民主主義とその周辺

研究者による民主主義についてのエッセー

民主主義はそんなに「すばらしい政治体制」なのか?――大阪都構想をめぐる住民投票から考える直接民主制の問題――

民主主義はすばらしい?

一昨日、多くの注目を集めた大阪都構想をめぐる住民投票が行われ、即日、開票結果が明らかになった。すでに報道にあるとおり、大阪市民は約1万票の差で、橋下大阪市長が提案した大阪都構想の受け入れを拒否することになった。

 

大阪市に特別な利害関係を持たない人たちの中には、衰退の一途をたどる全国の地方自治体に不可欠な行財政改革の先例として、今回の住民投票の結果に期待した人もいるだろう。あるいは、今後の国政における最大の争点である憲法改正の関連で、維新の党との連携を模索する安倍政権改憲戦略への影響という観点から、今回の投票結果に関心を持った人もいるだろう。ここでは、そうした論点には触れず、「民主主義はすばらしい政治体制」という大阪市長の言葉にフォーカスしたい。そう、橋下劇場を締めくくるに相応しい、開票後の会見で発せられたこの言葉、しかもポピュリストと揶揄されることもしばしばあった政治家の言葉である。だから、なおのこと、皮肉にも聞こえるこの無邪気な言葉が気になる。彼が「すばらしい」とした住民投票、すなわち、代表者ではなく有権者自身による直接的な意思決定とは何なのか。大阪市住民投票をはたから見て、有権者による直接的な意思決定の機会には、代表制度の下では見失われがちな民主主義本来の熱気に満ちた活力と同時に、何かしらの危うさを感じた人がいるとすれば、その理由は何か。

 

地方自治における住民投票の重要性

橋下市長の政治手法あるいは政治基盤からして、住民投票はいわば、好機でもあった。強力なリーダーシップと大胆で攻撃的な言動をとおしてマスコミを巻き込み、さらに全国の関心を集めることで有権者の支持を固める手法。このような手法を取る必要があったのは、彼が既成の政党や様々な利権団体に属さない有権者、そればかりか既成の組織に対して不満を持つ有権者を支持基盤にしていたからにほかならない。住民投票は、彼の支持基盤を形成する有権者が直接かつ効果的に政治決定に影響を及ぼすことのできる機会であった。

 

幸か不幸か、橋下市長はこの「戦に負けた」。これによって、大阪市の改革は彼の掲げた構想とは別の形で進められることになった。しかし、今回の住民投票をはたから見ていると、話はこれで終わらないようにも思われる。というのは、今回の住民投票は、日本の地方自治が陥る可能性のある、二つの民主的代表の対立、すなわち、議会と首長との対立を解決する手段として、あるいは、それらの代表者の決定に住民の直接の意思という正統性を付与する手段として、ますます住民投票が実施される可能性を想像させるからだ。今後、地方自治体のよりいっそうの自律性を求める機運が高まり、その中で、現在の国と地方の制度上そして法律上の関係が変更されることがあるとすれば、その可能性を想定することは必ずしも筋違いとはいえないように思われる。

 

今後、日本の地方自治体は、人口の減少、産業の衰退などにより、その維持が困難になるといわれている。そして、衰退を防ぐためには、住民間に深刻な利害対立を引き起こすような大胆な政策や制度改革が必要になるかもしれない。地方自治体がそうした政策や改革を行おうとすれば、おそらく、議会と首長の対立する機会も増えるであろう。それだけではない。大胆な政策の実施や制度改革には住民の痛みが伴うため、その決定にはより強力な民主的正統性が必要になる。簡単にいえば、住民の納得が必要となる。こうして、地方自治における民主主義の制度上の特徴と地方自治体の先行き、そして地方分権推進をめぐるこれまでの国内の議論を併せて考えるなら、法的拘束力をもたせる住民投票の立法――今回の大阪市のように、特別区の設置という限られたイシューにとどまらない、より広範なイシューに関する――が行われることを予想することもできるのだ。

 

そうだとすれば、日本の地方自治が共に民意を代表する議会(立法機関)と首長(行政)とが対立し、こう着状態に陥ったとき、今回の大阪市のように、住民投票などによる住民の意思表示によって、この機能不全の状態を打開可能であるということは、注目されてよい。ここには、国政における代表制民主主義――憲法改正による国民投票はもちろん例外である――とは決定的に異なる地方政治の民主主義の特徴があるからだ。すなわち、直接表明された有権者の意思が、場合によって、極めて重大な政策を決定することが可能であるという特徴、そして、代表制の行き詰まりを解決しうるという意味での、代表制に対して直接民主制が優位性を保持する場合があるという特徴である。

 (この「地方自治における住民投票の重要性」の部分には、大阪市住民投票が行われた過程に関する事実誤認があるのと指摘を受け、確認の上、該当すると思われる箇所を修正しました。)

 

民主主義における住民投票の特徴とその弱み

そうだとすれば、住民投票という代表者によらない直接的な民主主義のあり方がどんなものなのか、基本的なところから考えてみる必要があるだろう。現代の私たちに馴染みのある選挙を中心にした代表制と住民投票のような直接民主制との違いは、どこにあるのか。

 

ここで、カール・シュミットの議論――憲法問題の関連で、国家制度を対象とした議論ではあるが――を参照してみよう。それによれば、代表制では、公開の場(議会)での理性にもとづく議論によって決定が行われる。ここから、代表制における政策などの意思決定の特徴は、理性や議論あるいは節度によって媒介されている点にあるといえる。これに対して、人民投票型の直接民主制では、投票をとおして直接表現される市民の意思によって決定が行われる。このため、このタイプの直接民主制の特徴は、有権者の感情や思考などが無媒介な形で、したがって、反省の機会なしに意思決定に対して直接反映されることになる。シュミットはこの区別から、一般に同じ民主主義の制度として見なされる代表制と直接制が理論的にも組織的にも独立したものであることを指摘している。

 

シュミットのこの議論はきわめて古典的なものであり、これはこれで、それなりの説得力がある。彼の議論をさらに敷衍するなら、代表制と直接制それぞれの意思決定における強みが分かる。代表制の強みに関しては、理性的な議論を経ているわけであるから、より理に適った決定、あるいは、より合理的な決定が可能であるということであり、直接制に関しては、主権者が自分たちで直接決定を行うわけであるから、国民主権という点においてより民主的に正統な決定が可能だというところに強みがある。

 

これらの直接民主制の特徴や強みは、地方自治における住民投票に当てはまる。とすれば、住民投票は、代表制に比べ、より民主的な正統性を意思決定に付与することができるという利点がある一方で、弱みがあることも歴然としている。それは、住民投票が十分な情報や議論や熟慮にもとづく理に適った決定を生み出すのが難しいという、弱みである。

 

このとこは、今回の大阪市住民投票においても見受けられたように思われる。たとえば、住民投票の争点が、大阪都構想の内容の是非よりも、橋下市長の信任投票的な傾向を帯びたこと。あるいは、都構想の賛成派および反対派の双方が、それぞれその利点や欠点のみを指摘しあう、宣伝合戦の様相を呈し、中立的な立場から構想の利点や欠点を比較考量する冷静な議論が十分に有権者に届かなかったことなど。ただでさえ複雑で専門的な都構想の内実に対して合理的な判断をするのに、このような状況が理想的でないことなど誰の目にも明らかである。これらの点に、住民投票の危うさを感じた人がいるのかもしれない。

 

必要なことは何か

このコラムで繰り返し指摘したように、現代の民主主義の基盤である代表制度には多くの問題が存在する。しかし、代表制だけに問題があるわけではない。直接民主制としての住民投票にも弱みが存在する。そしてその弱みは、19世紀以来、衆愚政治の危うさとして論じられてきたし、そう論じる人も未だにいる。もちろん、この危うさに対する伝統的な議論を真に受けるわけにはいかない。なぜなら、こうした議論に見られる、民主的な正統性を軽視し、意思決定における合理性をあまりに重視する立場は、結果として、反民主主義的傾向を持つことが多いからだ。とはいえ、住民投票にも弱みがある以上、放置しておけば済む話でもない。したがって、その弱みを改善する試みが必要になるはずだ。すなわち、民主的により正統性のある決定を合理的で理に適ったものにするような試みである。先にも指摘したとおり、国民投票ばかりでなく、地方自治において、政策決定における民主的な正統性を住民投票によって補おうとする傾向を想定できるとすれば、なおのことそうだ。

 

そうした改善の試みは、世界を見渡せば、すでに多く行われている。その一つが、別のコラムで言及した、熟議のフォーラムを住民投票のプロセスに組み込む試みである。これは、投票に先立ち、中立的な形で知識や情報を市民に提供し、専門のファシリテーターの下、公的な空間での他の市民たちとの議論をとおして、より熟慮された判断を形成することを目的とする制度的工夫である。確かに、それはコストのかかる制度的な工夫であり、これが大阪市のような大規模な自治体で実現可能かどうかに議論の余地がある。それが困難であるとすれば、改善のための別の工夫を考案していく必要があるだろう。

