民主主義とその周辺

研究者による民主主義についてのエッセー

多数決投票ですべてが解決するわけではない(1)――スコットランドの独立問題から考える、社会の分断を乗り越えるために民主主義に必要なこと――

 間近に迫った住民投票

今月の18日に、スコットランドでは、独立の是非をめぐる住民投票が実施される。現在のスコットランドは、イギリス、すなわち、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国を構成しているが、1707年以前は、独立した王国であった。イングランドとの統合後も、スコットランドは独自の文化や産業を発展させることで、その名を歴史に刻んできた。例えば、18世紀には当時のヨーロッパを席巻した啓蒙主義運動の一大拠点――デイヴィッド・ヒュームやアダム・スミス、アダム・ファーガスンらを輩出した、いわゆるスコットランド啓蒙の地――であったし、また、続く産業革命以降、スコットランドグラスゴーは、ヨーロッパの産業の中心地の一つであった。そのスコットランドが、その住民の意思次第で、300年以上の時を経て主権国家として独立するかもしれないというわけだ。かりに、スコットランドの独立が実現するなら、おそらく、それは、20世紀後半のソ連の崩壊とロシアの誕生や南アフリカでのアパルトヘイトの廃止に並ぶ歴史的出来事になるように思われる。

 

間近に迫ったスコットランド独立をめぐる住民投票は、イギリス国内だけでなく、国外の多くの人びとの関心も集めているようだ。今年に入り、オバマ大統領はスコットランドの独立をけん制する発言をしているし、日本でも、新聞の記事やネット上のコラムでしばしばこの話題を見かけるようになった。しかし、スコットランドの独立に直接的な利害を持っているであろうイギリス国内に住む人たちならいざ知らず、ユーラシア大陸を挟み遠く離れた日本の私たちがこの問題に注目するなら、その理由はどこにあるのだろうか。もちろん、その理由は様々なはずだ。世界経済に対する影響に関心を持つ人もいるだろう。例えば、北海油田は独立後のスコットランドに帰属する可能性があり、そうなればイギリス経済に少なからぬ打撃を与えるに違いない。また、通貨ポンドの不安定化を引き起こすことも考えられる。安全保障に対する影響に関心を持つ人もいるはずだ。というのも、イギリスの核兵器を配備する軍事施設は、スコットランドのファスレーンにあるからだ。さらに、国際政治上の関心からすれば、スコットランドの独立は、例えば、北アイルランド問題やバスク問題などヨーロッパにおいてくすぶり続けている民族問題に油を注ぐ可能性もあり、現行の国民国家を中心に組織されているEUを内側から動揺させることになるだろう。

 

スコットランドの独立問題を民主主義の問題として考える

上で述べた関心は、どれも真剣な議論に値するだろう。しかし、ここでは、それらとは異なる関心から、スコットランドの独立問題について考えてみようと思う。すなわち、成熟した社会の民主政治が、独立か否かという社会を二分する政治的争点を、社会の分断という危機に陥ることなく解決するには、何が必要なのかという関心である。この関心からスコットランドの独立問題を考えことによって、民主主義が多数決を原則とする選挙や投票にはとどまらない政治的な思考であり実践であることが自ずと明らかになるはずである。

 

私たちは、通常、民主政治における決定は投票によって確定される多数者の意思にもとづくべきであり、さらに、投票で敗北した少数者は勝利した多数者の意思を受け入れるべきだという考えを共有している。しかし、なぜそうであるべきなのか。この問いに対する答えの一つは、多数者の意思こそ社会全体の共通の意思であるというものだ。したがって、民主主義に関して共有されてきたその考えは、多数者の意思と社会全体の意思を同一視できるという想定に裏付けられてきたのである。

 

しかし、これはあくまでも想定である。したがって、現実の事態を指示しているわけではない。さらに、想定としても、説得的な根拠を欠いた、かなり脆弱な類の想定だ。なぜなら、多数(majority)と全員一致(unanimity)とが異なること、ルソー風に言えば、全体意思と一般意思とが異なることは誰の目にも明らかだからだ。それに少数者によって社会一般の利害が代表される可能性がないとは言えない。そもそも、多数者の意思と社会全体の共通の意思との同一視は、一般意思という概念を代表制民主主義に移植する際に便宜上、必要とされた想定なのだと指摘する人たちもいる。

 

それにもかかわらず、この想定は未だに通用しているようで、それに裏付けられた、多数者の意思に従うべきという考えも相変わらず自明視され現代の民主主義の常識になっている。選挙や法制定における多数決投票によって政治的決定は民主的な正統性を獲得するという考えが、比較的抵抗なく受け入れられていることをみれば、このことは否定しようもない。

 

しかし、今回のスコットランドの独立問題のように、社会を分断するような政治的争点が争われる場合、投票で勝利した多数者の意思に少数者は従わねばならないというこの常識が通用しないことがありうるし、また実際にある。もちろん、政権の選択や法律の制定(その改廃を含む)のような定期的に繰り返される政治的争点においては、投票による勝者の決定という考えは支持され、効力を持っている。それは、いわば、政権選択という競争ゲームにおいて勝者と敗者を決するルールを遵守するのと同じようなことだ。なぜ、ルールが遵守されるかと言えば、このゲームが続く限り、今回は敗者であっても、次のラウンドでは自分が勝者になれるかもしれないからだ。これに対して、国家の独立や憲法の改正などの政治的争点は、ゲームが行われる土台や枠組み自体を変えてしまう可能性を意味するわけで、それまで行われていたゲームのルールをそのまま適応できるとは限らない。だから、そのような争点が争われる場合、少数者が投票によって正統化された多数者の意思への服従を拒絶したり、民主的な決定の手続きとは異なるやり方で、例えば、物理的な暴力に訴えるというやり方で、自分たちの意思を貫徹しようしたりとすることが実際に起きうるのである。その中で、少数者は、多数者の意思が社会の共通の意思であるという想定が虚構であることを暴露し、この偽りの想定にもとづいた投票の結果の正統性を剥奪することで、自分たちの思想と行動を擁護することになる。

 

とすると、社会を分断する可能性のある重大な選択を迫る政治的争点を民主的に解決しようとする上で、それが招きうる危機を避けるためには、多数者の意思=社会全体の意思という想定に依拠する投票以上の何かが必要となってくるはずである。すなわち、この想定が虚構であったとしても、それにもとづいた決定を受け入れるために必要となる何かだ。いったいそれは何か。実は、この問いの答えの一つが、スコットランド市民の草根の根の運動から見えてくる。したがって、以下では、この運動に焦点を当てることで、その何かついて考えようと思う。このことについて考えることは、何より、憲法の改正という、社会を二分する政治的争点に遠からず向き合わねばならない私たちにとって、切迫した課題であるはずだ。

(後編に続く)

民主主義を蝕む安倍政治――憲法解釈の変更による集団的自衛権の行使の解禁に反対せねばならないもう一つの理由――

集団的自衛権の行使を解禁した閣議決定とその後

7月1日の閣議決定集団的自衛権に関する憲法解釈の変更が行われた。そして、すでに3週間近くが過ぎた。先日まで衆議院予算員会ではこの閣議決定に関する集中審議が行われていたが、それを見る限り、政府がこの問題に対して真面目に説明責任を果たそうとする気があるのか疑わしくなるばかりである。

 

例えば、こうだ。先の集中審議で安倍首相は集団的自衛権の行使に伴い、徴兵制の導入の可能性について問われた。その可能性を否定した首相および内閣法制局長官の答弁によれば、徴兵制が不可能な理由は、日本国憲法13条および18条に照らして、徴兵制憲法上認められないと政府が解釈しているからだ、というものである。さらに、法制局長官は、政府の憲法の解釈変更には合理性と論理性が必要であるが、徴兵制を容認するべく憲法解釈を変更するには、それが欠けている、だから、徴兵制の可能性は憲法上ありないと答弁した。

 

しかし、安倍首相が行った集団的自衛権に関する憲法解釈の変更の含意は、そうした合理性や論理性が外部環境――例えば、安全保障の環境――に依存するのであって、外部環境の規定の仕方次第ではいかようにも憲法解釈の変更は可能だということを示したことにある。だから、今回の閣議決定のように、今後、政府が「環境が変容した」と宣言すれば、徴兵制に関する憲法解釈の変更は可能であるし、また、新たな解釈にもとづいた関連する法案を政府与党が多数を占める国会で数の力に任せ可決さえすれば、徴兵制は現実のものとなる。合理的、論理的に思考すれば、こうならざるを得ない。

 

あまりにお粗末で無理のある政府の答弁であった。自分で否定した根拠を引き合いにして、それをもとに徴兵制の導入がありえないという説明を行っているわけだから。これで説明責任を果たすと言われては、呆れるしかない。安倍首相および内閣法制局長官の答弁が冗談ではないとすれば、彼らは自分たちが行った今回の閣議決定の重大性をまったく理解していないことになる。こうした事態は、安倍首相および政府への不信を増大させるだけでは済まないであろう。形だけの説明責任が行われ、真摯な議論もなく、内閣の決定を追認するだけの国会の存在意義はいったい何なのか、という代表制(議会制)民主主義への根源的な懐疑と反省を生み出しかねないように思われる。そこで、今回の投稿では、この代表制=議会に着目する。そうすることで、立憲主義とは異なる観点から、なぜ、行政府内での憲法解釈の変更による集団的自衛権の行使の解禁が民主政治の危機を生み出すのか考えてみたい。

