その権力を行使する事例だと言える。

 

ここから、安倍首相の解釈改憲による集団的自衛権行使の解禁を防ぐことができるかどうかは、民主的な社会を守るために主権者である国民が顕現するかどうかにかかっている、ということが分かる。言い換えれば、現行の日本国憲法では、主権という究極の権力を保持した国民こそ、民主的な社会を守る究極の番人として指名されているのである。

 

ほとんど不可能な期待

民主的な社会を守るために、国民が主権者として顕現するなどということが現実にあるのだろうか。確かに、日本の社会の実情を見るかぎり、それはほとんど不可能な期待でしかない。しかし、少なくとも言えることは、現行の憲法において、行政府の解釈改憲による立憲主義の蹂躙、ひいては民主主義の破壊に際し、主権者にはそれに対抗する手段が存在するということである。その手段を行使するかしないかは主権者の意思と能力によるが、いずれにせよ、行使することは可能なのである。

 

やはり、そうした可能性を指摘するだけでは、むなしさが残るだけだ。結局、立憲主義や民主的な社会を行政府の権力から守ろうとする人たちにとって、事態はここまで深刻だということなのだろう。もはや、偽りの安寧の中でまどろむ主権者としての国民に期待するしかないからだ。

 

こうして、またしても、民主主義の凡庸な鉄則を思い出すことになる。すなわち、民主主義ほど、それが危機に直面したとき頼りにならないものはない、という鉄則だ。そうであるのは、危機を乗り越えるのに必要な市民の意思も能力も一日で獲得されるわけがないからだ。それらは日常生活の中の民主的な取り組みの中でしか培われない。だから、エリート(主義者)たちが民主主義の危機に際して、立憲主義を守れと叫んでも多くの普通の人たちには十分に届かないのである。

 

 

集団的自衛権の解釈改憲はなぜ問題か?(1)――安倍政治とボナパルティズム――

先月末、日本と北朝鮮の政府間の協議で、拉致問題の進展が見られた。北朝鮮が日本人拉致被害者再調査を実施し、その見返りに、日本は独自の制裁措置を解除するという内容だ。この突然の出来事と、国内政治の主要な争点となっている集団的自衛権の問題との間には、何かしら関係が存在するように思えてならない。

 

拉致問題は利用されたのか?

例えば、このニュースを耳にして、「やはり、このタイミングか」、という印象を持った人は少なくないに違いない。このタイミングというのは、安倍首相が、国内政治の重要課題の実現を容易にするべく、拉致問題を「だし」に使った、という意味である。この重要課題はいくつもあろうが、おそらく誰もが頭に浮かぶのが、集団的自衛権の問題である。いわゆる解釈改憲による集団的自衛権の行使の解禁については、連立を組む公明党、特にその支持母体である創価学会の反対を受け、さらに、法律や政治学の専門家の多くからは厳しい批判を突き付けられている。また、世論調査も各調査媒体によって結果が割れている現状を見ると、世論の動向を予測することは容易ではなさそうだ。とはいえ、安倍首相としては、公明党との交渉を有利に進めるためにも、世論を味方につけておきたいところであろう。とすると、彼にはどのような選択肢があるのか。おそらく、懸案の集団的自衛権の問題からは世論の目を背けさせ、それとは別のイシューで自らへの支持を確保した上で、強行突破への体力を蓄えておくこと、これを目指すだろう。このために拉致問題が利用されたのかもしれない。「このタイミングか」という印象は、こんな素朴な推論に裏打ちされているように思われる。

 

これが印象論であることは言うまでもない。事の次第は安倍首相を中心にした関係者のみ知るところだろう。とはいえ、今回の協議における日本側の決定がこの時期に下されなければならなかった理由を、拉致問題の政治的重要性や安倍首相本人の政治的信条に求めるとすれば、あまりにナイーヴに過ぎるだろう。政治家(君主)にはキツネのような狡猾さが必要であるとするなら、拉致問題の利用の可能性は十分にあるはずだ。上記の推論の根拠の一つは、ここに求められることになる。

 

ボナパルティズムについて

こうした印象は多くの人たちが指摘するところであろう。しかし、ここではまったく別の観点から浮かび上がる関係を指摘しておきたい。それは、拉致問題集団的自衛権の問題への安部首相の取り組みには共通する点があって、この共通点が彼の政治の一面を象徴しているというものである。その一面とは、安倍政治のボナパルティズム的性格である。

 

ボナパルティズムを分かりやすく言えば、執行権力を掌握した政治家(政府)が大衆の支持の下で行う独裁政治といったものだ。この言葉を広く世に普及させる一因になったのが、カール・マルクスの『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』というテキストである。そこでマルクスは、ボナパルティズムの語源となったナポレオン・ボナパルトの甥、ルイ・ボナパルト(後のナポレオン3世)を取り上げ、1848年の二月革命に対してボナパルトが遂行した反革命のプロセスを描いている。

 

すべての国民の「家父長的な恩人」であることへの欲望

安倍首相のボナパルティズム的性格は、このテキストの「ボナパルトは、すべて階級の家父長的な恩人として現われたがっている」というセンテンスにおいて予感される。すなわち、安部首相は、ルイ・ボナパルトが19世紀のフランスでそうであったように、現代の日本社会を構成するすべての国民の父のように振る舞い、頼りになる恩人として敬愛されることを欲望する政治家なのではないか、彼の政治の特質はこの欲望から理解されるべきではないか、と。