 

橋本市長は、民主主義を「すばらしい政治体制」と呼んだ。確かに彼のような人物を政治の檜舞台に引き上げたのも、あるいは、そこから引きずりおろしたのも、民主主義という政治体制だからできた話なのかも知れない。しかし、彼に素晴らしいと発する機会を提供した今回の住民投票について簡単に見るだけでも、そこには、制度上の弱みやそれに由来する危うさがあることが分かる。歴史を見れば、このことは否定しようがない。近代以降の民主主義は、こうした弱みや危うさをコストのかかる制度上の工夫でもって修正しながら、なんとか平等な市民からなる自由な社会という理念を実現しようとしてきた。ようするに、民主主義のそうした理念は決して譲ることのできるものではないが、それを実現するための制度は、代表制にせよ、直接制にせよ、万全どころではない。だから、彼のこの言葉を聞いて素直にうなずくことのできない人がいても、少しもおかしなことではないのだ。

代表制民主主義は生き残ることができるのか?――2015年統一地方選挙から再考する代表制と民主主義の関係――

先日の憲法記念日には、現行の日本国憲法に対して、改憲派護憲派双方による活発な発言が相次いだ。そのうち最も注目すべきは憲法改正の中心的勢力である自民党の動きである。自民党船田元憲法改正推進本部長によれば、自民党はまず「緊急事態条項」を憲法に規定するべく、現行憲法の改正を目指すという。この是非はともかく、先日の憲法記念日は、来年の参議院選挙後の憲法改正の発議、および、国民投票という戦後最大の政治的イベントに向けて、着実に政治日程が進んでいることを実感させる日であった。

 

そんな中、もはや先月の統一地方選挙の結果を総括するような議論がほとんど見受けられないのも致し方ないのかもしれない。確かに、先の地方選挙では政権選択をにらんだ争点がなかったため、人びとの関心は薄く、また、その結果も取り立てて論ずるまでのものではなかった。そもそも統一地方選挙などそうしたものだという意見もあるだろう。とはいえ、各地での最低投票率の更新、89の市長選のうち3割の無投票といった事例に示されるこの度の選挙の実情は、有権者の政治的関心の低さでは片付けられない深刻な問題を提起している。その問題とは、代表制にもとづいた民主政治の危機、すなわち、代表制民主主義の危機である。

 

代表制民主主義の危機

代表制民主主義の危機。確かに、選挙のたびに様々なメディアで耳にするものの、実際は、何の危機意識も喚起しない陳腐な空語だ。こんなふうに思う人も少なくないだろう。それは、しばしば、有権者政治的無関心や受動性を問題視するために使われる。

 

しかし、今回の統一地方選挙を思い出して欲しい。対抗馬が不在のため、無投票となったいくつもの首長選挙。あるいは、東京都の区議会議員選挙。掲示板に張られたポスターの写真と自宅に配布される選挙公報というほとんど無いに等しい情報にもとづいて、あれほど多くの立候補者の中から、自分の利害や意思の代表者を選択することが求められる。選択肢の不在、逆に、ほとんど違いのない選択肢の過剰さ、選択する上での情報や議論の欠如など。こうした状況において、低投票率を嘆いたり、有権者の政治的受動性や無関心さだけを責めたりするだけでは、少々短絡にすぎるし、今後何も改善されることはないであろう。

 

そうだとすれば、今回の統一地方選挙で改めて示された選挙の形骸化が、なぜ、地方政治における代表制民主主義の危機といえるのか、ちゃんと考えることから始めたい。

 

次のような指摘があることば承知の上だ。法律的にも財政的にも地方議会や地方行政の首長の政治的な権限は極めて限定的であり――したがって、実行可能な政策など限られている――、また、地方議会の議員の主な機能は居住地域の日常生活のありふれた要望や苦情を収集し解決を図る点にある。だから、そうした首長や議員を選出する選挙と国政レベルの選挙とを同一視して、ああだこうだいっても仕方ないではないか、と。

 

しかし、そうではない。地方、国を問わず、選挙の形骸化は、理論上、代表制の下での民主政治を劣化させ機能不全に陥らせる可能性がある。だから、シニカルに現状を追認したり、あるいは、取ってつけたように有権者に投票を呼び掛けたりするだけ済ますわけにはいかないのである。

 

選挙と代表制民主主義

では、選挙の形骸化がなぜ代表制民主主義を行き詰まらせるのか。その理由を理解するには、選挙とそれによる代表者の選出と民主政治とを混同するという、よくある間違いを退ける必要がある。つまり、代表制が民主主義なのだという誤解を捨てる必要があるのだ。

 

代表制民主主義とは、代表制という制度のもとでの実行される民主主義、あるいは民主的な政治である。代表制とは、何らかの方法で選出された代表者たちが政治的決定を行う制度である。この制度の根本原理は代理である。これに対して、統治者と被統治者が同一な政体として定義される民主主義は、元来、社会における共通の(=一般的な)利益ないし、社会における多数派の利益にもとづいた政治のあり方を意味する。そして、このような政治のあり方から、政治的決定に対する政治体の構成員全員の関与が求められることになる。ここで重要なのは、代表制と民主主義が、歴史的にも、理論的にも、異なるものだということだ。異なるものであるにもかかわらず、これらが18世紀末19世紀にかけて、理論的にも実際にも接合され、近代の民主主義の基礎が出来上がることになった。

 

19世紀以来の代表制民主主義の発展の歴史を振り返るなら、相異なる民主主義と代表制との結び付きを強固なものにし、代表制を民主的な政治の実現に不可欠なものにしていったのが、選挙、より正確には、民主的な選挙である。社会を構成するすべての成人に参政権を付与するこの選挙は、むろん、民主的な政治を求める闘争の中で徐々に獲得されたものであるが、これこそ異なる二つのものを接合する蝶番だと見なすことができる。

 

繰り返しになるが、現在の民主政治を機能させる代表制は、それ自体、民主主義と関係のないものである。したがって、代表者が代理として決定を行う政治が民主政治であるための条件――すなわち、代表制民主主義が機能するための条件――が、現行の選挙なのだ。このことは、代表制こそ民主主義の理念の実現に欠くことのできないものだという立場に立つ、どのような代表制民主主義のモデルであろうと、変わらない。それが、シュンペーターの競争-利益集約型民主主義のモデルであろうと、あるいは、多様な特殊な利害によって分裂している社会では、代表者が社会の共同=一般的な利害を見出し、それにもとづいて政治を行うべしとする代表制民主主義のモデルであろうと。

 

代表制の民主的な正統性の欠如が代表制民主主義の危機を生む

こんなことは知っている。選挙が形骸化した結果、代表制と民主主義の結び付きが弱まったとして、だからどうなんだ、法律で定められた手続き上の瑕疵がなければ、代表制にもとづく民主政治は、それはそれでまわっていくのだ。こんなふうに考える人もいるだろう。しかしながら、日常を貫く慣性の力を見くびるわけではないが、それではあまりに民主主義に対して楽観的すぎる。

 

選挙の形骸化が生み出す代表制と民主主義との接合の緩みが問題なのは、それによって、代表制民主主義の正統性が脆弱になる点にある。別の言い方をすれば、代表制にもとづく政治が民主的だとする根拠が薄弱になる点だ。そもそも、代表制それ自体では、民主的な正統性を主張できないことはすでに指摘した。このため、代表制と民主主義との結び付きが弱まると、代表者たちによる決定になぜ従わなければならないか、特に、その決定に不満を抱く人びとに疑念を生じさせる。

 

代表制民主主義の正統性へのこうした疑念をあまり安く見積もらない方がよい。もちろん、現代の政治は、どのようなあり方であろうが、法律に従って行われる必要がある。しかし、それで十分というわけではない。政治が円滑に機能するには、それらに対する人びとの信頼や納得といった内面的な基盤が不可欠である。特に、現行の政治に不満を持つ人びとに対して、不満があるにもかかわらず、それに従う理由や根拠、すなわち、政治の正統性が必要なのだ。この正統性を欠いては、政治が秩序を維持することは結果的に困難になる。このことは、もちろん、民主的な政治においても同様だ。選挙の形骸化が進み、ある程度の数の人びとが代表制の民主的な正統性に猜疑心を向け始めるとき、現行の代表制民主主義は危機的な事態に陥る可能性がある。

 