 

 

数の力が支配する議会

今回の集中審議で見られたやり取りは、国会のいつもの光景ではないか、という見解もあるだろう。それによれば、「意見の議会」とかいう昔の思想家の言葉は言うに及ばず、最近の「熟議」の国会という言葉も、あまりに理念的で浮世ばなれした政治の理解から出てきたもので、現実の議会は数の力が支配しているのだ。政治が権力を求めての闘争だとすれば、そして、民主主義がそうした政治のあり方の一つだとすれば、多数者の支配を意味する民主主義こそ、数の力の支配を正統なものとする政治なのだ。だから、そうした光景は陳腐ではあるとしても、別段、非難されるようなものではない。それに、代表者たちによる政治(代表制民主主義)への懐疑などは、日本ばかりでなくどの民主国家においても、むしろノーマルな状態なのだ。

 

議会政治についてよく耳にする、それこそ陳腐な説明ではある。しかし、現在の政府も、国会審議における形式上の説明責任さえ済ませてしまい、その後の集団的自衛権の解禁に関する法案の成立は数の力で押し切ろうと考えているようであるから、この説明も確かに実際の議会政治の一面を捉えていると言わざるを得ない。

 

とはいえ、である。現在の情勢において、この陳腐な説明を今までのように、「まぁ仕方ない、《決められる政治》の代償なのだから」と受け入れたり、聞き流したりすることは許されないように思われる。なぜなら、集団的自衛権の行使の解禁に見られる一連の安倍政治は、こうした態度につけ入ることで、日本における民主主義をもはや回復不可能なほど蝕んでいるように見えるからである。

 

 

踏みにじられるのは立憲主義だけではない

では、なぜ、安倍政治が日本の民主主義を蝕んでいると言えるのか。その理由の一つは、前回までの投稿で議論した立憲主義である。立憲主義という考え方は、憲法への執行権力の服従を命じ、その自立化と暴走を防ぐことで、民主的な社会の諸価値、すなわち、個人の尊厳や人権、社会の多様性を守ろうとする。安倍首相の下で進められる、憲法解釈変更による集団的自衛権の行使解禁によって否定されたのがこの立憲主義であった。

 

こうした主張に対して、憲法解釈の変更など過去にもあったことなのに、なぜ今回の安倍首相による憲法解釈の変更だけが立憲主義を否定することになると非難されたり、立憲主義の否定という理由をもって日本の民主主義を蝕むなことになると非難されたりするのか、という反論が出てきているようだ。もちろん、こうした反論には妥当性があるようには思えない。今回の安倍首相による憲法解釈の変更が立憲主義を否定することになるということは、過去に憲法解釈の変更があったかどうかに関係なく論証することは可能だからであり、また、近代の立憲主義の否定が民主的な社会の諸価値を破壊してきたことは、歴史の事実として否定しようがないからだ。

 

しかし、それでもなお、そうした反論に固執する人がいるかもしれない。そうだとすれば、今回の安倍首相による憲法解釈の変更が集団的自衛権の行使の解禁のために行われたものだからこそ、日本の民主主義を蝕むものであることを提示することがよいだろう。このためには、立憲主義に訴えるだけでなく、別の民主主義の考え方に訴える必要がある。言い換えれば、今回の安倍内閣の閣議決定立憲主義だけでなく、それとは別の民主主義の基盤を踏みにじることを示す必要がある。そこで、そのような基盤をここでは、立憲主義との語呂を合わせるべく、「議会主義」と呼んでおこう。では、「議会主義」とは何を意味しているのか。

 

 

民主政治の正統性と民主的な社会の自己理解

先にふれたとおり、近代の民主政治、すなわち代表制民主主義について、こんな理解が存在する。その中心となる議会では多数決ですべてが決定されるのであるから、それは数の力が支配する場であるのだ。数の力こそ、代表制民主主議の正統性を生み出すものなのだ、というわけだ。しかし、議会が生み出す民主的な正統性についてのこうした理解とは異なる理解が存在する。

 

それは、議会が生み出す政治的決定の正統性を、単なる数の力ではなく、民主的な手続きに従った議論の中で積み重ねられる言葉=理由に見出す理解である。別の言い方をすれば、こうなる。民主的な社会における政治的決定の正統性は議論を経た合意に由来するものであり、この合意はその時々の社会に存在する多様な理由を含み込み、さらに時間かけて理由を積み重ねることから形成されねばならない、そして、こうした合意を形成する場が議会だという理解である。このような議会の役割を重視する立場が先に言及した「議会主義」の意味するところである。

 

しかし、「議会主義」という言葉が切り開く理解は、議会が生み出す民主的正統性が投票数の積み重ねではなく理由の積み重ねにあるのだ、ということだけではない。さらに重要なことがある。

 

それは、議会で生み出された民主的な合意は、社会に共有されることで、その社会の民主的なアイデンティティを作り出す、ということである。つまり、こういうことだ。議会で形成された合意――例えば、法律――は、社会へと送付され現実に適用される。そうすることで、多様な反応を引き起こしつつ、時代の推移の中でその合意の新たな解釈やそれに対する承認あるいは否認の新たな理由を生み出し、また議会へと再度送り返される――例えば、選挙や社会運動などをとおして――。そして、議会では新たに見出された理由をさらに積み重ねることで、これまでの合意が再検討され、必要があれば変更され、あるいは破棄される。このプロセスが反復されてもなお存続する民主的な合意は、社会において共有され根を下ろすことで、いわば社会の再帰的な自己理解となる。この社会の再帰的な自己理解こそが、社会を民主的に統合する上での基盤、すなわち、民主主義の精神を生み出す、というわけだ。

 

 

危機に晒される民主主義の精神

おそらく、集団的自衛権違憲としてきた政府の長年の解釈は、こうした類の合意であった。戦争へのトラウマ抱えた戦後の日本社会では、憲法第9条に掲げられた平和主義の理念をどう理解し、現実のものにしていくのかについて、様々な考えや思惑、それを正当化する様々な理由が存在してきた。9条に記された文言に忠実に従い、自衛権さえも放棄するべきという理由や、日米同盟のために憲法を改正し、集団的自衛権の行使を可能にするべきという理由、その他様々な理由が国会での議論をとおして積み重ねられてきた。その結果が、これまでの集団的自衛権に関する政府の解釈であった。もちろん、この解釈は、国会において多数を占めてきた与党の数の力によって、最終的には決定され、また、その解釈にもとづいた法案も、数の力によって可決されてきた。これは否定しようのない事実だ。しかしながら、この解釈は、米ソ冷戦の開始から、朝鮮戦争、安保改定、ベトナム戦争、新冷戦期、そしてポスト・冷戦期にわたり、様々な理由の積み重ねと合意の民主的な再検討を経て、日本の社会に根付くことで、民主的な社会として出発した、戦後日本の再帰的な自己理解となってきたと言える。

 

そうだとすれば、今回の閣議決定による集団的自衛権についての憲法解釈の変更は、「議会主義」において重視される議会の機能、それが生み出す理由の積み重ねとしての民主的正統性、そして、日本の社会に共有されてきた民主的な自己理解に対して挑戦を突き付けていると言える。したがって、安倍政治によって危機に晒されているのは、そうした自己理解に根差した日本の民主主義の精神であるように思われる。

 

今後、集団的自衛権についての新たな政府解釈にもとづいた法案が国会で可決されることを止めるのはほとんど不可能であろう。そう考えると、閣議決定をした時点ですでに、安倍首相によるこの挑戦が、成功を収めたように見えるかもしれない。しかし、そうではない。国会で新たに作り直された合意は、今度は社会に投げ返される。私たちの役割は、この合意に対して反対するのであれば、その理由を提起し、国会における再検討を促す努力を怠らないことである。安倍首相の挑戦が成功を収めたと言えるのは、集団的自衛権に関する新た解釈が多様な理由を積み重ね、繰り返しの検討を経て、社会に根差したときである。しかし、そのためには、少なくとも、国会における真摯な説明責任と議論がなされる必要があろう。それが見受けられない時点ですでに、彼の挑戦を拒絶する十分な理由が私たちにはあるのではないか。

集団的自衛権の解釈改憲はなぜ問題か?(2)――立憲主義から国民主権へ――

どうやら、解釈改憲による集団的自衛権行使の解禁は、もはや時間の問題でしかないような状況のようだ。大方の予想通り、公明党は連立を離脱するほどの覚悟もなく、結局、自民党集団的自衛権行使の解禁案に対して多少の制約を課す程度で、妥協することになりそうだ。また、相変わらず世論の反応も鈍く、どこか他人事のような雰囲気が支配的である。ここから、集団的自衛権解釈改憲に反対の立場の人びとは、勝敗の決したゲームを続けることになると言えそうだ。

 

