民主主義とその周辺

研究者による民主主義についてのエッセー

サイレント・プアともう一つの民主主義(2) サイレント・プアを解決するために必要なもう一つの取り組み

先の投稿「サイレント・プアともう一つの民主主義(1)」では、サイレント・プアの問題を現在の日本の社会のあり方から理解する必要性を論じた。このあり方を大きな影響を及ぼしているのが、グローバリゼイションの圧力の下で弛まず進められている新自由主義的な政策――その帰結の一つが雇用の非正規化に他ならない――である。さらに、この問題に向けられた自己責任論が的外れな批判であることを指摘した。自己責任論の多くが、この新自由主義的政策を意識的であれ、無意識的であれ擁護することになることは今では誰もが知っている事実である。今回の投稿では、前稿で触れた社会関係資本の概念からドラマ「サイレント・プア」でのコミュニティ・ソーシャル・ワーク(CSW)の取り組みが貧困や社会的孤立の状態にある人たちのエンパワーメントであることを指摘する。その上で、CSWの取り組みからさらに一歩進んだサイレント・プア問題の取り組みが、選挙‐代表制とは異なる、日常生活の中の民主主義にあることを論じる。

 

 

社会関係資本の欠如としてのサイレント・プア

資本は、経済的、社会的、文化的といった形態を問わず、それが活用できる状態で手元になければ意味がない。したがって、そのためには、資本はまず獲得され蓄積される必要がある。社会関係資本に関しても他の資本と同様に、それを獲得し蓄積するには投資や相続による充当がなければならず、さらに、獲得され蓄積された社会関係資本を活用し管理する能力やノウハウも必要となるはずだ。

 

こう考えると、サイレント・プアと呼ばれる状態に陥る人たちの事情がよく理解できるであろう。現在、家族や近隣地域社会における社会関係が脆弱化していることは誰の目にも明らかである。そのような中、社会関係資本――社会関係に埋め込まれたネットワークや信用――は、人びとがことさら意識的に獲得し、蓄積し、慎重に管理せねばならないものとなりつつある。そのためには時間とお金、社交性やコミットメントといった能力が不可欠だ。

 

しかし、その一方で、現代の日本社会に暮らす人たちは、労働をとおして、経済資本、すなわち、お金を獲得し蓄積することに日々の生活のほとんどのエネルギーと時間、能力を費やさざるを得ない。もちろん、その労働によって十分な経済資本を獲得でき、それを文化資本そして社会関係資本に転化させることで、文化的にも社会関係的にも豊かで充実した生活を送ることのできる人びとは少なからずいる。しかし、実情といえば、少なくとも一人暮らしの女性の3割や母子家庭の母親の半数以上がそうではない。不安定で不確実な労働に頼らざるを得ない彼女らは生活を維持するのに十分な経済資本さえ獲得することが困難な状況に置かれている。既存の社会関係の脆弱化の中、相続された社会関係資本がなければ、それを経済資本の獲得や蓄積のために活用できる可能性も低い。その結果、彼女たちは、経済的貧困――すなわち、経済資本の不足――に陥れば、容易に社会関係からの孤立――すなわち、社会関係資本の不足――に直面することになるのである。

 

では、経済的貧困に起因する社会関係資本の不足としての社会的孤立に対してどう対処すればよいのだろうか。そもそも、あらゆる資本の原初的な獲得のほとんどが親からの相続や投資である。このことを考慮すれば、答えは簡単であろう。資本の不足を当事者自身で補うことができなければ、当事者以外が、その不足した資本を充当するための支援をすればよい。そのやり方の一つが、CWSの取り組みである。この取り組みは個別のケースに応じて様々な形をとるであろうが、その核心は、経済資本の獲得と蓄積のために公的扶助の給付や新しい仕事口への就職の手助けをするのと同時に、社会関係からの隔絶された人たちが社会関係資本を再獲得できるよう支援することに他ならない。

 

 

エンパワーメントしてのCSWの取り組み

サイレント・プア問題の対策として、社会関係資本を再獲得し蓄積するための支援は、一種のエンパワーメント(empowerment)の試みとして理解できる。エンパワーメントとは、貧困や人種、民族、性などの差別によって、自分のあり方を自分で決定しそれを実現する力を奪われた人びとを支援し、そうした力を回復する取組みである。この「力」を社会関係資本と考えるならば、今回のドラマで描かれているCSWの活動は、貧困や社会的孤立に苦しむ人たちのエンパワーメントだと言えるだろう。

 

社会福祉協議会の職員であるCSWのエンパワーメントの特徴は、社会福祉協議会が民間団体とはいえ、法律(社会福祉)によって定められていること、運営資金も多くが行政によっていること――例えば、このドラマのモデルともなった大阪、豊中市で活動するCSWの予算は大阪府から出ている――から、行政の一部として組織されコントロールされた団体によるエンパワーメントだという点にある。もちろん、だからといって、この取り組みがダメだというわけではまったくない。CWSによるエンパワーメントは、ドラマにおいても、現実においても、見えない貧困に苦しむ人びとを発見し可視化することで、そうした苦境から脱出させることに貢献している。サイレント・プアが社会問題化している現代の日本社会において、この取り組みの重要性は、繰り返し強調されるべきだ。とはいえ、このエンパワーメントにもできることとできないことがあるということ、さらに言えば、これとは異なるエンパワーメントが存在することを指摘することは、サイレント・プア問題への取り組をさらに進める上で無意味なことではない。

 

CSWの取り組みの中心は、何より、様々な原因で貧困と社会的孤立という苦境にある個人を発見し、エンパワーすることで、社会の一員として健康で文化的な自立した生活を送られるよう支援することにある。したがって、このタイプのエンパワーメントの目標は、当事者がそうした生活に不可欠な資本の獲得を支援することで、彼女彼らの抱えた個人的な苦境を解決することにある。

 

これに対して、サイレント・プアの問題に対する取り組みには、別の狙いを持ったエンパワーメントもある。それは、サイレント・プアの問題を個人の抱える私的な問題ではなく、公共の問題として社会に認知させ、その結果、政治による取り組みが積極的に行われるようになることを目標にする。このためには、貧困や社会的孤立状態にある当事者が自分たちの苦境を社会が共有すべき公共の問題として見なし、それを広く世論に訴えかけ、政治の領域――議会や行政――へ送り届けるべく行動するようエンパワーされなければならない。こうした、CSWとは異なるエンパワーメントの取り組みこそ、サイレント・プア問題の解決に向けてさらに前進するために必要となる一歩だと考えられる。

 

 

もう一つのエンパワーメントともう一つの民主主義

今指摘した二つのエンパワーメントについては、それぞれがどのような力を付与するのかという点に着目することで、その違いがより明確になるだろう。前者のCSWにおけるエンパワーメントが付与しようとする力は、ここでは、経済資本に加え、何よりも社会関係資本であることを指摘してきた。これに対して、後者のエンパワーメントが付与しようとする力は何か。それは、個人を政治的な主体へと変容させるような力である。政治的な主体とは、ごく単純化して言えば、日々の生活で経験される苦難や不正を社会・経済上の構造から生じる公共的な問題として捉えることができ、さらに、民主的な政治によるそれらの解決を求めて連帯し行動する意欲や能力を持った主体――こうした主体は、しばしば市民と呼ばれる――のことである。

 

この力を、ブルデューが論じた三つの資本にもう一つの資本を加える形で、「民主主義的資本」と呼ぼうと思う。この民主主義的資本とは、人が政治的主体として考え行動するために必要となる意欲である。さらに、この意欲に加えて、政治的に考え行動するには、有益な情報を収集したり、他の仲間と議論したり協働したりする能力やテクニックが必要だ。民主主義的資本にはこうした能力やテクニックも含まれる。

 

分かりやすい例で考えてみよう。非正規雇用の増大に反対するデモがあったとする。それに参加するには、まず民主政治におけるデモの意義についての理解が不可欠だ。また、それが行われる場所や日時、それを主催する団体などの情報も必要だろう。さらに、たとえ情報を得たとしても、参加するには時間やお金がかかる場合もあり、それなりの意欲が必要だ。もしかしたら、友人を誘う場合もあるだろう。その際には、デモに参加する意味や効果について、その友人と議論し説得することが必要になるかもしれない。この例から、デモに参加するだけでも、どれほど民主主義的な資本が必要となるかが分かる。さらに、どうして多くの人びとがデモなどの政治活動に参加しないのかについても、この例から説明できるだろう。絵画を鑑賞することを好み、楽しむことができるには、ある程度の文化資本が必要だが、これと同じように、民主社会における政治参加には、民主主義的資本が不可欠なのである。