代表制を補完する市民の直接参加と熟議

今後の日本の政治には、国、地方を問わず、増々限られた社会的資源を有効に配分することが求められる。このことは、端的に、政治に不満を抱く人びとがより増えることを意味する。したがって、そのような決定を行う代表制にはいっそうの民主的な正統性が必要になる。とすれば、代表制の下での民主政治の先行きを不安に思う人も少ないはずだ。

 

しかし、だからといって、代表制をやめるというのは、現実的でもないし、望ましくもない。代表制には、市民が直接参加し決定を行う直接制と比較したとき、理論的には、多くの利点がある。たとえば、利害や意思の集約化や、政治的争点の明確化、代表者による取引や熟議を経た合意調達(の可能性)などである。しかし、こうした強みがある一方、とりわけ地方自治体での選挙の形骸化が明らかな今、代表制民主主義の正統性の脆弱化の可能性という弱みから目を背けることはできない。ならば、地方の代表制民主主義は、この事態にどう対処するか。ここで検討したいのは、国政に比較して、規模も小さく、政治的権限も限定的で、それゆえ、政治的争点も限定されざるを得ない地方自治体だからこそ可能な、代表制を補完する方法である。

 

その一例は、代表制における政策決定過程に、熟議をとおして市民の意思形成が行われる機会を組み込み、それを政策に反映させる制度上の工夫である。これは、ある政治的争点をめぐり、集まった市民が専門家のレクチャーを受け、ファシリテーターの下で様々な立場の人びとの意見に耳を傾け、その中で自らの政治的意思を形成することを可能にする。海外ではこうした工夫は、ミニ・パブリックス(mini-publics)や市民集会(citizen assembly)などとして知られ、実際に制度として活用されている。

 

こうした試みは、代表制の下での地方政治の決定過程に、熟議された市民の声を直接反映させる――その程度は、様々であるが――ことで、そこに欠落しがちな民主的な正統性を補い、さらに、この正統性の補充によって、政策の実行性や効率性を高めることを狙いとしている。そして、近年の研究を見る限り、こうした試みは、念入りに設計され、慎重に実行されるなら、この目的に対して効果的であると考えられる。

 

おそらく、代表制を補完する制度的工夫はまだあるだろう。また、代表制を補完しようとする試みには多くの障害が待ち受けているだろう。しかし、いずれにせよ、今回の統一地方選挙の実情を目にしてもなお、今までどおり、紋切り型の代表制民主主義の擁護をするとすれば、あまりにナイーヴすぎる。中国の軍事的台頭の中、日本の安全保障の環境が変化したから、集団的自衛権に関する憲法解釈を変更し、さらに、現行の日本国憲法を改正しなければならないというのなら、代表制のあり方の改革も検討したらどうであろうか。この代表制が民主主義の制度として整備された、19世紀から20世紀にかけての比較的同質性の高い社会環境と、現代の再帰的で多元的な社会環境とはあまりに異なっているのだから。ただ、その場合、民主主義を深めるという目的から離れてはならないことは、言うまでもない。そうだ、先日のアメリカ議会での演説で安倍首相の述べたではないか、民主主義こそ、世界の希望の同盟たる日米が共有する価値だと。まあ、彼がどれほど真剣に民主主義について考えているかは知らないけれど。

テロ、例外状況、民主主義――イスラム国による日本人人質事件が提起する、民主主義における暴力の問題――

最悪の結果

いわゆるイスラム国(ISISあるいはISIL)による、日本人二名の人質事件は、日本社会に大きな衝撃をもたらしている。報道によれば、そのうちの一人はすでに殺害され、もう一人のジャーナリストも、昨日、その命をテロリストの手によって奪わることになった。

 

この事件をめぐっては、当初から人質の無事の解放を最優先にすべきという声が上がる一方、「テロリストとはいかなる取引もしない」、なぜなら「取引をすることはテロリズムに屈することになるからだ」という言葉が様々なメディアをとおして流されてきた。人質は救出されるべきだと考えていた人は、この言葉を耳にしたときこんな素朴な疑問を感じたはずだ。いかなる取引もすることなく、どうやって人質を解放することができるのか、と。そして、こう考えたに違いない。これは建前の発言であり、その裏で人命第一を掲げる日本政府はあらゆる策を講じて人質の解放の努力をしているのだ、と。しかし、現実には二人の日本人が殺害された。二人の死は政府があらゆる策を講じた上で取引に失敗した結果なのか、それとも発言通りに一切の取引をしなかった結果なのか。実は、人命第一という発言こそ、建前であったのか。今回の事件に対する日本政府の対応を検討するには、これらの点が明らかにされねばならない。

 

しかし、そうした検討の前に、前のめりになりつつある政府に対して向けられる批判的な言説を封じ込めよとする機運が社会に広がりつつある今だからこそ、掘り下げて考えてみるべきことがある。それは、上述の発言の「テロに屈する(あるいは屈しない)」がどういうことか、ということだ。この発言を掘り下げてみることで、民主的な社会にとってテロがもたらす脅威や危険とはいったいどのようなものなのか、テロとの戦いに直面した私たちの社会の行き先に立ちはだかる困難がいかなるものであるのかを見定めることができるはずだ。

 

テロリズム、暴力と民主主義

イスラム国による今回の二人の日本人の殺害を受けて、政府は声明を発表し、テロには屈しないという姿勢を改めて強調した。この「テロには屈しない」ということを検討するには、テロリズムという形で現れる暴力(とその恐怖)による政治と民主主義との関係に目を向ける必要がある。

 

テロリズムは、単純にいえば、暴力の行使とそれが伴う恐怖を利用することで何らかの政治的目的の達成を目指す活動や運動を意味する。これゆえ、「テロに屈しない」と発言することは、そうした暴力や暴力による脅迫に屈しないという態度を表明することである。この態度表明には、いうまでもなく、民主社会の自己理解が存在する。言い換えれば、この発言は、私たちの社会は民主主義を標榜する社会である、ということを表明することに他ならない。すなわち、私たちの社会は議論と多数決によって法律を作り、その法律によって治められた民主的な社会であるからこそ、暴力の行使や暴力による脅迫に屈することは許されないし、かりに屈することがあるとすれば、それは自分たちの社会の根本原理を放棄することになるのだ、ということを意味しているのである。ここから、私たちの社会がテロに屈してはならない理由を説明することができる。

 

このように考えるなら、「テロには屈しない」という発言には、民主主義とテロリズムはまったく相容れない異なる政治についての原理であり、テロリズムは民主的な社会をその外部――これは領域的な区分を意味するだけの外部ではない――から攻撃する敵なのだ、という認識が存在することが分かる。

 

民主主義の起源にある暴力と民主的な法によるその封じ込め

民主主義を外部から襲うテロリズム、民主主義的な価値に絶対的に対立する、民主主義とは無縁の暴力。このような民主主義と暴力との関係の理解は、今では当たり前のように見える。しかし、近代の民主主義の歴史を振り返るなら、必ずしもそうとはいえない。

 

そもそも、近代の民主的な社会の多くは、革命によって生まれた。そして、革命とは、多くの場合、暴力を用いた被支配階級による支配者階級の打破であり、端的に、内戦である。フランスの18世紀末から19世紀における民主化の過程は、その典型であり、それは血で血を洗う暴力とテロルの歴史である。要するに、民主主義の起源には暴力があったわけだ。

 

しかし、もちろん、近代の民主的な政治はその成熟の中で、自由主義と結びきつつ、政治的な闘争をむき出しの暴力によってではなく、選挙で選ばれた代表者の議論と多数決によって制定された法をとおして解決することを目指してきた。言い換えれば、近代の社会は民主主義というルールの確立をとおして、その社会を打ち立てた暴力による秩序の維持も、あるいはその破壊も共に不可能な社会の形成を目指してきたのである。こうして近代の民主的な社会は、その起源にある暴力や革命をその内部に封じ込め、政治的な闘争の手段とならないようにすることで発展してきたのである。

 

民主主義の内部に暴力が存在するのなら、民主主義と暴力の関係について考える際に大切なことは、今回のような誘拐や爆弾テロなどを念頭に置いて、民主主義とは無縁の暴力が外部から民主的な社会を脅威に晒そうとしている、というような理解にとどまっていてはならない、ということだ。というのも、そのような理解にとどまるなら、イスラム国をはじめとするイスラム過激派の存在によって、現在の民主的な社会が直面させられている脅威を正しく見定めることが難しくなるからだ。では、民主主義は内部に暴力を封印しているという理解から見定めることのできる脅威とは、何なのか。それは、イスラム国などによる外部からのテロリズムが、民主的な社会の内部に封じ込められた暴力を解放することによって生じる脅威である。

 

例外状況と民主社会における暴力の解放

先に指摘したとおり、民主主義は、民主的な手続きにもとづいた法によって社会の秩序を統治してきたが、そうすることでその内部の暴力を封じ込めることに曲がりなりにも成功したのであった。とするなら、民主的な社会においてその暴力が解放されるのは、法の通常の機能が停止され、法以外の何かによって社会の秩序が統治されるような状況においてである。

