民主主義とその周辺

研究者による民主主義についてのエッセー

シャルリ―・エブド社銃撃事件と、自由(liberté)、平等(égalité)、博愛(fraternité)――“Je suis Charlie”への違和感から考える民主主義の危機――

“Je suis Charlie”への違和感

イスラム原理主義者による、フランスの出版社シャルリ―・エブド銃撃事件の戦慄が冷めやらぬ先の日曜日(1月11日)、このテロリズムに抗議するデモがフランス全土で行われた。報道によれば、その数は、370万人にも及び、デモ大国フランスの歴史の上でも、最大規模であったようだ。

 

さて、一昨日のデモに先立ち、SNSを中心にして言論の自由を擁護する動きが、世界中で活発化した。その際のスローガンが、“Je suis Charlie”(私はシャルリ―)である。この言葉をtwitterFacebookにポストすることで、今回のテロを非難し、表現の自由を支持する意思表示をするわけだ。

 

このスローガンを目にして違和感を覚えた人は少なからずいるようだ。フランスに詳しい人ならば、そこにフランス特有のナショナリズムや文化帝国主義の臭いを嗅ぎ分ける人もいるかもしれない。しかし、特にフランスの歴史を精通しているわけではないものの、今回のテロリズムを断固拒否し、かつ表現の自由を支持している人がこのスローガンに違和感を覚えるとすれば、その理由は簡単である。すなわち、「私はシャルリ―」だというスローガンは、この事件の何かを曖昧してしまう、あるいは、このスローガンを掲げることで、この事件が提起している何かを見逃してしまう、そんな気がするからだ。

 

表現の自由はフランスを含め、私たちの民主的な社会を構成する基本的な権利である。これは当たり前の話だ。しかし、これもまた当たり前の話だが、表現の自由は現代の民主主義の諸価値のうちの一つを体現する権利だということである。ここから、次のような考えが頭に浮かぶ。確かに、今回のテロによって直接、攻撃されたものは表現の自由に他ならない。だから、まず今、表現の自由の支持を断固表明することは当然だ。しかし、それ以外の民主主義の価値もこのテロによって危機に晒されつつあるのではないか、と。こう考えると、“Je suis Charlie”というスローガンを掲げることで曖昧になる何かが見えてくる。その何かとは、表現の自由によって体現される価値以外の民主主義の価値である。

 

民主主義の価値としての表現の自由

そうした民主主義の価値が何であるかを知るには、ここで、フランス共和国の標語、「自由、平等、博愛」を参照するのが適切であるかもしれない。

 

共和国フランスを打ち立てた革命家ロベスピエールが用い、19世紀から20世紀にかけてフランスのみならず世界に広く知れ渡ったこの標語は、民主社会が根差す価値を表していると見なせるだろう。言い換えれば、これらの価値にもとづいた社会、すなわち、「相互の友愛によって連帯した平等な者たちからなる自由な社会」こそ、民主主義の理想とする社会だといえるであろう。

 

「自由、平等、博愛」という民主主義の根本価値に照らすなら、表現の自由は、自由という価値を体現している。これは言うまでもない。したがって、表現の自由の支持を意図した“Je suis Charlie”というスローガンを掲げることで見えなくなる民主主義の価値とは、平等であり、博愛ということなる。そうだとすれば、先に指摘したとおり、今回のテロによって危機に晒されつつある平等や博愛とは具体的に何のか。翻って言えば、現代社会において擁護されるべき自由、平等、博愛とは具体的に何を意味するのか。

 

現代の民主社会における自由、平等、博愛

現代社会の特徴は、その規模と複雑さとにある。そのような大規模で複雑化した現在の社会は、19世紀のように、持てる者と持たざる者とに二極化した社会であるだけでなく、人種や宗教、セクシャリティ、価値観やライフスタイルなど、アイデンティティにおいて多元化した社会、したがって、多様なマイノリティからなる社会だといえる。こうした社会における民主的な価値としての自由は、特異であること――他と異なってあること――の自由として理解することができる。そして、表現の自由には、そうした特異性を表明する機会を確保することで、社会の多元性を維持することを可能にする機能がある。だから表現の自由現代社会において極めて大きな重要性が付与されているのである。

 

現代の自由が特異であることの自由であるとすれば、現代の民主的な社会における平等とは、特異であること、他と異なってあることへの承認と尊重における平等として理解される必要がある。もちろん、現代においても、法の下の抽象的平等や所得などにおけるある程度の実質的平等も民主主義の不可欠な価値である。しかし、多様なマイノリティから構成される現代社会の実情に鑑みれば、特異であることへの承認と尊重における平等は、よりいっそう重要な価値であるといえる。というのも、この平等がなければ、アイデンティティにおいて特異であることの自由を許容する多元的な社会の内部に共同性を作り出すことは困難だと考えられるからだ。そして、この共同性が自由の力によって分解してしまう危険を孕んだ社会の内部に、異なる人びとを結びつける凝縮力を生み出す。この凝縮力、あるいは異なる人びとの間の相互性が現代の連帯の精神、すなわち、博愛だといえるであろう。

 

重要なことは、このように理解された民主主義の根本価値は、相互に深く結びついているということだ。それゆえ、これらの価値の一つでも欠いてしまえば、民主的な社会は、その存立が危機に直結するような脆弱さを孕むことになるのである。

 

テロが引き起した民主主義の危機

現代の民主的な社会の基本的な価値をこのように理解するなら、今回のテロによって危機に晒されようとしているのが、表現の自由だけでないことは明らかである。確かに、直接攻撃を受けたのは、表現の自由である。しかし、この攻撃は、相異なる宗教や文化、人種の間での相互の承認と尊重を拒否する態度をフランス社会に蔓延させる可能性がある。すなわち、平等という価値の拒否である。そのとき、社会の凝縮力としての博愛や異なる人びとの間の相互性は失われ、民主的な社会としてのフランスは、深刻な危機に直面することが予測できるのである。

 

この予測は、突拍子もない的外れなものだろうか。机上の空論だろうか。そうであるかないかは、イスラム教徒の差別や排斥を目指した活動が今後活発化するかどうか、移民排斥を掲げる極右政党の支持が急速に拡大するかどうかを見ることで判断できるであろう。はたして、このような困難な状況においても、「相互の友愛によって連帯した平等な者たちからなる自由な社会」という、フランスの普遍的な理想をフランスの人びとは守ろうとするのだろか。これこそ、テロによって危機にある民主社会に問われている本当の問題なのだ。

 

残念なことに、今回のテロ以前のフランス、そしてヨーロッパ社会に移民排斥運動が浸透している事態を目にしている以上、いま楽観的でいられる人はほとんどいないように思われる。それはともかく、“Je suis Charlie”というスローガンでは、フランス社会の直面しつつある危機を十分に表現しえていないという点だけは確かなように思われる。

奇妙な選挙と民主主義の蹉跌(後編)――選挙だけが「民意」を表明する機会ではない――

予期された結果

第47回衆議院の総選挙は、52%という戦後最低の投票率の下で、総議席数の3分の2以上を獲得した自民党公明党連立政権の圧勝という結果に終わった。この結果は、今回の選挙への有権者の関心の低さを含め、事前の予想通りであり、何らの驚きも、悲嘆も喚起するものではなかった。次世代の党の議席数の激減と、日本共産党の躍進以外は、結局、選挙前の勢力図とほとんど変わっていなことからもそう言える。要するに、安倍首相は、今回の選挙の本当の目的、すなわち、行政府内の消費税引き上げを主張する勢力を黙らせることで、自らの権力基盤の強化を成し遂げたわけだ。では、なぜ、こうした結果になったのか。

 

投票率の低さに関しては、その理由は二つ考えられるであろう。一つは、今回の選挙には参加するに値するほどの争点がなかったということである。前編で指摘したように、アベノミクスの継続を争点にされても、その成功も失敗もはっきりしない状況では判断しかねるというのが多くの有権者の本音であろう。自・公優勢という事前の世論調査を耳にしつつ、「まだ成功の可能性もあるわけだから、結果が出るまでやってみて下さい」と考えるのは理に適っているわけで、そうした有権者の中には、わざわざ休日の寒さをおして、投票所まで足運ぶ気にならなかった人も少なくないはずだ。もう一つの理由は、これも前編で指摘したとおり、衆院選は各政党のマニフェストを参照しながら次の政府とそのリーダーを選出する政権選択選挙であるのに、今回の選挙では安倍首相の経済政策の継続を是とするか非とするかという争点の下で、いわば国民投票型の選挙が行われたことにある。この結果、非という意思を表明するには、自公以外の野党に投票せねばならないが、その野党のいずれにも魅力を感じなかったため、少なからぬ有権者が困惑することになった。最後まで、投票先を決められなかった有権者は、白票を投じるか、そもそも投票所へ足を運ばないという選択をしたに違いない。これらの二つの理由から、投票率の低さを説明することができるであろう。