 

要するに、社会関係資本を付与しようとするエンパワーメントが社会関係に足場を持った自立した一員を作り出そうとする試みだとすれば、民主主義的資本を付与しようとするエンパワーメントは、民主政治の担い手として思考し行動する市民を作り出そうとする試みだと言えるだろう(後者のエンパワーメントの代表的なケースが、フェミニストの草の根運動で行われた意識変革、すなわち、コンシャスネス・レイジングである)

 

サイレント・プアの問題を公共の問題としてとして世論に訴えたり、不安定な雇用の改善や福祉予算の増大などより包括的な対策を政府や自治体に対して求めたりすることを目的にしたエンパワーメントは、少なくともCSWの主要な役割ではない。そうだとすれば、このタイプのエンパワーメントを誰が行うのか。それは、主として、CSWと協働しているであろうNPOなどの様々な団体であり、マスメディアなどの組織であり、この問題に関心を持つ普通の市民である。サイレント・プアの問題の解決には、現場でのCSWによる個別の取り組みと並行して、不安定な雇用の改善や福祉施設の整備など政治による取り組みが必要だ。そうだとすれば、政治の取り組みを促すためのアドヴォカシーや世論形成も重要になる。それだから、当事者を民主的な政治の主体へと力づけるエンパワーメントがまず求められるのである。

 

こうしたエンパワーメントは、日常生活の中の民主主義だと考えることができるように思われる。なぜなら、それは、エンパワーされる人たち、エンパワーしようとする人たち、さらにそうした活動を遠くから関心をもって見つめ可能な関与を模索する人たちが、社会に蔓延する悲惨や不正を自分たちの問題と見なし、政治的に解決しようとする市民参加の取り組みだからである。この日常の生活の中の民主主義は、選挙で投票し、後は政治家にお任せというような、現在の代表制民主主義の実情とは異なる参加民主主義のあり方を示唆している。そして、このタイプの民主主義における取り組みから、民主的な政治の担い手が生まれてくるのである。

 

さて、投票率の落ち込み、政治的関心や知識の低下、無党派層の増大などに示される代表制民主主義の機能不全が指摘されるようになって久しい。こうした現状に対して、町おこしなどの近隣地域への参加による自治活動が民主主義を立て直す試みだと評価する議論が見受けられる。これは、先に言及した、パットナムの社会関係資本論を下敷きにした議論である。それは、地域社会のネットワークを再構築し、その住人たちの間に信頼と協働の習慣を取り戻そうとするエンパワーメントだとも言える。もちろん、町おこしやそこでのエンパワーメントが悪いわけではまったくない。しかし、それが、易々と民主政治の活性化に繋がると言うならあまりに楽観的だ。

 

 今回の議論で示した通り、民主政治の活性化のためには、社会関係資本だけでなく、民主主義的資本が獲得され、蓄積されるよう働きかけるエンパワーメントが求められる。より正確に言えば、社会関係資本を民主主議的資本へと転化させるような働きかけが必要である。こうした働きかけが社会の自治的な活動に見出される場合にこそ、選挙とは異なる日常生活の中の民主主義の可能性――民主的な政治の担い手を生み出す可能性でもある――を期待できるのではないだろうか。

サイレント・プアともう一つの民主主義(1) サイレント・プアとは何か?

サイレント・プアが提起する民主主義の問題

NHKの「サイレント・プア」というドラマがなかなか面白いという噂を耳にしたので、これまでに放映された第1話から第3話を観てみた。弟の死の責任を背負い苦悩している若き女性が、社会福祉協議会のコミュニティ・ソーシャル・ワーカー(CSW)として、近隣地域から孤立し様々な問題を抱えた人びと――例えば、ごみ屋敷に暮らす女性、引きこもりの青年、ホームレスの老人――に寄り添い、多くの障害を乗り越えて支援を行う、というのがこのドラマのプロットである。

 

1話でも観れば分かることだが、このドラマは、フィクションとはいえ、制作側のしっかりとした取材にもとづいているようで、その分、見応えがある。また、制度的には機能不全に陥りつつあるとも言われる日本の社会福祉行政を現場で地道に支えている人たちに光を当てている点、さらに、現代の日本社会における社会問題の悲劇的な実情を正面から描いている点で、一見に値するドラマだと言えるであろう。この後者の点とは、もちろん、ドラマのタイトルにあるサイレント・プア、すなわち、「見えない貧しさ」である。それは、職を失うこと、病を患うこと、老人になることが経済的な貧困を招くだけでなく、社会からの孤立という貧困とは異なる貧しさを招く可能性が高く、その結果、誰の目にも止まらず必要な支援が届かなくなるという事態だ。

 

もちろん、俳優がどうとか、あるいは、テーマの重さに比べて描かれ方が軽いのではとか、実際の現場もそうだとか、あるいはそうではないとか、このドラマに対する様々な意見があるのだろう。この投稿では、そうしたドラマ自体の内容についてではなく、サイレント・プアという問題に焦点を絞って、この問題と民主主義の関係について考えてみたいと思う。結論を先回りして言えば、サイレント・プアをめぐる取り組み、そしてその中で行われるエンパワーメントという実践が、民主主義を選挙‐代表制として理解するだけではけっして見えてこない、民主主義のもう一つの側面について示唆を与えてくれる、ということである。

 

サイレント・プアの原因と、的外れな自己責任論

サイレント・プアという言葉が、近ごろ、人口に膾炙するようになったそもそものきっかけは、NHKの朝の情報番組で昨年の11月に放映された女性の貧困に関する特集にあるようだ。その特集では、経済的な困窮が社会的な孤立へと直結する現代の女性の実情が、この言葉をとおして描かれている。

 

少々古いデータではあるが、ひとり暮らしの女性(勤労世代)32%、母子世帯の57%が貧困状態にあるとされる(http://www.asahi.com/special/08016/TKY201112080764.html)。この事態は次のように説明できるであろう。非正規雇用の広がりという雇用環境を背景に、未だに女性に厳しい労働市場で、とりわけ、家事と育児に追われる母親が安定した仕事を見つけることはきわめて難しい。通常、労働によってしか生活を維持するための経済的資源を得られないのが資本主義社会の掟である。資産がない限り、たとえどのような理由であろうと労働することができなければ所得は得られず、したがって、生活を維持することはできない(もちろん、このため、日本では所得補償としての社会保障制度が完備されている)。こうして、先のデータに示されたきわめて多くの女性が貧困状態に陥ることになる。さらに、たとえ、女性が短期的な契約社員やパートタイム労働に従事していたとしても、それでは十分な所得を得られないのが実情であり、社会関係を維持するための交際費をねん出する経済的余裕がないために、また、育児や家事を一手に担う母親に至っては多忙のために、社会から孤立することになる。

 

社会からの孤立、すなわち、社会関係からの切断が、多くの場合、女性をたんなる経済的貧困以上の厳しい状況に追い込むことは、日常の経験を参照するだけで容易に想像できる。なぜなら、社会関係は、労働の対価として賃金を得るという経済的関係によっては供給されない、物質的な支え――例えば、「お裾分け」――や、精神的な支え――例えば、困りごとの相談、苦難の共有――、さらに、社会関係の内部に流通する有益な情報――例えば、近所の働き口や、公的な支援の受け方――を提供してくれるからである。したがって、社会関係からの切断は、完全な独力によってだれにも頼らず生活を維持せざるを得ない状態へと女性を追いやることになる。そして、重要なことは、この社会関係からの切断が、貧困に苦しむ女性の存在を社会の眼差しから遠ざけ、不可視の状態へと追いやってしまうことである。こうして、サイレント・プアという現象が生まれる。

 

もちろん、見えない貧困に陥るのは何も女性だけではない。男性も、そうなる可能性は十分にある。それは、サイレント・プアが、現在の社会‐経済のあり方に起因する、構造的な現象だからである。そのあり方は、生活を保障するにはあまりに不十分な労働条件、家族や近隣地域をはじめとする社会的な結び付きの綻びとして理解できるであろう。これがグロバーリゼイションの圧力の下で進められた新自由主義的な政策の帰結であることは周知のとおりである。

 

ところで、貧困問題や生活保護の問題がマス・メディアで取り上げられるようになると、必ず出くるありきたりで的外れな批判がある。それは、ゼロ年代に一世を風靡した「自己責任論」である。少なくともネット上での言説には、未だにこの言葉が散見されるし、サイレント・プアの問題に対しても例外ではないようだ。この言説においては、経済的な貧困も社会的な孤立も、当然のことながら、当事者の自己責任だということになる。

 