 

この予感を例証するのが、拉致問題集団的自衛権の問題である。例えば、集団的自衛権行使の解禁を進める旨を国民に自ら公表したテレビでのプレゼンで、彼が用いたフリップ・ボード。集団的自衛権の行使によって派兵される自衛隊、そして自衛隊の軍事行動に最終的な責任を負う安部首相は、温情の厚い父として、他国で紛争に巻き込まれた母親とその子を救出するのだ。

 

拉致問題に関しては言うまでもない。彼は、他国によって拉致されたあらゆる日本の国民――すなわち子――を自らの手で救出する父として振る舞うことを望む。まるで父のように振る舞うことですべての国民の恩人として承認され愛されることを欲する政治家、それが安部ではないだろうか(だからといって、安倍首相の政治の本質が、外交的な想像力と歴史的な見通しを欠いた対米従属路線にあるという解釈を否定するわけではないのだが)。その結果、恩義を施す父として安倍首相は、マルクスの言葉を捩って言えば、「日本を取り戻すことができるようにするために、日本のすべてを売り払う」ことになるのかもしれない。

 

ボナパルティストの夢

もちろん、安倍政治≒ボナパルティズムという指摘がこうした例証に依拠するだけなら、それは表層的な印象論の域を出ることはない。しかし、ボナパルティズムという政治の手法をマルクスが分析した歴史的な事態に即して理解した上で、集団的自衛権の行使を解禁しようとする安倍首相の取り組みを検討するなら、彼の政治のボナパルティズム的性格は、たんなる印象論以上の含意を持つことになる。

 

そこで、1848年から1852年までのフランスにおけるボナパルティズムに話を戻そう。マルクスが分析した事態とは、官僚組織と軍隊を掌握した大統領(行政府の長)ルイ・ボナパルトによる、民主的に選挙された議会=立法府の無力化、最終的に議会の息の根を止め憲法を踏みにじるクーデタの実施、そして新たな憲法の下での帝政の復活である。先にも触れたとおり、この事態は、単純化して言えば、執行権力=行政権力の独裁という政治のあり方を意味する。しかし、ここで注目したいのは(マルクスの議論からは少々離れることになるが)、行政府の独裁がどのように実現されたのか、ということである。これに焦点を合わせるなら、代表制民主主義――議会主義と呼んでもよいであろう――の形骸化と憲法の蹂躙、そして国民投票によるクーデタや独裁の正統化、これらがボナパルティズムの政治手法として浮かび上がる。

 

もちろん、19世紀のフランスで生じたこの事態を一般化して、現在の日本にそのまま当てはめることは適切ではないし、そもそもそれは不可能だ。しかし、少なくともそこには、曲がりなりにも民主的と呼びうる国家において、行政府が立法府や司法府を支配下に置くことですべての政治権力を章掌する一つのやり方を見ることができる。それが行政(政府)による代表制民主政治(議会)の軽視であり、政府と議会双方をコントロールする機能を持った憲法の否定である。この手法を踏むことで、いわゆる民主的な国家において無制約の政治的権力を手に入れること、これがボナパルティストの夢なのだ。

 

集団的自衛権の問題の核心

それでは、安倍首相の政治のボナパルティズム的性格は集団的自衛権の問題においてどのように現れているのか。それは、安倍首相が現行憲法の根幹にかかわる集団的自衛権の行使を解禁しようとする際の、そのやり方において現れる。すなわち、日本国憲法第96条に明記された正統な手続きを経た憲法改正ではなく、行政府の憲法解釈の変更による解禁というやり方である。

 

言うまでもなく、この96条は、憲法改正へのハードルを高くすることで最高法規としての憲法の地位を保証しているだけでない。それは、最終的な決定を下す国民投票の前に、国会における総議員の3分の2以上の賛成にもとづく発議というプロセスを定めることで、憲法改正の正統性をより十全な民主主義的手続きに求めている。したがって、こうしたプロセスが不可欠な理由は、たんに国民投票で生じうる多数者の暴政から憲法を守るためだというのだけでは不十分である。むしろ、再帰性の深まりの中で説得力を持ちうる理由は、次のようなものである。すなわち、議会こそ、3分の2という条件が求めるより濃い民主的正統性を、開かれた討議と徹底した説明責任をとおして憲法改正に付与する能力と義務を持った機関だからだ、という理由だ。

 

そうだとすれば、憲法に記された正統な手続きを踏むことなく、憲法の根幹を変更しようとする安倍首相の取り組みは、究極的には憲法を否定することであると同時に、憲法改正に正統性を付与する議会を軽視する試みであると言える。これがボナパルティズム的手法の反復であることは論を俟たない。

 

この手法を容認するのなら、どうなるのか。確かに、政治家個人による独裁という事態が生じることは考えにくい。しかし、ただでさえ行政権力の肥大化が問題となっている現代の国家において、それを民主的にコントロールし、行政府の暴走を防ぐことはいっそう困難になるに間違いない。万能感に浸った安倍首相が国民の恩人として父のような存在であることを欲望しているとするなら、彼が限りなく無制約な権力を手に入れようとするボナパルティストの夢を見ないと誰が断言できようか。

 

こうして、安倍政治のボナパルティズム的性格の予感は、集団的自衛権の問題の核心とその危険性に気付かせてくれるのである。すなわち、それが、憲法改正ではなくて憲法解釈の変更による手段的自衛権の解禁というそのやり方にあるということである。