このような事態は予期できたことなので、悲嘆する人は少ないだろう。なにより、このゲームが終わった後にも新たなラウンドが始まるわけで、それを考えれば、ここで悲嘆するより、現在懸案となっている集団的自衛権問題の成り行きを改めて検討してみることが賢明だろう。そこで、以下では、集団的自衛権の行使解禁を憲法解釈の変更によって実現するという、いわば掟破りの手法を許容するような近年の日本政治の状況を指摘しようと思う。そのあと、解釈改憲に対する理論的な批判がどのように展開されているのかを確認した上で、最後に、集団的自衛権の行使の解禁が実現した場合、日本の民主主義を守るために何ができるのか考えてみよう。

 

民主的な社会に内在する脅威

前回の投稿では、安倍政治のボナパルティズム的性格を指摘した。ただ、注意を促したいのは、このボナパルティズムという言葉は学問的な意味において厳密に使われていたわけではない、ということである。19世紀の終わりから20世紀にかけてしばしば使用されたシーザリズム(caesarism)という言葉でも安倍政治の性格を指摘できたであろう。これらの言葉によって表象される安倍政治の特徴は、安倍首相をトップに据える行政府の権力がその自立化とその暴走を防ぐためのさまざまな歯止めから逃れ、制約のより少ない形で行使されるようになる点にある。

 

こうした行政府の権力の自立化やその暴走の可能性は、近代以降の民主主義をめぐる議論においてつねに懸念された問題であった。ジャン=ジャック・ルソーは『社会契約論』において、行政府の逸脱を民主的な国家を崩壊させる原因として指摘している。また、19世紀後半以降、経済的領域への積極的な介入と社会福祉制度の拡充を目指した社会国家の発展に伴い、複雑化し巨大化した行政府とそれが行使する権力を民主的なコントロールの下に置くことが、民主主義の理論家にとって切実な課題であり続けた。一般に、この課題に対する取組みは、三権分立人民主権という理論を素地にして、司法府や立法府によって行政府をコントロールするための具体的な制度として結実していく。

 

いずれにせよ、重要なことは、現代の多くの国々の憲法に表明された近代民主主義の理念――それは個人の自由と社会の多様性の最大限の尊重、それを実現する条件としての社会生活(経済・文化・政治)への参加の同等性――に立脚する社会にとって、その脅威は社会秩序の統治を任務とする権力、すなわち行政権力だ、という認識が持続して存在してきたということである。すなわち、行政の行使する権力は、民主的なコントロールに服することなく自立化してしまうことで、民主主義の理念を踏みにじり、この結果、民主的な社会を破壊する可能性があるという認識である。この認識が、たんなる理論からの抽象的な帰結というよりは、多くの社会が記憶する歴史上の経験に根差したものであることは言うまでもない。

 

安倍政治を生み出した背景

しかし、その一方で、行政府が社会秩序の統治に必要な政策を効果的にかつ円滑に実施することを求める要求もつねに存在した。特に1970年代以降、社会の民主化が進んだ福祉国家において、行政府が対応すべき国民のニーズの増大と多様化という事態が生じたが、この事態は行政府の統治能力を超過する深刻な負荷になると理解されていく。ここから、サミュエル・ハンチントンらが論じたような行政府の「統治能力の危機」という言説が福祉国家批判を伴い、広く社会に浸透することになる。こうした中、社会における民主化の流れを抑制する一方で、行政府の権限の強化とその組織のリーダーのリーダーシップによる政治の停滞の打破を求める声が高まることになる。そして冷戦の終結後、新自由主義と結びついたグローバリゼイションの進展による国内外の秩序の再編は、この声をいっそう強くし、また拡散させる結果となった。

 

こうした傾向は、それぞれの社会において多様な形で現実の政治に反映されてきた。最近の日本の政治に目を向けた場合、衆参のねじれ現象が話題とされたゼロ年代後半以降、政党やマスコミによって盛んに吹聴された「決断する政治」や「決められる政治」はその一例と言える。そして、この流れの中から安倍政治が出現したわけだ。ただ、安倍政治に特徴的なのは、この政治家特有の高揚感に任せて「決められる政治」を手段を選ばず推し進めることで、上で述べた民主主義と行政府の権力との緊張関係を一気に露呈させた点にある。それが掟破りの憲法解釈の変更による集団的自衛権の行使の解禁である。手段を選ばないというのは、安倍首相が慣行に反して、集団的自衛権行使の解禁に積極的な外交官を内閣法制局長官に任命したことに見て取れるだろう。こうして安倍政治は、多くの人びとに、歯止めを失った行政権力の暴走という民主国家に内在する悪夢を思い出させたわけだ。

 

立憲主義からの批判

さて、安倍首相が推し進める解釈改憲への批判はどのようなものがあるのだろうか。一般には、立憲主義的な立場からの批判と、議会主義的な立場からの批判がある。このうち主流は、前者からなされるものである。そこで立憲主義から批判について簡単に見てみよう。

 

立憲主義は、法律の専門家の多くが安倍首相の解釈改憲を批判する際のより所となっている。それによれば、憲法は統治権力に対してすべきこととしてはならないことを規定し、行政・立法・司法各府の権力の自立化と暴走を抑制することで、国民の自由と権利を守る機能を持つ。民主的な社会を維持するには、統治権力がこの憲法の地位と機能を尊重しその命令を遵守して法を制定・執行・適用せねばならない。これを近代立憲主義と言う(ただ、立憲主義と民主主義との間に親和的な関係が確立されるのは、近代に至ってのことでしかない)。この立憲主義を擁護しようとする人たちは次のような批判を展開する。すなわち、安倍首相の解釈改憲は、コントロールされるもの(行政府)がコントロールするもの(憲法)を自らの都合に合わせて変えることを意味するのであって、それゆえ、立憲主義という民主的な社会の根本原則を侵し、行政権力の暴走を許す危険性がある、と。では、立憲主義からの批判は、安倍首相が進める解釈改憲の現実的な歯止めをどう想定しているのであろうか。

 

立憲主義を守ることは可能か?

立憲主義からの批判はあくまでも規範的な立場からの批判である。したがって、この批判の狙いは、何よりも、解釈改憲による集団的自衛権行使の解禁に反対する世論の喚起にある。ここから、それが想定する第一の歯止めは世論であり、その世論に影響されざるをえない政党や政治家であろう。しかし、世論という歯止めは、あまりに不確かなものであり、現在の世論がそうした機能を果たしうることは想像すら難しい。すでに指摘した通り、実際の政治日程では、この解禁は憲法解釈変更の閣議決定を経て、今年中には関連する法案が可決されることで現実のものとなるであろう。では、その期に及んでも、解釈改憲による集団的自衛権の行使に対して、何らかの歯止めを想定できるであろうか。

 

もちろんそれは可能だ。歯止めとなるのは、憲法を守るための権能を備えた組織、すなわち、違憲立法審査権を有した司法府である。この司法府が立憲主義を唱える人たちの最後の砦である。集団的自衛権を行使可能にするための法案が成立し施行された後には、日本国内でその法律をめぐる法的紛争が起きるに違いない。そして、その法律の合憲性が訴訟の中で争われることになるだろう。このとき、最高裁判所を頂点とする司法府は、法律に対する違憲判決を出すことで、安倍首相の解釈改憲による集団的自衛権の行使を無効にする最後の防波堤となる、こんな想定が可能なのだ。

 

とはいえ、これはあくまでの想定である。はたして、最高裁違憲判決を出すことで、憲法に対する守護者となるのだろうか。現時点で、この問いに対して答えられる人は誰もいない。そもそも、最高裁憲法判断を回避することができる(例えば、「統治行為論」)。それだけでない。三権分立論から憲法上許された、内閣による最高裁判事の任命権を利用することで、行政府が司法府を支配下に治めることは不可能ではない。つまり、行政府が自らの傀儡によって最高裁の判事を構成することが考えられるのだ(もちろん、最高裁判事の任期という制約はあるが)。そうなれば、行政府の恣意的な解釈から憲法を守ることを司法府に期待することはできない。

 

究極の歯止め――国民という主権者の顕現――

では、こうした悪夢が現実のものとなり、立憲主義は踏みにじられ、そして行政府はその権力を思うままに行使するという事態がすんなりやってくることになるのだろうか。現行憲法の民主的な制度設計においては、そうならない可能性もある。すなわち、民主的な社会を守るために必要な行政権力をコントロールするための手段は、まだ残されている。

 

よく知られたいくつかの例を挙げよう。その中心となる手段は、もちろん、選挙である。選挙によって行政府を交代させることが可能となる。さらに、先に述べた行政府による司法府の支配に関して言えば、衆議院総選挙と同時に実施される最高裁判所判事に対する国民審査もその手段に数えることができる。理論上は――したがって、実際にはまだ実現してはいないが――、国民はこの手続きをとおして、最高裁判事を罷免することが可能となる。

 

もう一つは、デモなどの直接行動である。デモには執行権力に対して直接の強制力はないものの、街頭に立つ市民が、民主的な社会を守るという理由の正統性によって主権者としての国民を代表することになる。これらは、国民が主権者として顕現し、その権力を行使する事例だと言える。