貧困などの社会問題を自己責任論で片づけようとする議論が、どれほど的外れかを今さら議論する必要はないであろう。未だにそうした議論を弄する人がいるとすれば、それは社会学の初歩的な知識がまったくない無知な人か――無知を責めても仕方ないので、そうした人には学んでもらうしかない――、自らのルサンチマンを弱者へのサディスティックな攻撃によって紛らわせようとする倒錯した性癖を内在化させた人か――いわゆる「逆向きのルサンチマン」であり、よくあるケースと思われる――、このような言説を流布することによって実利を得るような立場にある人――例えば、新自由主義的な政策を推し進める政治家や企業家――かのいずれかであろう。それはともかく、自己責任論が根強くあることを考えても、サイレント・プアの問題、そして特に社会的孤立の問題をいわゆる「社会関係資本」(ソーシャル・キャピタル)という社会学の概念から、理論的に検討してみることが有益かもしれない。とはいえ、この概念を導入するそもそもの狙いは、ドラマにおけるCSWの取り組みを出発点に代表制とは異なる民主主義のあり方について考えることにある。

 

社会関係資本とは何か

社会関係資本は、一般に、次のように説明できる。それは、人びとが暮らす近隣地域や人びとが結成するスポーツクラブ、ヴォランティア組織などの様々な団体において醸成される信頼やネットワーク、協働の習慣を意味し、この信頼や習慣が民主的な社会や政治がうまく機能するための土台となる、というものだ。

 

こうした説明は、ロバート・パットナムというアメリカの政治学者の議論をとおして普及した。しかし、以下の議論では、パットナムよりも以前に社会関係資本について論じたピエール・ブルデューというフランスの社会学者の説明に依拠しながら、社会関係資本サイレント・プアの関係について見てみる。

 

ブルデューによる社会関係資本の議論(1986)の特徴は、家族やそれ以外の集団内部の社会関係について、それが持つ資本(キャピタル)としての側面を強調する点にある。彼によれば、社会関係資本、すなわち、社会関係が醸成するネットワークや信頼は、資本の派生物の一つである。その他の派生物は二つあり、一つは、多くの人たちが即座に思い浮かべる経済的な形態での資本であり、もう一つは彼が『再生産』というテキストなどで詳細な研究を行った文化的な形態での資本である。

 

そもそも資本そのものは、マルクス主義的に言えば、蓄積された労働であるが、それは、自立した社会生活を送る際に必要なエネルギーや能力、資源を人びとに提供する。その特徴は、資本が多様な形態を取るという点にある。貨幣や所有権という形態をとる場合、それは経済資本であり、学歴や資格、文化的素養などの形態をとる場合、文化資本と呼ばれる。社会関係資本は、資本が人びとの間のネットワーク、そこにおける信用という形態をとる場合である。したがって、資本は分節化された形態で分析可能であるが、同時に相互に関連もしている。例えば、文化的な資本を獲得し蓄積するには、経済的な資本の投下は不可欠である。これは、高学歴の学生が経済的に豊かな家庭の出身であることから、容易に理解できる。

 

さて、社会関係とそこにおけるネットワークや信用を社会関係資本として、より正確には、資本の一形態として理解することの利点は、それらが、あらかじめ人びとに付与されているものではないということを改めて確認させてくれることにある。こうした理解によれば、上述の3つの資本は、一般に、家族における相続や投資をとおして付与され、持続的で慎重な管理をとおして蓄積され、活用され、あるいは喪失される。投資には元手が必要であり、蓄積には時間がかかる。ここから、自己責任論の裏側にある「他者に依存せず自立せよ」という命令を発しても、教育的な叱咤激励でない限り、むなしく響くだけで終わってしまうことが分かる。なぜなら、自立するには、資本が必要であるからであり、しかも、資本は偶然的かつ選別的に配分されるがゆえに、誰もが所有しているものではないからである。資本を欠いた人に、遠くから「自己責任だ」とか「自立せよ」と叫んだところで、その人が自立できるわけではない。だから、自己責任論を唱えてもそれほど意味がないのは分かり切ったことである。

 

それでは、この社会関係資本論からすると、サイレント・プアの問題やその取り組みはどう説明されるのだろうか。そして、サイレント・プアの問題への取り組みから見えてくる、民主主義のもう一つの側面とは何なのか。これらの点については、少々長くなったので、次の投稿で論じることにする。

マイルドヤンキーと民主主義――孤独なコミュニティの不安――

《マイルドヤンキーという新保守層》

近頃、マイルドヤンキーという言葉をよく目にする。この言葉は、マイルド、すなわち、尖った部分がそぎ落とされてやさしくなったヤンキーを意味するらしい。ヤンキーといえば、反社会的な行動を取り、ときに恐喝や万引き、あるいは暴走行為といった軽犯罪を犯すような、いわゆる不良というイメージが思い浮かぶ。しかし、そうしたイメージに対して、いま話題になっているヤンキーは自己顕示欲も低く、社会への反抗心も特にない若者であるらしく、それを聞いて少々驚いてしまう。そうした若者が、そもそもヤンキーと呼べるのか、ただ喫煙率や飲酒率が高かったり、EXILE風の格好を真似たりしているだけではないのか、と突っ込みを入れたくなるところだが、それについては後から触れることにしよう。ともかく、このマイルドヤンキーと名指された若者が、注目らしいのである。そして注目すべき理由は、なんと、マイルドヤンキーの消費が今後の日本社会を支えるというものだから、さらに驚いてしまうわけだ。 

 

マイルドヤンキーについてもう少し詳しく見てみよう。原田曜平『ヤンキー経済』によれば、1970年代に社会問題化した校内暴力に端を発するヤンキーの系譜の中で、マイルドヤンキーは2000年代の後半に登場する。この若者たちは、2つのカテゴリーに部類される。1つが見た目は昔のヤンキーのままの「残存ヤンキー」で、もう1つが見た目はまったく普通だが、ヤンキー的なメンタリティーをもつ「地元族」。この2つに共通するマイルドヤンキーの特徴は「上『京』志向がなく、地元で強固な人間関係と生活基盤を構築し、地元から出たがらない若者たち」(前掲書、25)と定義できるそうだ。大学進学や就職しても地元から離れることなく、またその地元での人間関係の維持を最優先にする閉鎖的なメンタリティ―や生活様式から、これらの若者は「新保守層」とも呼ばれる。酒もタバコやらず、クルマにも興味がなく、交際費さえ節約する他の同世代の若者と比べて、このマイルドヤンキーは、この濃厚な地縁を維持するために、気前よく消費する傾向にあるらしい。だから、彼ら彼女らは今後の消費の主役として脚光を浴び始めているわけだ。

 

マイルドヤンキーという言葉がマスコミやネットをとおしてにわかに耳目を集めはじめれば、当然さまざまな反応が出てくる。「マイルドヤンキーなんて階層は昔から存在していた」という指摘がその一例だ。それによれば、この言葉を喜んで使っている人たちには、この階層の人たちが身近にいなかったから、その存在に気付かなかったのではないか。ところが、現在の日本では、いっそう深刻化している社会・経済的な格差が、SNSなどの普及も手伝って、見える形で誰の目にも明らかになった。それがマイルドヤンキーと名付けられた若者たちなのだ(慎泰俊「「マイルドヤンキー」という言葉があぶり出した日本の階層」『日経ビジネスONLINE』)。

 

この指摘には一理あるように思われる。確かに、やさしいヤンキーなどは地方では昔から当たり前に存在したし、現在と同じ形ではないにせよ、地縁を何より大切に思いそこで生活の基盤を築いた若者たちも変わらずいたはずである。こうした批判が出てくるのには、おそらくいくつもの理由があるだろう。

 

マイルドヤンキーなる言葉が、企業向けプレゼンのキャッチコピーの類として使われていて、その言葉の示す階層あるいは集団が統計などの実証的なデータで裏付けされていない、というのもその理由の1つかもしれない。実際、この『ヤンキー経済」を読んでも、マイルドヤンキーなる若者が現代の日本社会に一体どれくらい存在するのか見当がつかないし、それゆえ、本当にこの若者たちが日本の消費を支えるのか判断することもできない。極論すれば、マイルドヤンキーについては、「昔から存在した集団だ」とも、「現代社会の理解する上での鍵となる階層だ」とも、何とでも言えてしまうわけだ。

 

とはいえ、例えば、19世紀の「性的倒錯者」がそうであったように、日常の世界の見慣れた現実は、まず名付けられることで、とりとめのない世界から切断され実在性が付与される、ということもある。そこから始まって、そうした現実は関心を払うべき認識の対象として発見され、科学的考察や社会的な管理・操作の対象として問題化されるようになるわけだ。

 