 

このような状況をカール・シュミットに倣い「例外状況」としよう。この例外状況は、法が想定しておらず、したがって法によっては適切に対処できないような非常事態に社会が直面するとき生まれる。それは、法による封印を解かれた暴力が社会の秩序を脅かすような状況だといえる。このとき、法が秩序の統治において後退する中で、法による縛りから自由になった国家(より正確には、行政府)が何をなすべきかを決定し行動することになる。

 

だとしたら、国家は、法以外の何によって例外状況下における秩序を統治するのか。その答えは単純だ。超法規的な措置を含むあらゆる手段によってである。要するに、民主的な社会が例外状況に陥ったとき、法の封印を解かれた暴力によって脅威に晒された秩序を維持するのは、法に規制されない国家の暴力――法に規制されない剝き出しの権力という意味での暴力――なのだ。

 

しかし、たとえそうだとしても、そんなことはワイマール期のドイツがしばしば引き合いに出されるように、過去の話ではないのか。現代の民主的な社会が例外状況、すなわち、通常の法の機能が停止され、国家による超法規的な決断と行動が許されるような状況に陥ることなどあるのか。

 

確かに、シュミットが論じたような独裁がそのまま現代の民主的な社会において敷かれるとは考えにくい。しかし、たとえば、ジョルジョ・アガンベンの議論を参照するなら、その徴候はもちろんあるといえる。それは、対テロ戦争の先陣を切ったブッシュ政権下のアメリカに見えることができる――その典型的な例として挙げられるのが、グアンタナモ収容所だ――。しかも、対テロ戦争は、対国家ではなく国内外のテロリスト集団との「いつでもどこでも」起こりうる戦争であるため、終わりのない永遠と続く日常化された戦争と考えられる。ここから、テロリストの攻撃やそれに対する対テロ戦争は、日常化された例外状況を作り出したといえる。

 

実はここに、見逃されがちなテロリズムがもたらす民主社会への脅威がある。それは、いうまでもなく、目前の状態を例外状況と認定し、法による拘束から解放された剝き出しの統治権力を行使する国家=政府の出現の可能性であり、危険性なのである。しかも、例外状況が日常化し、常態化している以上、その国家=政府が例外状況を先取りしつつ、予防的に決断し行動する可能性が出てくるのである。

 

日常化した例外状況と今後の日本の社会

テロリズムは、民主的な社会を例外状況に置くことを可能にし、部分的であろうが全面的であろうが民主的な法の機能を停止させることで、抑え込まれてきた暴力を解放する。そのとき、政府は、社会の秩序を回復するべく、超法規の統治権力を行使することになる。さらに、いわゆる現代のテロとの戦争は、このような例外状況を日常化する危険がある。

 

このような理解に立つとき、今回の人質事件後の日本社会の行き先をどう見通すことができるだろうか。もちろん、今回の事件をとおして、日本がテロとの戦争の当事者になったことを否認できなくなったとはいえ、直接テロの攻撃を受けたわけではない。しかも、現行の日本憲法下には、政府が例外状況と判断した上で、憲法の一部を停止し超法規手措置をとる「国家緊急権」はないとされている。だから、法によらずに、執行権を政府が行使することは、まず考えられない。しかし、テロリズムが日常化した例外状況を作り出す以上、政府はそうした状況を先取りしつつ予防的に決断し行動する可能性が出てくるだろう。そして、例外状況下の最大の特徴であるが、行政府の権力が例外的に拡大されたり、立法府や司法府の権力に対して不均衡な形で優越したりする傾向が生じる可能性も、それに合わせて出てくるかもしれないのである。

 

もちろん、日本政府には、日本政府自ら主張するように、国内外の日本人の生命をテロから守る義務がある。この点は繰り返し強調されるべきだ。しかし、そうだからこそ、日本政府がその義務の遂行において、どのような決断し行動をするのかを批判的に見守っていく必要がある。なぜなら、例外状況の議論が教えてくれるように、政府にはそのような義務があるからこそ、可能な限りのあらゆる手段、現行の法を超えるような手段でさえ取ろうとする――現行の憲法や法律の改正をとおして――傾向があるからである。

 

こうして、テロリズムの脅威は、政府にその義務の確実な遂行を要求しつつ、その遂行に際して行き過ぎが無いよう厳しく監視するという難しい役回りを私たちに押し付けることになったといえるであろう。とはいえ、この役回りは、私たちの社会の自由・平等といった民主的な価値を死守しようとした結果、民主的社会そのものを破壊してしまったというような事態を避けるためにも、どうしても必要な役回りなのだ。

シャルリ―・エブド社銃撃事件と、自由(liberté)、平等(égalité)、博愛(fraternité)――“Je suis Charlie”への違和感から考える民主主義の危機――

“Je suis Charlie”への違和感

イスラム原理主義者による、フランスの出版社シャルリ―・エブド銃撃事件の戦慄が冷めやらぬ先の日曜日(1月11日)、このテロリズムに抗議するデモがフランス全土で行われた。報道によれば、その数は、370万人にも及び、デモ大国フランスの歴史の上でも、最大規模であったようだ。

 

さて、一昨日のデモに先立ち、SNSを中心にして言論の自由を擁護する動きが、世界中で活発化した。その際のスローガンが、“Je suis Charlie”(私はシャルリ―)である。この言葉をtwitterFacebookにポストすることで、今回のテロを非難し、表現の自由を支持する意思表示をするわけだ。

 

このスローガンを目にして違和感を覚えた人は少なからずいるようだ。フランスに詳しい人ならば、そこにフランス特有のナショナリズムや文化帝国主義の臭いを嗅ぎ分ける人もいるかもしれない。しかし、特にフランスの歴史を精通しているわけではないものの、今回のテロリズムを断固拒否し、かつ表現の自由を支持している人がこのスローガンに違和感を覚えるとすれば、その理由は簡単である。すなわち、「私はシャルリ―」だというスローガンは、この事件の何かを曖昧してしまう、あるいは、このスローガンを掲げることで、この事件が提起している何かを見逃してしまう、そんな気がするからだ。

 

表現の自由はフランスを含め、私たちの民主的な社会を構成する基本的な権利である。これは当たり前の話だ。しかし、これもまた当たり前の話だが、表現の自由は現代の民主主義の諸価値のうちの一つを体現する権利だということである。ここから、次のような考えが頭に浮かぶ。確かに、今回のテロによって直接、攻撃されたものは表現の自由に他ならない。だから、まず今、表現の自由の支持を断固表明することは当然だ。しかし、それ以外の民主主義の価値もこのテロによって危機に晒されつつあるのではないか、と。こう考えると、“Je suis Charlie”というスローガンを掲げることで曖昧になる何かが見えてくる。その何かとは、表現の自由によって体現される価値以外の民主主義の価値である。

 

民主主義の価値としての表現の自由

そうした民主主義の価値が何であるかを知るには、ここで、フランス共和国の標語、「自由、平等、博愛」を参照するのが適切であるかもしれない。

 

共和国フランスを打ち立てた革命家ロベスピエールが用い、19世紀から20世紀にかけてフランスのみならず世界に広く知れ渡ったこの標語は、民主社会が根差す価値を表していると見なせるだろう。言い換えれば、これらの価値にもとづいた社会、すなわち、「相互の友愛によって連帯した平等な者たちからなる自由な社会」こそ、民主主義の理想とする社会だといえるであろう。

 

「自由、平等、博愛」という民主主義の根本価値に照らすなら、表現の自由は、自由という価値を体現している。これは言うまでもない。したがって、表現の自由の支持を意図した“Je suis Charlie”というスローガンを掲げることで見えなくなる民主主義の価値とは、平等であり、博愛ということなる。そうだとすれば、先に指摘したとおり、今回のテロによって危機に晒されつつある平等や博愛とは具体的に何のか。翻って言えば、現代社会において擁護されるべき自由、平等、博愛とは具体的に何を意味するのか。

 

現代の民主社会における自由、平等、博愛

現代社会の特徴は、その規模と複雑さとにある。そのような大規模で複雑化した現在の社会は、19世紀のように、持てる者と持たざる者とに二極化した社会であるだけでなく、人種や宗教、セクシャリティ、価値観やライフスタイルなど、アイデンティティにおいて多元化した社会、したがって、多様なマイノリティからなる社会だといえる。こうした社会における民主的な価値としての自由は、特異であること――他と異なってあること――の自由として理解することができる。そして、表現の自由には、そうした特異性を表明する機会を確保することで、社会の多元性を維持することを可能にする機能がある。だから表現の自由現代社会において極めて大きな重要性が付与されているのである。