 

ここから、安倍首相の解釈改憲による集団的自衛権行使の解禁を防ぐことができるかどうかは、民主的な社会を守るために主権者である国民が顕現するかどうかにかかっている、ということが分かる。言い換えれば、現行の日本国憲法では、主権という究極の権力を保持した国民こそ、民主的な社会を守る究極の番人として指名されているのである。

 

ほとんど不可能な期待

民主的な社会を守るために、国民が主権者として顕現するなどということが現実にあるのだろうか。確かに、日本の社会の実情を見るかぎり、それはほとんど不可能な期待でしかない。しかし、少なくとも言えることは、現行の憲法において、行政府の解釈改憲による立憲主義の蹂躙、ひいては民主主義の破壊に際し、主権者にはそれに対抗する手段が存在するということである。その手段を行使するかしないかは主権者の意思と能力によるが、いずれにせよ、行使することは可能なのである。

 

やはり、そうした可能性を指摘するだけでは、むなしさが残るだけだ。結局、立憲主義や民主的な社会を行政府の権力から守ろうとする人たちにとって、事態はここまで深刻だということなのだろう。もはや、偽りの安寧の中でまどろむ主権者としての国民に期待するしかないからだ。

 

こうして、またしても、民主主義の凡庸な鉄則を思い出すことになる。すなわち、民主主義ほど、それが危機に直面したとき頼りにならないものはない、という鉄則だ。そうであるのは、危機を乗り越えるのに必要な市民の意思も能力も一日で獲得されるわけがないからだ。それらは日常生活の中の民主的な取り組みの中でしか培われない。だから、エリート(主義者)たちが民主主義の危機に際して、立憲主義を守れと叫んでも多くの普通の人たちには十分に届かないのである。

 

 

集団的自衛権の解釈改憲はなぜ問題か?(1)――安倍政治とボナパルティズム――

先月末、日本と北朝鮮の政府間の協議で、拉致問題の進展が見られた。北朝鮮が日本人拉致被害者再調査を実施し、その見返りに、日本は独自の制裁措置を解除するという内容だ。この突然の出来事と、国内政治の主要な争点となっている集団的自衛権の問題との間には、何かしら関係が存在するように思えてならない。

 

拉致問題は利用されたのか?

例えば、このニュースを耳にして、「やはり、このタイミングか」、という印象を持った人は少なくないに違いない。このタイミングというのは、安倍首相が、国内政治の重要課題の実現を容易にするべく、拉致問題を「だし」に使った、という意味である。この重要課題はいくつもあろうが、おそらく誰もが頭に浮かぶのが、集団的自衛権の問題である。いわゆる解釈改憲による集団的自衛権の行使の解禁については、連立を組む公明党、特にその支持母体である創価学会の反対を受け、さらに、法律や政治学の専門家の多くからは厳しい批判を突き付けられている。また、世論調査も各調査媒体によって結果が割れている現状を見ると、世論の動向を予測することは容易ではなさそうだ。とはいえ、安倍首相としては、公明党との交渉を有利に進めるためにも、世論を味方につけておきたいところであろう。とすると、彼にはどのような選択肢があるのか。おそらく、懸案の集団的自衛権の問題からは世論の目を背けさせ、それとは別のイシューで自らへの支持を確保した上で、強行突破への体力を蓄えておくこと、これを目指すだろう。このために拉致問題が利用されたのかもしれない。「このタイミングか」という印象は、こんな素朴な推論に裏打ちされているように思われる。

 

これが印象論であることは言うまでもない。事の次第は安倍首相を中心にした関係者のみ知るところだろう。とはいえ、今回の協議における日本側の決定がこの時期に下されなければならなかった理由を、拉致問題の政治的重要性や安倍首相本人の政治的信条に求めるとすれば、あまりにナイーヴに過ぎるだろう。政治家(君主)にはキツネのような狡猾さが必要であるとするなら、拉致問題の利用の可能性は十分にあるはずだ。上記の推論の根拠の一つは、ここに求められることになる。

 

ボナパルティズムについて

こうした印象は多くの人たちが指摘するところであろう。しかし、ここではまったく別の観点から浮かび上がる関係を指摘しておきたい。それは、拉致問題集団的自衛権の問題への安部首相の取り組みには共通する点があって、この共通点が彼の政治の一面を象徴しているというものである。その一面とは、安倍政治のボナパルティズム的性格である。

 

ボナパルティズムを分かりやすく言えば、執行権力を掌握した政治家(政府)が大衆の支持の下で行う独裁政治といったものだ。この言葉を広く世に普及させる一因になったのが、カール・マルクスの『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』というテキストである。そこでマルクスは、ボナパルティズムの語源となったナポレオン・ボナパルトの甥、ルイ・ボナパルト(後のナポレオン3世)を取り上げ、1848年の二月革命に対してボナパルトが遂行した反革命のプロセスを描いている。

 

すべての国民の「家父長的な恩人」であることへの欲望

安倍首相のボナパルティズム的性格は、このテキストの「ボナパルトは、すべて階級の家父長的な恩人として現われたがっている」というセンテンスにおいて予感される。すなわち、安部首相は、ルイ・ボナパルトが19世紀のフランスでそうであったように、現代の日本社会を構成するすべての国民の父のように振る舞い、頼りになる恩人として敬愛されることを欲望する政治家なのではないか、彼の政治の特質はこの欲望から理解されるべきではないか、と。

 

この予感を例証するのが、拉致問題集団的自衛権の問題である。例えば、集団的自衛権行使の解禁を進める旨を国民に自ら公表したテレビでのプレゼンで、彼が用いたフリップ・ボード。集団的自衛権の行使によって派兵される自衛隊、そして自衛隊の軍事行動に最終的な責任を負う安部首相は、温情の厚い父として、他国で紛争に巻き込まれた母親とその子を救出するのだ。

 

拉致問題に関しては言うまでもない。彼は、他国によって拉致されたあらゆる日本の国民――すなわち子――を自らの手で救出する父として振る舞うことを望む。まるで父のように振る舞うことですべての国民の恩人として承認され愛されることを欲する政治家、それが安部ではないだろうか(だからといって、安倍首相の政治の本質が、外交的な想像力と歴史的な見通しを欠いた対米従属路線にあるという解釈を否定するわけではないのだが)。その結果、恩義を施す父として安倍首相は、マルクスの言葉を捩って言えば、「日本を取り戻すことができるようにするために、日本のすべてを売り払う」ことになるのかもしれない。

 

ボナパルティストの夢

もちろん、安倍政治≒ボナパルティズムという指摘がこうした例証に依拠するだけなら、それは表層的な印象論の域を出ることはない。しかし、ボナパルティズムという政治の手法をマルクスが分析した歴史的な事態に即して理解した上で、集団的自衛権の行使を解禁しようとする安倍首相の取り組みを検討するなら、彼の政治のボナパルティズム的性格は、たんなる印象論以上の含意を持つことになる。

 

そこで、1848年から1852年までのフランスにおけるボナパルティズムに話を戻そう。マルクスが分析した事態とは、官僚組織と軍隊を掌握した大統領(行政府の長)ルイ・ボナパルトによる、民主的に選挙された議会=立法府の無力化、最終的に議会の息の根を止め憲法を踏みにじるクーデタの実施、そして新たな憲法の下での帝政の復活である。先にも触れたとおり、この事態は、単純化して言えば、執行権力=行政権力の独裁という政治のあり方を意味する。しかし、ここで注目したいのは(マルクスの議論からは少々離れることになるが)、行政府の独裁がどのように実現されたのか、ということである。これに焦点を合わせるなら、代表制民主主義――議会主義と呼んでもよいであろう――の形骸化と憲法の蹂躙、そして国民投票によるクーデタや独裁の正統化、これらがボナパルティズムの政治手法として浮かび上がる。

 

もちろん、19世紀のフランスで生じたこの事態を一般化して、現在の日本にそのまま当てはめることは適切ではないし、そもそもそれは不可能だ。しかし、少なくともそこには、曲がりなりにも民主的と呼びうる国家において、行政府が立法府や司法府を支配下に置くことですべての政治権力を章掌する一つのやり方を見ることができる。それが行政(政府)による代表制民主政治(議会)の軽視であり、政府と議会双方をコントロールする機能を持った憲法の否定である。この手法を踏むことで、いわゆる民主的な国家において無制約の政治的権力を手に入れること、これがボナパルティストの夢なのだ。

 

集団的自衛権の問題の核心

それでは、安倍首相の政治のボナパルティズム的性格は集団的自衛権の問題においてどのように現れているのか。それは、安倍首相が現行憲法の根幹にかかわる集団的自衛権の行使を解禁しようとする際の、そのやり方において現れる。すなわち、日本国憲法第96条に明記された正統な手続きを経た憲法改正ではなく、行政府の憲法解釈の変更による解禁というやり方である。

 