そうだとしたら、マイルドヤンキーという言葉も、たんなるキャッチコピーで終わってしまうとは言い切れないはずだ。それに、これが、社会科学的意味でどれほど不確かであっても、少なからぬ人たちの興味をかきたてる現象にアプローチしていることは間違いない。そうでなければ、この言葉をめぐって議論が生じるはずがない。

 

そこで、以下では、マイルドヤンキーという言葉が焦点を当てた「新保守層」と呼ばれる若者たちについて、マーケティングの視点ではなく、民主主義の視点から考えてみたいと思う。それは、不安定な社会に生きる若者たちの「孤独なコミュニティ」が、日本の民主主義の不安な先行きを想像させるからである。

 

 《コミュニティと民主主義》

これまでの投稿では、選挙を中心にした代表制度に期待をかけるだけが、民主的な政治のあり方ではないことを繰り返し指摘してきた。しかし、そんな分かり切ったことをなぜ繰り返すのか。それは、現在の代表制にもとづいた政治では、現在の私たちの社会が抱えている様々な問題を正統な形で――したがって、十分民主的なやり方で――解決できなくなってきており、このために社会の統合を今後維持することが困難になるのではないか、こうした不安を覚えている人が日本の社会にも少なくないように思われたからだ。

 

これは何も、日本に限ったことではない。つまり代表制度そのものの問題なのだ。19世紀から20世紀にかけて構築されてきた代表制度は、同時代の社会のあり方に条件付けられていた。このことを考えれば、その当時の社会のあり方から大きく変容した現代において、代表制度が上手く機能しなくなることなど、ある意味で当然のことなのだ。

 

実際、民主主義の研究者たちの報告によれば、日本以外の他の民主国家の多くでも代表制度への不満や不信が噴出する一方で――スペインのインディグナドスやウォール街でのオキュパイ運動などはよく知られた例であろう――、代表制度を補完するような民主政治の取組みの模索や、その制度化も地道に続けられている。その一例が、ミニ・パブリックスや参加型予算、直接立法などであって、市民が直接参加し、熟議を行う民主的な政治制度である。

 

ところで、代表制度を越えて民主主義を活性化しようとする取り組みの拠点としてフォーカスされてきたのがコミュニティであった。このコミュニティとは、基本的には、近隣居住地域という物理的な空間を意味する(「基本的には」というのは、その言葉は、例えばゲイやレズビアンの団体や環境保護団体あるいは宗教的な組織、極右団体など、共通の情緒や価値観あるいは問題意識を持った人たちの繋がりから形成された集団や組織も意味するからである)。日本においても特に近年、行き詰まりつつある民主政治を再興させる可能性とそのための手掛かりがこのコミュニティ、そしてそこでの市民の自治的な活動にあるのではないかという期待が寄せられているのである。

 

例えば、コミュニティ・デザインやコミュニティ・オーガナイジングと言葉を耳にしたと人も少なくないだろう。過疎と高齢化によって疲弊したコミュニティを復興させようとするこうした取り組みは、たんなる若者を呼び戻したり、観光客を呼び込んだり、あるいは、新しい産業を興したりするような、いわゆる「町おこし」以上の意味を与えられるようになっている。それは、コミュニティに暮らす人たちが繋がり再建し、協働することで、身近な自分たちの生活を自分たちで決定することを目指した市民の自治の取り組みである。

 

あるいは、2011.3.11以降の反原発運動をとおして、自然環境、科学と自然との関係性、ライフスタイルなどに関して、共通の価値観を持った人たちが繋がることでさまざまなコミュニティが形成された。そうしたコミュニティでも、自分たちにとって望ましい社会のあり方を議論し、身近なところから生活の質をあり方を変えていこうとする、これまた市民の自治的な取り組みが数多く出てきている。

 

市民による自治こそ、民主主義の礎だと考える人たちがいる。なぜなら、自治の取り組みをとおして人は、自分のことだけでなく、仲間の市民への配慮と共同(公共)のものへの関心を育み、仲間の市民たちと共に決定したり行動する能力を身に着けたりすることができるからである。つまり、自治は民主的な政治には絶対不可欠な、市民の態度と能力を陶冶するからである。そう考える人たちからすれば、コミュニティにおける民主的な取り組みは、エリートたちに支配された代表制度の土台として、民主政治を活性化するためにどうしても必要なものなのである。

 

民主主義の学校としてのコミュニティ。こうした考えは、19世紀以来、ことあるごとに繰り返されてきた。しかし、20世紀の後半以降、それはいつになく強調されるようになっている。そのように強調されるのには、それなりの理由がある。すなわち、現代社会に固有な理由があるのだ。その理由については論旨がずれるので別の投稿で詳細に論じようと思う。ただ、ここで、それを大雑把に述べるとすれば、以下のようになる。

 

新自由主義とグローバリゼーションが既存の社会・経済制度――これは福祉国家と呼ばれてきた――を破壊していく中で、その制度をとおして作り上げられた《社会的な結び付き》から人びとは切り離され孤立していった。それに伴い、以前はその結び付きの中で獲得されてきた、民主政治に必要な知識や態度そして能力も失われ始めた。これがその理由だ。

 

だからこそ、現在の民主政治を立て直すには、コミュニティとそこで育まれる価値観や信頼関係を守り、必要があれば、再構築せねばならない。もちろん、これは、コミュニタリアニズムソーシャル・キャピタル論に肩入れした少々保守的なメンタリティーを持つ人たちが、20世紀の終わり以来主張したことに他ならない。いずれにせよ、そうした人たちからすれば、現代の民主主義にとって、コミュニティが少なからぬ期待の場であることに間違いはない。

 

そうだとすると、マイルドヤンキーとして()発見された若者たちの存在は、この期待に反して、一抹の不安を民主主義に差し込むことになるのではないだろうか。なぜなら、この若者たちはきわめて親密な人間関係からなるコミュニティを作り上げているが、彼ら彼女らのコミュニティは、仲間内だけに閉じられ、自分たちが働いたり学んだりする世界、つまり現実の世界から孤立したコミュニティのように見えるからだ。マイルドヤンキーたちのこの「孤独なコミュニティ」は、不確実で不安定な現実の世界から切り離されているからこそ、その若者たちにとって、取り代えのきかない場となっているのであろう。

 

しかし、現実の世界から孤立したコミュニティにおいて、民主政治の土台となるような取り組みが生まれてくると想像するのはなかなか困難だ。ましてや、そのコミュニティがどうにも生き難い現実の世界をそこから変えていこうとする取り組みの出発点となるだろうと想像することはますます難しい。むしろ、その閉鎖性や孤立性がそうした取り組みを阻害する要因になるのではないかという危惧さえ感じられる。

 

もちろん、そもそもマイルドヤンキーがどれほど現代の日本に存在するかは定かではないし、この若者たちが年を重ねる中で、いつまでも現在のコミュニティを維持し続けるかどうかも分からない。したがって、あくまでも仮定の話だ。しかし、たとえそうだとしても、マイルドヤンキーたちのコミュニティの存在は、先に述べたコミュニティ待望論を再考するきっかけを与えてくれているように思われる。


  《孤独なコミュニティと民主主義の不安》

生活を保障してくれない雇用と、いつ破綻するか分からない社会保障。そんな中、不安定な現在を生きざるをえず、不確実な未来しか描けない人たちを支配するのは、もちろん、不安である。不安に怯える自分を慰めるのに必要なのは、安定的で確実なものだ。例えば、寛ぎや安心といった情緒を変わらず抱き続けることのできる仲間との関係、あるいは、信念や価値観を強固に共有した仲間との関係。不安定で不確実な現在の世界を何とか生き抜くのに、そうした関係を求める人は多いはずだ。だとすれば、こうした関係を基盤にしたコミュニティが、増大することを予測できる。もちろん、それは、SNSの普及もあるが、何よりも、現代が不安な時代だからだろう。

 

不安な時代の「孤独なコミュニティ」。これはただ増大するだけでなく、おそらく私たちの社会にとって問題を孕んだものになるかもしない。例えば、マイルドヤンキーのコミュニティとは異なると思われるかも知れないが、以前の投稿で言及したネット右翼のコミュニティもこの不安な時代と無関係であるまい。

 

現代のコミュニティが不安定で不確実な時代の産物であるからこそ、ますます、それぞれのコミュニティはその結び付きを強めねばない。また、それゆえ、コミュニティの外部に対して排他的あるいは閉鎖的にならざるをえない。こうして、現代のコミュニティが排他的ないし閉鎖的な傾向を持たざるをえないとすれば、どう考えても、それは民主政治の土台にはなりえないだろう。ネット右翼の存在を考えると、民主政治の土台をむしろ切り崩す可能性さえあると言える。