 

現代の自由が特異であることの自由であるとすれば、現代の民主的な社会における平等とは、特異であること、他と異なってあることへの承認と尊重における平等として理解される必要がある。もちろん、現代においても、法の下の抽象的平等や所得などにおけるある程度の実質的平等も民主主義の不可欠な価値である。しかし、多様なマイノリティから構成される現代社会の実情に鑑みれば、特異であることへの承認と尊重における平等は、よりいっそう重要な価値であるといえる。というのも、この平等がなければ、アイデンティティにおいて特異であることの自由を許容する多元的な社会の内部に共同性を作り出すことは困難だと考えられるからだ。そして、この共同性が自由の力によって分解してしまう危険を孕んだ社会の内部に、異なる人びとを結びつける凝縮力を生み出す。この凝縮力、あるいは異なる人びとの間の相互性が現代の連帯の精神、すなわち、博愛だといえるであろう。

 

重要なことは、このように理解された民主主義の根本価値は、相互に深く結びついているということだ。それゆえ、これらの価値の一つでも欠いてしまえば、民主的な社会は、その存立が危機に直結するような脆弱さを孕むことになるのである。

 

テロが引き起した民主主義の危機

現代の民主的な社会の基本的な価値をこのように理解するなら、今回のテロによって危機に晒されようとしているのが、表現の自由だけでないことは明らかである。確かに、直接攻撃を受けたのは、表現の自由である。しかし、この攻撃は、相異なる宗教や文化、人種の間での相互の承認と尊重を拒否する態度をフランス社会に蔓延させる可能性がある。すなわち、平等という価値の拒否である。そのとき、社会の凝縮力としての博愛や異なる人びとの間の相互性は失われ、民主的な社会としてのフランスは、深刻な危機に直面することが予測できるのである。

 

この予測は、突拍子もない的外れなものだろうか。机上の空論だろうか。そうであるかないかは、イスラム教徒の差別や排斥を目指した活動が今後活発化するかどうか、移民排斥を掲げる極右政党の支持が急速に拡大するかどうかを見ることで判断できるであろう。はたして、このような困難な状況においても、「相互の友愛によって連帯した平等な者たちからなる自由な社会」という、フランスの普遍的な理想をフランスの人びとは守ろうとするのだろか。これこそ、テロによって危機にある民主社会に問われている本当の問題なのだ。

 

残念なことに、今回のテロ以前のフランス、そしてヨーロッパ社会に移民排斥運動が浸透している事態を目にしている以上、いま楽観的でいられる人はほとんどいないように思われる。それはともかく、“Je suis Charlie”というスローガンでは、フランス社会の直面しつつある危機を十分に表現しえていないという点だけは確かなように思われる。

奇妙な選挙と民主主義の蹉跌(後編)――選挙だけが「民意」を表明する機会ではない――

予期された結果

第47回衆議院の総選挙は、52%という戦後最低の投票率の下で、総議席数の3分の2以上を獲得した自民党公明党連立政権の圧勝という結果に終わった。この結果は、今回の選挙への有権者の関心の低さを含め、事前の予想通りであり、何らの驚きも、悲嘆も喚起するものではなかった。次世代の党の議席数の激減と、日本共産党の躍進以外は、結局、選挙前の勢力図とほとんど変わっていなことからもそう言える。要するに、安倍首相は、今回の選挙の本当の目的、すなわち、行政府内の消費税引き上げを主張する勢力を黙らせることで、自らの権力基盤の強化を成し遂げたわけだ。では、なぜ、こうした結果になったのか。

 

投票率の低さに関しては、その理由は二つ考えられるであろう。一つは、今回の選挙には参加するに値するほどの争点がなかったということである。前編で指摘したように、アベノミクスの継続を争点にされても、その成功も失敗もはっきりしない状況では判断しかねるというのが多くの有権者の本音であろう。自・公優勢という事前の世論調査を耳にしつつ、「まだ成功の可能性もあるわけだから、結果が出るまでやってみて下さい」と考えるのは理に適っているわけで、そうした有権者の中には、わざわざ休日の寒さをおして、投票所まで足運ぶ気にならなかった人も少なくないはずだ。もう一つの理由は、これも前編で指摘したとおり、衆院選は各政党のマニフェストを参照しながら次の政府とそのリーダーを選出する政権選択選挙であるのに、今回の選挙では安倍首相の経済政策の継続を是とするか非とするかという争点の下で、いわば国民投票型の選挙が行われたことにある。この結果、非という意思を表明するには、自公以外の野党に投票せねばならないが、その野党のいずれにも魅力を感じなかったため、少なからぬ有権者が困惑することになった。最後まで、投票先を決められなかった有権者は、白票を投じるか、そもそも投票所へ足を運ばないという選択をしたに違いない。これらの二つの理由から、投票率の低さを説明することができるであろう。

 

今回の選挙に対する有権者の関心の低さを考えれば、自公の連立政権が圧勝した理由もある程度、推測できる。それは、野党およびマスコミが、原発の再稼働問題や、集団的自衛権憲法解釈変更による行使容認問題、そして特定秘密保護法の施行といった、未だに世論を二分する第二次安倍政権の政策の争点化に失敗したということである。あるいは、こう言ってもよいだろう。有権者にとって、これらの問題は、主要な争点とはならず、結局、アベノミクスの継続と消費税の増税延期(景気条項の削除)が投票行動を左右する唯一の争点であったということである。わざわざ投票所へ足を運んだ有権者たちの多くがこの争点をめぐって票を投じたとすれば――先に指摘したアベノミクスへの有権者の常識的な判断に鑑みれば――、その票が自民党あるいは公明党へ流れたことは、何らの不思議もない。

 

今後の安倍政治

安倍首相は今回の選挙の結果を受けて、自らの政権そして政策全体への信認を得たことになる。どれほど投票率が低く、与党の絶対得票率(全有権者に占める得票数の割合)も3割にも満たず、また、今回の選挙結果がアベノミクス継続への是認に過ぎないにしても、安倍首相はそのように認識し、そのように振る舞うであろう。そして、今後、安倍首相はこの信任を盾にして、選挙で争点化された経済問題以外の課題、例えば、集団的自衛権の法制化を意のままに進めるべく精力を注ぐだろうし、現行憲法の改正ための準備にも着手するであろう。

 

安倍政権に反対している人はもちろん、今回、自民党に投票した人でさえ、それでは困る、あるいは、それでは話と違う、と思うかもしれない。安倍首相に好きなように何でもやってよいと白紙委任をしたわけではない、と。しかし、安倍首相に限らず、政府のリーダーが、次のように主張することは理論上、可能であるし、実際そう主張されることがしばしばある。すなわち、選挙結果そして選挙で得た議席数は「民意」の表れであり、この「民意」こそ政府の思想と行動を正統化する唯一の根拠であるから、「民意」による信任を得たリーダーがどのような政治を行おうと、法の許容する範囲内であれば、批判される筋合いはない。それこそ民主主義であって、その批判は次の選挙で表明すればいいではないのか、と。だとすれば、「民意」が選挙で示された以上、安倍政権の行き先に不安を感じる人たちは、次の衆院選挙までただ手をこまねいているしかないのだろうか。

 

選挙結果だけが「民意」を表しているわけではない

もちろん、選挙結果だけが「民意」ではないこと、したがって、「民意」は選挙以外でも表明できるということなど誰でも知っている。例えば、街頭でのデモによって、「民意」を表明することである。それは、憲法にも保障された主権者としての国民の権利でもある。

 

とはいえ、そんなことは頭でわかってはいるものの、自らの政治的な意思を表明する機会を投票箱に限定してしまい、街頭でそれを表明することへの明らかな躊躇が、私たちの社会には存在する。それには理由があるだろう。デモに対して作り上げられた否定的なイメージ、政治的な態度表明をすることが日常の生活に悪影響を及ぼすかもしれないリスクなどがすぐに脳裏に浮かぶ。しかし、もはやそうした社会的な雰囲気に安寧している場合ではないのかもしれない。有権者全体のたった3割ほどの得票率で議会の3分の2以上の議席を獲得させる小選挙区制のマジックが生み出した「民意」が振りかざされ、世論を二分するような政治争点を真摯な議論も誠実な説明もなく――これが安倍政治の特徴の一つであることは論を俟たない――、為政者の意のままに推し進めることが実際に可能となっている状況だからである。

 

「民意」とは何か

自らの政治的な意思を表明する機会を選挙に限定してしまうという社会的な傾向が未だに強いとすれば、私たちが古い民主主義のイメージにとりつかれているせいかもしれない。

 