言うまでもなく、この96条は、憲法改正へのハードルを高くすることで最高法規としての憲法の地位を保証しているだけでない。それは、最終的な決定を下す国民投票の前に、国会における総議員の3分の2以上の賛成にもとづく発議というプロセスを定めることで、憲法改正の正統性をより十全な民主主義的手続きに求めている。したがって、こうしたプロセスが不可欠な理由は、たんに国民投票で生じうる多数者の暴政から憲法を守るためだというのだけでは不十分である。むしろ、再帰性の深まりの中で説得力を持ちうる理由は、次のようなものである。すなわち、議会こそ、3分の2という条件が求めるより濃い民主的正統性を、開かれた討議と徹底した説明責任をとおして憲法改正に付与する能力と義務を持った機関だからだ、という理由だ。

 

そうだとすれば、憲法に記された正統な手続きを踏むことなく、憲法の根幹を変更しようとする安倍首相の取り組みは、究極的には憲法を否定することであると同時に、憲法改正に正統性を付与する議会を軽視する試みであると言える。これがボナパルティズム的手法の反復であることは論を俟たない。

 

この手法を容認するのなら、どうなるのか。確かに、政治家個人による独裁という事態が生じることは考えにくい。しかし、ただでさえ行政権力の肥大化が問題となっている現代の国家において、それを民主的にコントロールし、行政府の暴走を防ぐことはいっそう困難になるに間違いない。万能感に浸った安倍首相が国民の恩人として父のような存在であることを欲望しているとするなら、彼が限りなく無制約な権力を手に入れようとするボナパルティストの夢を見ないと誰が断言できようか。

 

こうして、安倍政治のボナパルティズム的性格の予感は、集団的自衛権の問題の核心とその危険性に気付かせてくれるのである。すなわち、それが、憲法改正ではなくて憲法解釈の変更による手段的自衛権の解禁というそのやり方にあるということである。

サイレント・プアともう一つの民主主義(2) サイレント・プアを解決するために必要なもう一つの取り組み

先の投稿「サイレント・プアともう一つの民主主義(1)」では、サイレント・プアの問題を現在の日本の社会のあり方から理解する必要性を論じた。このあり方を大きな影響を及ぼしているのが、グローバリゼイションの圧力の下で弛まず進められている新自由主義的な政策――その帰結の一つが雇用の非正規化に他ならない――である。さらに、この問題に向けられた自己責任論が的外れな批判であることを指摘した。自己責任論の多くが、この新自由主義的政策を意識的であれ、無意識的であれ擁護することになることは今では誰もが知っている事実である。今回の投稿では、前稿で触れた社会関係資本の概念からドラマ「サイレント・プア」でのコミュニティ・ソーシャル・ワーク(CSW)の取り組みが貧困や社会的孤立の状態にある人たちのエンパワーメントであることを指摘する。その上で、CSWの取り組みからさらに一歩進んだサイレント・プア問題の取り組みが、選挙‐代表制とは異なる、日常生活の中の民主主義にあることを論じる。

 

 

社会関係資本の欠如としてのサイレント・プア

資本は、経済的、社会的、文化的といった形態を問わず、それが活用できる状態で手元になければ意味がない。したがって、そのためには、資本はまず獲得され蓄積される必要がある。社会関係資本に関しても他の資本と同様に、それを獲得し蓄積するには投資や相続による充当がなければならず、さらに、獲得され蓄積された社会関係資本を活用し管理する能力やノウハウも必要となるはずだ。

 

こう考えると、サイレント・プアと呼ばれる状態に陥る人たちの事情がよく理解できるであろう。現在、家族や近隣地域社会における社会関係が脆弱化していることは誰の目にも明らかである。そのような中、社会関係資本――社会関係に埋め込まれたネットワークや信用――は、人びとがことさら意識的に獲得し、蓄積し、慎重に管理せねばならないものとなりつつある。そのためには時間とお金、社交性やコミットメントといった能力が不可欠だ。

 

しかし、その一方で、現代の日本社会に暮らす人たちは、労働をとおして、経済資本、すなわち、お金を獲得し蓄積することに日々の生活のほとんどのエネルギーと時間、能力を費やさざるを得ない。もちろん、その労働によって十分な経済資本を獲得でき、それを文化資本そして社会関係資本に転化させることで、文化的にも社会関係的にも豊かで充実した生活を送ることのできる人びとは少なからずいる。しかし、実情といえば、少なくとも一人暮らしの女性の3割や母子家庭の母親の半数以上がそうではない。不安定で不確実な労働に頼らざるを得ない彼女らは生活を維持するのに十分な経済資本さえ獲得することが困難な状況に置かれている。既存の社会関係の脆弱化の中、相続された社会関係資本がなければ、それを経済資本の獲得や蓄積のために活用できる可能性も低い。その結果、彼女たちは、経済的貧困――すなわち、経済資本の不足――に陥れば、容易に社会関係からの孤立――すなわち、社会関係資本の不足――に直面することになるのである。

 

では、経済的貧困に起因する社会関係資本の不足としての社会的孤立に対してどう対処すればよいのだろうか。そもそも、あらゆる資本の原初的な獲得のほとんどが親からの相続や投資である。このことを考慮すれば、答えは簡単であろう。資本の不足を当事者自身で補うことができなければ、当事者以外が、その不足した資本を充当するための支援をすればよい。そのやり方の一つが、CWSの取り組みである。この取り組みは個別のケースに応じて様々な形をとるであろうが、その核心は、経済資本の獲得と蓄積のために公的扶助の給付や新しい仕事口への就職の手助けをするのと同時に、社会関係からの隔絶された人たちが社会関係資本を再獲得できるよう支援することに他ならない。

 

 

エンパワーメントしてのCSWの取り組み

サイレント・プア問題の対策として、社会関係資本を再獲得し蓄積するための支援は、一種のエンパワーメント(empowerment)の試みとして理解できる。エンパワーメントとは、貧困や人種、民族、性などの差別によって、自分のあり方を自分で決定しそれを実現する力を奪われた人びとを支援し、そうした力を回復する取組みである。この「力」を社会関係資本と考えるならば、今回のドラマで描かれているCSWの活動は、貧困や社会的孤立に苦しむ人たちのエンパワーメントだと言えるだろう。

 

社会福祉協議会の職員であるCSWのエンパワーメントの特徴は、社会福祉協議会が民間団体とはいえ、法律(社会福祉)によって定められていること、運営資金も多くが行政によっていること――例えば、このドラマのモデルともなった大阪、豊中市で活動するCSWの予算は大阪府から出ている――から、行政の一部として組織されコントロールされた団体によるエンパワーメントだという点にある。もちろん、だからといって、この取り組みがダメだというわけではまったくない。CWSによるエンパワーメントは、ドラマにおいても、現実においても、見えない貧困に苦しむ人びとを発見し可視化することで、そうした苦境から脱出させることに貢献している。サイレント・プアが社会問題化している現代の日本社会において、この取り組みの重要性は、繰り返し強調されるべきだ。とはいえ、このエンパワーメントにもできることとできないことがあるということ、さらに言えば、これとは異なるエンパワーメントが存在することを指摘することは、サイレント・プア問題への取り組をさらに進める上で無意味なことではない。

 

CSWの取り組みの中心は、何より、様々な原因で貧困と社会的孤立という苦境にある個人を発見し、エンパワーすることで、社会の一員として健康で文化的な自立した生活を送られるよう支援することにある。したがって、このタイプのエンパワーメントの目標は、当事者がそうした生活に不可欠な資本の獲得を支援することで、彼女彼らの抱えた個人的な苦境を解決することにある。

 

これに対して、サイレント・プアの問題に対する取り組みには、別の狙いを持ったエンパワーメントもある。それは、サイレント・プアの問題を個人の抱える私的な問題ではなく、公共の問題として社会に認知させ、その結果、政治による取り組みが積極的に行われるようになることを目標にする。このためには、貧困や社会的孤立状態にある当事者が自分たちの苦境を社会が共有すべき公共の問題として見なし、それを広く世論に訴えかけ、政治の領域――議会や行政――へ送り届けるべく行動するようエンパワーされなければならない。こうした、CSWとは異なるエンパワーメントの取り組みこそ、サイレント・プア問題の解決に向けてさらに前進するために必要となる一歩だと考えられる。

 

 

もう一つのエンパワーメントともう一つの民主主義

今指摘した二つのエンパワーメントについては、それぞれがどのような力を付与するのかという点に着目することで、その違いがより明確になるだろう。前者のCSWにおけるエンパワーメントが付与しようとする力は、ここでは、経済資本に加え、何よりも社会関係資本であることを指摘してきた。これに対して、後者のエンパワーメントが付与しようとする力は何か。それは、個人を政治的な主体へと変容させるような力である。政治的な主体とは、ごく単純化して言えば、日々の生活で経験される苦難や不正を社会・経済上の構造から生じる公共的な問題として捉えることができ、さらに、民主的な政治によるそれらの解決を求めて連帯し行動する意欲や能力を持った主体――こうした主体は、しばしば市民と呼ばれる――のことである。

 

この力を、ブルデューが論じた三つの資本にもう一つの資本を加える形で、「民主主義的資本」と呼ぼうと思う。この民主主義的資本とは、人が政治的主体として考え行動するために必要となる意欲である。さらに、この意欲に加えて、政治的に考え行動するには、有益な情報を収集したり、他の仲間と議論したり協働したりする能力やテクニックが必要だ。民主主義的資本にはこうした能力やテクニックも含まれる。