 

今回の選挙に対する有権者の関心の低さを考えれば、自公の連立政権が圧勝した理由もある程度、推測できる。それは、野党およびマスコミが、原発の再稼働問題や、集団的自衛権憲法解釈変更による行使容認問題、そして特定秘密保護法の施行といった、未だに世論を二分する第二次安倍政権の政策の争点化に失敗したということである。あるいは、こう言ってもよいだろう。有権者にとって、これらの問題は、主要な争点とはならず、結局、アベノミクスの継続と消費税の増税延期(景気条項の削除)が投票行動を左右する唯一の争点であったということである。わざわざ投票所へ足を運んだ有権者たちの多くがこの争点をめぐって票を投じたとすれば――先に指摘したアベノミクスへの有権者の常識的な判断に鑑みれば――、その票が自民党あるいは公明党へ流れたことは、何らの不思議もない。

 

今後の安倍政治

安倍首相は今回の選挙の結果を受けて、自らの政権そして政策全体への信認を得たことになる。どれほど投票率が低く、与党の絶対得票率(全有権者に占める得票数の割合)も3割にも満たず、また、今回の選挙結果がアベノミクス継続への是認に過ぎないにしても、安倍首相はそのように認識し、そのように振る舞うであろう。そして、今後、安倍首相はこの信任を盾にして、選挙で争点化された経済問題以外の課題、例えば、集団的自衛権の法制化を意のままに進めるべく精力を注ぐだろうし、現行憲法の改正ための準備にも着手するであろう。

 

安倍政権に反対している人はもちろん、今回、自民党に投票した人でさえ、それでは困る、あるいは、それでは話と違う、と思うかもしれない。安倍首相に好きなように何でもやってよいと白紙委任をしたわけではない、と。しかし、安倍首相に限らず、政府のリーダーが、次のように主張することは理論上、可能であるし、実際そう主張されることがしばしばある。すなわち、選挙結果そして選挙で得た議席数は「民意」の表れであり、この「民意」こそ政府の思想と行動を正統化する唯一の根拠であるから、「民意」による信任を得たリーダーがどのような政治を行おうと、法の許容する範囲内であれば、批判される筋合いはない。それこそ民主主義であって、その批判は次の選挙で表明すればいいではないのか、と。だとすれば、「民意」が選挙で示された以上、安倍政権の行き先に不安を感じる人たちは、次の衆院選挙までただ手をこまねいているしかないのだろうか。

 

選挙結果だけが「民意」を表しているわけではない

もちろん、選挙結果だけが「民意」ではないこと、したがって、「民意」は選挙以外でも表明できるということなど誰でも知っている。例えば、街頭でのデモによって、「民意」を表明することである。それは、憲法にも保障された主権者としての国民の権利でもある。

 

とはいえ、そんなことは頭でわかってはいるものの、自らの政治的な意思を表明する機会を投票箱に限定してしまい、街頭でそれを表明することへの明らかな躊躇が、私たちの社会には存在する。それには理由があるだろう。デモに対して作り上げられた否定的なイメージ、政治的な態度表明をすることが日常の生活に悪影響を及ぼすかもしれないリスクなどがすぐに脳裏に浮かぶ。しかし、もはやそうした社会的な雰囲気に安寧している場合ではないのかもしれない。有権者全体のたった3割ほどの得票率で議会の3分の2以上の議席を獲得させる小選挙区制のマジックが生み出した「民意」が振りかざされ、世論を二分するような政治争点を真摯な議論も誠実な説明もなく――これが安倍政治の特徴の一つであることは論を俟たない――、為政者の意のままに推し進めることが実際に可能となっている状況だからである。

 

「民意」とは何か

自らの政治的な意思を表明する機会を選挙に限定してしまうという社会的な傾向が未だに強いとすれば、私たちが古い民主主義のイメージにとりつかれているせいかもしれない。

 

そのイメージの中では、「民意(will of the people)」は、選挙結果に表れる多数派の意思(will of the majority)を意味する。しかし、「民意」が字義通り、国民(人民)全般の意思(general will)を意味するとすれば、多数者は決して国民それ自体ではないのであるから、多数者の意思は「民意」ではあるとは限らない。では、なぜ、「民意」は選挙結果に表れる多数派の意思と同一視されるのか。そもそも、どうして、社会の共通の意思とされる一般意思と多数派の意思は同一視されるようになったのか。それは、1789年の革命直後のフランスの政治を見てみればよく分かる。当時の共和国フランスの政治家たちは、ルソーによって提起された民主主義の理念――社会の共同の利益を目指す、社会の構成員に共通する意思、すなわち、一般意思にもとづく政治――を代表者からなる議会での多数決原理によって実現することを試みた。このとき、一般意思としての「民意」と議会の多数派の意思とを同一することが便宜上求められたわけだ。便宜上ということは、もちろん、一般意思としての「民意」が議会の多数派の意思とは必ずしも一致しないからである。

 

要するに、民主主義と議会制度を結びつける中で、「民意」は、社会の共通の意思の代替物として、議会おける多数者の意思と同一視されるようになったわけである。これはきわめて教科書的な説明であるが、ここで、注意すべき点は、当時の議会の多数派が、同時代の社会共通の意思を代表しうるという想定が可能だったということである。想定が可能であったのは、当時の人たちの間に、革命後の社会は同質的な人間から構成されているという虚構が成立していたからである。それゆえに、議会の多数派は、この同質性を反映することが可能だと考えられたのである。一般意思を議会における多数派の意思と同一視することを理論的に基礎づけたのは、シィエスであるが、周知のとおり、彼はこの同一視を可能にする条件、すなわち、社会の同質性を「第三身分とは何か――それはすべてである」という言葉で表明したのであった。

 

したがって、「民意」を議会における多数派の意思に見出す民主主義のイメージは、近代社会の始まりに生まれたかなり古いものであり、しかも、それは同質的な社会を前提としたものなのである。ところで、市民革命を経た近代社会の特徴は、同質的な社会から多元的な社会の移行にある。言い換えれば、私たちの社会は、同質の多数者によって構成される社会から、価値観や利害関心、そしてライフ・スタイルにおいて相異なる《多様な少数派》によって構成される社会へ変容してきたのである。このような変化を遂げた現代の社会において、「民意」=選挙の結果=議会の多数派という想定は、もはや、理論的にも経験的にも説得力を失いつつある。なぜなら、想定を可能にした社会の同質性(という虚構)――もちろん、時に階級、時にナショナリズム、時に社会的連帯と名指されてきたこの同質性自体が作為的なものである――は、グローバリズム新自由主義の最後の一撃によって、維持できなくなりつつあるからだ。

 

《多様な少数派》からなる社会の「民意」

だからといって、選挙がなくなるわけではないなし、選挙結果に「民意」を見出す民主主義の慣行がなくなるわけではない。それは、民主政治の根幹をなす制度として存続し続けるであろう。しかし、この制度や慣行の正統性は徐々に弱まりつつあることは間違いない。とすれば、《多様な少数派》からなる社会に相応しい「民意」の表明の仕方とは何か、ということが問題となる。つまり、選挙による多数派の意思=「民意」という古い民主主義のイメージでは捉えられない「民意」の表明の仕方である。

 

その典型的なやり方の一つが、先に言及した街頭でのデモなのだ。もちろん、デモのような直接行動は、なんら目新しいものではない。そして、民主政治におけるその役割はいくつもある。例えば、社会問題の政治的争点化など、社会から政治に向けて発せられる問題提起がそうだ。しかし、それだけではない。デモは、議会における多数派の意思としての「民意」に異議を申立て、その多数派の意思によって無視されたり、排除されたりする「民意」を表明することを可能にする。しかも、現代社会により適合的な形で「民意」を表明しうるのである。

 

現代の社会において、すなわち、《多様な少数派》からなる社会において、デモで表明される「民意」は《多様な少数派》のうちの一つ(ないし複数)の少数派の意思として表明される。この点に、デモが選挙とは異なり、現代社会により相応しい「民意」の表明の仕方である理由がある。この場合、重要なのは、この一少数派の意思が他の少数派によって共有されるかどうかであり、より多くに共有されればされるほど、その「民意」の正統性は高まることになる。それは、構築的な「民意」であって、選挙による多数派の意思を自動的に一般意思と見なす同質的な「民意」とは異なることはいうまでもない。

 

繰り返しになるが、民主的な社会において選挙で示される「民意」がなくなるわけではない。また、それが保持してきた政治的効力は、今後も制度的に担保されることで持続するであろう。とはいえ、もはやそうした「民意」に納得できないのならば、さらに、私たちの社会のあり方に適した「民意」の表明する手段があることを知っているのならば、現状に手をこまねいているのは怠惰でしかない。だから、今回の選挙に不満を感じる人がいるならば、まず街頭に立って、その不満を「民意」として表出するべきなのである。