そのイメージの中では、「民意(will of the people)」は、選挙結果に表れる多数派の意思(will of the majority)を意味する。しかし、「民意」が字義通り、国民(人民)全般の意思(general will)を意味するとすれば、多数者は決して国民それ自体ではないのであるから、多数者の意思は「民意」ではあるとは限らない。では、なぜ、「民意」は選挙結果に表れる多数派の意思と同一視されるのか。そもそも、どうして、社会の共通の意思とされる一般意思と多数派の意思は同一視されるようになったのか。それは、1789年の革命直後のフランスの政治を見てみればよく分かる。当時の共和国フランスの政治家たちは、ルソーによって提起された民主主義の理念――社会の共同の利益を目指す、社会の構成員に共通する意思、すなわち、一般意思にもとづく政治――を代表者からなる議会での多数決原理によって実現することを試みた。このとき、一般意思としての「民意」と議会の多数派の意思とを同一することが便宜上求められたわけだ。便宜上ということは、もちろん、一般意思としての「民意」が議会の多数派の意思とは必ずしも一致しないからである。

 

要するに、民主主義と議会制度を結びつける中で、「民意」は、社会の共通の意思の代替物として、議会おける多数者の意思と同一視されるようになったわけである。これはきわめて教科書的な説明であるが、ここで、注意すべき点は、当時の議会の多数派が、同時代の社会共通の意思を代表しうるという想定が可能だったということである。想定が可能であったのは、当時の人たちの間に、革命後の社会は同質的な人間から構成されているという虚構が成立していたからである。それゆえに、議会の多数派は、この同質性を反映することが可能だと考えられたのである。一般意思を議会における多数派の意思と同一視することを理論的に基礎づけたのは、シィエスであるが、周知のとおり、彼はこの同一視を可能にする条件、すなわち、社会の同質性を「第三身分とは何か――それはすべてである」という言葉で表明したのであった。

 

したがって、「民意」を議会における多数派の意思に見出す民主主義のイメージは、近代社会の始まりに生まれたかなり古いものであり、しかも、それは同質的な社会を前提としたものなのである。ところで、市民革命を経た近代社会の特徴は、同質的な社会から多元的な社会の移行にある。言い換えれば、私たちの社会は、同質の多数者によって構成される社会から、価値観や利害関心、そしてライフ・スタイルにおいて相異なる《多様な少数派》によって構成される社会へ変容してきたのである。このような変化を遂げた現代の社会において、「民意」=選挙の結果=議会の多数派という想定は、もはや、理論的にも経験的にも説得力を失いつつある。なぜなら、想定を可能にした社会の同質性(という虚構)――もちろん、時に階級、時にナショナリズム、時に社会的連帯と名指されてきたこの同質性自体が作為的なものである――は、グローバリズム新自由主義の最後の一撃によって、維持できなくなりつつあるからだ。

 

《多様な少数派》からなる社会の「民意」

だからといって、選挙がなくなるわけではないなし、選挙結果に「民意」を見出す民主主義の慣行がなくなるわけではない。それは、民主政治の根幹をなす制度として存続し続けるであろう。しかし、この制度や慣行の正統性は徐々に弱まりつつあることは間違いない。とすれば、《多様な少数派》からなる社会に相応しい「民意」の表明の仕方とは何か、ということが問題となる。つまり、選挙による多数派の意思=「民意」という古い民主主義のイメージでは捉えられない「民意」の表明の仕方である。

 

その典型的なやり方の一つが、先に言及した街頭でのデモなのだ。もちろん、デモのような直接行動は、なんら目新しいものではない。そして、民主政治におけるその役割はいくつもある。例えば、社会問題の政治的争点化など、社会から政治に向けて発せられる問題提起がそうだ。しかし、それだけではない。デモは、議会における多数派の意思としての「民意」に異議を申立て、その多数派の意思によって無視されたり、排除されたりする「民意」を表明することを可能にする。しかも、現代社会により適合的な形で「民意」を表明しうるのである。

 

現代の社会において、すなわち、《多様な少数派》からなる社会において、デモで表明される「民意」は《多様な少数派》のうちの一つ(ないし複数)の少数派の意思として表明される。この点に、デモが選挙とは異なり、現代社会により相応しい「民意」の表明の仕方である理由がある。この場合、重要なのは、この一少数派の意思が他の少数派によって共有されるかどうかであり、より多くに共有されればされるほど、その「民意」の正統性は高まることになる。それは、構築的な「民意」であって、選挙による多数派の意思を自動的に一般意思と見なす同質的な「民意」とは異なることはいうまでもない。

 

繰り返しになるが、民主的な社会において選挙で示される「民意」がなくなるわけではない。また、それが保持してきた政治的効力は、今後も制度的に担保されることで持続するであろう。とはいえ、もはやそうした「民意」に納得できないのならば、さらに、私たちの社会のあり方に適した「民意」の表明する手段があることを知っているのならば、現状に手をこまねいているのは怠惰でしかない。だから、今回の選挙に不満を感じる人がいるならば、まず街頭に立って、その不満を「民意」として表出するべきなのである。

 

民主主義の躓きとしての選挙

以前のコラムで指摘したように、民主的な社会における選挙には、社会の統合を促したり、あるいは、社会の分断を露わにしたりする機能がある(http://fujiitatsuo.hatenablog.com/entry/2014/11/21/190345)。そうした選挙は好もうと好まざると今後の民主政治の基盤であり続けるであろう。しかしながら、だからといって、民主主義を選挙と同一視してしまうとするなら、それは、民主主義の偏狭な理解でしかない。そして、その偏狭さは民主主義の躓きとなる。ルソーが選挙そして代表制度を批判してイギリス人を揶揄した言葉を思い起こしてもよい。すなわち、「イギリスの人びとが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人は奴隷となり、無に帰してしまう」のである。

 

私たちの民主的な社会、すなわち、「平等な者たちからなる自由な社会」を守るためには、選挙だけでは不十分である。このことは過去も現在も変わらない。まして、《多様な少数派》からなる現代社会の変化の中で、選挙やその結果で表示される「民意」の正統性は低下している。それは、社会の変化ゆえに不可避の事態である。だから、社会の変化に対応した選挙の制度上の改革がまず必要である。例えば、《多様な少数者》からなる社会の実情に適した、比例代表制を基軸にした選挙制度改革や、市民の熟議の機会を組み込んだ選挙制度などだ。しかし、そうした制度上の改革だけでは、現代の社会に適合的な「民意」が表出される上で十分だとはいえない。これまで述べてきたように、デモはそうした不十分さを補完することができるのである。

 

こうして、社会の変化は主権者としての私たちのあり方に再検討を求めることにもなる。投票さえすれば、主権者としての務めは終わりという、主権者=有権者というあり方への反省が求められているのである。私たちは投票した後も、主権者として様々な方法で「民意」を新たに表明し続けることで、私たちの代表者の行う政治を監視し続ける必要がある。この意味でのデモは、選挙で示された「民意」を覆す手段というよりはむしろ、それとは異なる「民意」を政府や議会に突き付けることで、政治を民主的にコントロールするための一つの手段でもあるのだ。

奇妙な選挙と民主主義の蹉跌(前編)――安倍首相による衆議院解散総選挙と有権者の困惑――

第47回衆議院総選挙はなぜ行われるのか?

12月14日の衆議院総選挙まであと一週間をきった。街頭での演説をはじめ各地で選挙活動が行われ、テレビなどのメディアでも、今回の選挙に関する報道を頻繁に目にするようになった。これらは、選挙期間中に良くある光景である。しかし、今回の衆議院の総選挙に関しては、普段の選挙にまして、有権者の間で関心の高まりは感じられない。それどころか、困惑した雰囲気さえ感じられる。これは、多く人たちが抱く印象だろう。

 

それもそのはずだ。ほとんどの有権者にとって、何百億も税金を使い、この時期に選挙を行う理に適った理由が見つからないからだ。与党の側から示された理由は、アベノミクスと呼ばれる、第二次安倍政権が進める経済政策を継続するかどうかを有権者に問う選挙だとか、消費税を10%の引き上げを2017年4月へと延期することを有権者に問う選挙だとかいうものだ。しかし、これらが理に適った理由であると思う人はまずいないであろう。アベノミクスはまだ道半ばの政策であり、有権者がその結果を判断する段階にあるとはそもそもいえない。また、消費税の引き上げ延期という安倍首相の判断に関しても、わざわざ衆議院の総選挙を行うための理由としては説得力を欠く。なぜなら、当時の民主党野田政権と自民党公明党との間で結ばれた、社会保障と税の一体改革に関する三党合意に基づき成立した、「社会保障の安定財源の確保等を図る税制の抜本的な改革を行うための消費税法の一部を改正する等の法律」には、その附則として景気弾力条項があるからだ。この条項は、消費税の引き上げるかどうかは、「経済状況等を総合的に勘案した上で」、判断するとある。これの条項がある以上、消費税引き上げ延期を決めた今回の安倍首相の決断には有権者にその責任を問うほどの大きな問題があるとはいえない。何より、衆参両院で自公の連立政権は国会で絶対安定多数議席を確保しているのだから、アベノミクスを継続する上でも、消費税引き上げの延期をする上でも、野党の存在が障害にならなかったはずだし、それらの政策の実施に対して世論の強力な反対もなかったはずだ。それなのに、である。