 

分かりやすい例で考えてみよう。非正規雇用の増大に反対するデモがあったとする。それに参加するには、まず民主政治におけるデモの意義についての理解が不可欠だ。また、それが行われる場所や日時、それを主催する団体などの情報も必要だろう。さらに、たとえ情報を得たとしても、参加するには時間やお金がかかる場合もあり、それなりの意欲が必要だ。もしかしたら、友人を誘う場合もあるだろう。その際には、デモに参加する意味や効果について、その友人と議論し説得することが必要になるかもしれない。この例から、デモに参加するだけでも、どれほど民主主義的な資本が必要となるかが分かる。さらに、どうして多くの人びとがデモなどの政治活動に参加しないのかについても、この例から説明できるだろう。絵画を鑑賞することを好み、楽しむことができるには、ある程度の文化資本が必要だが、これと同じように、民主社会における政治参加には、民主主義的資本が不可欠なのである。

 

要するに、社会関係資本を付与しようとするエンパワーメントが社会関係に足場を持った自立した一員を作り出そうとする試みだとすれば、民主主義的資本を付与しようとするエンパワーメントは、民主政治の担い手として思考し行動する市民を作り出そうとする試みだと言えるだろう(後者のエンパワーメントの代表的なケースが、フェミニストの草の根運動で行われた意識変革、すなわち、コンシャスネス・レイジングである)

 

サイレント・プアの問題を公共の問題としてとして世論に訴えたり、不安定な雇用の改善や福祉予算の増大などより包括的な対策を政府や自治体に対して求めたりすることを目的にしたエンパワーメントは、少なくともCSWの主要な役割ではない。そうだとすれば、このタイプのエンパワーメントを誰が行うのか。それは、主として、CSWと協働しているであろうNPOなどの様々な団体であり、マスメディアなどの組織であり、この問題に関心を持つ普通の市民である。サイレント・プアの問題の解決には、現場でのCSWによる個別の取り組みと並行して、不安定な雇用の改善や福祉施設の整備など政治による取り組みが必要だ。そうだとすれば、政治の取り組みを促すためのアドヴォカシーや世論形成も重要になる。それだから、当事者を民主的な政治の主体へと力づけるエンパワーメントがまず求められるのである。

 

こうしたエンパワーメントは、日常生活の中の民主主義だと考えることができるように思われる。なぜなら、それは、エンパワーされる人たち、エンパワーしようとする人たち、さらにそうした活動を遠くから関心をもって見つめ可能な関与を模索する人たちが、社会に蔓延する悲惨や不正を自分たちの問題と見なし、政治的に解決しようとする市民参加の取り組みだからである。この日常の生活の中の民主主義は、選挙で投票し、後は政治家にお任せというような、現在の代表制民主主義の実情とは異なる参加民主主義のあり方を示唆している。そして、このタイプの民主主義における取り組みから、民主的な政治の担い手が生まれてくるのである。

 

さて、投票率の落ち込み、政治的関心や知識の低下、無党派層の増大などに示される代表制民主主義の機能不全が指摘されるようになって久しい。こうした現状に対して、町おこしなどの近隣地域への参加による自治活動が民主主義を立て直す試みだと評価する議論が見受けられる。これは、先に言及した、パットナムの社会関係資本論を下敷きにした議論である。それは、地域社会のネットワークを再構築し、その住人たちの間に信頼と協働の習慣を取り戻そうとするエンパワーメントだとも言える。もちろん、町おこしやそこでのエンパワーメントが悪いわけではまったくない。しかし、それが、易々と民主政治の活性化に繋がると言うならあまりに楽観的だ。

 

 今回の議論で示した通り、民主政治の活性化のためには、社会関係資本だけでなく、民主主義的資本が獲得され、蓄積されるよう働きかけるエンパワーメントが求められる。より正確に言えば、社会関係資本を民主主議的資本へと転化させるような働きかけが必要である。こうした働きかけが社会の自治的な活動に見出される場合にこそ、選挙とは異なる日常生活の中の民主主義の可能性――民主的な政治の担い手を生み出す可能性でもある――を期待できるのではないだろうか。

サイレント・プアともう一つの民主主義(1) サイレント・プアとは何か?

サイレント・プアが提起する民主主義の問題

NHKの「サイレント・プア」というドラマがなかなか面白いという噂を耳にしたので、これまでに放映された第1話から第3話を観てみた。弟の死の責任を背負い苦悩している若き女性が、社会福祉協議会のコミュニティ・ソーシャル・ワーカー(CSW)として、近隣地域から孤立し様々な問題を抱えた人びと――例えば、ごみ屋敷に暮らす女性、引きこもりの青年、ホームレスの老人――に寄り添い、多くの障害を乗り越えて支援を行う、というのがこのドラマのプロットである。

 

1話でも観れば分かることだが、このドラマは、フィクションとはいえ、制作側のしっかりとした取材にもとづいているようで、その分、見応えがある。また、制度的には機能不全に陥りつつあるとも言われる日本の社会福祉行政を現場で地道に支えている人たちに光を当てている点、さらに、現代の日本社会における社会問題の悲劇的な実情を正面から描いている点で、一見に値するドラマだと言えるであろう。この後者の点とは、もちろん、ドラマのタイトルにあるサイレント・プア、すなわち、「見えない貧しさ」である。それは、職を失うこと、病を患うこと、老人になることが経済的な貧困を招くだけでなく、社会からの孤立という貧困とは異なる貧しさを招く可能性が高く、その結果、誰の目にも止まらず必要な支援が届かなくなるという事態だ。

 

もちろん、俳優がどうとか、あるいは、テーマの重さに比べて描かれ方が軽いのではとか、実際の現場もそうだとか、あるいはそうではないとか、このドラマに対する様々な意見があるのだろう。この投稿では、そうしたドラマ自体の内容についてではなく、サイレント・プアという問題に焦点を絞って、この問題と民主主義の関係について考えてみたいと思う。結論を先回りして言えば、サイレント・プアをめぐる取り組み、そしてその中で行われるエンパワーメントという実践が、民主主義を選挙‐代表制として理解するだけではけっして見えてこない、民主主義のもう一つの側面について示唆を与えてくれる、ということである。

 

サイレント・プアの原因と、的外れな自己責任論

サイレント・プアという言葉が、近ごろ、人口に膾炙するようになったそもそものきっかけは、NHKの朝の情報番組で昨年の11月に放映された女性の貧困に関する特集にあるようだ。その特集では、経済的な困窮が社会的な孤立へと直結する現代の女性の実情が、この言葉をとおして描かれている。

 

少々古いデータではあるが、ひとり暮らしの女性(勤労世代)32%、母子世帯の57%が貧困状態にあるとされる(http://www.asahi.com/special/08016/TKY201112080764.html)。この事態は次のように説明できるであろう。非正規雇用の広がりという雇用環境を背景に、未だに女性に厳しい労働市場で、とりわけ、家事と育児に追われる母親が安定した仕事を見つけることはきわめて難しい。通常、労働によってしか生活を維持するための経済的資源を得られないのが資本主義社会の掟である。資産がない限り、たとえどのような理由であろうと労働することができなければ所得は得られず、したがって、生活を維持することはできない(もちろん、このため、日本では所得補償としての社会保障制度が完備されている)。こうして、先のデータに示されたきわめて多くの女性が貧困状態に陥ることになる。さらに、たとえ、女性が短期的な契約社員やパートタイム労働に従事していたとしても、それでは十分な所得を得られないのが実情であり、社会関係を維持するための交際費をねん出する経済的余裕がないために、また、育児や家事を一手に担う母親に至っては多忙のために、社会から孤立することになる。

 

社会からの孤立、すなわち、社会関係からの切断が、多くの場合、女性をたんなる経済的貧困以上の厳しい状況に追い込むことは、日常の経験を参照するだけで容易に想像できる。なぜなら、社会関係は、労働の対価として賃金を得るという経済的関係によっては供給されない、物質的な支え――例えば、「お裾分け」――や、精神的な支え――例えば、困りごとの相談、苦難の共有――、さらに、社会関係の内部に流通する有益な情報――例えば、近所の働き口や、公的な支援の受け方――を提供してくれるからである。したがって、社会関係からの切断は、完全な独力によってだれにも頼らず生活を維持せざるを得ない状態へと女性を追いやることになる。そして、重要なことは、この社会関係からの切断が、貧困に苦しむ女性の存在を社会の眼差しから遠ざけ、不可視の状態へと追いやってしまうことである。こうして、サイレント・プアという現象が生まれる。

 

もちろん、見えない貧困に陥るのは何も女性だけではない。男性も、そうなる可能性は十分にある。それは、サイレント・プアが、現在の社会‐経済のあり方に起因する、構造的な現象だからである。そのあり方は、生活を保障するにはあまりに不十分な労働条件、家族や近隣地域をはじめとする社会的な結び付きの綻びとして理解できるであろう。これがグロバーリゼイションの圧力の下で進められた新自由主義的な政策の帰結であることは周知のとおりである。