 

もちろん、積極的に民主的な取組みをしているコミュニティも多く存在する。しかし、排他的で閉鎖的な性格を持つ「孤独なコミュニティ」もますます増えていく可能性もある。そうだとすれば、民主主義の希望となるようなコミュニティの可能性を模索していく一方で、民主主義の不安となるような、「孤独なコミュニティ」の動向を注視する必要があるのではないだろうか。





大阪市長選挙と民主主義の隘路――代表制民主主義における選挙の形骸化――

《選挙結果の評価》

2014年3月23日の出直し大阪市長選は、事前の予想通り、低い投票率(23.59%)と橋下氏の圧倒的な得票(87.5%)による再選で終わった。この結果で注目された点は、極端に低い投票率だけでなく、13.53%という異常な数の無効票(6万7506票、そのうち白票は4万5098票)であろう。マスコミの論調――例えば、3月24日の朝日新聞の社説――によれば、これらの点が意味するところは、橋本氏が市長として公約に掲げた大阪都構想の是非ではなかった。むしろ、その政策を実現するための彼の政治手法に対する市民の反対の意思の表明だったのである。大阪市民によって否定された橋下氏の政治手法とは、議会の抵抗によって思うように進まない都構想を、粘り強い調整と幅広い合意形成によるのではなく、選挙に訴え「民意」を盾にして対抗勢力を押し切ることで実現しようとしたやり方である。こうして、今回の出直し市長選挙の結果は、彼の求心力が急速に低下しつつあること、それに伴い維新の会の政党としての基盤がいっそう脆弱化しつつあることを示しているというわけだ。

 

今回の大阪市長選の結果は、出直し選挙に打って出た当の橋下氏が墓穴を掘ったようにも見える。しかし、この低投票率を招いたのは、橋下氏と対立関係にあった市議会の既成政党が、出直し選挙には「大義」がないとして、あえて対抗馬を立てなかったことによる。これによって、大阪市民は、都構想推進の是非を問う選挙で明確な選択肢を持たなかったことになる。つまり、極端に低い投票率と異常なまでの無効票の多さは、橋下氏の政治手法の限界だけでなく、選択肢の提示を拒否し選挙自体を無視するという既成政党の選挙戦術の帰結でもあったのだ。

 

ここから、大阪市政における行政と議会との闘争は議会側の勝利に終わったのであり、その結果、橋下市長は、今後しばらく、市政のイニシアティヴを握った議会と妥協を重ねつつ市政を運営していかざるを得なくなったのではないか、という当たり障りのない総括を引き出すこともできるであろう。すなわち、確かに、タレント弁護士時代から炎上商法を特技とする市長のから騒ぎ――こう言っては少々失礼かもしれないが、選挙結果からそう見なされても仕方あるまい――のつけとして、選挙費6億円の支出は大きな無駄だったが、結局、大阪市も日本の地方自治体における政治の日常のあり方に戻ることになったのだ。こんな風に「やはり大したことなかったな」とかすかな失望感と安堵感を感じた人は、大阪市民だけでなく、この選挙に注目をしていたそれ以外の人たちにも少なからずいたのではないだろうか。

 

とはいえ、橋下氏の政治手法と既成政党の対立候補の見送りという選挙戦術、これらの結果としての低投票率と異常な数の無効票の発生という事態を、一地方地自体の特異なケースとしてではなく、日本の代表制民主主義において反復可能なケースとして見なすならば、この事態をちょっとした失望感あるは安堵感で終わりにすることはできない。なぜなら、こうした事態が繰り返されるとすれば、代表制民主主義の制度上の根幹である選挙が形骸化してしまうからである。さらに、この形骸化をとおして代表制民主主義自体が制度上の機能不全に陥る可能性があるからである。

 

《選挙の形骸化》 

今回の選挙で橋下氏が用いた手法は、すでに指摘したように、政治的リーダーが自ら政治基盤を強化するために、あるいは政策課題の遂行を妨げるような対抗勢力を排除するために、選挙をとおして示された民意を利用するような政治手法である。この手法は決して目新しいものではない。それは、「郵政選挙」とも呼ばれた、当時の小泉首相による第44回衆議院議員総選挙で用いられ、人口に膾炙するようになった。したがって今回の大阪市長選挙は、もちろんまったく同じやり方ではないにせよ――国会議員の選挙と地方自体の首長選挙とは当然同一視はできない――、繰り返された出来事だと言えよう。そして、小泉・橋下の両政治が用いた政治手法は、さらに今後も繰り返される可能性がある。その理由は、シンプルである。それが民主政治に、またとりわけ現在の民主政治にしっくりくる政治手法だからである。

 

彼らの政治手法が「ポピュリズム」あるいは「劇場型政治」と形容されることを考えれば、現在の民主政治に適合的であることは納得がいく。とすれば、今後の日本においてそれを用いる政治家が繰り返し登場する事態が予想できる。特に、政治的リーダーを直接選挙する、比較的大規模な地方自治体の首長選挙では、その事態は生じやすいであろう。また、それに伴い、首長と対立関係にある議会が、今回の大阪市長選のように議会側の候補者を擁立せず、選挙自体の無視を決め込むような事態の増加を予想することも難しいことではあるまい。

 

この事態が繰り返された場合、今回の大阪市長選の投票率や白票数に示されたような有権者シニシズムと無関心がさらに広がることになるだろう。というのも、もはや選挙が市民にとってどんな意味があるのか分からなくなるからである。ここに、橋下流の政治手法とそれに対抗する議会の戦術の問題が存在する。

 

この問題は、今回の選挙が政治(家)による選挙の恣意的な利用だったのではないかという疑念として現れる。それは、市民による政治(家)のコントロールを行おうとする民主政治における選挙の「本来の」機能――したがって、これは規範的な意味に捉えられるべきだ――からの逸脱を意味する。もちろん、選挙が政治(家)による恣意的な利用かそうでないかを区別する客観的な基準があるわけではない。だからといって、例えば、今回の大阪市長選がどちらの性格を持つもかについて理に適った判断ができないわけではない。それはともかく、選挙が政治(家)によって恣意的に利用されうるということ、またその場合、選挙が本来の機能から逸脱してしまうということを確認することが重要だ。そしてこの逸脱は、代表制民主主義をその隘路へと導くような逸脱なのである。

 

 《代表制民主主義における選挙》

日本を含めた多くの民主国家において、民主主義は代表制民主主義として制度化され運用されている。この制度は、市民が有する政治的な意思決定の権力を代表者へ委任するという原理と、その代表者が最終的な意思決定する際、多数決投票を用いるという原理に基づいて運用されてきた。こうして、代表制民主主義における制度上の基盤が選挙にあることがわかる。なぜなら、前者の原理を実現するのが選挙だからである。

 

しかし、この委任を代表者の選択という意味だけで捉えるなら、選挙の本来の機能が何であるかを正確に言い当てることはできない。そのためには、この委任を市民とその代表者との間の一種の契約として捉える必要がある。そうした場合、代表者には委任された行為に対する責任が生じることになる。そうだとすれば、選挙は、たんに市民の権力を代理的行使する代表者(政治家)を選択するだけでなく、かつて市民によって委任された代表者がその責任を果たしたかどうか、市民が判断する行為でもある。ここから、選挙の本来の機能が出てくる。それは、ポピュラー・コントロール(popular control)、すなわち、政治的意思決定の元来の主体である市民による政治(家)のコントロールという機能である。選挙を政治家や政党の説明責任の機会とする理解も、選挙の本来の機能をポピュラー・コントロールに見る立場から出てくると言ってよいだろう。

 

ポピュラー・コントロールは、政治が民主的であると判断するための第一の基準である。それは、市民の自治という古くからある民主主義の理念に由来し、それを近代以降の社会で実現するべく設けられた基準だと言える。したがって、現在の政治が民主政治であるためには、選挙によってこのポピュラー・コントロールが行われている必要がある。もちろん、これは現実の政治に対する民主主義の規範的な要請である。この規範的な要請から、実際の選挙がポピュラー・コントロールとしての機能を果たすための要件が提起されることになる。

 

その要件には――例えば、ロバート・ダールが指摘するように――、普通選挙制度が存在していること、公正で公平な選挙が定期的に行われること、表現の自由などの政治的自由が保障されていること、マスメディアが発達していることなどがある。しかし、それだけではない。さらに、多くの代表制民主主義の擁護者が重視したのは、市民の代表者――それは政治家であり、政党である――の競争が選挙において行われるという要件であった。競争をとおして市民に選択肢が提示されるというこの要件が満たされることがなければ、選挙によるポピュラー・コントロールなどそもそも不可能である。このことは、子供でも分かることであろう。