 

衆議院の解散権は憲法上保障された内閣総理大臣の専権事項である。安倍首相が解散すると決断したのであるから、この決断こそ今回の総選挙の理由であり、それ以上でもそれ以下でもない、と考える人がいるかもしれない。すなわち、今回の解散総選挙に関しては法に従い行われたのだから、何の手続き上の瑕疵があるわけでもなく、この合法性こそ今回の選挙の正統性だというわけだ。確かにこれは一つ理由であるが、後編で指摘するように、これが有権者を納得させることのできるものであるかどうかは、はなはだ疑問だ。

 

では、表立って表明された理由に納得ができないとすれば、それらによって隠された衆議院解散総選挙の理由は何か。常識的に推し量るなら、それは安倍首相の権力の維持あるいは強化のためであろう。権力を求めての厳しい闘争の渦中にある政治家が自ら進んで権力を喪失したり弱体化したりするリスクを冒すことがあると考えるなら、政治の理解としては余りにナイーヴすぎる。だとすれば、安倍首相が口先で何と言おうが、解散総選挙を決断した時点で、自らの権力にとって今回の選挙を好機と捉えたからに他ならない。では、どのような好機か。安倍首相が彼のアベノミクスを成功させる上で障害となると見なした敵、すなわち、財政の健全化のために消費税の増税を予定通り行うよう彼に迫る勢力――政治家にせよ、官僚にせよ、財界にせよ――を、選挙で示される民意によって抑え込むという好機だ。

 

今回の選挙が有権者を困惑させる本当の理由

もちろん、これはあくまでも推測にすぎないが、それくらいしか、今回の選挙の理由は見当たらないように思われる。だから、今回の選挙に関して釈然としない印象を持ったり、あるいは、苛立ちや怒りさえ覚えたりする人が少なからずいるのだろう。もちろんシニカルに、政治なんてものはそんなものだという人もいるかもしれない。しかし、今回の選挙は、有権者の一部に釈然としない印象や怒りの感情を生んでいるだけではないのだ。

 

来たる12月14日の投票日にどのような投票行動をとるべきか困惑している有権者がこれまでになく多く存在するようだ。実はここに、今回の衆議院総選挙の特筆すべき問題がある。では、なぜ、今回の選挙で多くの有権者――もちろん、支持政党を持たない無党派層のことだ――は、どの政党に投票すべきか困惑するのか。

 

それは、今回の衆議院の総選挙の実情が、少しずつ日本に定着し始めてきた、政権選択としての衆議院選挙――すなわち、競争する政党のマニフェストを参考資料に、次の首相を選択する選挙――ではなくて、安倍首相およびその政策の信任を問う選挙となっているからである。こう言い換えてもよい。今回の選挙は安倍首相の権力の維持あるいは強化に賛成あるいは反対を表明する選挙なのだ。

 

しかしなぜ、それが困惑の原因となるのか。そのような賛成あるいは反対を表明する選挙ならば、単純多数決原理にもとづいた国民投票型を取るべきであろう。だが、もちろん、そのような選挙は憲法改正時にしか実施できない。だから衆議院選挙で、疑似的な国民投票型の選挙を実施することになったわけだが、同じ選挙といっても、国民投票型選挙と政権選択選挙とは、そもそも制度上、選択の仕方もその目的も異なる。この奇妙なズレが有権者の困惑を引き起こすことになる。

 

現在の日本は議院内閣制をとっている。この制度から見ると、衆議院選挙の目的は、内閣を形成することになる衆議院での多数派政党、すなわち、政権党を、競争する諸政党から選出することを目的としている。その際、有権者は自らの利益や意見を代表する政党(政治家)に投票することになっている。だから、それはある争点に対して賛成や反対を表明することを目的とする選挙ではないし、賛成なら〇、反対なら×を付けるような仕方で行われる選挙でもない。しかし、そうであるにも関わらず、こうした選挙において、安倍首相とその政策への信任が問われるとすれば、信任の場合、自民党もしくは公明党に投票することになるだろう。では、不信任を表明するには、どうすべきか。それ以外の政党、すなわち野党に投票するかもしくは棄権するという選択をすることになる。

 

野党の不甲斐なさ?

しかし、ここで問題が生じる。安倍首相に対して不信任を表明したいにもかかわらず、野党のどの党も自らの利益を代表してくれそうにない場合、有権者はどうしたらよいのか。投票用紙に〇や×を付けるわけにはいかない。また、不信任を表明するために棄権をしたところで、投票率の低下が自公の議席を結果として増やすことになるのだから、棄権は本末転倒な選択ということになる。こうして有権者はどのような投票行動をすべきか困惑することになる。

 

このような事態に直面して、野党の不甲斐なさをひたすら責める人もいるだろう。確かに、そのとおりだ。小選挙区制の下での二大政党制の一翼を担うことを期待された民主党への支持の低迷がこの事態の一因であることは明らかだ。もし民主党をはじめとする野党が自公政権に対抗しうる勢力を持っていれば、今回のように、信任か不信任かを問う国民投票的選挙を政権選択の選挙で代替しても、有権者の困惑はこれほど大きくなかったに違いない。むしろ、そうであったら、今回の衆議院解散総選挙はそもそも行われなかったであろう。

 

しかし、だからといって、今回の事態を野党の不甲斐なさで終わりにすることはできない。対抗的な野党の不在に付け込んだ今回の安倍首相の機会主義的な決断とそれが引き起こした有権者の苛立ちや困惑によって、今回の選挙の奇妙なズレ――国民投票型選挙と代表者を選出する間接民主主義選挙とのズレ――が露わとなったわけだが、このズレは選挙やその選挙を基盤にしている代表制民主主義がどうあるべきかについて再考を迫るからだ。例えば、代表制民主主義の機能やその正統性についての再考だ。実は、こうした点についてもう少し議論を掘り下げることで、今回の選挙に臨む有権者の怒りや困惑が向かうべき行き先も見えてくる。それについては、後編において論じようと思う。

民主主義の祝祭としての選挙――沖縄県知事選挙の意味――

今日、安倍首相によって衆議院が解散され、衆議院の総選挙が来月に行われることになった。これは問題のある選挙となるだろう。問題があるというのは、なにも、何百億円という無駄な税金が使われるからだけではない。どう考えても、今回の衆議院解散総選挙には、道理にかなった理由がまったく見当たらないからだ。さらに、現在の国会が違憲状態にあることにも鑑みれば、この選挙の正統性には大きな疑念がある。また、それとは別に、民主主義理論から見れば、今回の安倍首相の行動は、形式的には民主的な手続きを取りながらも、実際は、行政権力の恣意的な維持のために選挙を濫用する、いわば、人民投票型民主主義を連想させる(これについては、当ブログのhttp://fujiitatsuo.hatenablog.com/entry/2014/03/25/173636を参照して欲しい)。これが、近代の代表制度を基盤にした民主主義にとっての悪夢であることはいうまでもない。

 

したがって、今回の衆議院解散総選挙は、大いに論争を巻き起こし、厳しい批判と糾弾の対象となるだろう。しかし、ここでは、衆議院選挙ではなく、突然降って湧いたこの大騒動の影で、ほとんどの人たちが忘れつつある沖縄県知事選挙の意味について考えようと思う。なぜなら、この知事選挙の結果は、今後の日本の政治に少なからぬ影響を及ぼすことになるであろうし、何より、民主主義にとっての選挙の意味の多様さを考えさせてくれるからである。

 

沖縄県知事選挙の結果の注目点

先日の沖縄県知事選挙の結果は報道のとおりである。無所属の新人で米軍普天間飛行場名護市辺野古への移設に反対する新人の翁長前那覇市長が、自民党と次世代の党の推薦を受けた現職の仲井間知事などの対立候補を破り初当選した。翁長氏は、仲井間氏に対して10万票近く上回り、さらに、得票率でも50%を超えて当選したことを考えると、今回の選挙で圧勝したと見なしてよいであろう。

 

今回の知事選挙において注目すべき点を二つ挙げておこう。一つは、普天間基地辺野古への移設の是非が最大の争点となることで、いわば、住民投票型の選挙の様相を呈したという点。もう一つは、翁長氏側を勝利へと導いた支持基盤に見て取れる。すなわち、翁長氏が保守勢力と革新勢力という垣根を超え、「イデオロギーではなく(沖縄の)アイデンティティ」というスローガンの下で結集した人たちに支持されたという点である。