 

ところで、貧困問題や生活保護の問題がマス・メディアで取り上げられるようになると、必ず出くるありきたりで的外れな批判がある。それは、ゼロ年代に一世を風靡した「自己責任論」である。少なくともネット上での言説には、未だにこの言葉が散見されるし、サイレント・プアの問題に対しても例外ではないようだ。この言説においては、経済的な貧困も社会的な孤立も、当然のことながら、当事者の自己責任だということになる。

 

貧困などの社会問題を自己責任論で片づけようとする議論が、どれほど的外れかを今さら議論する必要はないであろう。未だにそうした議論を弄する人がいるとすれば、それは社会学の初歩的な知識がまったくない無知な人か――無知を責めても仕方ないので、そうした人には学んでもらうしかない――、自らのルサンチマンを弱者へのサディスティックな攻撃によって紛らわせようとする倒錯した性癖を内在化させた人か――いわゆる「逆向きのルサンチマン」であり、よくあるケースと思われる――、このような言説を流布することによって実利を得るような立場にある人――例えば、新自由主義的な政策を推し進める政治家や企業家――かのいずれかであろう。それはともかく、自己責任論が根強くあることを考えても、サイレント・プアの問題、そして特に社会的孤立の問題をいわゆる「社会関係資本」(ソーシャル・キャピタル)という社会学の概念から、理論的に検討してみることが有益かもしれない。とはいえ、この概念を導入するそもそもの狙いは、ドラマにおけるCSWの取り組みを出発点に代表制とは異なる民主主義のあり方について考えることにある。

 

社会関係資本とは何か

社会関係資本は、一般に、次のように説明できる。それは、人びとが暮らす近隣地域や人びとが結成するスポーツクラブ、ヴォランティア組織などの様々な団体において醸成される信頼やネットワーク、協働の習慣を意味し、この信頼や習慣が民主的な社会や政治がうまく機能するための土台となる、というものだ。

 

こうした説明は、ロバート・パットナムというアメリカの政治学者の議論をとおして普及した。しかし、以下の議論では、パットナムよりも以前に社会関係資本について論じたピエール・ブルデューというフランスの社会学者の説明に依拠しながら、社会関係資本サイレント・プアの関係について見てみる。

 

ブルデューによる社会関係資本の議論(1986)の特徴は、家族やそれ以外の集団内部の社会関係について、それが持つ資本(キャピタル)としての側面を強調する点にある。彼によれば、社会関係資本、すなわち、社会関係が醸成するネットワークや信頼は、資本の派生物の一つである。その他の派生物は二つあり、一つは、多くの人たちが即座に思い浮かべる経済的な形態での資本であり、もう一つは彼が『再生産』というテキストなどで詳細な研究を行った文化的な形態での資本である。

 

そもそも資本そのものは、マルクス主義的に言えば、蓄積された労働であるが、それは、自立した社会生活を送る際に必要なエネルギーや能力、資源を人びとに提供する。その特徴は、資本が多様な形態を取るという点にある。貨幣や所有権という形態をとる場合、それは経済資本であり、学歴や資格、文化的素養などの形態をとる場合、文化資本と呼ばれる。社会関係資本は、資本が人びとの間のネットワーク、そこにおける信用という形態をとる場合である。したがって、資本は分節化された形態で分析可能であるが、同時に相互に関連もしている。例えば、文化的な資本を獲得し蓄積するには、経済的な資本の投下は不可欠である。これは、高学歴の学生が経済的に豊かな家庭の出身であることから、容易に理解できる。

 

さて、社会関係とそこにおけるネットワークや信用を社会関係資本として、より正確には、資本の一形態として理解することの利点は、それらが、あらかじめ人びとに付与されているものではないということを改めて確認させてくれることにある。こうした理解によれば、上述の3つの資本は、一般に、家族における相続や投資をとおして付与され、持続的で慎重な管理をとおして蓄積され、活用され、あるいは喪失される。投資には元手が必要であり、蓄積には時間がかかる。ここから、自己責任論の裏側にある「他者に依存せず自立せよ」という命令を発しても、教育的な叱咤激励でない限り、むなしく響くだけで終わってしまうことが分かる。なぜなら、自立するには、資本が必要であるからであり、しかも、資本は偶然的かつ選別的に配分されるがゆえに、誰もが所有しているものではないからである。資本を欠いた人に、遠くから「自己責任だ」とか「自立せよ」と叫んだところで、その人が自立できるわけではない。だから、自己責任論を唱えてもそれほど意味がないのは分かり切ったことである。

 

それでは、この社会関係資本論からすると、サイレント・プアの問題やその取り組みはどう説明されるのだろうか。そして、サイレント・プアの問題への取り組みから見えてくる、民主主義のもう一つの側面とは何なのか。これらの点については、少々長くなったので、次の投稿で論じることにする。

マイルドヤンキーと民主主義――孤独なコミュニティの不安――

《マイルドヤンキーという新保守層》

近頃、マイルドヤンキーという言葉をよく目にする。この言葉は、マイルド、すなわち、尖った部分がそぎ落とされてやさしくなったヤンキーを意味するらしい。ヤンキーといえば、反社会的な行動を取り、ときに恐喝や万引き、あるいは暴走行為といった軽犯罪を犯すような、いわゆる不良というイメージが思い浮かぶ。しかし、そうしたイメージに対して、いま話題になっているヤンキーは自己顕示欲も低く、社会への反抗心も特にない若者であるらしく、それを聞いて少々驚いてしまう。そうした若者が、そもそもヤンキーと呼べるのか、ただ喫煙率や飲酒率が高かったり、EXILE風の格好を真似たりしているだけではないのか、と突っ込みを入れたくなるところだが、それについては後から触れることにしよう。ともかく、このマイルドヤンキーと名指された若者が、注目らしいのである。そして注目すべき理由は、なんと、マイルドヤンキーの消費が今後の日本社会を支えるというものだから、さらに驚いてしまうわけだ。 

 

マイルドヤンキーについてもう少し詳しく見てみよう。原田曜平『ヤンキー経済』によれば、1970年代に社会問題化した校内暴力に端を発するヤンキーの系譜の中で、マイルドヤンキーは2000年代の後半に登場する。この若者たちは、2つのカテゴリーに部類される。1つが見た目は昔のヤンキーのままの「残存ヤンキー」で、もう1つが見た目はまったく普通だが、ヤンキー的なメンタリティーをもつ「地元族」。この2つに共通するマイルドヤンキーの特徴は「上『京』志向がなく、地元で強固な人間関係と生活基盤を構築し、地元から出たがらない若者たち」(前掲書、25)と定義できるそうだ。大学進学や就職しても地元から離れることなく、またその地元での人間関係の維持を最優先にする閉鎖的なメンタリティ―や生活様式から、これらの若者は「新保守層」とも呼ばれる。酒もタバコやらず、クルマにも興味がなく、交際費さえ節約する他の同世代の若者と比べて、このマイルドヤンキーは、この濃厚な地縁を維持するために、気前よく消費する傾向にあるらしい。だから、彼ら彼女らは今後の消費の主役として脚光を浴び始めているわけだ。

 

マイルドヤンキーという言葉がマスコミやネットをとおしてにわかに耳目を集めはじめれば、当然さまざまな反応が出てくる。「マイルドヤンキーなんて階層は昔から存在していた」という指摘がその一例だ。それによれば、この言葉を喜んで使っている人たちには、この階層の人たちが身近にいなかったから、その存在に気付かなかったのではないか。ところが、現在の日本では、いっそう深刻化している社会・経済的な格差が、SNSなどの普及も手伝って、見える形で誰の目にも明らかになった。それがマイルドヤンキーと名付けられた若者たちなのだ(慎泰俊「「マイルドヤンキー」という言葉があぶり出した日本の階層」『日経ビジネスONLINE』)。

 

この指摘には一理あるように思われる。確かに、やさしいヤンキーなどは地方では昔から当たり前に存在したし、現在と同じ形ではないにせよ、地縁を何より大切に思いそこで生活の基盤を築いた若者たちも変わらずいたはずである。こうした批判が出てくるのには、おそらくいくつもの理由があるだろう。

 

マイルドヤンキーなる言葉が、企業向けプレゼンのキャッチコピーの類として使われていて、その言葉の示す階層あるいは集団が統計などの実証的なデータで裏付けされていない、というのもその理由の1つかもしれない。実際、この『ヤンキー経済」を読んでも、マイルドヤンキーなる若者が現代の日本社会に一体どれくらい存在するのか見当がつかないし、それゆえ、本当にこの若者たちが日本の消費を支えるのか判断することもできない。極論すれば、マイルドヤンキーについては、「昔から存在した集団だ」とも、「現代社会の理解する上での鍵となる階層だ」とも、何とでも言えてしまうわけだ。

 

とはいえ、例えば、19世紀の「性的倒錯者」がそうであったように、日常の世界の見慣れた現実は、まず名付けられることで、とりとめのない世界から切断され実在性が付与される、ということもある。そこから始まって、そうした現実は関心を払うべき認識の対象として発見され、科学的考察や社会的な管理・操作の対象として問題化されるようになるわけだ。