 

そうだとすれば、今回の大阪市長選は、ポピュラー・コントロールとしての選挙の機能から大きく逸脱していることが分かる。それは、橋下市の政治手法と対抗する議会の既成政党の選挙戦術の双方に原因がある。この逸脱が繰り返されることになれば、選挙は確実に形骸化される。そうなれば、政治の民主的な正統化を選挙に依拠する代表制では、民主政治は行えないことになることになる。これが代表制民主議の隘路なのである。

 

《代表制民主主義の隘路からどう抜け出すか?》

以上の議論は、あまりにナイーヴだと思われるかもしれない。現在の選挙において、有権者は巨大な利益団体や政党によるメディア操作に晒され、選挙活動もマーケティングを用いて巧みに演出される。それなのに、規範的な観点からポピュラー・コントロールの機能を選挙に求めることは、机上の空論に過ぎず、無意味ではないか。確かにそのとおりだと言える。しかしその一方で、こうした現状だからこそ、代表制-選挙にも質があることを認識した上で、その質を高め、ひいては、民主主義の質を高めることが求められる、とも言えるのだ。民主政治の基盤として代表制を正当化し維持しようとするなら、これを避けることはできないであろう。

 

とはいえ、やはり、現在の選挙の実情を考えると、選挙にポピュラー・コントロールの機能を求めることは容易ではない。とすれば、どうすれば代表制民主主義が陥るかもしれない隘路から抜け出すことができるのか。

 

幸い、選挙だけがポピュラー・コントロールを可能にするわけではない。確かに、選挙の本来の機能を維持する努力をする必要はあろう。しかし、もはやそれだけでは上手くいかないことは目に見えている。だから、選挙以外の制度でポピュラー・コントロールを行う工夫をする必要がある。選挙が委任よるポピュラー・コントロールであったことを考えれば、その工夫は、市民の直接参加をとおして行われる。具体的には、市民の集会(popular assembly)やミニ・パブリックス(mini-publics)、直接立法やイニシアティヴなどがある。これらは民主主義のイノベーションと呼ばれ、注目を集めている(これらの可能性や問題点については、別の投稿で論じようと思う)。

 

これらの民主主義のイノベーションによって代表制を補完し、ポピュラー・コントロールをはじめとした民主主義の質を高めること。これが民主主義の隘路を抜け出すために必要になってくる課題であるように思われる。今回の大阪市長選など取り上げるまでもなく、随分以前から代表という制度に頼るだけでは民主主義の質を維持できないことなど、分かりきったことなのだから。


「ネット右翼と民主主義」(2) ――「Japanese Only」から民主主義への怨念へ――

「Japanese Only」、ありていに訳せば、「日本人以外、お断り」。この言葉が書き込まれた横断幕が、Jリーグ第2節浦和レッズ鳥栖戦の際、浦和サポーターが入場するゲートに掲げられた。この事件は、大きな話題となっている。その横断幕における「日本人以外」という文言が具体的に誰を名指しているのかについて議論の余地があろうが、民族や人種、国籍における差別を意味していることは明らかだ。こうして、スポーツに排外的で差別的なナショナリズムを持ち込んだことへの非難や、そうした行為への厳罰を求める声が上がっている。この事件から、ネット上で増殖したいわゆるネット右翼言説――以前ならカルト的なネタと見なされた排外主義的言説――が、急速に社会に溢れ出し公共の場で公然と表明されるに至った日本社会の現状を再確認した人も少なくないだろう。 

しかし、それだけでなく、こう疑問に感じた人もいるはずだ。「なぜ、非難され罰せられるかもしれないリスクを冒してまで、排外主義の言説を公の場でアピールするのか」と。そうすることで何かしら具体的な利益を手にしているのであろうか。一部の人たちはそうかもしれないが、多くが利益を得ているとは信じがたい。では、ネット上での高揚感に任せた日常の不満の解消なのか。そうした人たちもいるかもしれないが、憂さ晴らしをするには、「在日朝鮮人出ていけ」とか「日本人以外は入場するな」と挑発する以外のやり方もあるはずで、そのリスクを考えれば、割に合わずあまりに不合理だ。

確かに、ネット右翼的言説を弄する人たちは幼児的で愚かなのだということでこの不合理さを説明するのは簡単だし、その方が安心感もある。しかし、どれほど幼児的で愚かであろうと、利害のためでもなく一時的な憂さ晴らしのためでもなく、そうした言説を真面目に信奉し、たとえ公言することはないにしても、熱心に支持する人たちが存在しているに違いない。そうでなければ、ネット右翼的な言説が社会に広く浸透することは不可能であったろうし、相変わらず一部の人たちのカルト的なネタで終わっていたであろう。

なぜそこまで真面目で熱心なのか。よく言われる答えがある。それは、彼ら彼女らにとって、その排外主義的ナショナリズムを唱えることで確証される「日本人であること」が、不確実で不安定な日々の生活の不安――現在では、それらは程度の差こそあれ、低所得者層に限られた事態ではもはやない――によって苦しめられ傷つけられた自己を癒すためのより所となっている、という指摘だ。つまり、それは傷つけられた自己への愛着と尊厳を回復することで、自らアイデンティティを維持するための基盤になっているというわけだ。このことがネット右翼的言説を支える真面目さや熱心さの理由と考えて差支えないだろう。自らのアイデンティティが賭けられているからには、真面目にならないわけにはいかない。

このように、ネット右翼と呼ばれる集団をアイデンティティの視点から掘り下げて検討すると、この集団と現在の日本の民主主義との不幸な関係が見えてくる。不幸というのは、現在の民主主義の産物であるネット右翼的集団が民主主義を怨念の対象としているからである。

ネット右翼的集団が民主主義の産物であることは、脱工業化社会の下での代表制民主主義の行き詰まりと、この社会で進む脱物質主義的価値観の浸透による「ニュー・ポリティクス」の出現という視点から、これまでの投稿で論じた。それによれば、代表制を基盤に据えた民主主義の行き詰まりから出現したこの集団は、既成の利益集団や政党によって代表されることはなかった。階級的な対立の下で富の配分を主要な争点とするこの制度の内部では、この集団の代表を見つけることは難しい。だから彼ら彼女らはその制度の外部で、日常の政治に従事するわけだ。

もちろん、代表制民主主義において代表されることなく排除される事態は、ネット右翼的な集団が現行の民主主義を恨む理由にもなるかもしれない。しかし、たとえそうだとしても、この事態は、ヨーロッパ諸国に見られるように、脱工業化社会に適合した政党――例えば、緑の党や極右政党――が登場することによって日本においても徐々に解消されていく可能性がある。そして、それに伴ってこの類の怨念は多少とも緩和されるだろう。したがって、以下では、社会の脱工業化と伝統的な代表制度の間に齟齬に起因するのではない、民主主義への怨念について指摘ようと思う。それは、現行の日本憲法が掲げる自由や平等といった人権の理念を実現することで、日本の市民社会の近代化を目指した「戦後民主主義」との関係において生まれる怨念である。代表制とは区別される、思想と行動としての戦後の民主主義を標的とする怨念こそ、おそらく、現在のネット右翼の言説の特異性を表している。このことを理解するために、ネット右翼の代表的格である在特会(在日特権を許さない市民の会)の言説を取り上げてみよう。この組織の主張はネット右翼的言説の中でももっともラディカルなものであるが、それゆえに、ネット右翼的言説の性格を明示するものと思われるからである。

この会は「在日コリアンをはじめとする外国人が日本で不当な権利を享受し、それによって日本人を苦しめている」と主張する。それは、不正を告発し公正さを求める怒りに満ちた市民の声として掲げられる。もちろん、この集団が言うこところの「在日特権」なるものを確認することはできず、かりにあったとしても、それによって日本人が苦しめられているという認識には妥当性がない。したがって、注目するべきなのは、この奇想天外な主張の内容よりは、その主張の裏にある怒りの感情、公正さへの要求である。

ネット右翼的な言説の多くには、怒りの感情と公正さへの要求が存在する。これらの感情や要求が何に由来するかと言えば、それは、与えられるべきはずのもの、正当に約束されたはずのものが剥奪された苦しみの経験、しがって不当な苦しみの経験である。この苦しむ主体は「日本人」としての私たち、その一部としてのこの私である。そして、正当な享受を剥奪されることで苦しむ私とは、本来あるべき存在であることを不当に否定された私である。ここにおいて、苦しむ私のアイデンティティが問題となっていることが分かる。このとき、怒りは恨みへ、公正さへの要求は非難や復讐心へと容易に転化する。 