 

さて、この圧勝という選挙結果から、翁長氏の掲げた辺野古への移設反対という公約は実現されるのであろうか。すでに多くの指摘があるように、その実現にはどうやら多くの困難があるようだ。例えば、政府のこの問題に対する態度である。政府は、普天間基地辺野古への移設はすでに決定済みの過去の問題であるとしている。その上で、昨年の12月に当時の仲井間沖縄県知事によって承認された辺野古沿岸部の埋め立ては、手続き上の瑕疵がない限り、取り消すことはできないとしている。また、安全保障問題に直結するこの基地移設の問題は、他の国内問題とは異なり政府と沖縄県との間だけで決定するわけにはいかない、というあまりに当たり前の現実がある――基地の県外移設は理論上可能であるが、実際はそうはいかないということは、民主党鳩山政権下で思い知らされたわけだ――。つまり、この問題は日本の安全保障の一端を担うアメリカの意向や事情によって大きく左右されるということである。

 

とすれば、この選挙とその結果は無意味なものであったのだろうか。おそらくそうではないだろう、というのがその問いに対する答えである。では、なぜ、無意味ではなかったといえるのか。この点を検討するには、民主主義における選挙を政党の勝ち負けを決するイベントだとする理解では、しばしば見逃されがちな二つの機能を理解しておく必要がある。

 

近代民主主義における選挙とその機能

近代の民主主義、すなわち、代表制民主主義における選挙は、現在の支配的な民主主義の理解によれば、市民が政府を形成するべく政治権力を求めて競争する政党(政治家)を多数決の原理にもとづいて選択することを意味する。これによって多数者の支配という民主政治の理念が実現されるわけだ。

 

しかし、このように理解される選挙が可能となるためには、ある条件が必要だ。それは、社会が競合し対立する利害や意思を持った諸集団によって構成されているという条件である。これがなければ、政党間の競争など起こりえない。

 

実はここに、近代の民主主義における選挙の独特な機能の一つを見て取れる。それは、普段、曖昧にされている社会の党派的な対立を表面化し、社会が分断されている事態を可視化する機能である。こうして、この意味での選挙は、ある思想家が言ったような、友・敵という政治の本質を顕現化させるイベントであると同時に、この友・敵という究極の対立が、殺し合い――すなわち、内戦――に帰着することないよう、多数決原理や定期的な選挙の実施、その結果に応じた政治的権力の移行(政権交代)といったルールにもとづいて平和的にコントロールされるイベントとして見なすことができる(社会の分断を可視化する選挙の機能を考察した議論としては、当ブログのhttp://fujiitatsuo.hatenablog.com/entry/2014/09/12/165921を参照して欲しい)。

 

選挙における多数決原理の問題

これらは余りに常識的な指摘かも知れない。しかし、そこにはめったに問われることがないものの、民主主義の根幹に関わる問題がある。それは、なぜ、多数者による政治的権力の掌握が民主的に正統な行為として認められるのか、というものだ。これは、以前の投稿でも言及した、民主的な決定における多数決原理の問題だ。

 

民主主義の思想と実践の歴史を振り返るとき、そこから見えてくる説得力のある説明は、社会の多数者の意思こそ、社会の構成員全員が共有する満場一致の意思、すなわち一般意思そのものではないにせよ、それに一番似通った意思だというものである。一般意思とは、社会を構成する人たちすべてに共有された共同の利害を目指す意思であり、この意思こそ人とびとが共に暮らす社会の建設と維持を可能する。だから、この一般意思は、多数決原理にもとづく決定に民主的正統性を付与する根拠になる(もちろん、現在の多元的な社会に、一般意思なるものが所与のものとして、客観的に実在するとは考え難い。むしろ、現在の社会に一般意思の存在を仮定するのであれば――あらゆる現代の民主国家の政治は、形式上、この仮定の下で行われているのは紛れもない事実である――、それは熟議のプロセスをとおして構築されるものでしかない)。

 

とはいえ、一般意思と多数者の意思が常に一致するとは限らないし、それらが対立することがないとも限らない。ここから、多数決原理にもとづいた決定が民主的に正統であるという想定には、多数決原理を一般意思と同一視するという一種のフィクションが存在していることが分かる。そして、このフィクションという性格に由来する民主的正統性の理論上の脆弱さをついた、さまざまな民主主義批判が19世紀以降、生み出されることにもなった。それはともかく、ここで注目したいのは、この一般意思と多数者の意思との疑似的な同一性から生じる選挙のもう一つの機能である。

 

選挙のもう一つの機能

選挙のもう一つの機能は、先に触れた一般意思を表明するという機能である。したがって、選挙には、社会全体の共通の利害が何であるかを提示する機能があると考えられる。このことは、上で論じた多数決原理から容易に引き出すことができる。というのも、多数決原理が、多数者の意思に一般意思が存在するという想定に依拠しているとすれば、この想定から、選挙において示された多数者の意思は、その社会において共有された共同の利害を示すものだと見なしうるからだ。

 

もちろん、選挙が共同の利害の存在を顕現化させる機会となるためには、いくつかの条件が必要だろう。なぜなら、選挙には、社会の分断を可視化する機能もあるからだ。それら条件が、多数者の意思が一般意思であるかのように見えさせ、あるいは、そのように見なすことを説得的にする。例えば、投票率が比較的高いこと、その社会にとって最大の政治課題が明確な形で争点化されていること、そして、全有権者数に対して多数者を構成する有権者の数の割合が大きいこと、といった条件である。

 

これらの条件が、ある程度そろった場合――ある程度というのは、多数者の意思と一般意思とが似通っているように見えるかどうか問題であり、そのように見なす主張に説得力を付与できるかどうかが問題だからだ――、選挙は、社会の共通の意思や共同の利害を提示する機会と見なすことできる。そしてこのとき、選挙をとおして、社会の対立や分断ではなく、社会の調和と連帯が可視化されることになるのである。

 

祝祭としての選挙

ルソーは、彼の理想とする社会には、人びとの間に連帯感を芽生えさせ、さらに強化することで、いわば共通の自我を作り出す「祝祭」が必要だと説いている。選挙が社会の共通の意思や共同の利害の存在を明示することで、社会の結び付きを可視化する場合、その選挙はこうした祝祭となることがある。すなわち、民主主義の祝祭としての選挙である。投票結果によって可視化された社会の結束が、その社会に暮らす人びとの内面に刻み込まれ、再帰的な形で連帯感を醸成するのだ。望ましいか望ましくないかに関わらず、元来、選挙にはそうした機能があることは紛れもない事実のように思われる(ただし、自由で多元的な社会にとって、この祝祭が危険をはらむ可能性があることは指摘しておく必要がある。それは、社会の多様性や少数者の自由を抑圧する危険だ)。

 

今回の沖縄県知事選挙には、沖縄の共通の意思を表明するという機能が確かに存在した。すなわち、普天間基地辺野古への移設反対が沖縄の人たちの共通の意思であり、米軍基地への反対が沖縄の人たちの共同の利害であることを提示する機能を果たしたのである。このことは、選挙で勝利した翁長氏の「イデオロギーではなくアイデンティティ」というスローガン、これまでの保守革新勢力の対立を越えた彼の支持層、基地という沖縄にとって核心的な問題の争点化、さらに、投票率の高さや多数派の得票率に鑑みると、ある程度の説得力を持っているように思われる。

 

こうして、祝祭としての選挙という観点から見たとき、沖縄県知事選の意味がはっきりと理解できる。それは、選挙で示された共通の意思が、今後も沖縄の人たちの記憶と歴史に深く刻み込まれ、共有されたアイデンティティとして受肉化されて行く中で、沖縄の社会の連帯をより強固にしていくことになるという点にある。

 

もちろん、だからといって、基地の移設が今回の選挙で示されたような形で思惑通りに進むわけではない。また、その連帯感は、多数者の意思を一般意思と同一視するというフィクションに依拠したものであることも確かである。しかし、たとえそうであっても、今回の選挙で提示された沖縄の共通の意思、そしてその下で醸成される連帯意識が、日本政府が基地の移設を進める上で、もっとも大きな障害となることは間違いないであろう。もしかしたら、それはたんに中央の政府に対する抵抗の拠点になるだけでなく、将来の沖縄のあり方を沖縄の人たち自らで決定しようとする際の基盤になるかもしれない。こう考えるなら、今回の沖縄県知事選挙は、無意味であったとは言えないように思われる。

 

それでは、安倍首相が決断した衆議院の総選挙にいったいどんな意味があるのか。政党間の競争という、ある意味で近視眼的な選挙の理解から離れて、この問いをいま一度、民主主義の根幹に関わる問題として考えてみる必要がありそうだ。