 

民主主義の躓きとしての選挙

以前のコラムで指摘したように、民主的な社会における選挙には、社会の統合を促したり、あるいは、社会の分断を露わにしたりする機能がある(http://fujiitatsuo.hatenablog.com/entry/2014/11/21/190345)。そうした選挙は好もうと好まざると今後の民主政治の基盤であり続けるであろう。しかしながら、だからといって、民主主義を選挙と同一視してしまうとするなら、それは、民主主義の偏狭な理解でしかない。そして、その偏狭さは民主主義の躓きとなる。ルソーが選挙そして代表制度を批判してイギリス人を揶揄した言葉を思い起こしてもよい。すなわち、「イギリスの人びとが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人は奴隷となり、無に帰してしまう」のである。

 

私たちの民主的な社会、すなわち、「平等な者たちからなる自由な社会」を守るためには、選挙だけでは不十分である。このことは過去も現在も変わらない。まして、《多様な少数派》からなる現代社会の変化の中で、選挙やその結果で表示される「民意」の正統性は低下している。それは、社会の変化ゆえに不可避の事態である。だから、社会の変化に対応した選挙の制度上の改革がまず必要である。例えば、《多様な少数者》からなる社会の実情に適した、比例代表制を基軸にした選挙制度改革や、市民の熟議の機会を組み込んだ選挙制度などだ。しかし、そうした制度上の改革だけでは、現代の社会に適合的な「民意」が表出される上で十分だとはいえない。これまで述べてきたように、デモはそうした不十分さを補完することができるのである。

 

こうして、社会の変化は主権者としての私たちのあり方に再検討を求めることにもなる。投票さえすれば、主権者としての務めは終わりという、主権者=有権者というあり方への反省が求められているのである。私たちは投票した後も、主権者として様々な方法で「民意」を新たに表明し続けることで、私たちの代表者の行う政治を監視し続ける必要がある。この意味でのデモは、選挙で示された「民意」を覆す手段というよりはむしろ、それとは異なる「民意」を政府や議会に突き付けることで、政治を民主的にコントロールするための一つの手段でもあるのだ。

奇妙な選挙と民主主義の蹉跌(前編)――安倍首相による衆議院解散総選挙と有権者の困惑――

第47回衆議院総選挙はなぜ行われるのか?

12月14日の衆議院総選挙まであと一週間をきった。街頭での演説をはじめ各地で選挙活動が行われ、テレビなどのメディアでも、今回の選挙に関する報道を頻繁に目にするようになった。これらは、選挙期間中に良くある光景である。しかし、今回の衆議院の総選挙に関しては、普段の選挙にまして、有権者の間で関心の高まりは感じられない。それどころか、困惑した雰囲気さえ感じられる。これは、多く人たちが抱く印象だろう。

 

それもそのはずだ。ほとんどの有権者にとって、何百億も税金を使い、この時期に選挙を行う理に適った理由が見つからないからだ。与党の側から示された理由は、アベノミクスと呼ばれる、第二次安倍政権が進める経済政策を継続するかどうかを有権者に問う選挙だとか、消費税を10%の引き上げを2017年4月へと延期することを有権者に問う選挙だとかいうものだ。しかし、これらが理に適った理由であると思う人はまずいないであろう。アベノミクスはまだ道半ばの政策であり、有権者がその結果を判断する段階にあるとはそもそもいえない。また、消費税の引き上げ延期という安倍首相の判断に関しても、わざわざ衆議院の総選挙を行うための理由としては説得力を欠く。なぜなら、当時の民主党野田政権と自民党公明党との間で結ばれた、社会保障と税の一体改革に関する三党合意に基づき成立した、「社会保障の安定財源の確保等を図る税制の抜本的な改革を行うための消費税法の一部を改正する等の法律」には、その附則として景気弾力条項があるからだ。この条項は、消費税の引き上げるかどうかは、「経済状況等を総合的に勘案した上で」、判断するとある。これの条項がある以上、消費税引き上げ延期を決めた今回の安倍首相の決断には有権者にその責任を問うほどの大きな問題があるとはいえない。何より、衆参両院で自公の連立政権は国会で絶対安定多数議席を確保しているのだから、アベノミクスを継続する上でも、消費税引き上げの延期をする上でも、野党の存在が障害にならなかったはずだし、それらの政策の実施に対して世論の強力な反対もなかったはずだ。それなのに、である。

 

衆議院の解散権は憲法上保障された内閣総理大臣の専権事項である。安倍首相が解散すると決断したのであるから、この決断こそ今回の総選挙の理由であり、それ以上でもそれ以下でもない、と考える人がいるかもしれない。すなわち、今回の解散総選挙に関しては法に従い行われたのだから、何の手続き上の瑕疵があるわけでもなく、この合法性こそ今回の選挙の正統性だというわけだ。確かにこれは一つ理由であるが、後編で指摘するように、これが有権者を納得させることのできるものであるかどうかは、はなはだ疑問だ。

 

では、表立って表明された理由に納得ができないとすれば、それらによって隠された衆議院解散総選挙の理由は何か。常識的に推し量るなら、それは安倍首相の権力の維持あるいは強化のためであろう。権力を求めての厳しい闘争の渦中にある政治家が自ら進んで権力を喪失したり弱体化したりするリスクを冒すことがあると考えるなら、政治の理解としては余りにナイーヴすぎる。だとすれば、安倍首相が口先で何と言おうが、解散総選挙を決断した時点で、自らの権力にとって今回の選挙を好機と捉えたからに他ならない。では、どのような好機か。安倍首相が彼のアベノミクスを成功させる上で障害となると見なした敵、すなわち、財政の健全化のために消費税の増税を予定通り行うよう彼に迫る勢力――政治家にせよ、官僚にせよ、財界にせよ――を、選挙で示される民意によって抑え込むという好機だ。

 

今回の選挙が有権者を困惑させる本当の理由

もちろん、これはあくまでも推測にすぎないが、それくらいしか、今回の選挙の理由は見当たらないように思われる。だから、今回の選挙に関して釈然としない印象を持ったり、あるいは、苛立ちや怒りさえ覚えたりする人が少なからずいるのだろう。もちろんシニカルに、政治なんてものはそんなものだという人もいるかもしれない。しかし、今回の選挙は、有権者の一部に釈然としない印象や怒りの感情を生んでいるだけではないのだ。

 

来たる12月14日の投票日にどのような投票行動をとるべきか困惑している有権者がこれまでになく多く存在するようだ。実はここに、今回の衆議院総選挙の特筆すべき問題がある。では、なぜ、今回の選挙で多くの有権者――もちろん、支持政党を持たない無党派層のことだ――は、どの政党に投票すべきか困惑するのか。

 

それは、今回の衆議院の総選挙の実情が、少しずつ日本に定着し始めてきた、政権選択としての衆議院選挙――すなわち、競争する政党のマニフェストを参考資料に、次の首相を選択する選挙――ではなくて、安倍首相およびその政策の信任を問う選挙となっているからである。こう言い換えてもよい。今回の選挙は安倍首相の権力の維持あるいは強化に賛成あるいは反対を表明する選挙なのだ。

 

しかしなぜ、それが困惑の原因となるのか。そのような賛成あるいは反対を表明する選挙ならば、単純多数決原理にもとづいた国民投票型を取るべきであろう。だが、もちろん、そのような選挙は憲法改正時にしか実施できない。だから衆議院選挙で、疑似的な国民投票型の選挙を実施することになったわけだが、同じ選挙といっても、国民投票型選挙と政権選択選挙とは、そもそも制度上、選択の仕方もその目的も異なる。この奇妙なズレが有権者の困惑を引き起こすことになる。

 

現在の日本は議院内閣制をとっている。この制度から見ると、衆議院選挙の目的は、内閣を形成することになる衆議院での多数派政党、すなわち、政権党を、競争する諸政党から選出することを目的としている。その際、有権者は自らの利益や意見を代表する政党(政治家)に投票することになっている。だから、それはある争点に対して賛成や反対を表明することを目的とする選挙ではないし、賛成なら〇、反対なら×を付けるような仕方で行われる選挙でもない。しかし、そうであるにも関わらず、こうした選挙において、安倍首相とその政策への信任が問われるとすれば、信任の場合、自民党もしくは公明党に投票することになるだろう。では、不信任を表明するには、どうすべきか。それ以外の政党、すなわち野党に投票するかもしくは棄権するという選択をすることになる。

 

野党の不甲斐なさ?