ところで、この苦しみを自分の努力で解決できない場合、苦しみの原因が自分の置かれた現在の状況に転嫁され、そこから非難や恨みの対象が選びとられる。先に挙げた例では、それが在日朝鮮人をはじめとする外国人ということになる。こうした存在が私たちに約束されたはずの平等な権利、それによって実現される安全な生活を奪っているというわけだ。しかし、苦しみの原因をめぐる告発はここで終わらないであろう。なぜなら、そうした約束をしておきながら、私たちを苦しめる存在を保護することで、結局約束を裏切る当のものがあるからだ。それが、現行の憲法であり、その下で発展した戦後民主主義に他ならない。確かに悪いのは、在日朝鮮人をはじめとする外国人だ。しかし、日本人の権利や生活の安全の保障を理念としている憲法、その理念を実現しようとした戦後民主主義は弱者を装う外国人の権利ばかりを優遇することで、結果として私たち日本人を逆に差別し、公正に享受すべきもの剥奪しているのだ。こうしネット右翼的な集団は、自分たちを苦しめる戦後の民主主義への怨念を募らせることになる。「反日サヨク」というネット右翼のお決まりの文句は、この怨念が喚起する亡霊のような(実体のない)言説だと言えるだろう。

もちろん、ネット右翼的に言説において、苦しみに責任を負うべき対象の選択はきわめて恣意的に行われる。在特会の例で確認したように、そこでは事実の客観的な検証はほとんど重視されない。だからといって、この恣意的な選択を見当違いだと非難しても、意味があるとは思えない。これまでの議論からすれば、ネット右翼をめぐる問題を真剣に受け止めるには、現在の日本の民主主義の制度、さらには戦後民主主義双方のあり方や質について再検討し、その上で、未来の民主主義がいかなるものであるべきか考える必要があるのかもしれない。なぜなら、苦しみの経験は現在から過去へと遡るその原因の追究をとおして歴史(意識)化された怨念を生み出すが、この怨念は未来への展望によってしか消し去ることはできないはずだからである。

「ネット右翼と民主主義」(1) ――ネット右翼と「反知性主義」――

おそらく、ネット右翼、あるいはネトウヨという言葉を一度は耳にしたことがあるだろう。それは、在日朝鮮人を主要な標的として極端な排外主義的ナショナリズムを主張する極右集団である。ネット右翼という言葉から分かるように、その特徴は、ネットと中心とするメディアで形成されたイデオロギーや言説を用いる点にあると言える。この集団の言説は、その一部が街頭でのデモで行った、在朝鮮人へのヘイト・スピーチで広く知られることになった。しかし、今では、一部の著名人や国会議員までもがネット右翼に共有された差別的言説や、ネット右翼に特徴的な修正主義的歴史観――例えば、「南京事件は存在しなかった」など――を公然と弄する事態となり、国内の社会問題というよりは、国際問題となっている。さらに、先月の東京都知事選における田母神氏の得票数から、ネット右翼の言説がたんにファナティックな一部の人たちの戯言ではなく、無党派層の一部に確実に浸透し、代表制民主主義における新たな政治勢力を生み出しつつあると推測することが可能となった。こうして、ネット右翼の思想と行動は、それがどれほど幼稚で醜悪なものであるとしても、日本の民主主義を考える上で無視できない問題となったわけである。

そこで、近頃、ネット右翼的言説への批判が高まりつつある。その一つが、「反知性主義」という言葉を用いた批判である。それを通俗的に解釈すれば、こうなる。ネット右翼の言説は歴史的な出来事の客観的な検証や科学的な推論を欠いているが、これは自分が好きなように世界を理解しようとする幼児的な態度に起因する。ネット右翼的言説を信奉するような人間がいるとすれば、それは教養がなく知性に欠けているのであり、さらに、こうした言説が広く社会に受容されはじめているとすれば、社会が反知性主義的な状態に陥っているからだ、という批判である。

この批判は確かに正しい。ネット右翼的な言説にはあまりに稚拙で突飛なものがある。しかし、かりに「反知性主義」という言葉でネット右翼の無知や幼児性を指摘するだけで終わってしまうとすれば、それは有益な批判ではありえない。「反知性主義」がネット右翼的な言説の広がりとその帰結について有益な分析を可能にする視座であるのは、それが大衆化された社会における民主主義に固有な問題であることを教えてくれるからである。事実、歴史を振り返るならば、「反知性主義」は、「理性の時代」に産声を上げた近代の民主主義の影のようなものであった。例えば、民主主義が大きく発展する19世以降、「反知性主義」は、エリート主義的な民主主義に対するポピュリズム的な運動の出現や、民主主義から全体主義の衰退を考察する際に問題化されてきた。したがって、「反知性主義」という言葉が提起する課題は、なにより、現在の民主主義との関連でネット右翼的なものを理解し検討することなのである。

そうだとすれば、なぜ、ネット右翼の思想と行動が日本の民主主義にとって無視できない問題であるのか、改めて考える必要であるように思われる。誤解されがちであるが、ネット右翼が、自由主義的価値を含み込んだ現代の民主主義の基本理念、たとえば、マイノリティの権利の保障や政治的決定過程へのマイノリティの包摂という民主主義の理念を攻撃し、毀損しようとしているという理由だけで、この集団の思想と行動が問題視されているわけではない。そこには、ネット右翼的な極右集団が民主主義とは相容れないまったく異質の集団であって、民主主義の破壊者という想定があるよう見える。しかし、そうではない。この集団の思想と行動を無視してはならない理由は、それが民主主義を破壊する可能性があるからだけではなく、民主主義という政治のあり方から生まれた、民主政治においてつねに反復されうる現象だからでもある。つまり、それが民主主義の落とし子だからなのだ。

このことは、この集団が、代表制民主主義の行き詰まりから出現したと考えてみるとよく分かる。ネット右翼は、利益団体や政党が決定的な影響力を及ぼすエリート主義的な代表制民主主義に対して、これまで代表されて来なかった普通の市民の声として自分たちの主張を掲げる。選挙に市民の政治参加を限定してきた代表制民主主義に対して、その主張をデモなどの直接的な政治参加をとおして表明することで世論を喚起しようとする。さらに、物質的な豊かさの追求とその配分を主要な政治争点としてきた代表制民主主義に対して、「日本人」というアイデンティティの確立や自尊心の回復といった非物質主義的な価値に関わる問題を政治争点化しようとする。要するに、ネット右翼の思想と行動は、内実がどうあれ、日本という脱産業化した民主的な社会における社会運動の一つとして位置づけることができる。

もちろん、その一方で、ネット右翼の思想と行動の際立った特徴は、その排外主義的な主張に見られるような、反民主的な価値観に立っていることにある。このことは、へイト・スピーチによって端的に示されている。とはいえ、ネット右翼の反民主的価値観をでたらめなものとしてうっちゃっておくことはできない。なぜなら、その反民主的価値観は、日本の民主主義の歴史やその中で蓄積されてきたものに対する反動として形成された情念、すなわち、ルサンチマン――現在の苦しみから発現するこの情念は、現在の事態を生み出した歴史そのものを怨念の対象とする――に根をもっているからである。ここにおいても、ネット右翼の思想と行動を民主主義の他者として捉えるのではなく、民主主義の落とし子として捉えるよう促されるのである。

だから、ネット右翼の存在は民主主義を外から攻撃する敵なのだと捉えるだけでは不十分なのである。そうではなくて、日本の民主政治の内部で生まれ、その歴史の中で積み上げてきた民主主義的な規範や磨き上げてきた民主主義の質に対する挑戦者として、しかも様々な姿で現れる挑戦者の一人として考える必要がある。「反知性主義」という言葉が喚起するのは、民主主義とネット右翼とのこうした内在的な関係であるように思われる。

次回の投稿では、ネット右翼的な存在がどのような意味で民主主義の挑戦者であるのかについて、アイデンティティの政治の観点からより詳しく論じる。

「2014年都知事選から日本の民主主義のこれからについて考える」(2)ーー反復の中から出現しつつある民主主義の新たな徴候ーー

今回の都知事選の結果が示していることは何であったのか。それは、これまで何度も目にした事態が今回もただ反復されたに過ぎない、ということである。そしてこの反復がなぜ生じるのか。それは、代表制民主主義が正常に機能しているためである。これらのことを先の投稿(「2014年都知事選から日本の民主主義のこれからについて考える」(1)」で指摘した。