 

そうだとしたら、マイルドヤンキーという言葉も、たんなるキャッチコピーで終わってしまうとは言い切れないはずだ。それに、これが、社会科学的意味でどれほど不確かであっても、少なからぬ人たちの興味をかきたてる現象にアプローチしていることは間違いない。そうでなければ、この言葉をめぐって議論が生じるはずがない。

 

そこで、以下では、マイルドヤンキーという言葉が焦点を当てた「新保守層」と呼ばれる若者たちについて、マーケティングの視点ではなく、民主主義の視点から考えてみたいと思う。それは、不安定な社会に生きる若者たちの「孤独なコミュニティ」が、日本の民主主義の不安な先行きを想像させるからである。

 

 《コミュニティと民主主義》

これまでの投稿では、選挙を中心にした代表制度に期待をかけるだけが、民主的な政治のあり方ではないことを繰り返し指摘してきた。しかし、そんな分かり切ったことをなぜ繰り返すのか。それは、現在の代表制にもとづいた政治では、現在の私たちの社会が抱えている様々な問題を正統な形で――したがって、十分民主的なやり方で――解決できなくなってきており、このために社会の統合を今後維持することが困難になるのではないか、こうした不安を覚えている人が日本の社会にも少なくないように思われたからだ。

 

これは何も、日本に限ったことではない。つまり代表制度そのものの問題なのだ。19世紀から20世紀にかけて構築されてきた代表制度は、同時代の社会のあり方に条件付けられていた。このことを考えれば、その当時の社会のあり方から大きく変容した現代において、代表制度が上手く機能しなくなることなど、ある意味で当然のことなのだ。

 

実際、民主主義の研究者たちの報告によれば、日本以外の他の民主国家の多くでも代表制度への不満や不信が噴出する一方で――スペインのインディグナドスやウォール街でのオキュパイ運動などはよく知られた例であろう――、代表制度を補完するような民主政治の取組みの模索や、その制度化も地道に続けられている。その一例が、ミニ・パブリックスや参加型予算、直接立法などであって、市民が直接参加し、熟議を行う民主的な政治制度である。

 

ところで、代表制度を越えて民主主義を活性化しようとする取り組みの拠点としてフォーカスされてきたのがコミュニティであった。このコミュニティとは、基本的には、近隣居住地域という物理的な空間を意味する(「基本的には」というのは、その言葉は、例えばゲイやレズビアンの団体や環境保護団体あるいは宗教的な組織、極右団体など、共通の情緒や価値観あるいは問題意識を持った人たちの繋がりから形成された集団や組織も意味するからである)。日本においても特に近年、行き詰まりつつある民主政治を再興させる可能性とそのための手掛かりがこのコミュニティ、そしてそこでの市民の自治的な活動にあるのではないかという期待が寄せられているのである。

 

例えば、コミュニティ・デザインやコミュニティ・オーガナイジングと言葉を耳にしたと人も少なくないだろう。過疎と高齢化によって疲弊したコミュニティを復興させようとするこうした取り組みは、たんなる若者を呼び戻したり、観光客を呼び込んだり、あるいは、新しい産業を興したりするような、いわゆる「町おこし」以上の意味を与えられるようになっている。それは、コミュニティに暮らす人たちが繋がり再建し、協働することで、身近な自分たちの生活を自分たちで決定することを目指した市民の自治の取り組みである。

 

あるいは、2011.3.11以降の反原発運動をとおして、自然環境、科学と自然との関係性、ライフスタイルなどに関して、共通の価値観を持った人たちが繋がることでさまざまなコミュニティが形成された。そうしたコミュニティでも、自分たちにとって望ましい社会のあり方を議論し、身近なところから生活の質をあり方を変えていこうとする、これまた市民の自治的な取り組みが数多く出てきている。

 

市民による自治こそ、民主主義の礎だと考える人たちがいる。なぜなら、自治の取り組みをとおして人は、自分のことだけでなく、仲間の市民への配慮と共同(公共)のものへの関心を育み、仲間の市民たちと共に決定したり行動する能力を身に着けたりすることができるからである。つまり、自治は民主的な政治には絶対不可欠な、市民の態度と能力を陶冶するからである。そう考える人たちからすれば、コミュニティにおける民主的な取り組みは、エリートたちに支配された代表制度の土台として、民主政治を活性化するためにどうしても必要なものなのである。

 

民主主義の学校としてのコミュニティ。こうした考えは、19世紀以来、ことあるごとに繰り返されてきた。しかし、20世紀の後半以降、それはいつになく強調されるようになっている。そのように強調されるのには、それなりの理由がある。すなわち、現代社会に固有な理由があるのだ。その理由については論旨がずれるので別の投稿で詳細に論じようと思う。ただ、ここで、それを大雑把に述べるとすれば、以下のようになる。

 

新自由主義とグローバリゼーションが既存の社会・経済制度――これは福祉国家と呼ばれてきた――を破壊していく中で、その制度をとおして作り上げられた《社会的な結び付き》から人びとは切り離され孤立していった。それに伴い、以前はその結び付きの中で獲得されてきた、民主政治に必要な知識や態度そして能力も失われ始めた。これがその理由だ。

 

だからこそ、現在の民主政治を立て直すには、コミュニティとそこで育まれる価値観や信頼関係を守り、必要があれば、再構築せねばならない。もちろん、これは、コミュニタリアニズムソーシャル・キャピタル論に肩入れした少々保守的なメンタリティーを持つ人たちが、20世紀の終わり以来主張したことに他ならない。いずれにせよ、そうした人たちからすれば、現代の民主主義にとって、コミュニティが少なからぬ期待の場であることに間違いはない。

 

そうだとすると、マイルドヤンキーとして()発見された若者たちの存在は、この期待に反して、一抹の不安を民主主義に差し込むことになるのではないだろうか。なぜなら、この若者たちはきわめて親密な人間関係からなるコミュニティを作り上げているが、彼ら彼女らのコミュニティは、仲間内だけに閉じられ、自分たちが働いたり学んだりする世界、つまり現実の世界から孤立したコミュニティのように見えるからだ。マイルドヤンキーたちのこの「孤独なコミュニティ」は、不確実で不安定な現実の世界から切り離されているからこそ、その若者たちにとって、取り代えのきかない場となっているのであろう。

 

しかし、現実の世界から孤立したコミュニティにおいて、民主政治の土台となるような取り組みが生まれてくると想像するのはなかなか困難だ。ましてや、そのコミュニティがどうにも生き難い現実の世界をそこから変えていこうとする取り組みの出発点となるだろうと想像することはますます難しい。むしろ、その閉鎖性や孤立性がそうした取り組みを阻害する要因になるのではないかという危惧さえ感じられる。

 

もちろん、そもそもマイルドヤンキーがどれほど現代の日本に存在するかは定かではないし、この若者たちが年を重ねる中で、いつまでも現在のコミュニティを維持し続けるかどうかも分からない。したがって、あくまでも仮定の話だ。しかし、たとえそうだとしても、マイルドヤンキーたちのコミュニティの存在は、先に述べたコミュニティ待望論を再考するきっかけを与えてくれているように思われる。


  《孤独なコミュニティと民主主義の不安》

生活を保障してくれない雇用と、いつ破綻するか分からない社会保障。そんな中、不安定な現在を生きざるをえず、不確実な未来しか描けない人たちを支配するのは、もちろん、不安である。不安に怯える自分を慰めるのに必要なのは、安定的で確実なものだ。例えば、寛ぎや安心といった情緒を変わらず抱き続けることのできる仲間との関係、あるいは、信念や価値観を強固に共有した仲間との関係。不安定で不確実な現在の世界を何とか生き抜くのに、そうした関係を求める人は多いはずだ。だとすれば、こうした関係を基盤にしたコミュニティが、増大することを予測できる。もちろん、それは、SNSの普及もあるが、何よりも、現代が不安な時代だからだろう。

 

不安な時代の「孤独なコミュニティ」。これはただ増大するだけでなく、おそらく私たちの社会にとって問題を孕んだものになるかもしない。例えば、マイルドヤンキーのコミュニティとは異なると思われるかも知れないが、以前の投稿で言及したネット右翼のコミュニティもこの不安な時代と無関係であるまい。

 

現代のコミュニティが不安定で不確実な時代の産物であるからこそ、ますます、それぞれのコミュニティはその結び付きを強めねばない。また、それゆえ、コミュニティの外部に対して排他的あるいは閉鎖的にならざるをえない。こうして、現代のコミュニティが排他的ないし閉鎖的な傾向を持たざるをえないとすれば、どう考えても、それは民主政治の土台にはなりえないだろう。ネット右翼の存在を考えると、民主政治の土台をむしろ切り崩す可能性さえあると言える。

 

もちろん、積極的に民主的な取組みをしているコミュニティも多く存在する。しかし、排他的で閉鎖的な性格を持つ「孤独なコミュニティ」もますます増えていく可能性もある。そうだとすれば、民主主義の希望となるようなコミュニティの可能性を模索していく一方で、民主主義の不安となるような、「孤独なコミュニティ」の動向を注視する必要があるのではないだろうか。