しかし、ここで問題が生じる。安倍首相に対して不信任を表明したいにもかかわらず、野党のどの党も自らの利益を代表してくれそうにない場合、有権者はどうしたらよいのか。投票用紙に〇や×を付けるわけにはいかない。また、不信任を表明するために棄権をしたところで、投票率の低下が自公の議席を結果として増やすことになるのだから、棄権は本末転倒な選択ということになる。こうして有権者はどのような投票行動をすべきか困惑することになる。

 

このような事態に直面して、野党の不甲斐なさをひたすら責める人もいるだろう。確かに、そのとおりだ。小選挙区制の下での二大政党制の一翼を担うことを期待された民主党への支持の低迷がこの事態の一因であることは明らかだ。もし民主党をはじめとする野党が自公政権に対抗しうる勢力を持っていれば、今回のように、信任か不信任かを問う国民投票的選挙を政権選択の選挙で代替しても、有権者の困惑はこれほど大きくなかったに違いない。むしろ、そうであったら、今回の衆議院解散総選挙はそもそも行われなかったであろう。

 

しかし、だからといって、今回の事態を野党の不甲斐なさで終わりにすることはできない。対抗的な野党の不在に付け込んだ今回の安倍首相の機会主義的な決断とそれが引き起こした有権者の苛立ちや困惑によって、今回の選挙の奇妙なズレ――国民投票型選挙と代表者を選出する間接民主主義選挙とのズレ――が露わとなったわけだが、このズレは選挙やその選挙を基盤にしている代表制民主主義がどうあるべきかについて再考を迫るからだ。例えば、代表制民主主義の機能やその正統性についての再考だ。実は、こうした点についてもう少し議論を掘り下げることで、今回の選挙に臨む有権者の怒りや困惑が向かうべき行き先も見えてくる。それについては、後編において論じようと思う。

民主主義の祝祭としての選挙――沖縄県知事選挙の意味――

今日、安倍首相によって衆議院が解散され、衆議院の総選挙が来月に行われることになった。これは問題のある選挙となるだろう。問題があるというのは、なにも、何百億円という無駄な税金が使われるからだけではない。どう考えても、今回の衆議院解散総選挙には、道理にかなった理由がまったく見当たらないからだ。さらに、現在の国会が違憲状態にあることにも鑑みれば、この選挙の正統性には大きな疑念がある。また、それとは別に、民主主義理論から見れば、今回の安倍首相の行動は、形式的には民主的な手続きを取りながらも、実際は、行政権力の恣意的な維持のために選挙を濫用する、いわば、人民投票型民主主義を連想させる(これについては、当ブログのhttp://fujiitatsuo.hatenablog.com/entry/2014/03/25/173636を参照して欲しい)。これが、近代の代表制度を基盤にした民主主義にとっての悪夢であることはいうまでもない。

 

したがって、今回の衆議院解散総選挙は、大いに論争を巻き起こし、厳しい批判と糾弾の対象となるだろう。しかし、ここでは、衆議院選挙ではなく、突然降って湧いたこの大騒動の影で、ほとんどの人たちが忘れつつある沖縄県知事選挙の意味について考えようと思う。なぜなら、この知事選挙の結果は、今後の日本の政治に少なからぬ影響を及ぼすことになるであろうし、何より、民主主義にとっての選挙の意味の多様さを考えさせてくれるからである。

 

沖縄県知事選挙の結果の注目点

先日の沖縄県知事選挙の結果は報道のとおりである。無所属の新人で米軍普天間飛行場名護市辺野古への移設に反対する新人の翁長前那覇市長が、自民党と次世代の党の推薦を受けた現職の仲井間知事などの対立候補を破り初当選した。翁長氏は、仲井間氏に対して10万票近く上回り、さらに、得票率でも50%を超えて当選したことを考えると、今回の選挙で圧勝したと見なしてよいであろう。

 

今回の知事選挙において注目すべき点を二つ挙げておこう。一つは、普天間基地辺野古への移設の是非が最大の争点となることで、いわば、住民投票型の選挙の様相を呈したという点。もう一つは、翁長氏側を勝利へと導いた支持基盤に見て取れる。すなわち、翁長氏が保守勢力と革新勢力という垣根を超え、「イデオロギーではなく(沖縄の)アイデンティティ」というスローガンの下で結集した人たちに支持されたという点である。

 

さて、この圧勝という選挙結果から、翁長氏の掲げた辺野古への移設反対という公約は実現されるのであろうか。すでに多くの指摘があるように、その実現にはどうやら多くの困難があるようだ。例えば、政府のこの問題に対する態度である。政府は、普天間基地辺野古への移設はすでに決定済みの過去の問題であるとしている。その上で、昨年の12月に当時の仲井間沖縄県知事によって承認された辺野古沿岸部の埋め立ては、手続き上の瑕疵がない限り、取り消すことはできないとしている。また、安全保障問題に直結するこの基地移設の問題は、他の国内問題とは異なり政府と沖縄県との間だけで決定するわけにはいかない、というあまりに当たり前の現実がある――基地の県外移設は理論上可能であるが、実際はそうはいかないということは、民主党鳩山政権下で思い知らされたわけだ――。つまり、この問題は日本の安全保障の一端を担うアメリカの意向や事情によって大きく左右されるということである。

 

とすれば、この選挙とその結果は無意味なものであったのだろうか。おそらくそうではないだろう、というのがその問いに対する答えである。では、なぜ、無意味ではなかったといえるのか。この点を検討するには、民主主義における選挙を政党の勝ち負けを決するイベントだとする理解では、しばしば見逃されがちな二つの機能を理解しておく必要がある。

 

近代民主主義における選挙とその機能

近代の民主主義、すなわち、代表制民主主義における選挙は、現在の支配的な民主主義の理解によれば、市民が政府を形成するべく政治権力を求めて競争する政党(政治家)を多数決の原理にもとづいて選択することを意味する。これによって多数者の支配という民主政治の理念が実現されるわけだ。

 

しかし、このように理解される選挙が可能となるためには、ある条件が必要だ。それは、社会が競合し対立する利害や意思を持った諸集団によって構成されているという条件である。これがなければ、政党間の競争など起こりえない。

 

実はここに、近代の民主主義における選挙の独特な機能の一つを見て取れる。それは、普段、曖昧にされている社会の党派的な対立を表面化し、社会が分断されている事態を可視化する機能である。こうして、この意味での選挙は、ある思想家が言ったような、友・敵という政治の本質を顕現化させるイベントであると同時に、この友・敵という究極の対立が、殺し合い――すなわち、内戦――に帰着することないよう、多数決原理や定期的な選挙の実施、その結果に応じた政治的権力の移行(政権交代)といったルールにもとづいて平和的にコントロールされるイベントとして見なすことができる(社会の分断を可視化する選挙の機能を考察した議論としては、当ブログのhttp://fujiitatsuo.hatenablog.com/entry/2014/09/12/165921を参照して欲しい)。

 

選挙における多数決原理の問題

これらは余りに常識的な指摘かも知れない。しかし、そこにはめったに問われることがないものの、民主主義の根幹に関わる問題がある。それは、なぜ、多数者による政治的権力の掌握が民主的に正統な行為として認められるのか、というものだ。これは、以前の投稿でも言及した、民主的な決定における多数決原理の問題だ。

 

民主主義の思想と実践の歴史を振り返るとき、そこから見えてくる説得力のある説明は、社会の多数者の意思こそ、社会の構成員全員が共有する満場一致の意思、すなわち一般意思そのものではないにせよ、それに一番似通った意思だというものである。一般意思とは、社会を構成する人たちすべてに共有された共同の利害を目指す意思であり、この意思こそ人とびとが共に暮らす社会の建設と維持を可能する。だから、この一般意思は、多数決原理にもとづく決定に民主的正統性を付与する根拠になる(もちろん、現在の多元的な社会に、一般意思なるものが所与のものとして、客観的に実在するとは考え難い。むしろ、現在の社会に一般意思の存在を仮定するのであれば――あらゆる現代の民主国家の政治は、形式上、この仮定の下で行われているのは紛れもない事実である――、それは熟議のプロセスをとおして構築されるものでしかない)。

 

とはいえ、一般意思と多数者の意思が常に一致するとは限らないし、それらが対立することがないとも限らない。ここから、多数決原理にもとづいた決定が民主的に正統であるという想定には、多数決原理を一般意思と同一視するという一種のフィクションが存在していることが分かる。そして、このフィクションという性格に由来する民主的正統性の理論上の脆弱さをついた、さまざまな民主主義批判が19世紀以降、生み出されることにもなった。それはともかく、ここで注目したいのは、この一般意思と多数者の意思との疑似的な同一性から生じる選挙のもう一つの機能である。

 