今回の選挙結果だけにフォーカスするのなら、この指摘は正しいように見える。しかし、19世紀フランスの代表制民主主義を分析したマルクスのテキストの冒頭を思い出してみよう。そこでマルクスがヘーゲルの言葉を敷衍したのと同じように、マルクスの言葉を敷衍して、「反復の中にこそ、新しい出来事の芽生えがある」とするなら、今回の選挙における同じ結果の...反復の中に新しい出来事を見出すことはできるのではないか。

今回の選挙において、民主主義の新しい徴候を把握するには、結果ではなく過程に目を向ける必要がある。そのとき見えてくるのは、「二ュー・ポリティクス」と呼ばれるような脱工業化社会に特徴的な政治の傾向である。つまり、日本の政治の片隅ではなく中心において新しい出来事が生じつつあること、これが今回の選挙において見逃がしてならない事態である。なぜなら、長期的な視野に立つならば、この事態こそ、今後の日本の民主主義の動向に決定的な影響をおぼすことになるはずだからである

「ニュー・ポリティクス」とは、1973年のオイルショックよる高度経済成長の終焉とそれによる福祉国家的政策の行き詰まりに直面したヨーロッパにおいて、旧来の政治のあり方に対抗する形で登場する。旧来の政治は、階級的なイデオロギー対立を前提とし、豊かさと利便性を追求する物質主義的な価値観にもとづいた社会における政治である。この旧来の政治では、富の社会的配分の仕方が主要な政治争点となる。この政治は、労働者および労働組合を支持基盤とする左派政党と経営者や企業などを支持基盤とする右派政党とが議会での支配権をめぐって競争する、政党‐代表制民主主義という枠組みにおいて展開される。こうした旧来の政治に対して、「ニュー・ポリティクス」と呼ばれる新しい政治の潮流は、脱物質主義的価値観から生まれる。この脱物質主義的な価値観を大切にする人たちは、原発問題をはじめとする環境問題やマイノリティの権利の擁護、個人のアイデンティティに関わる民族や宗教などの文化問題を政治的争点として掲げる。さらに、旧来の政治が権威主義あるいはエリート主義的性格をもつ政党-代表制民主主義の枠組みを前提としているのに対して、「新しい社会運動」から生まれた「ニュー・ポリティクス」では、草の根的で自発的な直接参加型の民主主義を重視する。「ニュー・ポリティクス」を担う政党の代表が緑の党であることはよく知られている。

近年、しばしばし指摘されているように、現在の日本において、「ニュー・ポリティクス」として理解できる政治的争点が顕現化してきている。もちろん、1970年代以来、日本でも、ヨーロッパと同様に、「ニュー・ポリティクス」の枠組みの中で理解すべき思考や運動は持続的に存在してきた。しかし、2011年の震災以降原発問題が政治の主要な議題となったことに象徴されるように、物質主義的な価値観に基づいた旧来の政治への批判が、これまでにない規模の広がりで多くの人たちに共有され始めてきた。このことは、もはや疑いようもない。日本の政治がニュー・ポリティクス化の傾向にあるとすれば、それは日本の民主主義も新たな段階に入りつつあることを示唆する事態であるとも考えられる。旧来の権威主義的な政党‐代表制民主主義への自覚的な批判にもとづいて、それとは異なる形で価値観やアイデンティティを構築し、ネットワークを形成し、政治への参加を試みる、そうした民主主義の段階である

それでは、具体的に、今回の選挙のどこにニュー・ポティクス化の傾向を読み取ることができるのか。物質主義から脱物質主義への価値観の転換を象徴する争点が脱原発であることはすでに述べた。これが、脱原発を掲げた宇都宮、細川両氏の対立候補であった舛添氏の曖昧な立場によって暈されたとはいえ、今回の都知事選挙の主要な争点の1つであったことは間違いない。これ以外にも、「ニュー・ポリティクス」を担い手の1つである排外主義を掲げる極右勢力の台頭、「ニュー・ポリティクス」の政治運動に特徴的な草の根的な民主主義の浸透という2つの点にその傾向を読み取ることができる。

まず、極右勢力の台頭の問題である。アカデミズムの言説では、緑の党のような典型的なニュー・ポリティクス政党に、例えばフランスの国民戦線のような極右政党を加えることへの反論があるようだ。しかし、ここでは、政党に限定するのではなく、それを支持す有権者にまで視野を広げることで、そこに見出される草の根的なイデオロギー形成や連帯意識の醸成の仕方、そして何より、極右勢力に共通する排外主義的なナショナリズムがその支持者のアイデンティティ形成の文化的資源となっていることなどを理由に、極右勢力の台頭を「ニュー・ポリティクス」の徴候の1つとして捉える。

今回の都知事選では、極右勢力の支持を集めたのが、田母神氏であった。選挙戦では、彼は自らの政治的イデオロギーではなく、無難な政策の発信に終始していた。しかし、彼の積み重ねられた言動や彼の応援演説を行った人たちの発言から、歴史修正主義に依拠した排外的なナショナリズムを政治的イデオロギーとする極右勢力の代表者であったと判断できる。さて、今回の都知事選では、伝統的な保守勢力とは区別される田母神氏の得票率が12%を超え、20代の推定の得票率では20%を超えたことが話題となった。この数字をどう評価するべきだろうか。単純に比較できないものの、2000年代初頭のヨーロッパの国政選挙で極右政党の幾つが得票率10%を超えていたことを考えれば、これは想定外の数字とは言えないだろう。むしろ、この数字が、日本の政治のニュー・ポリティクス化の一つの徴候を示していると理解できるのではないか。そしてここから、今後の民主主義においてこの勢力をどうコントロールしていくかが課題になると推測できるのである。

次に、旧来の政党‐代表制のトップダウンとは異なる、ボトムアップ的な参加民主主義の広がりにニュー・ポリティクス化の傾向を見ることができる。3つの例からこの点を考えてみよう。1つは、ウエッブ系の企業家である家入氏の選挙戦である。SNSを活用した彼の選挙戦の最大の特徴は、政策の策定過程にあったと言える。彼は政策のアイデアをひろく一般の人たちからSNSをとおして募り、それをまとめ上げることで今回の選挙のプラットホームにしたのであった。おそらく、これは政策決定過程に有権者の直接的な関与を可能にしたと言う意味で、ICT(information communication technology)による、新しい直接参加型の民主主義の試みと見なすことができる。しかしながら、そのような手法で策定された政策は、何でもありだがその分、政策の優先順位も、理念上の一貫性も欠如したものであり、また、数値的な裏付けのない実現可能性に乏しいものであった。ここから、家入氏はたんに得票率の低さ(1.6%)という点で幅広い有権者の支持を集めることができなかっただけでなく、ICTによる直接参加において民主主義の質を確保することの困難さや限界を図らずも露呈させた結果となったと言えよう。

もう一つは、先に言及した極右勢力に関してだ。田母神氏の支持層の多くは、自民党支持層に見られる伝統的な保守層というよりはネトウヨと呼ばれる過激な右派勢力だとされる。ネトウヨという集団は、排外主義的なナショナリストの集団であるが、インターネットという言説空間とSNSというコミュニケーション手段をとおして出現した点にその新しさがある。この集団のイデオロギーとアイデンティティはネットという秘匿性の高い言説空間を中心にして形成され、SNSを介した分散的でフラットな関係性の下で連帯意識が醸成される。田母神氏の支持層はネトウヨが主体だとする理解が正確であるなら、彼の善戦は、ネットを主戦場とするネトウヨちの新しいタイプの草の根的な運動の結果であったとも考えられよう。

最後に、政策的には、「ニュー・ポリティクス」にもっとも近い宇都宮氏についても、草の根的な参加が見受けられた。もちろん、この候補は、共産党社民党などの推薦を受けていたため、伝統的な政党の息がかかっていない票を見分けるには、98万票を超える彼の得票数のうちの特に強力な共産党の組織票を割り引かねばならない。昨年の参議院の選挙結果からその組織票をおおよそ70万票と想定すると、30万票近くが既成の政党に依拠しない票と見なすことができる。この票をどう評価するのかは難しい。しかし、例えば、若年世代のネットユーザが利用する視聴者参加型のライブストリーミングスタジオDOMMUNEで宇都宮氏が選挙活動を行い、10万以上の視聴数を獲得したことを考えると、この30万票には、ネットを活用した直接参加型の運動の効果があったよう思われる

これらの2つの視点から今回の都知事選挙を見た場合、日本の民主主義においてニュー・ポリティクス化の傾向が確実に強まりつつあるように思われる。この意味で、代表制民主主義の同じ結果の反復の中に、新しい民主主義の徴候は無視できない形で存在したのである。もしかしたら、今回の選挙は後々、日本の民主主義の分岐点であった評価されることになるかもしれない、そんな選挙であったのである。