選挙のもう一つの機能

選挙のもう一つの機能は、先に触れた一般意思を表明するという機能である。したがって、選挙には、社会全体の共通の利害が何であるかを提示する機能があると考えられる。このことは、上で論じた多数決原理から容易に引き出すことができる。というのも、多数決原理が、多数者の意思に一般意思が存在するという想定に依拠しているとすれば、この想定から、選挙において示された多数者の意思は、その社会において共有された共同の利害を示すものだと見なしうるからだ。

 

もちろん、選挙が共同の利害の存在を顕現化させる機会となるためには、いくつかの条件が必要だろう。なぜなら、選挙には、社会の分断を可視化する機能もあるからだ。それら条件が、多数者の意思が一般意思であるかのように見えさせ、あるいは、そのように見なすことを説得的にする。例えば、投票率が比較的高いこと、その社会にとって最大の政治課題が明確な形で争点化されていること、そして、全有権者数に対して多数者を構成する有権者の数の割合が大きいこと、といった条件である。

 

これらの条件が、ある程度そろった場合――ある程度というのは、多数者の意思と一般意思とが似通っているように見えるかどうか問題であり、そのように見なす主張に説得力を付与できるかどうかが問題だからだ――、選挙は、社会の共通の意思や共同の利害を提示する機会と見なすことできる。そしてこのとき、選挙をとおして、社会の対立や分断ではなく、社会の調和と連帯が可視化されることになるのである。

 

祝祭としての選挙

ルソーは、彼の理想とする社会には、人びとの間に連帯感を芽生えさせ、さらに強化することで、いわば共通の自我を作り出す「祝祭」が必要だと説いている。選挙が社会の共通の意思や共同の利害の存在を明示することで、社会の結び付きを可視化する場合、その選挙はこうした祝祭となることがある。すなわち、民主主義の祝祭としての選挙である。投票結果によって可視化された社会の結束が、その社会に暮らす人びとの内面に刻み込まれ、再帰的な形で連帯感を醸成するのだ。望ましいか望ましくないかに関わらず、元来、選挙にはそうした機能があることは紛れもない事実のように思われる(ただし、自由で多元的な社会にとって、この祝祭が危険をはらむ可能性があることは指摘しておく必要がある。それは、社会の多様性や少数者の自由を抑圧する危険だ)。

 

今回の沖縄県知事選挙には、沖縄の共通の意思を表明するという機能が確かに存在した。すなわち、普天間基地辺野古への移設反対が沖縄の人たちの共通の意思であり、米軍基地への反対が沖縄の人たちの共同の利害であることを提示する機能を果たしたのである。このことは、選挙で勝利した翁長氏の「イデオロギーではなくアイデンティティ」というスローガン、これまでの保守革新勢力の対立を越えた彼の支持層、基地という沖縄にとって核心的な問題の争点化、さらに、投票率の高さや多数派の得票率に鑑みると、ある程度の説得力を持っているように思われる。

 

こうして、祝祭としての選挙という観点から見たとき、沖縄県知事選の意味がはっきりと理解できる。それは、選挙で示された共通の意思が、今後も沖縄の人たちの記憶と歴史に深く刻み込まれ、共有されたアイデンティティとして受肉化されて行く中で、沖縄の社会の連帯をより強固にしていくことになるという点にある。

 

もちろん、だからといって、基地の移設が今回の選挙で示されたような形で思惑通りに進むわけではない。また、その連帯感は、多数者の意思を一般意思と同一視するというフィクションに依拠したものであることも確かである。しかし、たとえそうであっても、今回の選挙で提示された沖縄の共通の意思、そしてその下で醸成される連帯意識が、日本政府が基地の移設を進める上で、もっとも大きな障害となることは間違いないであろう。もしかしたら、それはたんに中央の政府に対する抵抗の拠点になるだけでなく、将来の沖縄のあり方を沖縄の人たち自らで決定しようとする際の基盤になるかもしれない。こう考えるなら、今回の沖縄県知事選挙は、無意味であったとは言えないように思われる。

 

それでは、安倍首相が決断した衆議院の総選挙にいったいどんな意味があるのか。政党間の競争という、ある意味で近視眼的な選挙の理解から離れて、この問いをいま一度、民主主義の根幹に関わる問題として考えてみる必要がありそうだ。

民主的な社会とその敵――香港の民主化デモから考える、民主主義と不平等の問題――

香港のデモの光景とその目撃者としての私たち

アンブレラ・レボルーションと呼ばれる、香港での民主化デモから1ヶ月以上が過ぎた。市民による金融街の占拠と行政当局によるその暴力的な排除によって世界の注目を集めたこの抗議行動は、中国政府が決定した香港の行政長官の選挙制度に反発し、「真の普通選挙」の実施を求めるものであった。当初、8万に近くに上る人びとを動員した民主化デモも、行政当局の強硬な姿勢によって、その規模も縮小し、出口の目えない状況に陥っている。

 

この出来事は、テレビや新聞、SNS、そしてYouTubeなどで遠く離れた日本の私たちにも伝えられた。民主化のデモに参加した人たちは、民主主義の制度が確立された社会に住む私たちにとってあまりに当然の要求を掲げているだけだった。それなのに、警棒と催涙ガスによって追い立てられ、咽び苦しむ若者たちの姿がテレビやネット上の動画に映し出された。それを傍観した人の中には――アダム・スミスが考えたように私たちが依然として道徳的な存在であるなら――、香港の若者たちの苦難に共感の念を抱いた人も少なくないはずだ。

 

この共感から出発して、中国共産党の統治に動揺が生じるのではないかと期待をした人もいるだろうし、逆に、現在の中国共産党の支配下での民主化の困難さを再認した人もいるだろう。あるいは、共感に触発された思考を自分たちの暮らす日本社会へと向けた人もいるだろう。その場合、こんな比較が脳裏をよぎったかもしれない。自分たちの代表者は自分たちで決めるという、民主主義の最も基本的な原則にもとづいた社会を作ることを渇望する香港の若者たちの熱意や勇気と、現行の憲法によって保障されてきた民主主義に対して日本社会に蔓延する無関心とシニシズム。民主主義を求めて立ち上がる活力ある向こう側の社会と、制度化された民主主義の帰趨に無関心な麻痺状態にあるこちら側の社会。メディアを通して届けられる光景が日本の民主主義の実情に対するこうした認識を導くとすれば、そこから、少なからぬ落胆や失望といった感情が生れてもおかしなことではない。

 

社会の成熟の代償としての民主主義への無関心さ

ところで、こうした反応がナイーヴで表面的だと批判されるようなことは容易に想像できる。外から見れば、真の普通選挙というきわめて分かりやすい要求を掲げた民主化デモも、香港社会への中国大陸の影響力が拡大したことによる、経済的あるいは文化的動揺がその遠因となっていること考えると、それほど単純な出来事でもなさそうだ。何より、民主主義の成熟という観点からして、日本の社会と香港社会の置かれている状況は大きく異なるわけで、その違いを無視して、双方の社会を比較すること自体、ナンセンスなことだとも言いうる。民主主義を制度として獲得しようとする社会の熱さに対して、すでに制度として民主主義が保障され当たり前のものとなった社会の無関心さは、民主的な社会の成熟の帰結ないしは代償なのだ。日本のように成熟した社会において、民主主義の制度が攻撃されたり、民主的な価値や規範が毀損されたりすることがない限り、つまり、民主主義が危機的な状況にない限り、それに無関心なのは当然のことであり、ましてそれを守るために行動する必要性も可能性も存在するはずがないのである。

 

確かに、この批判は理に適ったものだ。しかし、私たちの社会の民主主義は実際に危機的な状況にある、あるいはそうした状況に向かいつつある、としたらどうだろうか。その場合、香港の民主化デモの光景に触発された失望や落胆といった感情がまったく見当違いだと断言するのは難しくなるはずだ。では、私たちの民主主義は実際、危機にあるのだろうか、あるとすれば、それはどのような意味においてなのか。

 

このことを検討するには、民主的な社会とはどのような社会なのか、いま一度、考えてみる必要がある。そうすることで、民主主義に目覚めてまだ日の浅い香港社会の未来を蝕むのとは違った形で、すでに民主的な制度が確立された日本社会の未来を蝕むものが何であるかが見えてくるはずだ。

 

民主的な社会とは何か?――「平等な者たちからなる自由な共同体」――

20世紀の半ば以降、民主主義の理論的な考察は、民主的な社会の政治制度上の特徴やそれが実現される上での具体的な条件が何であるかを明らかにしようとしてきた。著名な政治学者によれば、それらは、例えば、法を制定する議会、それを施行する政府が、自由で公正な選挙によって選出された代表者によって構成されること。その選挙に参加する権利(選挙権と被選挙権)は、実質的にすべての成人に付与されること。この選挙が定期的に行われること。結社を設立する自由、表現の自由をはじめとする政治的権利が保障されていること。情報へアクセスする権利が市民に保障され、政府がそれを独占しないこと。市民による政治的アジェンダの設定が制度上可能であること、などである。これらが制度化されている社会は民主的な社会と呼ぶことができる。ここから、日本を含めた現在の多くの先進諸国は民主的な社会であると言える。

 

しかし、教科書風に定義されたこれらの民主社会の特徴は、実は、17世紀以降のヨーロッパおよびアメリカの歴史の中で実際に獲得されてきた政治制度を記述したものに過ぎない。そうだとしたら、なぜ、それらの制度が備わっているとき、その社会は民主的なのかという疑問が出てくる――それらの制度が現在の民主的な社会に見出せる制度だからだ、という応答はトートロジーであり、答えのようで答えではないから――。この疑問は次のように変換できる。実際の歴史の中で、このような制度によって目指された民主的な社会とは、元来、どんな社会だったのか?と。

 

この疑問への答えは近代の民主主義の理論上の起源として位置づけられるテキスト――例えば、ルソーやシィエスのテキスト――に明確に刻み込まれている。すなわち、民主的な社会とは「平等な者たちからなる自由な共同体」である。これが実際の歴史の中で目指すべき民主的な社会の像とされたのである。

 

民主社会が「平等な者たちから構成される」という理解を意外に思う人もいるだろう。なぜなら、現代の私たちは、自由と平等とは両立し難いと考えがちだからだ。しかし、ロザンヴァロンが指摘しているように、民主的な社会の創設を目指した当時の人びとにとって、自由であるためには、平等が不可欠であることは余りに自明なことであった。ルソーも、「平等――自由はそれを欠いては、存在できない」と言っている。

 

いずれにしても、民主的な社会の元来の姿をこのように理解するなら、私たちの社会が直面している問題が何であるかは判然としている。すなわち、現代の民主的な政治制度を備えた社会において、平等が失われつつあるということである。そして、この平等の喪失が、日本を含めた民主的な社会を危機に晒しつつあるように見える。

 

民主的な社会における二つの平等

しかし、「平等な者たちからなる自由な社会」といった場合の、平等とは何を意味するのか。一般に、それは法によって保障された権利の平等を意味する。とすれば、現在の民主的な社会において憲法を中心にした制度が、これを保障している。したがって、この意味での平等が喪失されつつあるというのは、現状に対する誤認ではないのか。

 

この指摘は一面で正しい。例えば、ルソーが構想した「平等な者たちからなる自由な共同体」においても、平等とは、第一に、権利主体における形式的な(法的な)平等を意味している。しかし、この意味での平等が制度上保障されさえすれば、即座に「平等な者たちからなる自由な共同体」が実現するというのであれば、それは誤りである。なぜなら、この形式的な平等は、ある程度の実質的な平等――すなわち、経済的あるいは社会的、文化的な平等――を欠いては、空虚なものとなってしまうからである。例えば、貧しさゆえに奴隷的な条件で労働に従事せざるをえない人は、どれほど権利上の平等が保障されていたとしても、自由な存在であるとは言えない。

 

だから、ルソーは、民主的な社会には、極端な経済的不平等が存在してはならないとした。すなわち、自由な社会に生きる平等な市民たちは、「他の市民を買えるほど、豊かではなく、身売りを余儀なくされるほど貧しくはない」状況になければならないのである。また、実際の歴史においても、民主的な社会の実現のためには、ある程度の実質的な平等が不可欠であるという社会的な合意が徐々に形成されてきた。そこで、20世紀の福祉国家は富の再配分を中心にしたさまざまな政策によって、ある程度の実質的な平等の保障――実質的な形での極端な不平等の排除――を目指してきたのである。要するに、私たちの民主的な社会はその存続のために、たんなる法=権利上の平等を制度化するだけでなく、極端な経済的あるいは社会的不平等が容認され放置されるのを拒否し、ある程度の実質的な平等が保障されるよう努力してきたのである。

 

民主的な社会とその敵

もちろん、どの程度の実質的な不平等が容認され、どのようにして実質的な平等が保障されるべきであるかという問題は、つねに論争の対象であり続けており、それに対する満場一致の答えがあるわけではない。しかし、近年の統計調査が示しているとおり、日本の含めた多くの民主的な社会では、現在その内部に、極端な不平等が蔓延することによって、一部の少数の持てる者とその他の大多数の持たざる者との分断が生じつつある。1980年代以降、新自由主義福祉国家の息の根を止めるべく登場して以来、この分断は徐々に進行していった。しかし、それは、もはや新自由主義的な政策をやめればどうにかなるような問題ではなくなってしまった。

 

現在、この分断が民主主義の未来に暗い影をとしている。というのは、この分断が、民主的な社会の構成員すべてにとっての共同利害が存在するという想定を困難にしつつあるからである。ルソーによれば、この利害の共同性こそ民主的な社会の建設を可能にする紐帯であった。だから、共同の利害の想定が難しくなるということは、共に一つの社会を作り上げ守っていく動機も利益も存在しなくなりつつあることを意味する。要するに、シィエスの言葉を拝借すれば、「国家の中のもう一つの国家」が再び生まれつつあるのだ。この「もう一つの国家」は、言うまでもなく、現代に再び現れた「貴族」――フランス革命時にシィエスが厳しく弾劾した、来たるべき社会の敵――という階層によって構成されているのである。

 

日本の民主主義が危機にあるかどうかは、例えば、安倍政権下における、特定秘密保護法の施行や、閣議決定による憲法解釈の変更にもとづく集団的自衛権の行使の容認とその法制化などから議論することが可能であるし、実際に議論されている。しかし、これまでに論じてきたことは、民主主義の危機はそれだけではないということだ。それらの事例のようにそれほどはっきりとはしないものの、民主的な社会の根幹を着実に蝕む極端な不平等の蔓延が、確実に私たちの社会の脅威になりつつあるように思われる。なぜなら、この不平等の蔓延が、憲法によって保障された、法=権利上の平等を形骸化することで、「平等な者たちの自由な社会」を崩壊させてしまう可能性があるからだ。

 

そう考えると、香港のデモの光景によって喚起された落胆や失望をナイーヴすぎると簡単に切り捨てることはもはやできないのではないか。むしろ、その光景を目撃したにもかかわらず、自分たちの民主的な社会の実情に再帰的な眼差しを向けることのない人がいるとすれば、それはそれで、ナイーヴすぎるように思われる。

民主主義の成熟とその危機の再来――スコットランド独立をめぐる住民投票の結果を手掛かりに考える民主主義のアイロニー――

最善の結果?

スコットランドの独立をめぐる住民投票は、独立反対派の勝利で終わった。これを受けて、イギリス国内だけでなく国外でもこの結果を肯定的に評する向きが圧倒的に多いようだ。なぜなら、この結果によって、独立派が勝利した場合の、イギリス国内のみならず他国々が被ったかもしれない経済的・政治的混乱を回避できた一方で、ロンドン、ウエストミンスターからスコットランド自治権の拡大の約束を取り付けることで、投票で敗北した独立賛成派にも少なからず取り分があったと考えることができるからだ。

 

とはいえ、これで選挙前と同じ日常にスコットランドの人びとが立ち返り、平静が取り戻されたというなら、少々気が早すぎる。何より、独立賛成派の勢いを挫くために首相のキャメロンが約束したスコットランド自治権の拡大の問題がある。自治権の拡大が具体的にどの程度実現されるかによって、スコットランドの独立問題は、思いのほか拗れる可能性があるだろう。また、多数決投票という民主主義の審判は、独立賛成派と反対派に分裂したスコットランドの人びとの間に、少なからずわだかまりを残したことは容易に想像できる。このわだかまりをどう解いていくのかという重要な民主的な取り組みも残されている。一連の投稿で指摘したとおり、スコットランドの民主主義の先行きを考える上で、これは切実な課題だ。だから、スコットランドに暮らす人びとにとって、イギリスからの独立の問題は投票結果で終わりになることはないように思われる。

 

では、遠く離れたユーラシアの東端にある島国でスコットランドの独立をめぐる成り行きを傍観していた私たちは、この出来事からどんな思考をめぐらすことができるだろうか。おそらく、すぐに頭をよぎるのは、沖縄の問題だろう。確かに、今回のスコットランドでの出来事をとおして、沖縄の独立の可能性について思いをめぐらした人は少なくないはずだ。実際、そのような日本語のコラムは多い。しかし、スコットランド独立の住民投票によって、沖縄独立の可能性を検討することは、それほど有益ではないように思われる。というのも、今回のスコットランドのケースはかなり特異だからである。

 

スコットランドのケースの特異性

もちろん、いわゆる国民国家という枠組みに強制的に編入されていた地域が独立しようとする運動や気運それ自体が特異な現象だというわけではない。このことは、ローカリズムが沸き立つ現在の世界を見渡せば、自ずと理解できる。では、スコットランドのケースの特異性はどこにあるのか。それは、独立を達成するための方法、すなわち、今回スコットランドで行われた住民投票にある。なぜそれが特異であるかと言えば、スコットランドはイギリス(グレートブリテン及び北アイルランド連合王国)を構成する一地域であることから、その独立によってイングランドウエールズ北アイルランドが影響を受けるのにもかかわらず、その是非をスコットランドの住人の投票だけで決定できるというものであったからだ。

 

この方法は、2012年にイギリス政府とスコットランド自治政府との間で取り決められた。だから、この住民投票には正統性とそれに由来する強制力があると見なすことはできる。しかし、民主的な決定の正統性はその決定に直接影響を受けるすべての人びと――このケースではイギリス国民と考えることが理に適っているだろう――が決定のプロセスに参与することによって生じるという考え方もある。その場合、今回の住民投票とその結果にそのような意味での民主的な正統性があるとは必ずしも言えない。

 

確かに、民主主義には、自己決定あるいは自己統治という理念がその根幹に存在する。したがって、その理念からすれば、スコットランドの運命はスコットランドの住民が決定するべきだということになる。しかし、その一方で、自己決定や自己統治という理念の「自己」の意味するところを「直接影響を受ける人びと」として広く捉えるなら、スコットランドの運命の決定には、それまでスコットランドと共にイギリスという国家を構成してきた他の地域の住民たちも参与するべきだということになる。要するに、今回のスコットランドのケースのように、ある地域の国家からの独立をその地域の住民投票だけにもとづいて決定する場合、その手続きに十全な民主的正統性が備わっていたかどうかには、疑問の余地があるということである。このようにスコットランドのケースの特異性は、民主的な正統性という点で脆弱な手続きにもとづいて、独立の是非を問う決定が行われた点にあると考えられるのである。

 

成熟した民主主義の閉塞性

この特異性に鑑みると、スコットランドと同様な手続きで沖縄の独立が達成されることはまずありえない。そもそも現行の日本国憲法では、このような事態が想定されていないし、それゆえ、そのための手続きも規定されていない。また、かりに中央政府沖縄県との間でスコットランドと同様の住民投票の合意が結ばれ、それに基づき投票が行われたとしても、その合意の法的な有効性が司法の場で争われる可能性がある。すなわち、中央と地方の行政府間のそうした行為に合憲性という意味での民主的な正統性があるかどうかが問われるわけである。もちろん立法をとおして、新たな規定を設けることも可能であろう。その場合には、立法過程において沖縄以外の他の地域の利害や意思が反映されることになり、投票そして独立までの道のりはきわめて厳しいものになるに違いない。

 

このことは何を意味しているのであろうか。それは、国民国家からの離脱のような、現行の民主政治やそれを基礎づける憲法の前提となっている枠組みの変更、あるいは、18世紀の終わりから20世紀における体制変革としての革命を成熟した民主社会の民主的な手続きにもとづいて達成することがほとんど不可能だということである(近年では、1993年のチェコスロバキア連邦共和国の連邦制解消、いわゆる「ビロード離婚」がその例外として挙げられるかもしれない)。

 

確かに選挙による平和的な政権の交代は可能であり、また、憲法に規定された手続きに従った憲法それ自体の改定も可能だ。しかし、これを翻って言えば、いかなる社会の改革も、憲法によって規定された民主的な手続きに従わねばならず、その手続きが憲法によって規定されていない場合には、社会の改革は憲法の根本原理に従うものでなければならないということだ。したがって、民主的な手続きや民主的な憲法の原理を超越する政治的な出来事はもはや不可能であり、かりに可能であったとしてもいかなる正統性を有することはない。そうした政治的出来事を革命と呼ぶならば、民主的な社会の民主的な手続きにもとづいた革命などは、望ましいか望ましくないかは別として、まずありえないのである(もちろん、この議論は憲法制定権力の問題に行き着くが、それについては別の機会に扱う)。

 

人権を保障し社会問題の解決することを国家の責務とする民主社会の成熟によって革命の不在の時代が到来したという指摘は、昔から繰り返されてきた。例えば、ポスト産業社会の深まりがマルクス主義的に理解され革命の条件――敵対する階級の闘争――を消失させたというような社会学的な視点からの指摘がこれに当たる。

 

しかし、革命が不在の時代の民主社会が直面する問題は、そのような指摘だけでは十分に理解できない。なぜなら、民主主義が成熟する過程で民主政治を支える制度自体が社会の大規模な変革の可能性を阻むと同時に、変革への願望や期待を抑圧しているように見えるからだ。そうだとすれば、この逆説的な事態は、民主的な社会に特有の閉塞感を生み出すことになる。さらに、この閉塞感は、成熟した民主主義の制度が、自由で公正な社会の実現という民主主義の約束を妨げる障害になっているのではないかという、民主主義への疑念を広めることになる。

 

民主主義へのいら立ちと繰り返される民主主義の危機

現在の私たちの社会が抱えている様々な社会問題、例えば、少子高齢化や貧困の拡大、あるいは社会保障制度の行き詰まりといった自由で公正な社会の実現の障害となっている問題を、民主的な手続きに従った選挙や政権交代によって解決できると考えている人はどれほどいるのだろうか。どの政党が政権を担ってもそんなに違いはなく、これらの問題はこれまで解決できなかったように、これからも解決できるはずはないと考える人は少なくないはずだ。

 

現状を変えねばならないが、現在の民主的と呼ばれる政治によっては変えることができないという行き詰まり感は、フラストレーションを生む。フラストレーションが蓄積されればされるほど、その解消への欲求は極端な形をとる。漸進的な改革ではなく、大規模で即座の変革、すなわち、民主的な理念に基礎づけられている政治制度やその制度によって規定された手続きを無視してでも実施される変革を求める機運が高まることになる。実際、集団的自衛権を容認した安倍政権を支持する(あるいは黙認する)世論が根強い理由の一つは、こうした背景に由来するように思われる。

 

こう考えると、現在の民主主義は二つの異なる陣営からの攻撃によって苦境におかれているように見える。一つは、自律や自由といった民主主義の理念に対してもともと批判的な陣営である。もう一つは、ここで指摘してきた、現在の民主的政治に対していら立ち、失望しつつある陣営である。後者の陣営が社会において拡大する状況が出来するとき、民主主義は危機に陥ることになる。このことは、民主主義の危機が盛んに唱えられた19世紀末から20世紀初頭の欧米の歴史から明らかであろう。私たちの社会は、民主主義の危機の時代を再び迎えつつあるのかもしれない。

多数決投票ですべてが解決するわけではない(2)――スコットランドの独立問題から考える、社会の分断を乗り越えるために民主主義に必要なこと――

世論調査から見る現状

前回の投稿で取り上げたスコットランドの独立問題は、一段と多くの注目を集めているようだ。というのは、AFPによれば(http://www.afpbb.com/articles/-/3025218)、最新の世論調査で、はじめて、独立賛成派が反対派を上回ったからだ。つまり、スコットランドの独立の可能性が現実味を帯びてきたわけだ。

 

独立賛成派にとって、間もなくやってくる9月18日は千載一遇の機会だと言える。それは、スコットランドの独立が、スコットランドの住民のみの単純多数決にもとづく投票というただそれだけで決まるからである。ロンドン、ウエストミンスターでの国会審議をパスする必要もないのだから、民主的に独立を達成するにはおそらく最も低いハードルだと言えるだろう。この機会を逃したら、今後、スコットランドの独立の可能性は相当先へ遠のく、あるいは、ほとんどゼロになるであろうということは容易に推測できる。とすれば、独立を切に願う人びとは、住民投票に敗北した場合、独立をしないという多数者の意思をすんなりと受け入れることができるのだろうか。翻って、独立に反対している人たちは、どうであろうか。反対派の人たちの多くは、スコットランドがイギリスの一部であることによって何らかの利益――個人的、あるいは社会的利益を問わず――を得ていると考えているか、イギリスから独立することで何らかの損失を被ると考えているはずである。そうであるなら、独立賛成派以上に、投票による敗北を受け入れるのは難しいことかもしれない。

 

多数決投票以外の何が必要なのか

普通、私たちはこう考えるのではないか。独立賛成派にせよ、反対派にせよ、19日の投票の結果がどうであろうと、それが公正な選挙であれば、そこで示された多数者の意思にスコットランドの人たちは従うにきまっている。それに、そもそも個人が納得するかどうかなどは問題ではなく、多数者の意思が表明されたのなら、ただそれに従うべきなのだ。なぜなら、それが民主主義なのだから、と。確かに、スコットランドが民主主義の成熟した社会であることを考えれば、万が一独立賛成派が投票で勝利したとしても、この決定を反対派が拒否し、大きな混乱が生じる可能性は限りなく低い。とはいえ、その可能性がまったくないと断言するなら、それはそれで、民主主義に対して盲信的に過ぎる気もしなくはない。

 

もちろん、実際のところは投票後にならなければ、誰にも分からない。だから、現時点で考えるべきことがあるとすれば、それは、多数者の決定への服従を少数者が拒否する可能性をなぜ排除できないのかということである。では、なぜ、排除できないのか。その理由は、投票によって示された多数者の意思に少数者は服従すべきという民主的な規範がかなり脆弱な根拠に依拠している、というものだ。この民主的規範は、多数者の意思が社会全体の共通の意思であるという想定に依拠してきた。しかし、その想定は、現代の私たちの社会のように価値観や利害関心が細分化され多様化した状況において、もはや説得力を失いつつある。なぜなら、多数者の意思は社会を構成するある一部の人たちの意思に過ぎないと多くの人たちが考えるようになっているからである。このような脆弱な想定に依拠しているので、多数決投票によって出現する多数者が支配すべきという規範は、社会を二分するような政治的争点が争われる場合、その強制力を失うことがあるかもしれない。これが前回の投稿で論じたことだ。

 

とすれば、民主的な社会が民主的なやり方で統治されるためには、多数決原理にもとづいた投票以外の何が必要なのか。もちろん、現代社会に見合った、民主主義の新たな正統性が何であるかを明らかにすることも大切だ。ロザンヴァロンをはじめとする現在の多くの理論家たちがそうした研究を行っている。しかし、ここでは、そうした理論家たちの取り組みとは異なる形でこの問いについて考える。すなわち、民主的な社会において、自分の意思とは異なる他者の意思を受け入れるのに何が必要か、という問いである。

 

そのために、スコットランド独立の住民投票をめぐる市民たちの草の根の活動に焦点を当てよう。その際、参照したいのは、NHKで8月23日に放映されたドキュメンタリー『激動スコットランド ~イギリスからの独立 投票の行方~』(http://www.nhk.or.jp/documentary/aired/140823.html)である。この映像から読み解くことのできる次の2の点からこの問いについて考えてみたいと思う。その1つが、市民の間の信頼関係である。もう1つが、共同のものへの市民として配慮である。これらは、自分の意思とは異なる他者の意思を受け入れる上で、なぜ必要になるのだろうか。

 

スコットランドの市民の草の根の活動

上記のドキュメンタリーでは、様々な思惑や利害関心からスコットランドの独立を支持したり、それに反対したりする人びとが取り上げられている。その中に登場する2つのケースを見てみよう。

 

まずは、スコットランド独立を支持するパブのオーナーとそれに反対するデリカテッセンのオーナーのケースである。彼らは古くからの友人ではあるが、スコットランドの独立に関しては対立する立場にある。一方で彼らは、意見を同じくする人びとと集まり、そこでの会話をとおして、情報を交換し理論を武装し、自らの意思を強化する。他方で、二人はお互いの店を行き来し、スコットランド独立に関して議論を交わす。もちろん、その議論は平行線を辿り、相手の意見に耳を傾けることで自らの意見が変容するわけではない。しかし、自分たちの社会のあり方について対立する立場にありながらも、しかも、それが間近に迫った投票でいずれかの立場が現実のものになることが分かっていても、彼らの対立関係が敵対的――シュミット的に言えば、政治的――になることはない。むしろ、デリカテッセンのオーナーの言葉から伺えるように、投票結果にかかわらず、これまでの友好的な関係を持続させることが重要であるという共有された理解が彼らには存在している。

 

こうした理解は、日常生活の持続した相互活動の中で培われた信頼関係に由来すると考えてよいであろう。社会を結びつけるこの信頼関係こそ、いわゆる社会関係資本(social capital)に他ならい。民主政治が機能する条件として社会関係資本の存在が論じられるようになって久しい。このケースでは、人びとの間に存在する信頼関係が、独立をめぐる対立を敵対関係へと政治化する動きを抑止する歯止めになると予測できる。

 

もう一つのケースは、シングルマザーである若い女性のケースである。彼女は、スコットランド独立に賛成の立場から、積極的に政治活動を行っている。例えば、他の活動家と共に、賛成派の会合を運営し、支持の拡大のためのコンサートを開催する。さらに、戸別訪問をして独立反対の市民と向き合い、自らの意見を主張し、相手の意見に耳を傾ける。しかし、彼女は熱心な活動家であるにもかからず、今回の住民投票が自分の願望が実現する機会としてだけでなく、彼女の暮らすコミュニティを一つにする機会としても捉えている。こうした彼女の態度から、投票によって示される多数者の意思の支配が民主主義なのだと理解するだけでは把握できない、民主主義の一面が見えてくる。それは、共同のものへの配慮という態度である。この態度は現代の社会において民主政治が機能するためには欠かすことのできないものである。

 

古代ギリシア以来、民主的な政治は、共同のものをその基盤に据えてきた。それが平等な存在としての市民を結びつけるものだったからだ。かつてこの共同のものは、共通の祖国であったり、共同の利害関心や価値観であったりした。もちろん、近代以降の社会は、高度に個人化された社会である。だから、そのような共通のものや共同のものがあらかじめ存在すると想定するのには無理がある。また、現在、異なる人びとの間に、何かしらの共通・共同のもの――例えば、20世紀のはじめに社会学が発見した、人びとの相互依存関係としての社会連帯――を見出すことは、ますます困難になっている。しかし、そのような個人化された多元的社会であっても、民主主義は、共同のものへの関係を断ち切ってしまい、それらと無縁になってしまったわけではない。共同のものは選挙などの共同の決定行為のように手続き的=形式的な形に矮小化される一方で、それは、異なる人びととの間で構築されるべきものとして生き残ってきたのである。

 

異なる人びとからなる社会に共有可能な共同性が存在すると想定できるなら、それは、投票で示された結果が自分の意思に反するものであったとしても、それを受け入れる理由や動機となるのではないか。このことは、近年ではコミュニタリアンと呼ばれたリベラリズムへの批判者たちによって繰り返し主張されてきた。とはいえ、たとえそうだとしても、問題は、先に指摘したとおり、現代の個人化された社会において、異なる人びとを結びつける共同のものは、所与のものではなく、作り出されるものだということであり、さらに、強制されるものではなく、市民が自らの意思で配慮し尊重すべきものであるということだ。では、異なる人びとの関係性によって媒介されたこの共同のものはどのようにして作り出され配慮されるようになるのか。この問いについては、参加民主主義の理論や熟議民主主義の理論がその答えを模索してきた。これらの理論によれば、異なる人びととの交流をとおして、とりわけ、真摯な対話をとおして共同のものは作り出され、市民はそれを尊重する態度を手に入れるのである。先に挙げたシングルマザーにとって、それがコミュテニィであるように思われる。すなわち、彼女は政治活動をとおして、コミュニティという共同のものを発見し、それに配慮する態度を獲得したのである。

 

 投票とは別の民主主義

民主政治は、政治である以上、決定を行わなければならない。そして、その決定は、多数決原理にもとづく投票によって行われる。ロザンヴァロンが議論しているように、近代以前、喝采による投票は、社会(共同体)の結び付きを確認する行為であった。それに対して、近代以降、多数決原理にもとづいた匿名の投票は、社会における対立をあからさまにする行為となった。確かに、通常の政治的争点において、しかも多数者の意思への服従という規範が強固である場合、社会の対立関係は多数決投票によって一瞬、表出されるだけで、日常生活の反復の中に埋もれていく。しかし、今回のスコットランド住民投票のように、国家の独立や憲法の改正などの社会を二分するような政治争点が争われる場合、投票によって表出された社会の対立関係は、解消されることなく社会を分断し無秩序を生み出すことになるかもしれないのである。

 

そうした事態を避けるべきであるとするなら――もちろん、避ける必要はないという考えに道理がないわけではない――、多数決原理やそれにもとづいた投票を民主政治のすべてだとする考えを捨て去らねばならない。そして、投票で示された多数者の意思を少数者が受け入れる条件が何であるかを民主主義の問題として考えてみる必要がある。そのとき、多数決にもとづく投票という私たちが普通イメージする民主主義とはまた別の民主主義が見えてくるはずだ。

 

ここでは、日常の生活で培われる信頼関係と共同性への配慮という2つ条件について検討した。これらは、民主主義の理論においても論じられてきたものであり、現在に至っては、信頼関係の醸成や熟議の機会をどう制度化するかが問われ始めている。とはいえ、これらの条件をスコットランドの社会がどの程度備えているのか、上のケースだけではまったく定かではないし、実際、そこに登場した人たちが投票の結果を受けどう行動するかもわからない。だからこそ、スコットランドの独立をめぐる投票結果だけではなく、その後の動向を注意深く見守っていく必要があるように思われる。